今回萬葉集大成といふ大きな事が企てられ正宗敦夫君苦心の結果として世に珍重せられて來た萬葉集總索引が補訂せられてその大成の重要なる位地を占むることになつてゐるのは斯學の學者にとりてまことに幸なことであり、正宗君の爲にも慶賀すべきことである。私はこの總索引の初めて出版せられた時にも多少紹介の勞をとつたこともあり、又その前からの正宗君の苦心も知つてゐるといふ關係もあるから、今回總索引をはじめて手にせらるゝ諸君の爲に參考になる點もあらうかも知られぬといふ老婆心から再び紹介することにする。
正宗敦夫君は篤實なる學者である。令兄白鳥君令弟得三郎君いづれもそれ/゛\天下の逸材として名を馳せてゐらるゝが、氏は默々として郷里に安んじて學にいそしみ、孜々として倦むことを知らない人である。世人は令兄令弟の名を熟知してゐるが、或は敦夫君を知らずにゐる人しあらうか。氏の業績は天下の耳目を聳動せしむるやうなことは無いかも知らないが、默默として自ら信ずる道を践みつゝ進んで他を顧みない點は當世稀なることである。氏はかつて歌文珍書保存會といふを興して、自ら印刷製本を行ひ、世に稀にして、しかも重要なる近世の學者の歌學、國文學、國語學の書を學者の研究の資料として呈供すること二十種に及び、之によりてその學者の功勞を世に彰はし且つ世を益したこと少くは無かつたひ又その恩師井上通泰博士の萬葉集新考をば同じく自ら版にして他人の手を借らず、恩師の著述の完成を冀うて慫慂到らざる所無く、その著述の半にして、かの大正十二年の東京大震災に遭うて新考の資料及び原稿が燒失した際など氏の忠實な助言助力が無かつたら果してそれが完結したかどうか、わからなかつたかも知れない。何に致せ、氏はその師匠に對しては忠實無比の門弟であつた。かくして井上通泰氏の新考は明治四十三年十月より始まり、昭和二年四月に終つたのであるが、それが世に公になつたのは井上氏がその新考の緒言に「その稿本は大正四年五月より正宗敦夫君の手にて一册づつ稿成るに從ひて出版せしが、そは非賣品として少數の會員に頒ちしのみ」とある通りである。それは美濃版半截の和紙に印刷して袋綴和裝にしたもので、總計三十八册になつてゐて、それの完成したのは昭和二年六月である。即ち第一卷を刊行してから十有三年にわたる譯であるが、その間正宗君は井上先生の手稿を受けてそれを整頓しつつ印刷製本せられたのである。同君はもとより夙くから歌學を井上先生に學んでゐられたのであつたが、この十有三年間の苦心は正宗君の萬葉集研究の爲に自然に大なる貢獻をなし、同君の學識を頗る長養せられたものと思ふ。さやうに考へてくると、この總索引の成功は決して偶然では無いことゝ思ふ。
私が正宗君と直接に相交るやうになつたのは森鴎外博士の紹介により私宅を訪はれたことからはじまる。その頃既に萬葉集總索引の編纂を行つてゐられたので、その前に森鴎外博士に面會した際に正宗君の話が出てこの總索引の編纂中である由も噂せられ、それに就いて君に面會するやうに話をしておいたが、見えたら會つてくれといふことであつた。かやうにして正宗君と私との交際はこの總索引の事が基になつてゐるので、まことに因縁淺からぬものがある。それ故にこの事に就いては私は今の新進の學者に自分の知つてゐるだけの事を告げて參考に供せられむことを請ふのである。
この總索引が生ずるに到つたのは井上通泰、森鴎外、橋本進吉の三博士の助言慫慂が頗る有力のものであつたらしい。井上通泰博士は正宗君の歌學の師であることは既に述べたが、君の萬葉學の素養は之によつて得られ、之によつて長養せられ、終にこの企が生じたものであらう。その井上博士の推薦文によると、「明治四十三年五月から拮据せられた」とある。それより後完成するまで二十有餘年の問絶えず指導も激勵もせられたであらう。橋本博士は餘程前から正宗君と相識の間柄であつて、同博士の昭和四年の推薦の文を見ると、二十年近くも前から索引編纂の企をしてゐられた由に云つてあるが、この索引編纂のことは同氏の勸めに基づいて企てられ、同氏の助言によつて緒に就いた由であることは正宗君の言でも明かである。かくてこの事が企てられてからも正宗君の知友の間にはいろ/\の忠告があつたやうで同君も稍惑はれたやうであつたらしいが、それをば固く決心せしめたのは森博士の言であつたらしい。その際の事を正宗君は次のやうに云つてゐらるゝ。曰はく
