http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1225783/34
第二節 文法學の體系
文法學の基礎概念
凡ゆる科學には墓礎となるべき概念が有る。例へば哲學に於ける宇宙、認識、眞實體、現象、眞理、法則の類、物理學に於ける物質、塞間、時間、力の類、數學に於ける數、プラス、マイナスの類、幾何學に於ける塞間、點、線、面の類がそうだ。文法學に於ても多數の聽礎概念、準墓礎概念が有る。その主要なものは、
物と法則
抽象と具體
直觀と思惟
客體と歸著性
内包と外延
原則と例外
内面と外面
主觀と客親
實體と運用
絶對と相對
一般と特殊
實質と形式
主體と作用
本體と艢性
獨立と從屬
等の類である。此等の諸概念が明確でなければ文法學の研究は出來ない。
此等は文法學の攻道具である。我が國の文法學の初期に於ては此等の諸概念が多くは朋確でなかったつ喰最も鮮だったものは體用(實體と運用)の概念で、これに由つて體言、用言の別が考へられ、その全文法學の基礎を成した。支那の國語學では虚實(形式と買質)の概念が著しかつた。これに由つて虚字、實字の別が立てられた。西洋の文法學では幾多の基礎概念がずつと明確であつた。日本の文法學の第二期は西洋の文法學を楡入したが、その誤用が多かつカ。現在は第三期として本質的な研究期に入わつゝある。
右に擧げた諸概念は多くは他の科學と共通のものであるから學問上の常識である。今此等の意義をこゝで説朋しても善いが便宜上必要の箇所で一言することにして此處へはた団名稱だけを擧げて澱く。
文法學の範園
文法學は説話の構成に關する言語の法則を論ずるものである。然るに言語は聲音、文字を記號として思念を表すものである。そ之で聲音、思想、文字の研究は文法學の範圍に屬するかどうかといふ問題が生ずる。聲音其の物の研究は聲音學の任務である。言語は思念の記號に聲音を用ゐるが、聲音其の物は言語ではないから聲音其の物の研究は文法學の一部ではない。しかし言語は聲音に對して聲音學的音價以外別に特殊の音價を附與する場合が有る。其れ故言語に於ては動もすれば音の取扱が聲音學と違ふ。例へば『し」といふ音は聲音學的音價は。。ぼ(廿)であつて儀ではないけれども言語は之に。・一としての音價を認め「し』のず行に對する音價關係を「き」の力行に對する音價關係と同一に取扱ひ、そういふ取扱のもとに動詞の活用が成立してゐる。例へば「推さ、推し、推す、推せ」の變化が「書か、書き、書く、書け』の變化と同一理由に由つて生じて居る類である。こういふことは國語の研究上重要な問題であるにも拘らず自然科學的なる聲音學では説けない問題である。
然るに文法學でこの問題を論ずべきかといふに、文法學は、言語として既に出來て居るものに就いてその説話構成の法則を論ずるものである。だとへ言語の材料になつても聲音そのものは言語ではないから文法學で論ずべきものではない。彼の特殊なる音價の研究としては文法學以外、聲音學以外斗別に國語音韻學の成立が可能である。
思念は心的現象であるから其の研究は心理學の任務である。しかし言語は思念を内面として成立するものであるから、言語の内面としての思念、即ち音の心象に結び附いた思念の構成は渦文法學の對象として最も重要なものである。「雁思念だげを論ぜずに一者の心象へ結パ附いたものを論ずる點が文法學に特殊であるだけだ。
文字の發生變遷の研究は文字學に屬する。しかし文字の用法が分らなければ、聲音語を文字語化することが出來ないから談話は出來ても文章は作れない。そうして見ると、、聲音語の法則が語法であつて之へ字法を加へたものが文字語の法則即ち文法だと云へる樣に見える。我々も久しくそう思って居った。しかしそれは誤であつた。
文法とは説話の構成上から觀た言語の法則である。言語は音の心象へ意義の結び附いた毛のを主觀的要素とし、それが其のまゝ聲音に發せられ、或は文字に書かれてゐることを客觀的要素とする。文字は聲音の代りてあるから、音の心象を喚起するとしては聲音と等しい效果であるゆ文章に用ゐられた文字は圖形としての文字ではなくて聲音としての文字である。文法は文字をも聲音として取扱ふ。即ち文字を以て、聲音を代示する圖形と親ずに圖形に代示された聲音と親るのである。
されば文字の用法といふやうなものは文法の一部ではない。丈溝は既に文字で書かれてゐ惹ものを言藷と靦るので塙どういふ方法て書かれて居つてもそんなことは干知しない。例へば「山高し』、「やま高し」「也痲高し」の「山」「やま」「也麻」は書き方は違つてゐるが文法では等しく名訶と視主語と靦る。
文字を以て言語を寫すには其の問に法則が有る。之を字法と名づける。字法が文法の一部でないとすれば別に字法學といふ一科を要するゆ日本字法學は日本文字學の一部としても成立するが、又日本文法學の季弟としての地位に立つものでもある。
