竹山歿後の懷德堂は別に學主を置かずして、預人と教授とより成立ちしに似たり、教授は履軒なりしが、履軒歿して後ち、預人を以て教授を兼ねしは、竹山の第七子なる碩果なり。
碩果名は曾縮、字は士反、通稱は七郞、號を抑樓と云へり、明和八年を以て生る、母は革島氏、兄の薫園より少きこと四歲なり、兄弟十三人の內、只獨り存生せしより、易の剝の卦の上九に取りて、晩に別號を碩果と云ひ、又石窩とも書けり、夙に家學を承けて成立する所あり、寬政災後には、竹山に從ひて東上せしが、何日の比よりか天滿に別居して私塾を開き居りしに、享和三年兄蕉園早世せしかば、懷德堂に歸りて學校預人の職を繼ぎ、尋ぎて預人を以て教授職を兼ねつゝ、先業を恪守せり。
壙志に『最も心を經術に潜め、往々闡明多し』とあり、岩村南里が憶昔八首の中に、蕉園碩果を稱して一雙の蘭玉と曰ひ、伯兮作v賦才無v敵。叔也傳v經道既通の句あり、然れば碩果は夙に治經を以て儕輩に推されしと見ゆ、但し別に著述なく、今唯其の亡兄蕉園が盤庚に錯簡ありと言ひし說に本づき、序次を改定したる者一篇と、左傳私說一篇とを存するのみ、其の文は逹意を尙び、詩は詠史詠物を好めり、並河寒泉編次して一冊と爲し、名けて箎集と曰へり、其の寒泉に與へし詩に、洛岡正宗閑2聖道1。陸王邪說誤2書生1」の句あり、竹山は程朱を標榜せしも、猶王學を排斥すとも見えざりしが、碩果に至りて外朱内王の學風は、純朱子學に狹めたりしなり。
壙志又平賀明府に勸めて一忠臣を表し、一姦臣を黜けしより、時人大に悅びしことを記せり、平賀明府とは、時の町奉行平賀信濃守なり、碩果も亦竹山の後を承けて城代奉行等の爲に經史を講ぜしなるべく、其の關係より忠言を進めしと見ゆれど、其の事實は傳はらず。
碩果身を持すること嚴正、家を御むると勤儉にして、夙夜怠らざりしとは壙志に記す所なるが、其の孫黃裳の記錄に據れば、竹山時代の懷德堂は用度給せず、始終窮迫の體にて書を買ふ能はず、せめて佩文韻府淵鑑類函の二部なりともと願ふこと久しくして、纔に手に入れし程なりき、碩果の代に至りては、同志の助力にも依るべけれど、碩果天性理財に長じて勤儉を務め、其の妻篠田氏も亦内助の功ありて、懷德堂の用度は一代にて充足し、數多の圖籍を購蓄せしのみならず、庫中の大櫃十二箇には、備〓糧と題して米穀を貯藏せしほどなりとあり、然れば此の人は學問よりも治生に長せしなるべし。
懷德堂は斯に至りて幾變したり、甃菴創業の際は、道學を主として町人教育に適當ならしめんとし、蘭洲教授の比より學風一變して經學文章の培養と爲り、竹山に至りては、學問に貴賤の別なしと爲して武士の上座を廢し、經學文章の上に史學の一派を開き、蘭洲時代に養ひし實力を發揮して、四方の名士と應酬し、海內の學者をして其の風度を景仰せしめつ、此に至りて懐德堂の學風は再變せり、要するに甃菴の草創、蘭洲の培養、竹山の擴張と爲りて、小學より中學、中學より大學に發達せしなり、蕉園の天才にして長生せば、更に詩賦文章の長を挾みて懷德堂の學風を恢宏し、江戶の古賀侗菴佐藤一齋等と對峙して、文化文政の昌運を參贊すべかりけんを、惜しい哉早世せり、抑尋常學者にしては、竹山履軒の盛時に繼ぎて懷德堂の名聲を赫々たらしめんことは、何人も困難を免れず、碩果は此の困難なる時代の繼承者と爲りしなり、碩果乃ち家學を恪守して既成の業を保持するに力め、高く自ら標置して四方俗儒と交游せず、懷德堂の學風は斯に至りて三變し、閉鎖退嬰の方針を取りしが如し、南里が祭抑樓先生文に云く、薰猶同v器。先生是恥。乃引自遠。與v俗背馳。豈其求v高。畏v愆2前軌1。と。是れ蓋し苦心の存する所なり、人各天分あり、多きを望む可らず、予は碩果が家學を恪守して先業を失墜せざりしを多とす、文政八年六月七日は、懷德堂が幕府の官許を得たりし創學壹百年に當りしより、其旨屆出ければ、市尹より緒を承くること永久にして先業を墜さゞるを賞し、之を將來に傳へて永世渝らざらんことを戒飾せり、因て碩果文を作りて甃菴竹山の靈を祭り、『縮不肖乏を教授に承け、任重く力微にして半塗に廢せんことを恐る』の語あり、其の戰々兢々として父祖を忝めざらんことを期せしは、亦儒林世家の後たるに恥ぢず。
碩果の資性は南里の祭文に盡せり、曰く、先生德を秉ること貞正にして、堅苦自ら持し、外は峭属の如く、內は實に坦夷にして、心を操ること翼々、人に接して怡怡、德は中に粥ちて、人の知るを求めずと、其の世儒と交游せずして一方に割據し、人の知るを求めざりしは、亦其の天性にも出でけん、然れば交道極めて狹くして、社友故舊の外には、應酬甚だ希なりき。
