正宗敦夫「萬葉集總索引編纂事情」

萬葉集總索引の編纂を思ひ立つたのは明治四十三年五月である。之れより先、國歌大觀が出版せられた頃の事である。同書が如何にも歌學研究上に便利であるのに刺戟せられて、敕撰集よりは家集類の索引を編輯したならば日頃目にふれぬ書だけに一層有益で有らうと考へて、其頃は歌學に熱心してゐた頃で有つたから、先づ歌仙家集、六家集さては歌合部類のやうな物の歌の五句索引を編纂しかけた。やゝ仕事が進行してゐた頃で有つたと思ふ、續國歌大觀の豫約募集が發表せられたのは。是れはつまらぬ事であつた。人が幸にも大體同じやうな本を出版して呉れるならばカード整理だけでも大變の事で有るから、其本を購求して自分の仕事は中止するのがよいと早速力ードは捨ててしまつた。(今思へば惜しい事をした物で、其から續國歌大觀は本文篇が三冊出てあとは中々出來ず、近年改めて出來た本は五句索引で無いから役立たぬ場合が多い。人の仕事の結末を見ぬ間にカードを捨ててしまつたのは若い折の無分別であつた)其で何か自らが田舎にゐて出來る相當の事業は無いか、何か見付けたい物と考へてゐた。其の考案中に萬葉集辭典もあつた。

