西村天囚『懐徳堂考』十四、五同志列傳(富永仲基、荒木蘭皇及び諸同志人名)

十四、五同志列傳(富永仲基、荒木蘭皇及び諸同志人名)

懷德堂の創立と維持とは、實に五同志の力なり、今其の大略を記すべし。
三星屋武右衞門は、中村睦峰が事なり、良齋と號す、父は淨有、母は上原氏、延寳元年癸丑九月二日生る、大阪安土町の人、資性直良、容貌ゆたかにして迫らず、幼時父を喪ひて、克く母氏に事へ、兄弟に睦まじく、親類朋友、其の德に服せざる無し、初め山崎流の神道を學び、後ち兄常信の說を聞きて石菴に從學し、此れより深く省み勵みて、德いよ〳〵成り、才ありて誇らず、常に人の善を稱し、最も調和に長けたり、人推して長者と稱す、一士人醉狂して刀を抜きつゝ、良齋の店子を惱ますも、人之を鎭むる能はず、良齋割木一つを持ちて其家に入り、やす〳〵と引捕へし事あり、武術の心掛なき町人にして、甲斐甲斐しき働を爲しゝは、其の心動せぬに因れるなるべし、初の名は長右衞門、公儀を憚る事ありて改名の時、武の字に改めて自ら懦弱を戒めしとぞ、吉野に遊びし時、足痛みて馬を借りけるが、馬子と話しつゝゆくに、馬子は約束の處に至りて、今一二里乘りたまへ、賃は如何ほどにても宜し、道々の御物語に因て、心清き方にわたらせたまふと知れり、別れまゐらすることの名殘惜しきにと云へりとぞ、又同志四五人と近江の藤樹書院に詣でし時、路傍の茶店にての物語、夫婦有別に及ひて、夫婦の別とは折目高なるを言ふにあらず、女の業を男が爲し、男の業を女が爲すより家は破るゝをもて、男女内外の業を分つなりと云ひければ、茶店の主人聞きて、至極なる事なり、我等には出來ぬことゝ思ひしに、爲ればなる事にて候ひけるよと感ぜしといふ、其外有德の言多し、行狀は富永芳春之を撰べり、芳春良齋と交ること二十七年、未だ嘗て疾言遽色を見ざりきとぞ、常に讀書を好むも博覽を貪らず、其の喜んで讀みし書は、近思錄、傳習錄、藤樹書翰、翁問答、仁齋童子問等なり、石菴常に良齋を稱して、子れ三都の士に交ること多し、未だ才德兼備良齋の如きを見ずと云へり、石菴歿後三年の享保十七年壬子四月四日に終れり、享年六十、其の妻安井氏先きに歿せしも再び娶らず、二男一女あり、長は信之、次は有信といふ、懷德堂創立の時は、良齋年五十四にして、懷德堂定約の草案は其の手に成れり、享保二十年の定約に、三星屋庄藏とあるは其の子信之なるべし、東菴と號しき、子孫不詳。
道明寺屋吉左衞門は、富永德通が事なり、芳春と號す、大阪の人、醬油製造を業とせり、其の先は河內道明寺よりや出でけん、父は宗仲、母は山口氏なり、芳春初め持軒に學び、後ち石菴を師とせり、上代假名の能書にして、加藤竹里(小川屋喜三郞)等は其の教子なり、懷德堂創立の際には、甃菴及び吉田盈枝と同じく江戶に下り、其の尼崎町の隱宅を以て校地に充て、終始力を此に盡しき、墓は下寺町西照寺に在れども、碣に文なきを以て歿年享壽を知るに由なし、因て其の子荒木蘭皇の養家なる池田を調べしも、子孫衰へて得る所なく、纔に荒木氏の疎綠なる薩摩堀比田種藏に現存する荒木氏追遠簿に因て、元文四年十月十四日に歿せしを知るのみ是れ蘭洲西歸の年にして、良齋の死に後るゝこと七年なり、年六十にて享保十七年に歿せし良齋との交は二十七年に及べりと自記したれば、良齋三十四の寶永三年比に始て交りしか、芳春初め金崎氏を娶りて、長子毅齋を生みしは寶永五年なり、良齋より十歲許も少かりけん、然れば其享壽は六十左右にもやあらん毅齋名は信美、吉左