或友人は無用の仕事ではないが、其れは金さへ有れば極めて簡單に出來る事業である。其んな仕事に從事するよりは今少し力の入つた仕事をした方が賢明だ。一生が惜しいではないかと注意してくれた。今一人は仕事が存外大きいから遂には困りはせのかと云つてくれた。又反對に森鴎外先生は極めて此仕事の有意義である事、西洋にも類稀なる事業で有るが、沙翁の物には其に類せる索引がある。萬葉は訓と云ひ、文字の用法と云ひ、一通でないから並大抵の仕事ではないが、其れだけに索引の必要も有るので我國上代文學の研究には極めて必要で根本的の仕事である。是非成功するやうに努力するがよい。出版の如きは又何とか工夫が付く。自分も考へて置かう。仕事は專心にやれと云ふやうに勵まされた。
とある。この森博士の言はまさしくその通りで、,この激勵の言が頗る有力に君の事業の推進力となつたことと思はるゝ。
かくの如くであるから、上逃の三人の博士は前々より正宗君と親しくして居られて、この總索引の編纂當初からの事情をよく知つてゐられるのであらうが、今やいづれも幽明境を異にして、それらの事を共に誇る事も出來ない。その顛末はかつて正宗君が自身語られたこともあり、るれらの事に關して他から漫りに推量して彼是といふべきことでは無い。しかしながら、既に成立して公になつてゐる總索引その物に關してその眞面目を世に紹介することは比較的に關係の深い自分として爲すべき責任もあるやうに思ふ。
この總索引が萬葉集の研究の上に如何に有要なものであるかといふことはこの書が未だ無かつた時期の事を顧みればよくわかる。井上通泰博士はこの總索引刊行の際の紹介の辭の冒頭に
萬葉集を研究するに、若完全な索引があつたらばとは誰でも感ずる事であらう。余は新考公刊前の補正に際しては國歌大觀と萬葉用字格と臨時自製の用字例とを使用して屡その恩惠を蒙つたが、若夙く正宗敦夫君編纂の索引が刊行せられてゐたらば時間を節する事が少くあるまいと思うた事が幾度もある。
と云つてゐらるゝが、まさしくその通りであらう。しかもそれは時間の節約のみに止まらない。箇々の單語の捜索や複雜な語尾の用例の探索などになると國歌大観では靴を隔てゝ痒きを掻くが如き遺憾もあり、又自然手落も生ずるし萬葉用字格では不十分に過ぎて頗る物足りないのである。これに就いて私は自分が奈良朝文法史の研究に從事した當時を想起する。私はその研究に着手した最初に参考としたのは本居宣長の詞の玉緒の古代の部と萬葉集古義の附卷といはるゝ鍼嚢舒言三轉例、用言變格例等とであつた。かくしてそれらによつてその研究の骨組をつくつたが、次第に研究が進み、いろ/\とこまかな部分には入つて行くと、それらのいふ所の不備と研究上種々の見解が生ずるにつれて、一々用言、副詞、助詞等の實地の用例を檢出して考へなければならぬ。それらはもとより一々萬葉集をその度毎に通讀して實例を拾ひ集むればよい理窟だけれど、そのやうなことを一々やつてゐては腦力の浪費といふ事もあらうが、それより疲勞が甚しいことで永くその事に堪へらるゝものではない。即ちその際に最も多くの助けを得たのは國歌大観であつた。其れでさへ私は奈良朝文法史の著を完了して後何だか身體に異常を感じ一ヶ月位から強度の神經衰弱に陷つてしまつたのであつた。幸にしてそれを自ら覺つたから、いろ/\と苦心して三四ヶ月で恢復はしたのであつた。若し、國歌大觀が無かつたら私は奈良朝文法史の完結を見ずして病人になつたか、或はその完了と同時に病人になつてしまつたかも知れないのであつた。それ故に私は國歌大観には多大の愛著と感謝とを呈することを忘れない。