明治四十三年私の歳は三十歳の五月に上京し本郷の友人の許に一泊して其から出かけた折に方角を誤つて大學の前へ出て來た。よい序で有るからと思つて大學の國語研究室に立寄つて橋本君に逢つて歌文珍書保存會の話をしたり、續國歌大覿の編纂を中止した事、其から一つ畢生の事業として萬葉集の辭典を編纂して見ようかと思ふなど談した。私は若い時から萬葉集がすきであつたが、世間は其頃まだ萬葉は餘り流行してはゐなかつた。私の趣味から萬葉辭典が著はしたかつたので今日の如く賓れさうだからと云ふ氣では無かつた。處が橋本君の説に、辭典を編纂するにした處で、完全な索引が無ければ良い辭典は出來ない。むしろ索引を編纂してはどうか、根本的な仕事で天下後世の爲にもなるがと勸められた。一つ其をやつて見ようかと云ふ氣に成つて、若い折の事とて畢生の大事業を極めて簡單にきめて橋本君に編纂の樣式方法の考案を立てて貰ふ約束をして歸つた。橋本君は其年の夏休みに房州の海邊に避暑して組織體裁に對する立案をして送られた。其から度々指導と教示を受けつゝ此の事業に專念した。事業の進むにつれて此事業が國歌大觀式に簡單に行かぬ事が知れて來て、己が知識にも大なる缺陷が有る事が知れて來、參考書も大に不足する事が知れた。是は大變だ、私の仕事には荷が過ぎたなと考へられて來たが、然し多少間違つてゐても出來さへすれば其れで用は便ずるので有るから、正確な點は脱落の無いと云ふ事を第一にして進めば、分類上の誤は有つても漢字篇で檢索すれば出ては來るから、ともかくも一々本集を盲探に捜索するよりは極めて樂に探り得るからと思つて進んだのである。或友人は無用の仕事ではないが其れは金さへ有れば極めて簡單に出來る事業である、其んな仕事に從事するよりは今少し力の入つた仕事をした方が賢明だ、一生が惜しいではないかと注意してくれた。今一人は仕事が存外大きいから遂には困りはせぬかと云つてくれた。又反對に森鴎外先生は極めて此仕事の有意義である事、西洋にも類稀なる事業で有るが沙翁の物には其に類せる索引が有る。萬葉は訓と云ひ文字の用法と云ひ一通でないから並大抵の仕事ではないが、其れだけに索引の必要も有るので我國上代文學の研究には極めて必要で根本的の仕事で有る、是非成功するやうに努力するがよい、出版の如きは又何とか工夫が付く、自分も考へて置かう、仕事は專念にやれと云ふやうに勵まされた。又山田先生も其編纂をいたく悦ばれて一々に教へられた事は少々ではない。斯くてともかくも餘暇を利用して事業は進んだ。いよ/\カード整理を大略了したと云ふ時に成つて、父の關係してゐる銀行が破産した。其れは大正十二年暮春の頃であつた。父が老身なる爲と、頭取が病氣してゐた爲とで餘儀なく私は二三ヶ年を此整理に沒頭せざるを得なかつた。やゝ銀行の整理が片づいた大正十四年の秋頃から與謝野寛先生の勸めによつて先生と共に日本古典全集を編纂するやうに成つた。大正十五年一月に井上先生の萬葉集新考を國民圖書株式會社から出版させる話を與謝野先生と私が井上先生にした。其時に與謝野先生が私の索引を出版する事にして新考と共に豫約募集をすればよいと云ふ計畫を立てて井上先生とも相談が調ひ、國民圖書の方も悦んで引き受けた。其處で私の方は急に原稿の清書をせねばならぬ必要が生じて來た。私は古典全集の方が忙しかつたから與謝野先生の御世話で慶應大學を出た河野道明君に來て貰つてカード整理の殘務と原稿紙への筆寫をして貰ふ事とし、一方親族の岡田眞君と息甫一をして清書を手傳はせた。十二月に大體完了したので河野君は東京へ去られた。其から橋本君と相談の上森本治吉君に一應目を通して貰ふ事にした。分類上の疑義が多く遠方では一々橋本君に相談も出來す、私は忙しい、約束の時までには中々原稿が出來上りかねるからである。處が昭和二年の初冬かと思ふ,いよく國民圖書株式會肚が新考出版豫約募集を取きめる折に成つて社長の中塚氏が多少索引に不安を感じてゐるやうなロ吻が有つた。實は私は本書と新考とを合併豫約をした爲に新考の賣行が悪いやうな場合が生じたらば井上先生に濟まぬと考へてゐた時で有るから、中塚氏の口振を聞くやいなや、是れは切り放して、新考だけの募集にさすに及はなしと考へて與謝野先生同道にて中塚氏を會社に訪ひ其了解を得、直に余は井上先生を訪て其旨を通じた。先生は索引出版の困難なるを以て此際出して置いた方がよからう。公刊の時が又來ぬと困るではないかと惜まれたが、私は其の心配は無しと云つて分離出版と決定した。斯くて私は少しは氣が.樂になり原稿整理も無理をする必要も無くなつた。其から森本君は段々整理上の疑問を持ち出されて橋本君と相談し給ひ、又私と協議した。同君は冬の休暇にわざ/\私方へ相談に來てくださつたりなどした。一應同君の異見も添へられて原稿は私の方へ歸へつた。其から妻の貞子と息甫一とが私も暇ある折は手傳つて此原稿を本にして底本に當つて一々有無を檢し、探録せるは一々に底本を消して行つた。最後に全部を引きてしまつて、全部の消えてゐるか否かを調査をした。たま/\消し殘れるは又索引の原稿を調べて、いよ/\脱落せるを補ひつつ親子三人で幾囘となく底本を檢した。