十五、竹山と履軒
竹山履軒の兄弟は中井甃菴の子にして、大阪第一等の大儒なり、竹山は享保十五年五月十五日を以て大阪尼崎町の懷德堂內に生る、實に懷德堂創立の五年目にして、物徂徠は此の前々年に歿し、三宅石菴は是の歲に世を去れり、弟の履軒は享保十七年五月二十六日を以て生る、母は並に植村氏なり、竹山の通稱は善太、履軒は德二、後に竹山の名は積善、字は子慶、履軒の名は積德、字は處叔と云へり、父の甃菴が名二子說に曰く、
孟生名以善。季生名以德。既行冠儀。請字。子曰。汝知夫海與山耶。山積土以成山。海積水以成海。人積善與ノ以以人。善德之外。吾又何言。遂字以孟善季德。善耶德耶。積焉耳。勉v旃。
然れば善太德二は幼名にして、元服以後は孟善季德と字しけるが、其の積善積德と名乘り、字を子慶處叔と改めしは何日比なりけん詳ならず。
竹山の生るゝや甃菴其の臍帶封上に署して、兒以享保庚戌竹醉日生。幸而成立。其必以竹爲號乎と云へり、甃菴竹を愛して窓前に數竿を栽ね、其の書齋を此君窩と云ひしが、竹醉日と稱する五月十三日に、男子を擧げしより斯くは記しゝなり、然れば少きより竹山と號せり、山は曾茶山差梅山祝枝山の山の類なる一雅目にして、地名に因みしにあらず、其の印文に非草非木九仭一簣とあり、非草非木は竹にして九例一簣は山の義なり、集義の印は孟子養氣の章の朱註に、集義猶言積善とあればなりとぞ、世に關羽の誕辰は竹醉日に在りと傳へたるより、其の生日の關羽に同じと云ふ意味にて、同關子の別號あり、晩に渫翁と號せしは、易の井の卦の九三に、井渫くして食はれずとあるに取れるなり、甃菴冽菴など皆其の姓の中井五井なるより、井卦に取りて號と爲すは其の家風なり。
履軒の天性は隱遁を好みて、名を避け交を謝せしより、處叔と字せしなるべく、其の號も易の履の卦のに、履道坦々幽人貞吉とあるに取りて、履軒幽人と云へり、短冊などには幽人とのみ記せるもあり、『ふかふど』と訓むべしとなり。
竹山生れし比、京より伊藤東涯講釋に招かれて懷德堂に來りけり、父甃菴は、私も男子を擧げ候とて嬰兒を示しけるを、東涯はドレ〳〵と云ひつゝ、抱き取りて膝の上に置きけるに、折惡しく放尿しければ、東涯此の兒生長の後は、我に小便をかけるやうな者になるかナと云はれし由云ひ傳へたり。
兄弟幼少の比、冬日は每朝未明に起出で、一人は手桶を提げ、一人は竹帚を擔ぎて淀屋橋に至り、霜白く置き渡して未だ行人の足跡を印せざる橋上に立ち、手補を硯に、竹帚を筆と爲して、代る〴〵大字を習ひたりといふ、其の氣象の大なること夷の思ふ所に非ず、蛇は一寸にして蛙を呑むの概あり。
五井蘭洲の津輕藩を辭して大阪に歸り、甃菴請ふて再び懷德堂に教授たらしめしは、元文四年にして、竹山は年十歲履軒は八歲の時なり、甃菴乃ち古人子を易へて教ふの義に從ひ、二子に命じて蘭洲に師事せしむ、斯くて蘭洲は懷德堂内に居住して教授を掌ること二十餘年、竹山三十三、履軒三十一の時に世を去れり、然れば竹山兄弟をして學問文章鬱乎として家を成し、以て關西の文運を開かしめし者は、實に蘭洲の功なり、特に其の經說に至りては、持軒程朱を以て宗と爲すも、時に從違ありて集註を墨守せず、此に折中の宗旨を開きしより、蘭洲も亦家學を奉じて子弟を教授せしが、竹山履軒並に師說を奉じて經を說くに折中を主とせり、竹山陰に王學を尊崇せしは、石菴甃菴の家法に出づるも、表面は程朱を奉じて折中學を守れる、全く蘭洲の家學に出づ、履軒も亦然り、而して履軒更に規模を恢宏して、研經の業、先儒に超絕せり、懷德堂創立の比には、道學を主として詩文を排斥せしも、蘭洲文章に長ぜしより、其が教授と爲りて後は、學風一變して詩文を課し、竹山履軒並に文章に長ぜしが、分けて文章は竹山の長技たり、竹山の文章に長じ、履軒の經學に長ぜしは、並に淵源を蘭洲に發して、而して其の造詣は師に勝ること數等、眞に是れ出藍なり。
最終更新:2024年08月09日 17:34