國歌大観といふものは明治三十六年に完成したもので、それの公刊せられて我々の座右に置くことの出來た際の喜びは言語に絶したものであつた。これは和歌を五句に分けて(長歌はもとより五言七言の各句に分くる)いづれの句からでもその和歌を檢出しうるやうにしたもので、和歌の索引としては空前の完備したもので、學界を益したことは甚大であり、之によりて研究者はいひ盡すべからざる恩恵を蒙つてゐる。しかしながら、これは歌の各句からその全體の歌を索むることを建前としたものであるから、一つ}つの語を索むる場合には必ずしも役に立つとはいはれぬ。その語が句の頭にあらはれてゐる場合にはもとより直ちに索め得るけれども、句の中間にある語又は末尾にある語は如何ともすることは出來ない。かやうな場合には自分の記憶をたどり、例へば「けり」ならば「ゆきけり」「さきけり」などとめの子算的にめくら捜しに用ゐられてありさうだと想像した句をさがしてその例の有るか無いかを一々根機よく所謂虱つぶし的に調べねばならののであつて、頭の疲れた時などなかく苦しいことである。このやうな有樣であるから、國歌大観の恩惠は勿論蒙りながら、個々の語、ことに語法の研究の上の實例をさがすのには勞苦一方ならぬものがあつたことは今なほ身の毛のよだつ程の記憶がよみがへつて來る。それ故に井上通泰博士の言はまことにその通りであつたと思ふ。
萬葉集の索引といふべきものは古來少からずあり、多少役立つものもあつた。たとへば野田忠肅の萬葉類句(十五卷あつて、卷一より卷十二までは萬葉集の短歌を五句に分けていろは順に排列して引けるやうにし、末の三卷は第五句の末の字をいろは順にしたもので、元祿十年に成つた由である。寫本であつて刊本は無い。)長野美晴の萬葉集類句(五卷、寛政十一年刊。)賀茂季鷹の萬葉集類句へ三卷、文化三年刊。)小林歌城の萬葉集長歌類句(三卷、寫本。)長田鶴夫の萬葉集類句(二十卷、寫本。)足代弘訓の萬葉類句(六卷、寫本。)その他名の知られてゐるものはある。しかしながら、橋本進吉君が「この種の書の作られたものも古來二三にとゞまらないのであつて、萬葉集類林(孝雄注、海北若沖著、十六卷寫本)萬葉一句類聚(十一卷寫本)記紀萬葉集總類語集(總類語抄のことであらう。城戸千楯著、二十卷寫本)其他のものがあるけれども、或は收むる所博からず、或は句によつて語によらず、且ついづれも歌のみを採つて題詞左註等には及ばない。その上印行せられたものが少く、座右に備へて随時用に供する事が困難である」と言つてゐらるゝのはまさしく、その通りである。
凡そ、このやうな著述、字書とか索引とかいふものはとかくに遺漏を生じ易いものである。今日世に出てゐる萬葉集の辭典等その著者の苦心と努力とはいづれも相當のものであらうが、大抵はその著者が主要なものとか必要のものとか認めたものはもとより舉げてあるが、著者が重要と思はず又はわかり切つたこととして略し去つたものも少くはあるまい。ところが、いづれを主要とし、いづれをさほど必要で無いとするかといふについては一定の尺度が無く、たゞその著者の大凡の推測によつて取捨するものであるから、甲の人が主要であるまいとして載せなかつたものを乙の人から見れば必要が有つてそれを求むるのに、無いといふやうなこともあらうし、又その索引等を作つたその當人にしても、先にはさほど重要なものとは思はなかつたものが、後になつてその重要性を感ぜらるゝに至つたといふやうなこともまゝあるものである。それ故に辭書に於いては大抵このやうな意味に基づく不備の難を發せしめらるゝのである。辭書に於いてはかくの如きことは蓋し、止むを得ないことであらうが、索引に於いては右の樣なことがあつてはその效力をいたく損するものである。