衞門と稱し、寶曆六年丙子正月十五日、享年四十九にて歿す、墓は西照寺に在り、眞多氏を娶りて三男一女を生めり、芳春の墓後に履信婦之墓と題せるは、先に歿せる眞多氏にして、貞閑女之墓は、寶曆九年十四歲にて夭せる毅齋の一女なるべく、其墓石には兄富永成美立とあり、是れ毅齋の長男なるべし、寶曆四年に認めし甃菴遺言狀の宛名吉左衞門は毅齋が事にして、毅齋歿後の寶曆八年に成りし懷德堂定約附記に連署せる道明寺屋吉左衛門は、正しく毅齋の長子成美が事ならん、天明の義金簿には已に道名寺屋の名なし、家衰へ子孫流轉せしにや、いと傷まし。
芳春の墓の左に清信孺人安村氏の墓あり碑陰の文に因て芳春の妻なるを知る、金崎氏は初配にして、安村氏は繼配にやあらん、其の文に云く。
孺人諱佐幾。和州立野人。考仁山君。妣深津氏。配芳春富永君。出三男三女。長諱基。先卒。謙齋先生是也。次定堅。及重。二女夭。季女嫁南都福智院。孺人爲人謹愼明悟。守儉好施。婦德全備。博涉群書。工書及國風。有集傳于世。寶曆十□(二なり)年壬午八月十四日終。壽七十一。葬西照寺
諸家人物志は、芳春と彼の說蔽及び出定後語を著はせし富永仲基とを混じて同一人と爲し、荒木蘭皇を以て仲基の子と爲し、浪華人物志其の誤を襲ひたるも、此の文に徵して仲基は芳春の子、別に謙齋と號し、即ち是れ毅齋の異母弟にして、蘭皇の同母兄なるを知るべし、諸家人物志に仲基が通稱を吉兵衛に作れり、吉左衞門に非ざること明かなり、延享元年に成りし出定後語の序に、今既三十以長と云へるを、平田篤胤は出定笑語に引きて、三十有餘と看做しゝも此は最早三十と爲りて成長せりとの意なり、三十以上の意味に非ず、延享元年に三十とすれば、仲基は蓋し正德五年安村氏二十四歲の時に生れしならん、異母兄毅齋より少きこと七歲、同母弟蘭皇(享保二年生)に長ずること二歲なり、果して然れば懷德堂創立の時には、仲基年十二にして、石菴歿年には年十六なり、諸家人物志に仲基說蔽を著はして儒を譏り、石菴の爲に破門されたりといふ者如何あらん。仲基天分甚だ高く。聰明人に絕し、三十にして出定後語成りしを見れば、夙慧早熟、固より疑を容れず、十五六にして能く說蔽を著はしたらんも、排佛の蘭洲ならばこそ破門せめ、鵺の石菴は懷德堂に功ある芳春の愛子を破門すべくも思はれず、芳春我が愛子を破門せられて、猶石菴に師事し、懷德堂に盡力すべくもなし、予は此の傳說に疑なき能はず。
父の芳春學を好み、母の安村氏群書に博涉して、書に工に和歌を能くし、家の集さへ世に傳はれりといへば、其家庭の書香敬慕すべし、家業は兄の毅齋あり、仲基をして學に專ならしめけん、仲基の天才を以して、夙に儒釋に通じ、靈慧透徹眼光犀の如く、壯歲能く奇書を著はして、本居平田の二翁を百年の後に驚かしゝが、予の臆測を以すれば、仲基はもと肺病を煩ひしにあらざるか、出定後語の序に、嗚呼身之側陋而痛と云へる、痛の字にて病身と知られ、又限之以大故而無傳乎と嘆息せるに視れば、年三十の延享元年八月比には、殆ど死に瀕せしが如く、瀕死の重患にても、心靈耿々として、其の著述を韓漢若しくは釋迦牟尼降神の地にも傳へんと願ひ、自ら筆を執て序を作れるは、肺病ならでは出來まじ、斯くて間もなく病歿せしならん、其墓必ず西照寺に在るべき筈なるに、一片の斷碣を存せずして其の歿年を詳にせず、墓石は蓋し寺僧の不注意にて埋沒又は紛失せしにこそ、人物志に、寬延中の人と記せる、いと覺束なし、然るにても荒木氏の追遠簿には、蘭皐の父兄の忌日は皆之を