文法學の部門
文法學の部門は次の表の如く分たれなければならない。
これに由つて本書は文法學を次の六編客收めた。
第一編 総論 第二編 原辭噛 第三編 詞の本性
第四編 詞の相 第五編 詞の格 第六編 詞の相關(文章論)
この部門の分ち方は從來の主義とは少し違ふ。從來の分ち方は不備な點が有ると思ふから改めわのである。その理由は逐次下に述べる。
總論と各論
總論は文法學の奈般に關する一般的事項を論ずるものである。その中には各論を導き出すべき豫備的知識と各論を統一すべき綜合的知識とが含まれる。從來の文法書は西洋も日本も總論を各論と對等なる一部と認めなかつたが、文法學の全般に關する一般的諸問題は澤山有るのであるから一門を設ける方が體系を完備ならしむる所以であると思ふ。
總論に於て論ずべき事柄は次の表の如くである。
①から②が導かれ、②から働が導かれ、0から④が導かれる。そうして之を統一すれはωと⇔、ωと④、②と紛と並列する。
これらの諸問題が論ぜられて始めて各論が導き出され且つ統一せられる。各論は文法學のそれぞれの部分の詳論である。一般的事項は總論に於て論ぜられても部分に特殊なる問題は別々に論ぜられなければならない。
原辭論と詞論
文法學の各論は原辭論と詞論の二つに分たれる。
原辭論は原辭の單獨の性質と相互の關係とを論ずるものである。例へば「花」といふ原辭は其のままて一詞となる場合と「さくら花」「花見」などの樣に他の原辭と結合して一詞となる場合と有るとか、『山」といふ原辭は「高山」「山脈」などの樣に他の原辭と結合して連辭となれば一詞となるが單獨では一詞とならないとか、「行く」「たり」などの原辭は「行か」「行き」「行け」、「たら」「たる」「たれ」と變化するとか云ふ樣なことを論ずる。
詞論は大體に於て西洋文典に所謂る詞性論(国蔓8。一。09同)と文章論(むΩ闇暮舞)との二つを合せていふのであつて、即ち詞の單獨の用法や相互の關係を論ずるものである。「入」といふ詞は名訶であるとか、「行く」といふ詞は動詞てあるとか、「人を」と「人に」、「行く」と「行け」とは用法がどう違ふとか、「人」や「行く」は其のま\では一斷句にならないが、「然わ」は「詞でをのまゝ.一斷句になるとか、「人行く」の「人」と「行く」との關係、「花を見る」の「花を」と「見る」との關係はどう!、あると.か云・ふ樣なことを論ずる。
言語は凡て原辭、詞、斷句の三階段を踏んで始めて説話となるものであるから、文法學は原辭論、詞論、斷句論の三者を併せたものでなければならない。然らば文法學の分科を原辭論、詞論、斷句論の三つとしたらばどうかといふ疑が生ずる。しかし斷句論といふものは要らない。なぜかと云へば漸句は單詞又は連詞より成るものであつてやはり詞である。長い斷句は勿論連詞であるに
相違ないがやは∬≒ρの詞である。唯單詞でないだけである。要するに詞てない・斷句は存在しない。其れ故斷句論は詞論の中に含まれる。斷句論を獨立ざせる必要はない。詞が斷句になることは詞の一性質力るに過ぎない。然らば一説話中に置ける斷句と斷句の關係はど5するかと云ふと、それは直接の關係ではない。唯その表す意義と意義とに關係が有るだけで言語としては何等直接の關係はない。勿論間接の關係はあるが其れは總論に於て一言すれば濟むのである。第三頁に一言して置いた。各論に於て詳説すべき何等特殊の點がない。
斷句論は詞論の中に含まれるが、詞にはまだ斷句になつてゐない詞があるから隔詞論は斷句論をも含み且つずつと廣いものである。
詞は原辭よめ成るが、其れは單詞のことであつて、連詞に至つては詞より成るのである。其れ故詞論は原辭論には含まれない3又原辭にはそのまゝ詞となるものとそのまゝでは詞にならないものとあるから、原辭論は詞論には含まれない。詞論と原辭論とは各獨立の必要があるつそういふ譯で文法學の分科は原辭論」詞論の二つと云ふこと「になるのである。
詞論は文法學の最も重要な部分である。そうして詞論は更に詞の單獨論と詞の相關論とに分けられる。
詞の單獨論と相關論
詞の單狽論は詞の單獨に有する性能を論ずるものである。其の詞が單詞であつても連詞であつても其れに構はず其の詞の全體を代表する性能を論ずる。,唯連詞中に於ける詞と詞との關係は論じない。其れは別に詞の相關論が.有る。Ψ
詞の單獨論は詞の相關論の豫備ともても必要てあるが、詞の凡ゆる用法は、他詞との統合に關係が有つても無くても其の詞をして異なる状態に在らしめるから、此等の意味に於て單獨論自己としての立場に於ても必要である。
詞は其の性質に由つて其のまゝ斷句になるものと其のまゝでは斷句にならないものと有る。又其の性質に由つて相異なる斷句を構成する。其れ故詞の性質が剣れば斷句の性質が剣る。慨の意味に於て斷句論は要らないのである。