さて、かやうに一切を網羅して餘す處の無い索引を完全に作製することは容易の業ではない。索引の作製については私にも經驗がある。森鴎外博士の勸めに基づき、當時帝室博物館に藏せられた大治寫本一切經音義(今は皇室御物となつてゐるであらう)を複製することになつた際森博士のすゝめで大治本のみならず、すべての一切經音義を網羅した索引を作製することになり、大正十二年に一切經音義と題して公刊したことであつた。それは前後五年間これに沒頭してやうくにして出來たので、これも亦私の精力を竭さしめた。それの出來上つた時に森博士は既に白玉樓中に上つてしまはれて實物を目のあたり御覽を願ふことが出來なくなつてしまつたことで殘念に思うたが、しかも余は之を以て森博士の記念として永遠に忘れまいと思ふ。かの國歌大觀の如きはその歌の範圍は二十一代集及び萬葉集新葉集より歴史、日記草子、物語等の平安朝時代の文藝中の和歌を盡して之を網羅し、それらを各の句に分ちて五十音順にすべての音を整理して排列した大索引である。かくの如き大規模のものは庸人がいくら多く集まつたとて、秩序正しく出來上るものでは無い。どのやうなすぐれた人の事業でも多少の手落はあるものでゝかの國歌大觀にもいくらかの手落は無いとはいはぬ。さやうに多少の手落はあるにしても、あの五句索引國歌大觀の著作は大事業でもあり、劃期的の著作であつた。この大著作は、渡邊文雄、大川茂雄、松下大三郎の共著ではあるが其の中心になつた人は松下大三郎氏であつた。それで、それを簡單にいふならば松下氏が中心で、他の諸氏はそれを助けた形になつてゐると見てもよいのであつて、まことに松下大三郎といふ人の偉大な頭腦の産物と云つてもよいてあらう。薄弱な頭腦の人にはあれだけのものが出來るとは私には思はれない。索引といふものはたゞ語句を小刻みにしてそれの目録をならべておくといふだけのものでは無い。もとよりその樣な子供だましの樣なものを索引だとして著書の末に加へてあるのを往々見るが私共はさやうのものに一顧の價ありとも思はぬ。その語句を底本から書き拔くことは器械的のことであつて、字を讀み、字を書き寫しうる人ならば誰にでも出來る。たゞし、それら書記者は差圖を受けて之を移寫するだけであり、それに過誤さへ無ければ、滿點を與へてよい。しかしながら、それらの多く集まつたものを系統を立て正しく秩序を保つやうに整理按排するのは大事業で、その整理すべき事項の單純か複雜かの差異によつてその事の困難の度の違ふのはいふまでも無いが、實地に當り經驗した人でなければわからぬ困難が存する。それはそれらの事項の數の増加に伴ふ困難で、その事項の塘加につれてその複雜性が累加して進むことによるのである。一字だけのものを五十音順に排列することは幼稚園の子供でもするが、二字の語をば上字下字ともに五十音順に並べよといへば一寸骨が折れるので、幼稚園生では出來ないかも知れない。五字の音の語を各音すべてそれぞれ五十音順にならべよといふと、それは一字のみの場合の二百五十倍以上の骨折になるといふことは誰にでもわかる。しかし、それはまだ/\簡單なものだ。萬葉集四千五百餘首を假に短歌ばかりと假定しても之を五句に分解して二萬數千の項目になる。之を五十音順に立體的に排列することは容易ならぬ骨折である。その排列すべき事項の増加に對してそれの整頓に要する努力は幾何級數的に増加しなければならぬ。それはもとより嚴密に幾何級數的に進むとは斷言出來ないけれども大要はそのやうな有樣である。それ故に事項が百倍になれば整理の骨折は一萬倍になると見なければならぬ。されば二萬三萬といふ數に増加した場合の困難さは門外漢ではその實際はわからぬものだと思ふ。今彼の國歌大觀の再複製が新装をこらして世に出たが、その紹介の爲に前大藏大臣澁澤敬三氏の書かれた「國歌大觀を作つた人々」と題する文獻は學術史上永く傳ふべきもので唯の推薦文では無い。私は之を讀んで、その編纂者に對する感謝の念を新にしたのであるが、その文の中に、次のやうにいはれてある。
