西村天囚『懐徳堂考』三十九、結論

我が大阪人は淀川の流を誇り、大阪城の巨石を誇り、八百八橋を誇り、川口の出船入船を誇り、天神祭の紛華を誇るも、懷德堂を誇り、竹山履軒を誇る者は少し、竹山履軒の氣象の大は、此等の數者を合する者に過ぎて、而して其の餘澤未だ必ずしも淀川の九里を潤すに讓らず、然れども目に見え得る大小は瞭然たり易くして、心に見分くべき深淺長短は衆人の知り難き所たり、算盤量衡の目に顯はれし損得は、婦人孺子も之を知れど、大福帳に記されぬ世道人心の消長は、一廉の賢者も見逃すことあり、竹山履軒の人物の大小長短、扨は世道人心の損得消長に於ける懷德堂の功績が、大阪人の目と算盤量衡の上とに見えざるも、亦怪しむに足らず。
持軒の四書屋は、商業地の大阪に讀書人の種子を播き、石菴の多松堂は、流寓の身を以て町人文學の勃興を促し、遂に甃菴及び五同志をして懷德堂を創設せしむ、創立當初の懷德堂は、心學道話の講席に過ぎざりしも、是れ土地相應時代相應の教育にして、大阪の人心風俗を正しくし、算盤量衡の目に現れぬ心の勘定に因て、大阪の繁昌を來さしめしこと莫大なり、蘭洲西に歸りて、文章始て起り、閑道承聖の業、大に活氣を添へて、竹山履軒の根柢は、其の手に培養せられたり、竹山履軒出でゝ一方の郷校に過ぎざりし懷德堂は、日本の大學校と爲れり、江戶の昌平黌を今の東京帝國大學とすれば、大阪の懷德堂は京都帝國大學にも比すべきか、而して懷德堂の實力は、殆ど昌平黌を凌篤したりき。
竹山履軒並に經學文章に通ずるも、竹山の長は文章に在り、履軒の長は經學に在り、二人の文章並に左氏を宗とするは相似て、而して經學は則ち同じからず、竹山は穩健なる程朱學を標榜し、履軒は程朱に從はずして、專ら獨見自說を張れり、此に至りて石菴首朱尾王の鵺學は一變せり、而して懷德堂が竹山履軒に因て、經學文章の外に一生面を開きしは史學なり、大日本史未だ世に出でざるに先ちて、逸史通語は成れり、其の史筆史眼は、並に三宅觀瀾を通じて水戶風を承け、以て賴山陽の日本外史を生み出せり、山陽の外史氏は之を通語の野史氏に得來るもの多し、世人徒らに外史を稱して、師承する所の通語を稱せざるは、憾むべきのみ、而して竹山が政治の才、履軒が高士の節、亦並に當時儒林第一たり。
當時の儒林を見渡すに、名を海内に馳するもの、江戶には柴野栗山あり、京には皆川淇園あり、山陽に西山拙齋 菅茶山あり、鎭西には龜井南冥 籔孤山あり、淇園は僻學、拙齋は偏狹、茶山は詩人、南冥は佯狂し、孤山は竹山夫子に推服するや深し、其の風度に於て、其の學問文章に於て、其の政治の才尊王の績に於て、竹山と相頡頏する者は其れ栗山か、竹山、栗山、並に大家の風度を備ふ、而して學問の力量は、栗山竹山に及ばず、文章の才氣は竹山栗山に如かず、史學の三長に至りては、竹山の擅塲にして、栗山の無き所なり、竹山をして栗山と地を易へしめ、樂翁公と手を握りて草茅危言を行はしめば、政治の功、尊王の績、栗山に過ぐる者あらん、而して門下の盛なる、學統分布の廣きも、亦栗山の及ばざる所なり、果して然らば則ち山木眉山が當時の儒林中に於て、竹山を稱して海內第一の大儒と謂ひしもの、決して不當に非ず、履軒は竹山と風尙相反す、竹山は通儒なり、政治家なり、履軒は隱逸なり、經學者なり、而して其の大なる所以は則ち同亦じ、履軒の經業はに日本的經學を獨創して古を光し後を啓くもの、其の史學、其の文章、其の高風清節も、當時の儒林中、一實人の匹敵を見ず、學德の醇粹、二洲の如き者ありと雖も、其の風範力量を以て之を言へば、履軒の大に如かず、履軒も亦實に日本一なり、儒林第一等なり、之を古人に求むるも、二人の上に駕する者其れ幾人かある、竹山履軒兄弟は實に日本に於ける大偉人なり、此の誇るべき二大偉人を有せる大阪人は、何を苦しみてか無意味の淀川大阪城の石などをのみ誇れる。
竹山履軒と時を同じくして大阪に盛名ありしは、片山北海にして、其が主盟せる混沌社は、亦實に懷德堂と對峙せる大阪の名物なり、然れども混沌社は一時的文學なり、北海は越後の人、京師に學びて詩文に長じ、韓使接待の爲に岸和田の岡部侯に招聘せられ、其の役罷みて猶大阪に留まりしが、諸藩藏屋敷役人、又は城付與力、及び大阪町人の風流文雅を好むもの、推して盟主と爲して混沌社を結びしは、寳曆の末比にもやあらん、其の盛時は明和安永天明に涉れる約三十年間にして、北海が享和二年に歿せし後は、混沌社も亦隨つて衰へ、鷗侶散じて雅聲熄めり、懷德堂が祖孫相承けて四世の久しきに亙りしと、年を同じくして語る可からず。
蕉園をして長生せしめば、一齊山陽と馳驅して先業を恢宏しけんを、惜しむべし天其の才を與へて其の命を嗇めり、竹山履軒歿後の懷德堂は、强努の末力のみ、幸ひに寒泉ありて、儒業を繼承し、以て維新の際に至りしを多とす。