錄したるに、獨り仲基とも謙齋とも云へるはなし、只『延享元年八月二十日忠隆、通稱富永左門』といふあり、忠隆は仲基の法號にして、吉兵衞後に左門と改稱せしにあらざるか、果して然れば序文は大故の月に成りし者なり、姑く記して疑ひを存す、仲基の弟蘭皐、名は定堅、字は子剛、又鐵齋と號す、通稱吉右衞門、池田の荒木氏を嗣ぐ、初め懷德堂に學び、後ち池出の田中桐江(物門)に從游し、詩賦に長じて海內の名流に交れり、明和四年十一月六日歿す、歿年五十一、其の子商山(又號李蹊)梅閭、皆書に工にして、春水山陽等と交りき、仲基の季弟重は東華と號し、寛政三年七月十日に歿せり、世多く芳春仲基を混同するを以て、聊か此に辨ずること如此し。
附記
富永仲基の事蹟に關する研究は近年に至つて仲基の弟荒木蘭皐の雞肋集、仲基自身の著述にして元文三年十一月の序ある『翁の文』の刊本並に手鈔本の所々に發見されてより稍明瞭なるに至れり。就中『翁の文』は從來纔に萩原廣道の近世名家遺文集覽に引用せる『翁の文』序文によつて其書の存在を知るに止りしが、本書の出現によつて此書の內容は言ふ迄もなく、更に併せて說蔽の梗概をも推知するに難がらざるは學界の慶事といふべきなり。今本書に關係ある事實の一二を補はんに淡路の人、仲野安雄遺書中の『翁の文』手鈔本書尾の注には大阪道明寺屋三郞兵衞作とせり。世或は仲基の通稱を吉左衞門、又は吉兵衞などいへど、吉左衞門は實は仲基の父芳春及其長子毅齋の通稱にして排行よりすれば三郞兵衞といへるが反て仲基の通稱として信ずべきが如し。次に其歿年は今尙知るに由なきが、其姪荒木李溪の編纂せる大東昭代詩紀に收めたる丙寅早春作の仲基の詩、及び延享三年丙寅春三月に撰せる仲基の雞肋集序文によつて、世を去りしも其以後にあるを知るべきなり(校者識す)
舟橋屋四郞右衞門は長崎克之が事なり、大阪の人、其の家業詳ならず、初め持軒に學び、後ち石菴に師事せり寶曆五年十二月の大火を晦日燒と云ふとかや、克之が家も燒けたり、克之幼にして父を喪ひ、一人の叔父あり、來りて金を貸せと云ふ、克之が番頭小兵衞、此の災難の中に、叔父御なればとて、金を貸すこと思ひも寄らずとて斷らせけり、叔父怒りて往來せず、克之が母いと氣の毒がりて、克之に罪を謝せしむれども、
叔父は言を交へず、克之日每に幾度も訪れけれど其効なし、火事の翌年には己に十九なるが、心を痛めてほと〳〵病を生ぜんとす、因て石菴を見て教を請へり、石菴云く、足下は學問の志ありや、克之云く然り、
石菴云く、學問は餘の儀に非ず、心を治めて苦を免れ、滯る事も滯らぬやうにする爲なり、根限り出精して日に幾度も叔父を見舞ふべし、少しもひるむ可からず、斯くて日數經るも感ぜずば、叔父は妄人なり、如何とも爲んやうなし、今足下未だ叔父を感ぜしめざるは志薄き故なりと、克之一旦谿然として胸窓を開くが如く、此より日に〳〵叔父を訪ひければ、叔父一日覺にずも根氣のよい男哉と云ひて、此より言葉を交し、往來舊の如くなりければ、克之ます〳〵石菴を尊信したりとぞ、此は入恒德(古金屋助十郞)が見聞雜抄に記す所なり、其の後懷德堂創立に盡力して五同志の一たり、甃菴自ら學主と爲るに及び、一旦義絕せしは、感情の行違にやありけん、甃菴終に臨みて學主を先師の子に讓り、遺言して克之に囑しければ、克之快諾して再び世話をも爲し、寶曆八年の定約附記にも、父子名を列せしが、此の時蓋し六十七八の人なるべし、歿年詳ならず、墓は神光寺なる長崎默淵翁之墓即ち是か、子の名は守之、通稱彥太郞といふ、蘭洲存生中に、父母の喪に丁りて一年を經ざる守之と京の紅葉見に行かんとする春樓を諫めし文あり、然れば克之は寶曆十二年前に歿せしや明なり、其の子孫は絕ねにけん、詳ならず。