仕事は如上のカードを五十音に分類する故何でもない樣で、假名さへ讀めれば誰にでも出來さうだが、何分數量莫大、最初から五十音に分けることは出來ず、先づ全部の第一字をアカサタナハマヤラワの十行に分け、次いで、ア行だけをアイウエオ、カキクケコ……といふ風に第二字目第三字目と順次繰返す故、餘程頭がはつきりして居らぬと混亂錯雜を起し易い。多數の柳行李やポール箱が動員され、何れもカードの山になる。時にカードが箱にくつついたり、風で飛んだりしてヒヤリとしたこともあるさうである。毎日々々朝から晩までアカサタナハマヤラワ、アイウエオカキクケコで大抵神經衰弱になる。松下さんと鈴木さんと(松下大三郎、鈴木行三の兩氏)は殆んど寢ても寤てもアカサタナハマヤラワで、その頃二階の物干に幾つかの植木鉢を並べるに、どうしてもそれ等を五十音順に並べねばならぬ氣がして當惑した夢迄見たこともあつた由だ。
とある。まことにその勞苦の有樣が目に見ゆるやうに思ふ。さて原稿が出來たけれども、今度はその出版を引受けてくれる書林が無くて、又一の困難に出遭つた由であるが、終に松下氏が河合松平といふ洋服屋に説いてやうく出版者となつて貰つたといふことである。さやうな事情で精神的勞苦の外に出費も莫大であつたさうだ。澁澤氏曰はく
渡邊さん(渡邊文雄氏、國歌大観企晝首唱者の一人、編者としても努力した)は出版に至る迄の費用の大部を獨で背負うて随分と無理をされた樣子は後に落魄して居た模樣でもそれと察しられるが卅七八年頃病死される前に病臥中を訪れた鈴木さんに愚痴一つ言はなかつたと言ふ。
とある。この人の態度も見上げたものである。それから松下氏に就いては
松下さんは遠州の人、粘液質的で理智と非凡な忍耐力と兼備され、その爲随分他人には煙がられたらしいが、理には素直に服する質であつたらしい。
と述べてある。松下氏は私も一面の識はあるが、それは氏の晩年のことである。私は中學校教師をしてゐた頃、松下氏と郷里を同じくする同僚の数學教師鈴木松太郎といふ人から、その國歌大観の出版前後の事情を悉しく聞き、又松下氏が頭腦明晰の人で、數學にも逹してゐた人だといふことを聞いてゐた。今澁澤氏の言を讀んで符節を合するやうに思ふ。かやうにして出來て世に公にせられた國歌大観が如何に世の學界に利用せられてゐるかは同じく澁澤氏が
考へて見ると國歌大観の誕生は非凡な蓮命の所産であつた。元氣に滿ちた學生上りの若人の意氣と粘りに、洋服屋さんの義侠が加はつて生れた突然變異的出版ではあるが、彼等が汗して打つた移動も増減も出來ぬ番號はそのまゝ後世萬人に利用轉用且つ愛用されて居るのは大方不遇で終つた作者逹も蓋し痛快として居られることであらう。
と云つてゐらるゝが、まさしくその通りである。今、ここで國歌大觀のことを彼是委しくいふのは見當違ひのやうに思はれようが、必ずしもさうでは無い。
國歌大觀は單なる索引では無い、先づ一定の比較的正しい底本を忠實に寫しとり、そのすべての歌の一つ一つにそれ/゛\順を追うて番號を打ち、それら多くの歌に一定の秩序を與へてゐる。單にこれだけで一の新しい事業である。かくして索引に於いてその歌の番號を各句の下に注した。それ故に研究者はその句の下に示してあるその歌集の名とその番號とをたどつてその歌集の部に就けば直ちにその歌全體を知りうる樣の仕組になつてゐる。これは從來の索引には無かつたことで、索引としての正確と便利とはこの上も無いものであつた。かやうにしてその各の歌に加へられた番號といふものは澁澤氏のいはれた通り「そのまま後世に利用轉用且つ愛用されて居る」のである。今、それを萬葉集だけに限つてみても國歌大觀が出てからはこの集の研究者は殆ど皆その番號を襲用してゐる。井上通泰氏の萬葉集新考、鴻巣盛廣氏の萬葉集全釋、佐佐木信綱氏等の校本萬葉集等をはじめとして、一々枚舉すべくも無い。正宗氏の總索引の本文とした寛永版本の複寫本にも亦その番號を附けてある。その番號の打ち方に多少異議があるとして今日ではそれを變更することは徒らに研究上の不便を増すに止まるからである。かくの如くにしてこの國歌大觀といふものは單に索引の上だけで無く、汎く後世の研究者に秩序ある便益を與へてゐるのである。
