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松下大三郎『改撰標準日本文法』第二章 文法學 第一節 文法學の本質及び諸相

 文法學 文法學は一つの科學であつて言語の構成の法則を研究するものである。
文法學には一般文法學と國語文法學との二種が成立する。一般文法學とは何れの國語といふことなく一般的に言語といふものに就いて其の構成の法則を論ずる。世界の凡ゆる國語に共通普關なる法則の研究である。非常に困難な事業であつてそういふ文法學はまだ一科として完成してゐない。しかし其の成立は可能であると共に必要である。今日の所では國語文法學中にその斷面が現れてゐるに過ぎない。國語文法學は或る一國語に就いてその文法を研究する。その研究は一般文法學的理論の上に成立するのであるから、國語文法學の内部には若干の一般文法學的知識が含まれてゐる。發逹の順序として最初に粗朴なる一般文法學的理論の上に國語文法學が出來、各國の國語文法學の比較研究から一般文法學が出來一その理論の上に稍精緻なる國語文法學が出來、兩者相須つて漸次完全に趣くのである。
國語は變遷と分裂とに因つて文語、口語の別を生ずる傾向が有り、又大抵前代語、現代語の別を生じ、方言、標準語の別を生ずる。されば國語文法墨もその代表的なる現代語、標準語に關するものと一部特殊なる前代語又は方言に關するものと有るのである。そうして單に國語文法學と云ふ以上は一部特殊のものゝ研究でなくその代表的なものゝ研究でなければならない。本書は日本語の現代語、標準語の研究である。但し日本は外國の侵略を被ったことが無く大陸と隔たつて居つたことと、文語が口語から獨立して居つたことから文語に於ては古より大した變化がない。用語や行文の上には著しい變化が有つても文法の上には格別の變化がない。彼の英語などの古代英語、中世英語、近世英語といふ樣な區別が有つて一見別の國語かと見える樣なのとは違ふ。古代文法は大鱧現代文法中に含まれる。されば本書は文語としては現代文法を説くのみならず古代文法をも説くものである。


 文法學と廣義の言語學 凡そ言語の研究に關する科學は皆廣義の言語學である。文法學、聲音學、文字學、修辭學及び狹義の言語學の如きものが皆それである。狹義の言語學は言語の發生、變化、分裂等を論ずるもので世間では之を單に言語學と稱してゐる。此等の諸科は廣義の言語學の對象を論理的に分類して立てπものではなくて或る必要上から自然に生じた分科であるから、
現今世に存する言語學的諸科學は廣義の言語學の全都ではなく、又嚴密なる並列的概念に立つものではない。將來必要に應じて諸種の言語學的學科が生ずることであらう。
廣義の言語學が或る一國語に關する研究である場合には國語學と稱せられる。國語學は國語に關する諸科の總稱である。その中に國語文法學、國語音韻學、國字學、國語修辭學等が有る。しかし其れらだけでは國語學的知識は盡されない。そこで國語學概論なるものが國語學全體の總論的學科として成立し、又古今各學者の國語學的研究を綜合して之を批刳し正富なる研究の途を啓くために國語學史が成立する。