詞の相關論は詞が他の詞と結合して連詞を講成する其の相互の關係を論ずるものである。「花が散る」といふ連詞を構成してゐる「花が」と「散る」とは上者は作用の主體を表し下者は作用其の物を表すとか、「花を見る」といふ連詞では上者は作用の客體を表し下者は作用其の物を表すとか云ふ樣な相互の關係を論ずるのである。
詞の本性論と副性論
詞の單獨論は、詞の運用を、他の詞と關係せしめずに單獨に論ずるものである。詞の運用はその内面は詞の性能で外面は性能を保持する聲音であるが、詞の性能には、其の詞から常に離れない其の詞に固有なる本性と或る場合にのみ有する副性との二種がある。例へば「人」が事物を表示し「行く」が作用を敍述することは「人」といふ詞「行く」といふ詞の本性で、『人が」が作用の主體を表し、「人を』が作用の客體を表すといふ樣なことは「人」といふ詞の副性である。性能に此の二種があるから、・詞の單獨論は詞の本性論と詞の副性論との二部に分たれる。
相の論と格の論
詞が連詞又は斷句の中に用ゐられた場合に其の詞には連詞又は斷句に對する立場が有る。例へば「月出づ」「月出でき」の「禺づ」「出でき」は自己が其の連詞の代表部となり意味が終止して獨立する立場に在る。「出つる刀」「出でし月」の「出つる」「出でし」は其の連詞中に於て月に從屬する立揚に在る。詞の副性には此の連詞又は斷句に於ける詞の立場に關係しないものと關係する庵のとの二種有る。今「出づ」と「出つる」とを比較して見ると其の連詞中に於ける立場は違ふにも拘もず、其の動作を現在として表す點は變らない。「出でき」と「出でし」も立場は違ふがその動作を過去として表す點は變らない。そういふ樣に立場の相違に拘らない性能を縱の性能として之を相といふ。
現在とか過去とかいふ樣なことは相の一つである。所が『出づ」「出でき」は終止格と稱する用法であつて連詞の代表部として獨立終止する立場に在るべき性能.を持ワて居ム、「出つる」「出でし」は連體格と稱する用法であつて遮詞の從屬部として他語の上に從屬する立場に在るべき性能を持つてゐるゆこういふ樣に連詞中隶於げる立場に關係する性能を横の性能として格と名づける。そこて副性論は相の論と格の論との二つに分たれる。
從來の部門
歐洲文典の二部門 歐洲文典は多く詞性論()、文章論()の二分科を立てゝ居る。即ち詞の單獨論と詞の相關論とであつて原辭論といふものが無い。これは歐汎語に原辭といふものが豐富でない僞に原辭論が閑却されたのである。歐洲文典の詞性論、文章論は單獨論、相關論であるべき筈である。然るに西洋文法學は「詞」といふ語の解釋が徹底しなかった。即ち「詞」といふ概念が單詞にのみ鮮て連詞に對しては不鮮明である。繭面連詞も詞であるといふ考を持ちつゝ多くの場合に之を忘れて居る。その結果は連詞の詞性を詞性論で説かずに文章論で説く奇觀を呈してみる。連詞が斷句になるかならないかの論は連詞の詞性論の一部でなければならないのに、其れを文章論で論じなければならなくなつた。その爲に文章論は詞の相關論であると考へつゝも斷句の單獨論をも兼ねる樣な矛盾を來した。
日本文典の二部門 日本の文法學はまだ歐洲文法學の著しい影響を受けなかつた時代を第一期とし、歐洲文典の影響を著しく受けた時代を第二期として善いと思ふ。第二期の文法學は多くは單語論、文章論の二部門を立てゝゐる。この單語論は西洋の詞性論()を取つた績ムであるが其の實違ったものである。西洋の詞性論は詞の單獨論であるが、日本の單語論はそうではなくて源辭論的である。第同期に於ける體言、用言、助辭の論は純粹なる原辭論であるが、第二期に於ける單語論も本來は原辭論である。名詞、動詞などゝいふから外觀だけは詞論の樣に見えるが、その所謂る詞なるものが西洋文典に所謂る詞といふ概念の表示ではなくて原辭といふ概念である。故に助詞、助動詞なども詞とされてゐる。助詞、助動詞などは單獨性を缺くから西洋文典に所謂る品詞の中ではない。しかし單語論は強ひて詞性論たらしめむと努めた形跡がある。例へば接頭語、接尾語を品詞外に置いた所などは其れである。原辭といふ名稱を用ゐなくても原辭といふ考が有るから接頭語、接尾語を品詞へ入れなかつたのである。その詞性論たらしめむとした努力は多少成功してゐる。それは「花」「月」「嘆く」「出づ」等は原辭であつてもそのまゝ詞になるものであるから、「花」「月」が事物を表すことの説朔は原辭論でありつゝも一面詞論を兼ね得て、從來無かった詞論を作った點である。けれども原辭論を以て詞論を繋ねしめては文法學の體系は整はない。即ち原辭と詞とを混同するから文章論に於て一語と見られない助辭、助動詞などを單語論では一語と見る樣な矛盾を免れない。
最終更新:2015年07月19日 19:11