國歌大觀の索引と萬葉集總索引を比較して優劣を論ずるといふことは出來ない。蓋し、兩者それ/゛\その範圍を異にし、又その組織と目的とを異にするからである。その範圍に就いていへば、國歌大観は萬葉集のみの索引で無く、その外に十三代集、新葉集及び歴史、日記草子、歴史等の歌に及び、總敦四萬三千六百十一首の歌を五句のいづれからでも索めうるものであり、萬葉集の歌の十倍の量に逹してゐる。しかしながら、國歌大観は五言の句か七言の句かのいづれかによりて索めうるに止まり、正宗君の索引のやうに、各の語より索め、又各の字より索むるといふことは全然出來ない。國歌大觀はどこまでも歌の句の索引であつて、語や字の索引では無い。それ故に正宗君の總索引とは質が違ひ、目的も亦違ふのである。二者を比較して優劣を論ずるのは恐らくは無意味のことであらう。しかしながら作製の苦勞と、その作製の結果が學問の進歩の上に與へた效果と、それを初めて出版する際の苦難とは甚だ似た點がある。それ故に私は先づ國歌大觀の事を述べて正宗君の勞苦とその學界に與へた貢獻とを讀者に諒知して貰はむが爲に特に一言したのである。
國歌大觀が出版せられた當時の我々の喜びは一通りの事では無かつた。而してその出版の後はその恩惠の學界に及び、その影響は甚だ大であつた。萬葉集總索引の出版せられた時の學者の喜びも大なるものであつた。その一例をいふと、私の知つてゐる某師範學校の教師はこの總索引の配本を受けた日はあまりの嬉しさに、終日愛撫して厭き足らず、小學生が明日の遠足の嬉しさに枕許に包みを置いて寢るやうに、夜は枕許に包を置いて寢たといふことをわざー私の許に言ひおこして感謝の意を表したことであつた。その人は今現に或る高等學校長となつてゐる。私が萬葉集の講義をはじめた時はまだ總索引は出版せられてゐなかつた。それで國歌大觀を最も大なるたよりとしたが、第三卷を講ずる頃にこの出版が行はれて、それより後はいろ/\研究の便を得たことであつた。これは私一人では無く、苟くも萬葉集を學ぶ者研究する者は,一人としてこの恩惠を被らないものは無いと思ふ。まことに、近頃の萬葉集の研究者にとりては校本萬葉集と萬葉集總索引との二は座右に缺くべからざるものであつて、この二書の出現は萬葉集の研究に一の時期を劃せしめたもので、二書の無かつた時を顧みるとまことに隔世の感を懐かしむる程のことがある。校本萬葉集と萬葉集總索引とはかくの如く萬葉集研究の上に劃期的の改新をもたらしたが、二者はもとよりその目的と質とが違ふから比較して優劣を論ずるのは愚である。たゞいふべきことは校本萬葉集は國の力の發動と財界の有力者の援助とにより又多くの學者の協力によつて成功したものであるに反し、總索引は他人の援助を受くること無く、最初には二三の補助者が有つたやうだがそれも永い事では無く、徹頭徹尾正宗敦夫といふ一箇人の努力の結晶と云つてよいものである。こゝに萬葉集の今後の研究者は本索引を手にする毎に正宗君の獻身的の努力に思を致すべきであらう。
正宗君のこの書は總索引と稱する通り、語句だけの索引では無い。しかしながら、それ/゛\の語句はその單語篇を用ゐる時にすべて之を索むることが出來るから五句索引を兼ねてゐるといふことも出來るわけである。この總索引の組織をその初版についていふと
一、本文篇 二、諸訓説篇 三、單語篇 四、漢字篇
の四部を主要なるものとし、別に丁數篇といふ部もあむが、それは主要なものと思はれないから、今いはぬ。
