自序
初めての成人の日にあたって、老人の編者もわかわかしさをとりもどしつつ、
はつらつたる気分をもって、言林の序文をかくことができるのは。こよなき喜び
である。
武力時代においてもであったが、この文化時代、また平和をたのしむ新時代に
なってからは、新しい辞典の出現を促がす声が、ますます編者の耳にひびいて来
た。教育界からも、読書界からも、實際人からも、家庭人からも、あちこち諸方面か
ら、編者に向かって、直接にも間接にも、あるいは旧刊本の改訂版や新刷版の発行
をすら要望し、はては機宜に適する新辞典の編修を忠言する声も次第に高まり
来たった。しかし、編者は老来いよいよ自重自愛、ひたすら世相の推移を観望し、
特に教育界や文筆界の形勢に考察をめぐらし、とりわけ言語、文字上におげる新
旧轉交の傾向に対しては、一層冷靜なる批判と周密なる研究とを怠らなかった
がために、改訂につけ、新刷につけ、ましてや新修については、諸事とかくおくれが
ちにならざるを得なかった。かつまた、前縁の関係、情誼の省慮綿綿たるものも
存し、決意も断行ものびかげんにおちいってしまった。
然るに、決然、さいはすでに投げられたであった。このさい、巧遲は拙速にし
かざるを悟ったあげくには、これまでの経験と知識とを利用しつつ、更に新時代
の精神を十分に取入れ新事態に即應するところの要素を形式の上にも、内容の
上にもできるだけ完全に盛込む努力をつくさねばならなかった。ただしこの
空前なる革新期は、一切の新法の実施が緒についたばかりで、いまだごく浅い昨
今のことであるから、細目に及ぶとなると適用の場合において、未解決や不統一
の生ずることを免れない。そればかりか、幾ばくのこんとん幾ばくのむじゅん、
幾ばくのそご、それらが新修の部分にも、印刷の部面にも、自然に起って来るのを
忍ばねばならぬ。六十年前われわれの先覚者たる、言海の著者大槻文彦先生が、
英文をもってかしこく断わっておかれたごとく、初めから完全なものはない、修
補してゆくばかりである。従って、編者と発行者とは、向後たえざる修補の協力
が課されたわけである。
かくて、増加も改廃も常なき新語と外来語との取捨や選択、しかも他方には必
要な旧語と古語との保存の考慮、いつもながら悩みぬいたが、ここにも編者の主
観がはたらき客観的な統計による検定を経がたい恨みがあった。仮名および
漢字の表現法については、編修のさいにも植字と校正のさいにも、工夫をこらし、
試案をいだし、それこそ思案にくれて、苦心のさんたんたるものがあった。
回顧すれば、大辞典の編修に関心をもって以來、ここに五十年、東西に、古今に、幾
多の先達を有した編者は、理想にあこがれ、夢想にそそのかされ、すべからく基本
たるべき語志のせつめいに意をいたし、語源ならびに語史のせんさくに憂き身
をやつして、いまも雅俗にわたり内外におよび、古今となく、新陳となく、機にふれ、
事にあたり、心の欲するままに、言園の一草、言林の一葉、また辞海の一滴根氣よく、
摘みひろって飽くことなく汲みあげてうむことを知らぬ有様である。恨むら
くは任重くして道遠しとも、日暮れて途遠しとも申すべき心情であって、いかに
スローステディの英人氣質を念願したところで、かりに八百歳の長命を得たに
しても、オックスフォード大辞典の如きものは、とても自分の独力などでは、達成
し得べくもない。いな、日本の國力と日本人の文化性格では、公私どちらにして
も、その達成を永久に期待しかねる心持がしてとうとうあきらめてしまった。
そのいきさつについて、老編者の昔話をきいていただきたい。
わたしがまだ学士院会員に選ばれなかったころ、今からは二十七八年以前、わ
たくしの四十六七歳のときのこと、先進古参会員であった恩師上田万年先生に
向かって、日本の学士院においても、フランス等の古例に倣って、オックスフォー
ド大辞典のごときものを、五十年計画で立案されては如何と進言したことがあ
った。それは、一つには学士院の前身であった東京学士会院が、その創立された