顧ふに封建の世、海內學あらざるなし、其の創學の年月、懷德堂より早きものを尋ぬるに、長崎の立山書院(正保四年)岡山の閑谷黌(延寳元年)幕府の昌平黌(元祿三年)肥前多久の東原産舍(元祿十二年)等は、著名の學校にして、創立も亦久し、其の餘五六小藩の學校ありといへども、其の名甚だ著はれず、其の他雄藩名邑の學校は、概皆安永明和寬政以後の創立に係り、我が大阪が享保九年に、早くも懷德堂を創立せしは、亦誇るべき事實たり、國主城主の大名等が、聖廟講舍の輪奐を極め、鴻儒碩學を招聘して、學政の振興を致しつゝ、維持に窘しまざりしは當然なれど、興廢常なきは義學の習なるに、懷德堂が商業地の大阪に起りて祖孫相承け、四世壹百四十餘年の久しきに維持して、以て民彝人道を講明せしは、尤も誇るべき尤も珍らしき一大事實たらずんばあらず、今人能く商業上の公德を重んずべきを說く、商業上の公德とは何ぞ、亦人道の商業上に行はるゝなり、僞らず欺かず、是れ至誠にして、人道の本たり、人道の本は信用の生ずる所、即ち是れ商業上無形の資本に非ずや、物質上の資本は算盤量衡の目に現するも、無形の資本たる公德即ち信用は、唯心の上に在るのみ、心を治め身を修め、以て事業に施すは、儒學の本領なり、河は九里を潤すとは、水の流は一筋なれども、其潤澤は遠く流域の外に及ぶを謂ふなり、偉人の教化は猶水の如し、直接に其の人に接せざるものも、亦其の教を傳へ聞きて感化せらるゝこと、九里や十里の沙汰に非ず、百年千年の後にも及ぶなり、石菴甃菴蘭洲に昉まり、竹山履軒に盛んにして、碩果寒泉桐園に維持せられし懷德堂の水は、近くは大阪を潤ほして、遠きは關東鎭西に及べり、富は屋を潤し、德は身を潤すとかや、其の意味は、算盤にて勘定し得らるゝ金錢の富は、家作の好事などを爲して、一寸見てもシモタ屋と見受けらるゝ樣に、瓦の上にも油が乘つて見え、教育を受けて道德を身に備へし人は、心廣く體胖にして、顏色柔和に人好よく、一見したるのみにても、其の身が玉の如く潤ひて見えるものぞとなり、昔の大阪商人は懷德堂のお蔭にて、德を修め身を潤して信用自ら厚く、隨つて屋を潤すの富をも得て、日本一の商業地たる名譽をも今日に持續しつるなり、今の商工教育は使用人養成の遣口なり、昔の懷德堂教育は主人養成の良法なり、如何に商賣上手らしき使用人を養成したりとても、いつまでも使用人にて世を終るにはあらじ、使用人より進みて、使用人を使用する主人と爲らでは叶はず、使用人たるべき教育は受けても、主人と爲りての心得を教育されずば、やがて取引先の信用を失ひては取引を拒絕せられ、使用人の待遇を誤りては、拐帶橫領せられて、暖簾を傷つけ店を仕舞ふを免れず、是れ何の故なれば、主人も使用人も心を治め身を修むるの教育を受けず、道德を以て身を潤すの算用に暗ければなり、斯くては個人の損失のみならず、商業地たる大阪の名譽も地に落ちなん、是れ商業上の道德といふことの絕叫さるゝ所以なり、大阪人たるもの、徒らに淀川や大阪城の石塊や橋々を誇らんよりも、尤も誇るべき我が竹山履軒の二大偉人を心の中に呼起して、死すと雖も猶生けるが如き感化力に我心を委ね、四世壹百四十餘年の間、教育の恩を受けたる懷德堂に感謝して、其の教育感化を將來に回復持續せんことは、富と德との潤を兩得する所以ならずや、今子が懷德堂の過去を說くは、之が爲なり、風教の將來を憂ふればなり、徒らに將來を說きて過去を語らざる者は、如何にして現在の狀態を生ぜしかを知らず、舊時の經過を知らずして將來の改善を望むは、根柢なき草木の花を待つが如きのみ、時人須らく一回頭して世道人心の汚下を防がざる可からず。(完結)

附記 大阪の巨紳、心を世道に留むるもの相謀りて、懷德堂記念會を設け、懷德堂開講の記念日たる十月五日(今四十四年)をトして、諸先生を公會堂に祭り、其の遺著を印刷して會員に頒ち、且當今の碩儒を聘して講演を請はん計畫あり、是れ實に美擧なり、現代の症狀に對する救急の一適劑なり、懷德堂創立より今年迄、實に壹百八十六年、廢學後四十三年を經たるが、諸先生歿後の年月は左の如し。
石菴歿後百七十九年▲
甃菴歿後百五十一年▲
蘭洲歿後百四十七年▲
蕉園歿後百八年▲
竹山歿後百七年▲
履軒歿後九十四年▲
碩果歿後七十一年▲
寒泉歿後三十二年▲
桐園歿後三十年

大阪の紳士諸君が、記念會に加盟し、是等諸先賢の靈を祭りて其の恩に報い、其の遺書を讀みて其の學德を知るは、啻に一身の修養に資するのみならず、子弟の感化に重大なる影響あるを疑はず、故に此に附記して以て其の入會を促すと云爾。 編者識

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最終更新:2024年11月13日 22:47