先づ、本文篇について一言する。萬葉集には奈良朝若くは平安朝初期の古寫本といふ原本に近い本は現存しないが、平安朝末期頃の古寫本をはじめ江戸時代の初期頃までにして頗る多くの種類の寫本があり、又江戸時代に行はれた刊行本も數種あり、それらは各それ/゛\の特色があつて必ずしも一種とはいはれない。それ故に索引を作製するに當つては如何なる本を基にすべきかといふ根本的の問題がある。總索引は整版本の最古のものたる寛永版本を基にして、それを複製して本文篇と名づけた。江戸時代の學者も同樣で、多くは寛永版本を研究の底本とした。又寛永版本の版木を用ゐて後に刷つた寶永版本を底本とした學者もあつたが、實は二者同じ版木によつたものである。佐佐木氏の校本萬葉集の底本も寛永版本である。正宗君の本文篇はその寛永版本を基にして諸本の異同を頭注として加へ、以て校訂本を作製してそれを本文としたのであるが、別に古來の學者の諸種の訓説の大要を比較綜合して一目に要領を得るやうに要約して之を諸訓読篇と名づけ以て索引を使用する人々の便に供したのであつた。元來この本文篇が確立して動かぬものでなければ索引もぐら/゛\して一定の捕へ所が無い譯であるから、これの確立の事が大切なことに屬する。此度の大成本は、その本文には寛永版本を基にして更に大に補訂して完璧を期すべく、他の學者二氏が特に專らそれに當らるゝ由であるが、それらの詳細は別に説かるゝことであらうから私は云はぬ。随つて正宗君は總索引の主部と稱すべき單語篇と漢字篇の校訂に安んじて全力を盡さるゝことになつた樣である。
抑も萬葉集は歌集であるから、すべて國語で讀まれなければならぬものである。随つて其の歌集の索引である以上、それに用ゐられてゐる語のすべての例が索むるに随つて全部あらはれねばならぬものである。然るに、此集に於いてはその歌を表記してあるのはすべて漢字である。而して、その漢字は音を用ゐたり、訓を用ゐたり、その他いろ/\雜多の用ゐ方が行はれてゐるから、普通の字書を用ゐるだけでは決して讀みこなしうるものでは無い。それも古來よみ來つた通りに盲從してよんで濟ますならば問題も無い譯で、所謂無事太平な話だけれども、苟も研究といふ以上、學問的の立場からそれらの説に随ふにしても、又随はずして新見識を立つるにしてもそれの根據が正確適切に立證せられねばならぬ筈である。それ故に諸の研究家は先づその點に多大の苦心をしたものであつた。かやうな次第であるから、その漢字の用字例といふものを一通り心得てゐないと萬葉集の正確な根本的の研究は成し遂げ難いのである。それ故に井上通泰氏がその研究の爲に「國歌大觀と萬葉用字格と臨時自製の用字例と」を常に座右に置いて新考の起稿補正に當られたのである。かやうな次第であるから、それら漢字の研究といふものが歌の研究の外に、寧ろ歌の研究の基礎的研究の一として別に起らざるを得なかつた。即ちそれが爲に專書として著されたものが、上述の萬葉用字格である。
萬葉用字格は一册、時宗の僧春登の撲である。文化十四年に公刊せられたもので小册子ではあるが用字例の範疇を立てたものとして注目すべき好著である。即ち萬葉集のあらゆる用字例を見渡して之を分類して正音、略音、正訓、義訓、略訓、約訓、借訓、戯書の八目を立てゝその各目に該當する用字の代表的のもの又顯著なものをそれ/゛\その實例としてあげ各出處を示し略注を加へてある。この書の所説に對しては多少異議を唱へたりする人も無い譯では無いが、この分類は大體妥當のものであつて、後人多く之に據り、萬葉集の研究者皆之を便として用ゐないものが無い位であつた。しかしながら例はその典型的のものに止まつた場合が多いので、例の稀なものは別で、多い場合には見本に止まる観があるのと、その據としたのは萬葉集略解のよみ方であるから、その略解の訓に疑が生じた場合又略解の訓が訂正せられねばならなくなるとそのゝ利用價値が減じて來るといふやうにいろ/\弱點がある。又田島尋枝といふ人の編した萬葉略字引といふ書一册がある。之には明治十四年六月の新井守村の序がある。原本は竹柏園の藏にあるが、昭和二年に東京の井上書店が百部謄寫版にして世に出した。これは字音で引くもので、集中の漢字を單一の字、二字三字以上の熟用したもの等をそれ/゛\集めて、その集中のよみ方とその出處の卷と張とを注記したものである。便利なものであるけれど、小册子ですべての用字をあげたものでは無いからもとより總索引の漢字篇に及ばぬこと遠いものである。