 文法學と科學 文法學は科學である。然らば科學とは如何なるものであるか。科學に如何なる種類が有つて文法學が科學の如何なる種類に鵬すべきものであるか。之れらの問題を考へる必要が有らうと思ふ。
科學は學問であり學問は知識である。學問は知識であるが知識が全部學問なのではない。理論的過程を踏んで到逹した知識が學問なのである。例へば蟲眼鏡で物を視れば大く見えることを知つても其れだけでは學問ではない。光の屈折作用が分つて飴めて學問である。歴代の年號や桑國か府縣名や辭書を暗誦しても、その間に理論的連絡がなければ學問ではない。單なる記憶である。
學問は全部科學なのではない。科學とは學問即ち理論的知識の多數が體系的に統一された一團を謂ふのである。字義より言へば科學とは一科の學問であつて、科とはその體系的一團を指すのである。蟲眼鏡は光の屈折に因つて物を大きく見せるといふ知識は科學の材料にはなるが科學ではない。、其れら種々の理論的知識が或る體系に統一されて光學とか顯微鏡學とかになれば其處に一つの科學が成立する。
科學の中には歴史、地理などの樣な特殊的現象の研究であつて直に他に應用することの出來ないものと、物理學、心理學などの樣な一般的現象の研究であつて直に他に應用することの出來るものとある。前者は具體的科學で後者は抽象的科學である。文法學の説く所は如何なる場合にも應用が出來る普遍性を持つてゐるから文法學は抽象的科學である。
科學の中には宇宙の崟現象を統一する絶對普遍的なる根本法則を研究する哲學と宇宙の「部現象の問にのみ妥當なる相對的法則を研究する分科學との二種がある。文法學は勿論分科學である。
科學の中には人間の精騨の力に基く諸現象を研究する人文科學(廣義の文學)と自然現象を研究する自然科學(理學)との二種が有る。文法學は勿論人文科學である。
科學にはその研究の態度に理論的と記逋的とある。理論的とは諸法則を統一する大法則を求めることを目的とする態度を云ひ、記蓮的とは諸法則の各を漏さずに知らうとする態度で、この二態度に由め前者からは理論的科學を生じ、後者からは記述的科學を生ずる。例へば哲學、數學、引力説、量子論、電子論、進化論、相對性原理の樣なものは前者に屬し、普通行はれてゐる天文學、動物學、植物學、物理學、化學、心理學等は後者に屬する。勿論兩主義を兼ねた科學も成立する譯である。そうして多くはその研究の對象の如何に由つて態度を餘儀なくされ易い。動物學の全體系を理論的態度で研究するZとは容易なことではない。勢として記述的になる。進化論の樣なものは出來ても動物學の凡ゆる問題を詳説することは困難である。文法學の如きも今日世に存するものは大鱧記述的である。理論的文法學はまだ不完備である。一般文法學が完備すれば理論的文法學としてでなければならないが、其れは可能であるだけでまだ完備してゐない。本書は國語文法學として理論的蒹記述的の態度で進まうとするものである。
科學研究の態度に説明的ど軌範的とある。是に由つて説朔科學と軌範科學とが生ずる。凡そ事物の法則には必然の法則と當然の法則とある、.必然の法則とは必ずそうある法則て白然科學の法則などはそうだ。氷を熱すれば必ず水になる。この法則は背くことは出來ない。當然の法則とはこうなくてはいけないといふ法則で倫理學などでいふ法則の多くはそうなのだ。子は親に孝でなければならない。但も不孝な子は有り勝だ。この法則は背くことが出來る。必然の法則を説明しようとするのが説明科學で當然の法則(即ち軌範)を立てようとするのが軌範科學である。この説明的態度と軌範的態度とはその學科に由つて.餘儀なくされ易い。例へば自然科學の研究に軌範的態度は取り憎い樣に見える。しかし説明的と軌範的とは實は研究の態度であつて科學そのものゝ區別ではない。倫理學でも道義律に服從せよと主張するから軌範科學になるが、道徳は人問社會の一現象であつてこれに由つて社會が維持されると説明すれば説朋科學である。氷は熱すれば水になると云ふから説明科學であるが、氷の貯藏は不導熱體で包まなければいけないと附言すれば軌範科學になる。所が科學そのものは知識である。命合ではない。故に科學は本質的には全部説明科學である。軌範科學は説朋科學に意志の作用が加はったもので、その本質には變うはない。科學の目より觀れば軌範科學には意志といふ不純物が加はつて居るのである。
しかしこれは科學の本質を言ふのである。その運用は別問題である。科學が本質だけで運用が無いならば科學は要らない筈である。人間の生活に必要であるから科學の存在に意義が有る。その點に於て科學は單なる知識であつてはならない。科學は道を學ぶ所以である。人間生活の道を學ぶ所以である。贍その遘を學ぶ所以の道具をその運用から抽象して科學と名づけただけである。
文法學は世人から軌範科學とのみ思はれてゐる。しかしこれも説明科學として成立し得る。「始めたり」「捨てたり」といふべきを「始めり」「捨てり」と云つてはいけないと説けば軌範科學になる。
「始めたり」「捨てたり」といふのが一般の語で「始めり」「捨てり」といふのは文語を知らない人の問に往々行はれる特殊の語であると説けば説明科學になる。方言の研究、小兒語の研究等は説明科學たう・易い。標準語の研究、文語の研究等は説明科學にもなるが、多くは軌範科學遼う易い。本書は努めて説明科學的態度を取少、必要に應じて隨所に軌範科學的態撲に及ぶ考である。

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最終更新:2015年07月19日 12:50