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宮地直一「伴信友翁の遺蹟を訪ねて」

伴信友翁の遺蹟を訪ねて
                                   宮地直一
 思出多き北陸の旅路の末、波靜かなる若州小濱の津へと志したのは、昨年八月の初め三伏の暑氣堪へ難き九日の午後であつた。來て見れば左程にもないこの小濱の小天地、何すれぞ我が學びの道の大神逹の、恩頼に預ることの深くして且つ大なる。本居派の驥足として國語學界に不朽の功を立てたる妙玄寺の義門法師も此の地の産に係れば、近世考證學派の泰斗として四大人と併稱せらるゝ伴州五郎信友大人も亦此の所の竹原的場前の邸に呱々の聲を揚げた一人であつた。而してともに骨を故郷の土に埋めて、その流風遺澤は今猶ほ人心に新たなる何物をか感得せしめずんば止まざらんとしつゝあるのである。停車場に降立つて目指す先はいふまでもなく伴翁の遺蹟にある。豫ねてからの通知のまゝに翁の曾孫にして現小濱紳社(舊藩主酒井侯の租を奉祀し現に郷社たり)社司たる信興氏や、曾て東京に遊學中に見識れる八幡神社々司渡邊氏等に導かれて、幾つの大路小路を迂曲し、幾組かの海水浴客と思ぼしき男女の群を送迎へた後、一行の車は青葉茂れる故城の跡一基の明神鳥居の側へと下された。此處はかの小濱城の舊址で現に小濱神社のある所、左側の社務所と之に續ける一棟とは、當主信興氏の假住居といふ。社頭に一拜の後座敷に請ぜられて先づ床間に額づけば、温容迫らざる故翁の畫像さながらに生けるが如く、その深い/\溢るゝ許りの親しみの情の中に凜乎たる權威の自らに具はつた風貌を仰ぐにつけても、思ひはいつしか往年のことに馳する。思ふに翁は人格の最も圓滿に發達した人である、恪勤砥礪、身を持することの極めて嚴肅であつた一事は今更いはず、曾て加納諸平に贈つた書状によつても知らるゝ通り、皇國の學風には師弟の別を立つる要なしとして、贄を執り門に入らんとする數百人の特志者を悉く謝絶した高潔なる心ばせの如き、將た或る人の花見を勸めたに對して、
  いにしへの野中ふる道たどる身は
         花に心のつかぬ頃哉
とも、又
  行きて見ぬ人はあらしの山櫻
         花と文とはいづれまされり
とも詠じて、花鳥風月の交を餘處に只管讀書三昧に沒頭した學に忠なる態度の如き、時流に卓越した識見の數多き中にも、國學者の陷り易き古學癖や、動もすれば尊大氣に見せんとするけはひの毫末も痕を留めないのは、誠に心ゆかしき限であつて、一個の小濱藩士伴州五郎信友として七十有四年の生涯を押通された衒氣のない面目は羽織袴姿の好々爺たるこの影像に躍如たるを覺ゆるのである。その堂に昇り室に入つてその人を思ふ、果てなき感想の群がり湧來る中にも、たゞ一つ我れ人ともに心足らず思はしむるは、翁の遣物の現にこの所に殘れる庵の極めて稀にして、それさへ保管の方法充分ならず加ふゐに翁の誕生地は數丁を隔てたる他處にあるが爲めに遺物と遺蹟とによつて與へらるゝ感化の滿足に功を奏し難き憾あることである。小濱の町民はかゝる郷土の偉人に對して適當に顯彰の方法を講じ得たものといひ得るであらうか。かの鈴屋翁の舊址の立派に修理せられた擧に學ぶ所なくして可からうか。天地の正氣の鍾まれりと頌へらるゝこの秀靈の境にも、人の努力に俟つべきものは、蓋し鮮少ならぬのである。