見落しは次々に發見せられて先づ脱落は無いと云ひ得るまでになつた。是れは案外に手間の入る仕事で有つた。一方國民圖書株式會社と談を切つてから誰か相當の出版書肆を見付けたいと考へてゐた折に、古典全集の出版者長島豊太郎君が同店にゐた石井貞助君をして白水社の福岡易之助氏に相談してくださつた。妙に談が進行して私も福岡氏を鎌倉に訪問して原稿を御目に懸けて近く出版にかゝらうと云ふ迄に成つた。私は原稿を毎日整理してゐた。處が福岡氏の方の談がゆるぎ出したからむしろ原稿保存の目的で自賓出版をする決心を立て、活版等の見積をさせたりなどした。實は直ちに出版する積りで粗悪な原稿用紙を用ゐたので引合等にくり播げ繰り繙げて既に原稿用紙の折目なぞは切れてしまつてとても保存する事も出來ず、又寫すにも獨りで仕事をすれば二年以上を要するから大に決心せざるを得なかつたのである。いよ/\昭和二年夏頃から私が專心に原稿に目を通して改訂に從事した。自費出版の決心が付いたからで有る。白水社の方の談は一時中絶が断絶と決定して福岡氏からも手紙が來たので私も其の積りでゐたが日ならずして又出版すると云ふ談が持上つて店の人が私方に來てくれた。其が昭和四年三月二日で有つた。其から談が急に進行して四月に豫約募集する事になり、三月廿三日に此度出版の主任石田貞一郎君と森本君が内容見本の件で來訪、石田君は一泊して歸られ、私は森本君と同道二十六日出發上京の途に就いた。斯くて豫約募集の廣告を出し見本を配布して一先づ片がついた。私は歸宅して本文篇の頭註原稿の作製と原本手入れを急いだ。手入れのしやすい點から先づ下卷を先にして昭和四年七月に配布し、次に上卷を十月に配布した。單語篇原稿の手入れと校正とは懸命に努力したのであるが何分にも組版困難なると組版の工揚が準備不足で一向進行せす、殆ど中絶の姿と成つたときも有つた。私は氣が氣でない、上京して協議すると云ふ有様であつた。遂に中途より工場を變更して凸版株式會社が組版を引受けてくれたから事業は直ちに進行した。出版が大變に遅延して讀者諸君に申譯が無いので年内に配本さす積りで校正を急いだ。今一校の處を責任校了とした處が其が爲に誤植が多くなつた。殊に太字の文字は不足勝で初校はもとより二三校にも伏字が多い、之れが爲に遂に提出の太文字には案外に誤植が多い。之れは又本書使用上甚だしくよくない事で本書の價値を減じ、天下後世の學者を誤る事となる。其處で此度の漢字篇原稿で一々檢査して正誤を作製して卷末に添へた。其れによつて標出の文字の誤だけは必す訂正を行ひたい。其他に附訓の誤植や本文の誤脱は有ると思はるゝが本日までには其を謌査する暇が無い。斯くて昭和五年の十二月中に刷らして一月早々配本に成つた。其から漢字篇・丁數篇・諸訓説篇の原稿清書引合せ等をして大略組版も出來た校正も漢字篇以外は大體に出來た。何れ此度は先度に懲りたのと配本を急ぐ爲に上京して校了にする考へで有る。
私は人間は先づ五十歳を目安として置く、其以上の命が有れば其人の幸輻である。自然仕事の目安は五十歳に置く。是れが私の若い時の心積りで有つた。丁度私は本年の十一月で満五十歳に成るので有つて此書が正に讀者諸君の許に到着する時かと思ふ。私の目安にした歳が來て、事業は不出來なれど諸君援助のもとに完成した。私は是からの餘りの年を俗事に煩はさるゝ事なく學問と著述に專念したいと思つてゐる。
本書は前述の如く橋本君が考案と指導によりて出來たので有る。又山田先生にも一方ならぬ御面倒をそなへた。又森本君は自らの著述のやうに骨を折つてくださつた。本書がともかくも出來上つたのは以上三氏の御蔭である。外に河野、岡田の二君が有り、大正十五年以後息甫一は編纂に校正に從事した。又石田君は常に出版上に全力を盡してくれた。是等の人々の力で本書は完成したのである。又井上先生は推薦の辟を執筆し給ひ、出版に就ては木村自老君が有る。此人が無かつたならば本書の出版は如何に困難で有つたらうと想像にかたくない。以上の人々に私は謹んで感謝の意を表する。斯くて完成喜悦の心の中に遣憾極まりないものが有る。其れは森鴎外先生は本書編纂中に白玉樓中の人となり給うた。福岡君も單語篇配本後程なく故人となられた。然して本年七月十八日に石田君は本書の完成を見ずに遂に彼の世の人となつた事で有る。

筆を擱くに當り一言しるして置きたいのは本書の扉及び背の書名は父が筆を執りて書き給うた。父は先年から中風症ですきな筆も執り難いので有るが、つとめて書き給うた。此の書の完成を見給はゞよいがと常に私の心に懸つてゐたので有るが、今も其頃と大した變化もなくおはする事は一家の幸である。裝釘は弟得三郎が書いてくれた。

  昭和六年十月十一日
                   正宗敦夫

追記 音讀は一定の形を定めて讀んだ爲に不便であるから漢音・習慣音から引ける索引を附する旨單語篇凡例七頁に云つて置いたが、漢字篇に據らるれば直ちに知り得らるるから其必要が無いので之を省畧した。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2015年09月23日 10:10