當時京都には賴山陽あり、大阪には篠崎小竹あり、山陽小竹を中心とせる兩地の文壇には、騷人雅客の徵逐頗る盛なりしも、其の風流文雅は、碩果の學風と志尙とに投合せざりしより、時流の外に超然として、絕えて交涉なかりしも、獨り山陽とは、世誼姻戚の故を以て交際したりき。
山陽の母篠田氏(本姓飯岡)は梅〓女史と號し、其の春水に嫁せしは、竹山の媒妁なりしが、碩果の妻は梅〓の姪なりしより、山陽母を奉じて大阪に來る每に、碩果夫婦を訪問し、折々は懷德堂に宿泊せり、山陽或時、竹山先生の奠陰集を拜見したきよし請ひければ、碩果手稿を出して之を示せしに、山陽最初は正坐して繙讀しけれども、豪放磊落なる性質とて、追々坐を崩し、遂には足を出して橫になりながら讀みけり、碩果は嚴正なる性質とて、痛く其の無禮を憤り、怫然として坐を起ちたりとの逸話あり、梅〓の日記 を檢するに、此は文政七年九月五日の事なりけり。
四日晴朝の內中井へ往く、俊藏(後藤松陰)より到來の羊羹二匁棹持參、暫時して久太郞(山陽)一緒に奧村(幸右衞門)へよばれゆき、歸り中井に宿る、久太郞は渡し置き(母を中井に渡し置きの意)篠崎へ宿る。
五日晴中井へ久太郞來り、舟の事いひて迎ひに來る、時におもとへ人やり、同人も來、お柔達太郞(越智文平の子か)つれ來る、重五郞(篠田)も來り、暫時話の內、游舟おそくなるよしにて舟へ往く、今日のあそび小竹催しなり、あみうち舟は久太郞しるなり、小竹夫婦俊藏鶴齋(武内確齋)等なり、歸り、久太郞竹山先生遺稿見る、(日記は『家庭の賴山陽』の抄錄に據る)
竹山は山陽の爲には父執にして、父兄行なれば其の手稿を讀むにも、容を改め襟を正すべき筈との碩果の注文らしきに觀ても、碩果の道學先生たりしを知るべく、無頓着なる山陽が安坐寓目の狀と對照して、二人の爲人を想見すべし、此の日の舟游にも碩果は赴かず、閉戶先生なりしと見ゆ、碩果門人の山田孝堂が遺稿に、游2爭龍灘1記あり、中に『余れ幼時懷德堂に寓せしが、賴山陽翁來りて我が先師(碩果のこと)を訪ふ、翁素より酒を嗜み、先師は飮を好まず、杯酌の間、暫く對話して室に入り、余輩二三名をして翁に侍りて興を佐けしむ』と見えたり、竹山の子に似合はぬ下戶なりけん、山陽とは氣質各異りしより、己れは坐をはづして門人輩に相手を命ぜしにや、山陽少年亡命の比、叔父の賴杏坪より山陽の舅氏篠田剛藏への手紙に、蹤跡相分り御座候はゞ、中井御父子へ御相談被成候て、可v然御取計可v被v下候』とあり、竹山蕉園碩果も世話を燒きしなるべし。山陽は碩果より少きこと九歳なりき。
大鹽中齋は幼時碩果に從ふて句讀を受けたりしが、大學の素讀に、與其有聚斂之臣寧有盜臣の句に至り、寧といふ字の訓を覺えざりけるより、碩果は記憶の法を授けて、下に敷く筵席のことを覺えて居れと教へけるに、翌日來りて復習する時は、『其の聚斂の臣あらんよりはゴザ盜臣あらん』と讀みたるより、後々までも話草と爲りけり、其の大鹽既に長じて天保八年の亂を起せし時は、師の碩果火を難波の醫師谷川氏に避けしが、懷德堂は幸ひに兵火を免れたりき。
碩果の門人相應に多かりけんも詳ならず、姪の並河寒泉は別に傳あり、其の他には竹山に從學せし岩村南里も碩果の教を受けたりと見えて、童孩奉v教と記したり、山田孝堂(通稱は養節といへる播州の醫者)懷德堂に學びて碩果に師事し、後ち帷を大阪に下し、尋ぎて小野藩の儒員と爲り、維新の際には藩の學事に盡力せしもの、亦高弟の一人ならんか。
碩果は大鹽亂後四年にして山陽歿後九年なる天保十一年三月廿四日に病歿せり、享壽七十なり、此の春の試筆に、舌存猶坐新皐。比齒墜唯甘小宰羊の句あり、其の徒に授けて倦まざりしを見る、門人私に證して文正と曰ひ、誓願寺の先〓に葬れり、碩果の配は篠田氏、一男八女を生みしも、男は夭して嗣子なし。是より先き姪の並河寒泉を養ふて嗣と爲し、碩果は教授寒泉は學校預と爲りしが、寒泉故ありて本姓に復せしより、更に從弟柚園の幼子修治、後に桐園と號せしを養ふて嗣と爲せしが、碩果歿して後ち、桐園を以て學校預人と爲し、寒泉は教授と爲れり。(因に記す四女は夭し、長女は攝州歌島の醫家小笠原孝治に、四女は並河寒泉に、七女は大阪同心の笹脇正元に、八女は京都の儒醫並河尙教に適けり、)
最終更新:2024年08月29日 14:35