アットウィキロゴ

西村天囚『懐徳堂考』三十八、寒泉の晩年と廢校後の中井氏(附懷德堂舊門人)

三十八、寒泉の晩年と廢校後の中井氏(附懷德堂舊門人)
懷德堂閉校後の寒泉は、一旦桐園と共に本庄村に移り、其の翌年、女婿淡輪三郞が南江戶堀の控家に引取られて、後櫻宮に帷を下し、再び江戶堀の舊居に歸りて、明治十一年二月六日に歿しき享壽八十三なり、誓願寺なる中井氏の塋域に葬り、門人謚して恭肅と云へり、寒泉の爲人謹嚴方直にして、燕居と雖も必ず危坐し、平生朴素自ら安んじて、衣服什器も粗惡を厭はず、慷慨にして志氣を尙び、深く赤穂義士を景慕して、坐右常に義人錄を置き、大石良雄眞蹟の墨搨、及び遺物の摸造品を蓄へ、講堂に出づる時は、必ず大高源吾が木刀に摸せしを佩ひ、人に喩すに義氣和魂を以せり、其が咏ぜし歌に『かねてしも誓ひ置きけん一筋をふみな違へそ大和魂』『かしらうち打ちかへす手に泣をやむおさな心も大和魂』『幼子の早く仇しる心根は吾日本に生ひいづる種』など云へるもあり、尊攘說の盛なりし比は、志士の周旋を聞く每に感奮措く能はざる狀ありて、勤王家の詩歌等、聞くに隨ひて蒐錄せり、洋風を嫌忌すること蛇蝎の如く、維新後も洋品を用ひず、洋服の客には面會を謝絕せりといふ、然れば晩年髪落ちて後頭部に數莖を存するに過ぎざるも、猶斷ち去ることを爲さずして、小さき髷を作らしめ、以て結髮の遺風を存せり、風貌清癯、其の秀でたる眉は彎曲垂下して長壽の相あり、少時肺患に罹りけれど、能く飮食を節して、果して八十三の高齡に躋り、音容老に至るも變せず、嗜好は能狂言にて、酒を嗜まず、唯茶を愛し、精力强健にして、能く細字を書せり、好んで竹筆を用ひしが、其の書頗遒勁なり、交游甚だ少く、仙臺藏屋敷の清水中洲、津山の儒員中西半仙、伏見の羽倉可亭等、三四人と尤親しかりき、其の配中井氏は先に歿し、二男七女あり、長男と女子三人は育せず、二男尙一(字默甫號蜑街稱阿一郞)明敏にして學を好み、幼より能く文を屬しけるに、慶應四年七月十九日病歿せり、享年僅に二十なりき、雙生の一女は桐園に、一女は京醫百々三郞に嫁し、次は柳河藩醫淡輪三郞に適きしが、季女潤菊は父老いて男子の侍養する者なきを悲しみ、一生嫁がずして孝養世を終れり、寒泉嗣子なし、京都の並河總次郞の幼女を以て後を承けしめ居れり。
竹山の養孫にして履軒の嫡孫たる桐園は强弩の末力纊を穿つ能はず、明治六年迄本庄に家塾を開き、尋ぎて江南小學校の教師と爲り、辭職して後ち、好德學院といふを江戶堀南通に開きて、明治十四年一月二十九日に歿しき、享年五十九、誓願寺先塋に葬り、子弟諡して溫良と曰へり、詞章の存する者少し、書は其の長技なりけん、又射を好めりといふ、其の配並河氏、一男二女を生みて先に歿し、繼ぎて小笠原氏を娶りて二男一女を生めり、並河氏所生の長子木菟麿家を嗣ぎて東京に住めるが、遺書遺物を寶藏して今日に至れり。
寒泉桐園時代の門人中には、木積一路(舊名藤戶寬齋)稻垣菊堂(以上河內)は助教たりしことあり、平瀨露香(龜之助)山片平右衞門、井上市兵衞、大町彈正、宮崎寬造、高木彌一(以上大阪)神山鈐吉(堺)淺田靜夫、濱崎康、本尾敬三郞(以上岡山)等の中には、存命の人多し、大阪の老儒伊藤如石(名和、字介夫も、少時教益を寒泉に請ひしことありといふ。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2024年12月11日 12:43