畫像を前にし、遺著や遣品を側にして、目のあたり翁の血の通へる信興氏と對しつゝ暫し文化文政時代の夢路を辿れば、感興止めんに由なく、此處に到る日の餘りに遲かつたを悔ゆるの外復餘念あるべくもない。名殘の夢はまだ醒めざれども、日の漸く西山に傾かんとするに打驚かされて再び車上の人となれば、車夫は今日の目的地たる信友翁の墓所へと急ぐ。此處は小濱町の南に接する今富村字伏原の區内で、その山麓に立てる曹洞宗發心寺の彊域こそ、この學界の大偉人が永久の眠に就ける奥津城の存せる所である。丘に沿ひ、城壁とも見紛ふ許りの嚴かめしき白壁を廻れば、道は自らに一宇の山門に通じ、發心禪寺の佛殿へと吾人を導く。本堂を右にし、廻廊の途中より左に折れて後庭に入れば、小丘屏風の如くに立ち廻りて、その半腹より下にかけ累々たる新古の墓碑を見る。圓なるあり方なるなり、切りに成金振を發揮して石段堅固に築き上げたるもあれば、苔蒸せるさゝやかなる石塔婆の危ふげにそぼ立てるもある。寂滅の域なるべき此處も浮世の風は凌ぎ兼ねたるかとつまらぬ迷想に打任かせ乍ら、一條の小徑を辿りて山路に分入ること稍々暫く、やがて信興氏のこゝぞといはるゝに驚きて見返れば、一基の石表に善岳院道林信友居士、側に伴州五郎源信友と刻したのがある。周圍には信近(翁の男)信好(翁の孫)等一家の人々の墓碑を集めていかにも窮屈氣に、翁の日頃の用意の程をも偲ばしめる。流石に翁の墓碑丈は周圍に接して木柵を廻らして他に區別せらるゝやうに取繕はれて居るものゝ、却つて業とらしくして、自然の趣を損ふものゝ如くに感ぜしめたは僻目か。今更いふを俟たざれども、翁の眞價は碑石の大小、墓域の廣狹に關はるものでない、子孫後昆の人々に圍繞せられて安らけく常世の眠に就ける現在の姿、その僞り飾らざる簡素なる有樣こそ眞に翁の遺志に適ふものであつて、之によつて游子の心にもいかに深き印象を與へらるゝことであらう。久しく憧憬れて居た故大人の墓所の前に立つた時、交々胸底に迫來る感想は、何の辭を以て之を表はすことが出來よう。感慨無量といふ月並の文句の意義ある價値を體得し得たのは即ちこの時で、正直に告白すれば、これ程の靈感に打たれたのは、眞に稀有のことであつた。今後とても屡々あり得るであらうか。弘化三年十月十四日翁の京師の邸に歿せられてより此に七十有四年、その不朽の精神は今も在りし昔に渝らぬ光輝と威力とに滿ち滿ちて居るのである。
 烟靄たち籠めて晩鐘の聲幽かに、遠敷街道を行交ふ人馬の昔も絶々となれば、今はとて一行の人々とゝもに再び車夫を促がせて今夜の宿りと定めたる新田屋といふに急がする。夕飯の膳もそこ/\に、記憶の新たなる中にと畫見たる翁の遺著を手記に寫して後日の備忘とする。著述目録によるに翁の著述書九十八部、編纂に係るもの二十五部校訂補註せしもの三十五部、索引類十五部、その内著述の大部分は明治四十年伴信友全集に蒐録して世に公にせられたが、その外にも八所御靈考・國造本記考證・蚊屋野考・伊勢物語由來考・三神器故事祕抄・神人辯説・言語轉訛論・馬射式沿革考・姓序考小補・前王廟陵記訂補・大同帝外記・白妙考・増加金石逸文・續承脈小論・鸚鵡囀語例・社記勘例・古文物異體字彙・波夫理和謝集・和訓栞餘・陰陽根名彙・駿河名義考・武藏阿伎留神社古物考・尾張國白鳥塚石函中古器圖説考等未だ刊行の運びに至らぬものが尠くない。尚ほ以外のもので殊に珍らしく感ぜしめたのは、年々の日記類で、予の見たのは文化五年(二册、表に備忘日記とあり)同七年(一册、表に牟羅起母とあり、心覺元の意に聞かせたものらしい)同十二年(一册、認書とあり)同十三年・十四年(各一冊、ともに表題なし)等の分であつた。何れも美濃紙四折大の横帳筆まめに細心なる書振は勿論、公私にかけ内外に亙つての大小事、漏れなく採載せられた用意の程たゞ/\驚くの外ない。その中殊更に目を引いたのは文化五年正月元旦の條で、當日の行事を記した一節に、
