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西村天囚『懐徳堂考』十三、三宅春樓

十三、三宅春樓
三宅春樓、名は正誼、字は子和、通稱才次郎、春樓は其の號、石菴の子なり、正德二年十一月十五日を以て生る、父の石菴は、春樓が資質虛弱なるを以て、儒業を繼ぐ能はざらんことを慮り、他日活計の爲にとて、返魂丹を製造せしこと、石菴の傳にも記せり、然れば少きより讀書は廢せざりけんも、督勵嚴ならざりけん、
石菴歿せし時は年は十九、甃菴代りて學主と爲り、春樓は猶堂中に住し、隣家をも借りて賣藥の店を張り、色々合藥の看板をも出せり、石菴が門人の名にて賣藥を鬻がせ、儒名商實を收めしは、蘭洲の不滿なる所、况や春樓に至りては公然商と爲りしをや、甃菴の遺言に因て春樓學主と爲りしは、年四十六の時なり、猶賣藥を廢せず其の藥盛に售れて頗る富裕を致し、讃州僞丸の爭訟さへ起り、返魂丹の主味熊膽なるを、春樓價高しとて牛膽を代用せるなど、苦々しき事もあり、蘭洲竹山並に其の商業を營みつゝ士儒と稱し雙刀を佩ぶるに服せず、且其の爲人吝嗇にして人情を知らず、素行を撿せずして學主に不似合なる行迹ありけるより、蘭洲は口を極めて之を罵れり、其の學問は流石に石菴の子とて器用なりしが如し、竹山相談覺に、『故先生(石菴)御卒去の後ち、御同人(春樓)學問筋、亡父も相應の御世話申ひ内、御自分の御器用御發明にて儒業も出來候樣に御成被成候』とあり、器用學問なれば、根柢深からざりしは勿論なり、石菴は朱陸併せ崇ぶも、朱は朱陸は陸として混一せざりけるに、春樓は朱陸一致の說を唱へしをもて、蘭洲書を與へて其非を辯ぜしこともありき、·實曆七年八月十九日、春樓大學を開講し、同じく九年蘭洲中風に罹りしより、代つて易傳を講じ、後は竹山をして代講せしめつ、其著述は聞かず、詩文の斷篇零翰、世に傳はる外には春樓點四書あり、竹山答賴子秋書に據れば、四書五經の懷德堂點を世に布かんとして、四書は長者なる春樓に讓りしが、意に滿たざる處もあれど、大意は異らずといへり、爲□所□の舊點を、爲□所と改めたるを初め、其の他特色尙多し、一齋點は春樓點に本くとも云へり、要するに春樓は其學德性行、並に議すべき者多く、甃菴蘭洲竹山とも冰炭相容れず、其が學主たりし二十五年の間は、學政大に廢れたりとぞ、春樓實に天明二年壬寅十月九日を以て歿す、享年七十一、河內神光、寺先埜の次に葬れり、初配太田氏、一男を生めるも夭し、繼配河合氏一男二女を生めるも、男は亦夭し、後配增田氏一男を生む、名は如幾、通稱幸藏、庶子名は如式、通稱永藏、春樓歿後、竹山如式を引取りて教育し、如幾は舊寓に居らしめしに、兄弟後ち去て讃岐に至れり。
春樓歿後の懷德堂は、竹山代りて學主と爲り預人を兼ねたり、而して後ち文學一時に盛なりき。

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最終更新:2024年08月05日 23:58