当初の院長西周大人と会員加藤弘之博士その後の東京大学の総理にもなり程
経た時代には國語調査委員会の会長にも任ぜられたその明治時代の老哲学者
との間に、國語の規範設定の方法についての論爭が花をさかした明治十二三年
ころの往事をば知った所から出たのでもあった。二つにはわたくしが上田先
生に進言した大正十一年の春のころには、学士院には、ともかくも大日本國語辞
典の著者の一人たる同先生その人をはじめ、大言海の大槻文彦博士も改修言泉
の芳賀矢一博士も、そろって牛耳をとって活動中のはずだと思ったから若氣の
浅はかさで、わたくしの進言も、多少は顧慮されようかと信じきったためでもあ
った。上田先生は、その一九二二年の春、連合学士院会議に渡欧されるにさきだ
ち、わが拙案を具体的に立てて、某会員に内示して進達を計れとばかり申しのこ
されたまま旅だたれたのであった。最後にわたくしが旧師に進言を敢行する
に至った第三の動因は、実はその前年の一九二一年に英國再遊のみぎりオック
スフォード大学見学中、大辞典を印刷したクラレンドン・プレスを視察したとき
の感想にしげきされたのにも因るのであった。五十未満の壯年期の夢はなつ
かしい。ところが昭和三年の春、それから七年たってから、自分がその院に参加
してみると、上記の三先進者のきびに附して、おもむろに機の熱するをまってか
らなどと、ひとりこつこつ語志の研究に從事するうちに、三先輩はつぎつぎに世
を去られ、院の様子がだんだんわかって来て、もうそろそろ口が利ける時期にな
ると、こちらの勇猛心もくだけたばかりでなく、とてもとても、あきらめはてざる
を得なくなった。いまさら革新時代の学術会議をたのむでもなく、自分として
は、小成に安んじて、オックスフォードならぬ牛歩漫漫として、スローながらステ
ディと、これからも語志三昧にわが余生をたのしみたいと祈るばかりである。
老いのくりことを、もう少しつづけると、これも今から半世紀ちかくさかのぼ
る明治三十五年から四十年までの間、わたくしが在勤した、前記の國語調査委員
会においては、加藤弘之博士が会長、主査委員として、主事の上田博士のほか、やは
り大槻・芳賀二博土が補せられ、補助委員としてわたくしたち数名が任ぜられた。
初期の五年間には、文字音韻に関するもの、文法・口語法に関するもの、方言を調査
することなどが主であった。辞典に属する仕事、語志を本位とする研究は、全く
等関に附せられた。自分も言語学および國語学を専門にえらんだ一新進学徒
として、専ら音韻と文字と語法との領域を出なかつた時期だったから、師友共に、
一堂に会して、せっさたくました楽しさと共に、それから得た学問上の利益は、忘
れることができないけれども、しかし、その勤務期中には、全くといってよいほど
語詞を主とした調査に手をつけられなかったのは、いささか不思議だと感ずる。
わたくしたちが事に当った方言の調査ですら、音韻と語法との二件にとどまっ
たのである。もっとも、わたくし一個の興味として、狂言の言葉や禪僧系統の抄
物言葉などを調べたときですら、より多くの力を、音韻と語法とに注いだことは、
今ものこるノートによってもたしかであるが、それでもかなり語志的部分にも
意を致したのであった。
それはさておき、わたくしの國語調査時代が、上田・松井両博士の大日本國語辞
典の編著の時期にもあたったから、かつその頃は、同時にわたくしの東京高等師
範学校教授の在勤中でもあったから、松井簡治博土自宅の編集室にも一二度入
ったことがあったし、共著者の上田先生からは、その辞典のプランに関して、しば
しば細心の用意を聞いた。かくて昭和七年の秋、三たびオックスフォード見学
をもすませ、又ーたびパリのモンパルナスの墓地に、フランス部大辞典の著者リ
ットレを禮拝したりして帰朝したわたくしは、大言海の校訂を託されて、爾來三
年、自分の辞書修行の道に益したこと、修訂の小効に比してはるかに多大であっ
たことを回想する。
こんな大げさな経過によって生まれたのが、十余年前に博文館から発行され