直ニ淨嗽燧火清服ニ而遙拜、  平安の御門、天照坐大御神、天津神、國津神、禍毘神、若狹比古比め神社、宇波西神社、竹原天神宮、同天王宮、小濱八幡宮、同神明宮、國中之神々社。右了而江戸御祖霊母人樣、【家族への對する心】次ニ伏原發心寺山に坐本生之御祖靈、右拜了而母人樣之年頭之文、次ニ試筆、


とある。寔に翁の人となりを知るに足る屈竟の材料で、皇室に對し、神祗に對し祖先に對し、將た父母に對していかに忠實に奉仕の途を勤まれたか敢へて多言を要しないことゝ思ふ。
 さて此に掲げられたる神々の中天祖天照大神及び天神地祗に亞ぎ、禍津日神の見ゆるにつけて思ひ出ださるゝのは、翁の師本居翁の説であつて、その禍福論ともいふべきものに、
世上の大小事は悉く神の御靈によつて起り神の御計らひなるが、惣じて神には善惡邪正さまざまあるが故に、吉凶相交り禍神相次ぎ又必ずしも因果に應報せざることあり、惡しき神といふは黄泉國の穢より成出でたる禍津日神の御靈により諸の邪事を行ふ神達にして、かやうの神の荒び給ふ時は、皇神逹の守護の力にも及ばず、これ神代よりの趣なり……善神を祭りて福を所るはもとよりのこと、又禍を免れん爲に荒振福をまつり和すも古の道なり(玉くしげ、大意を採る) 

とある。その學統を引ける翁の著述にも、かの周易私論の注に、神の尊卑、大小、善悪、邪正、またその靈の功用の同一ならざるを論ぜちれたる等同じ思想の流れを見るに足るものがある。而してこの二元的思想が一の信仰となつて日常の行事に表はれたもの即ちこの日記に示された所である。次にいふ若狹比古・比めの二社は式内の大社で本國の一宮、宇波西社も式の大社、竹原天神は伏原に隣る雲濱村竹原にあつて古くより羽賀寺の管下に屬せる武家崇仰の舊祠、天王宮も同所にあつて播磨國廣嶺社の分祀にかゝり、近郷に名の聞えた靈所、小濱八幡宮は小濱第一の崇祀として應永以降本國守護職の尊信篤く、延いて藩主の敬事する所となつて今尚ほ地方に深き信仰を繋いで居る。最後に同所の神明宮は現に今富村青井にある神明社に當るか。思ふに是等の神社撰にも翁の深意は潛んで居るので、一國の總鎭守たる比古・比女二社掲ぐるからには、古く之と同等の位置に居り同樣の取扱を受けた宇波西社を忘れず、次にはその本居の地方に於ける重立ちたる社に及んで、必ずしも由緒の奪卑に係はらず、而してその他には一も擧ぐる所がない。一見平凡なるが如くして、而かも秩序の整然たるを認めらるゝのは、この簡單なる神拜の次第である。
 尚ほこの外近來有名になつた子弟へ勤儉の訓諭孝道祭祀之事の外、遺物としては居常使用せられた文机、小具足及び鞆もあれば、その數種の藏書印ももとの儘に保存せられて居る。纔か半日の滯在によつてさのみの得物は固より之を期すべくもないたゞ實地に臨んで得た印象の腦裡を去らぬ中にと、怱々の際筆を執つたのがこの一篇である。
                                          (『中央史壇』三-五、大正十年)

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最終更新:2015年09月30日 18:15