備前屋吉兵衞は吉田盈枝が事なり初め養齋と號し、老いて可久と號す、大阪の人父は芝巖と號す、母は田中氏、元祿六年三月二十一日生る、國學を好み聯歌を善くしたりき、其の手寫せる蘭洲著述の古今通は、今藏して千草屋(平瀨氏)に在り、奧に『古今通八卷、蘭洲五井氏所撰、寳曆丙子之春、備前僑居中繕寫卒業、吉田盈枝』と記し、勢語通にも、『寶曆五年冬十月養氣盈枝書寫終る』の奧書あり、養氣堂など號せしにや、此は備前侯の用達か、又は備前出身の人なるべし、京町堀邊に住みて甃菴の家主なり、享保四年石菴高麗橋住居の比に入門して懷德堂願立の時には甃菴及び芳春と共に江戶に下り、五同志の一人として力を盡しき、甃菴歿して寶曆八年定約附記成りし時は、備前屋可久同吉兵衞の連署あり、父子共に學を好みけん、明和四年七月十九日歿しき、享年七十五なり、配は小野氏、後年子孫退轉せしにや、天明二年の記錄には備前屋の名なし。
鴻池又四郞は山中宗古といふ、元來堺の人にして、甃菴と同年なり、鴻池本家に津といふ女子あり、又四郎を智養子として分家せしものなるが、享保四年吉田盈枝と同じ比に入門して、創學五同志の一たり、甃菴懷德堂を改築せし時は、莫大の寄附をも爲しけり、寶曆四年甲戌二月六日歿す、享壽六十三なり、定約附記の又四郞は、其の子宗貞なるべく、正作とあるは宗貞の子宗通ならん、天明二年の義金簿には鴻池惣太郞とあり、正作の改名にもや、竹山歿せし比には、宗通の子和三郞尙幼かりけるが、和三郞早世して家絕にしが如し。
以上五同志は誠心を以て、將た資力を以て、創學に熱注し、諸同志の中心と爲りて、教化を裨益せし人々なり。
懷德堂創立當時に於ける五同志以外の諸同志姓名は、今得て知る可らず、甃菴學主たりし時の享保二十年定約に連署せる人名左の如し。
中井忠藏(甃菴)○廣岡藤八〇道明寺屋吉左衞門(富永芳春)○鴻池又四郎(山中宗古)○備前屋吉兵衞(吉田盈枝)○三星屋庄藏(良齋の子東庵)○古金屋助十郞(入恒德號山靜)○泉屋五郞兵衞○平野屋清助○平野屋平作○三宅才次郞(春樓)○諸同志中
春樓代つて學主たりし寶曆八年八月の定約附記連署は左の如し。
○三宅才次郎○五井藤九郞○中井善太○同德二〇舟橋屋四郎右衞門(長崎克之)○同彥太郞(守之)
○備前屋可久(吉田盈枝)○同吉兵衞○中村東庵○同正九郞(東庵の子か)○鴻池又四郎○道明寺屋吉左衞門(成美)○平野屋基齋(清助か)○同平作○鴻池正作(惣太郎前名か)○古金屋助十郞○小川屋喜太郎(賣藥屋、加藤景範字子常號竹里)○同清右衞門(名景亮字子寅號靑溪)○和泉屋五郞右衞門(入尙義)○鑰屋吉右衞門○尼崎屋七右衞門○同市右衞門○同宗右衞門○深江屋新七〇天王寺屋九郞右衞門○古林正民(甃菴の姨子、字相如か)○橋本泰藏○小柳良菴○橘屋富四郞○林新次郎○淡路屋源右衞門○同彌太郞
右は懷德堂に學びて、其の維持費をも負擔せる諸同志なるべく、悉く是れ町人文學傳中の人なり、今姑く其の名を列擧して後考に供す、好古の君子、若し其の傳記資料を寄示せらるれば幸甚。(以上明治四十三年二月七日より一十七日まで)

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最終更新:2024年08月06日 11:27