た辞苑と言苑とであった。次には出版未遂の改訂版辞苑もあった。どれもこ
れも編者によい経験を供してくれ、大辞典を作る道程の手習草紙ともなったあ
りがたい出版物であったことを感謝して、現在も忘れがたい。今さら後れば
せに断わるまでもなくこれら前著の中小辞典は、以上に列挙したところの先行大
辞典をはじめ、同時代における各種大中小辞典に負うた点が少なくなかったば
かりでなく、旧縁ふかき先進の金沢庄三郎博士の名著廣辞林の典型にも参照し
たところがあったことを記憶する。
かくの如くにして十数年をすごした今日、天地一轉の余を受けて、新時代の要
求に應ずるがために全然精神を一新し、主として新法規にのっとりこれ命これ
新たなりとなし、いさぎよく捨つべきものは捨て固より守るべきものは守り、我
見を去り、中正を保つことを期しつつ、語標・語形・語釈等成るべく新旧代謝の過渡
期にも適せしむべくすべてを程よくあんばいし、整理した苦慮は一方ならぬも
のがあったこと前述の如くであるが、利用者の賢察されることと信ずる。わた
くし自身の前著より得た体験なり知識なりを十分に利用し得たことは幸福で
あったが、実質的にも形体的にも、新義新味を、しかも急速に取入れたために、かつ
また印刷技術上にも强行また促進非凡のはなれわざを演じたため、老人として、
そもいかばかり心配したことか、神のみぞしろしめすはずである。
かくの如き経路に由って新時代に即して、わたくしの前著を種種の点におい
て超克したところの言林を社会の急に應じてはなばなしく世に送り出すこと
になったのは、著者が一往の満足である。あるいはイソップ物語で知られる大
山鳴動して鼠一疋のあざけりを受けるかもわからね。言林の完成が昨年の子
の歳にあたり、著者自身が六回目の干支の子年にあたるのが、はなはだ不思議の
因縁だと苦笑もされるが、しかしこの鼠決してただの鼠ではあるまい。著者は
むしろ大山を鳴動させすぎた非難を受けねばならないかも知れぬ。
協力者の第一人者には、辞苑このかたの体験と知識を傾倒しつつ、新時代の言
語の形質二面を注入するに力められた溝江八男太翁を挙げねばならぬ。翁が
編者の指導の下に、その老体の全力を再び、しかも異常な神速さを以て敢行しつ
づけられた努力に対しては、わたくしは涙ぐましき感激の情のこみあげてくる
ばかりで、なみなみの言葉では、とてもつくしがたい。次には、大阪市立大学の國
語学教官浜田敦学士が、京都大学の國語研究室に在勤このかた研究の余力を以
て、言林の新修事業に終始一貫、細大となくよく編者を助成されたことを深謝す
る。もしそれ印刷が進んできた際からは、当用漢字の運用、特に校正技能に練達
せられる雅友栗林貞一氏が、編者に代って、よく補助員および校正員を励しつ
つ、煩雑にして急速を要する仕事を遂行して下さったことに対して敬謝の意を
表する。
何はともあれ、発行者たる全國書房社長田中秀吉氏が、少なくとも京阪地方に
おいては、空前に近い破天荒の大事業に属するこの種この程度の新修辞典の発
行を企て、万難を排し、多大の資力を投じ、勇往果敢、大胆克く編者の小心をはげま
し、機略よく編者の不安を和らげ、ともかくもここまで完遂にみちびかれたこと
は、その意氣の壯烈なる、けだし未曾有の概がある。社内諸君が亡羊のなげきを
もった老牧者に対して諸般の連絡雑務や校正事務を完うされたこと、一一銘記
しかねるが、それぞれ多として忘れがたいものが存する。
最後に、京都にあっては、日本写眞印刷株式会社の社長鈴木直樹氏の厚意、殊に
印刷工場の諸員の献身、東京にあっては、用紙割当事務廳の諸彦ならびに辞典協
会の諸賢の同情と配慮、それら両京の各位が、軍に日本の文運のためのみでなく、
関西の出版文化の向上のためにも寄與された義氣と公平に対しても編者はひ
そかに格段の威謝の念をいだくものである。
昭和二十四年(一九四九年)一月十五日
京都小山居において 新村出
冬ごもり春さりくれば言の葉の
林のみどり色さかえつつ
最終更新:2026年05月25日 09:28