萬葉集の用字の訓讀のむづかしい事は古來いろ/\といふところで、一種の傳説にまでなつてゐるものがある。そのうち古來人口に膾炙してゐるのは、村上天皇の御宇に勅あつて、源順、清原元輔、大中臣能宣、紀時文、坂上望城の五人に命じて萬葉集を讀み和げしめられた時「左右」の二字を特別の用ゐ方にしてあるのが何とも讀みかねて、源順が石山寺に参籠所願した、その下向道で大津で馬方同志の話のうちに左右兩手で物をすることを「まてより」せよといふのを聞いて「左右」は「片手」に對する「眞手」といふ語だとさとり、こゝにはじめて「迄」の意をあらはすに用ゐたことをさとつたといふ話である。この話は十訓抄にも石山寺縁起にもあつて名高い話である。かやうに漢字を用ゐてあらはした語のうちには今日から見れば判じ物のやうに思はれさうな面倒なものが少く無いのである。それらの語はそれを知つてしまへば何でも無いが、若し、知らないでその字面だけ見てゐるだけでは容易に解決がつきさうにもないものが少からずある。例へば「山上復有山者」を「イデバ」とよむこと、「喚犬追馬鏡」を「マソカガミ」とよむこと、「毛人髪三」を「コチタミ」とよむこと、「折木四哭」を「カリガネ」とよむこと、「馬下物」を「ウマシモノ」とよもこと、「青頭鷄」を「カモ」とよむこと、「馬聲蜂音石花蜘〓荒鹿」を「イブセクモアルカ」とよむことなどはそれを既に知つてしまへばもとより何も問題も無いことだが、それらの語をその文字から捜し出さうとするとき、又文字はわかつてゐるがそれを何と讀み何と解すべきかといふことが問題となつた時に、そのよみ方を知らない限りは集中のいづれにそれがあるか、又何とそれを讀むべきかは全然見當もつかぬといふことにならう。強ひて捜す時には萬葉集二十卷を盲捜しにしなくてはなるまい。又「義之」を「テ・シ」とよむこと、「並二」や「重二」を「シ」とよむこと、「言」を「ワレ」とよむこと「是」を「ウヂ」とよむことの如きはそのよみ方を知つてはゐるが、その用例はどの卷のどの歌にあつたかを忘れた人がそれを捜すに漢字索引があれば、その索引で手早く索めうるが、さうで無いとすると、先づ「ワレ」とか「ウジ」といふ單語の部に就いてその中からそれらの字の用例を索むるといふ迂遠をせねばならず、又「テシ」とか「シ」とかいふ語尾にだけ用ゐてあるものは之を單語の篇でさがすのはなかく面倒なことである。かやうな時には上にいふ格字引が役立つのであるが、それは小册子で萬葉集の用字例を網羅したものでは無いから不十分なもので遺憾の點が頗る多いのである。
總索引の漢字篇は上述の書どもを遙かに凌駕したもので、これだけを特別の一書として見ても大著といふべきものである。即ち之は萬葉集に用ゐてある漢字は一切之をあげてある。それは歌の表記に用ゐた文字はもとより題詞や左注に用ゐたものも集中に往々見る所の漢文漢詩に用ゐた文字も一切それらを分解して一字一字それ/゛\分類しつゝ掲げてある。'それらのうち二三の例をいへば漢文としては必要なものであることは勿論だが國語として完く讀まない所謂置字の「焉」の字又「矣」の字は「ヲ」の助詞にあてゝ用ゐてゐる例は勿論皆舉げてあるが、置字として全く讀まぬ場合十八例をあげてある。又歌の表記には全く用ゐてゐない多くの字例へば「丙」「丞」「仍」「修」「冥」「凶」「孔」「字」等より「闌」「院」「韻」「馭」「骨」「魏」等に至るまで、すべてあげてその所在を示してある。
かやうにして萬葉集の内に用ゐてある漢字はその字の正俗に拘らず、又字形の誤、字義の訛あるものをも問はず、一切を網羅してそれらをその字形の上から康熙字典の法式に則つて、部首を立てその部に屬する字は晝の數の順序にそれらを排列し、そのいづれの部首に屬せしむべきか明かならぬ俗字異字は篇末に集めて附載してある。而してその各の字の下にその用ゐられてある有樣に基づいて、一「假名」(一字、一音の假名として用ゐたものを收めてある)二「假訓」(一の假名と三の訓義を兩樣を兼ねたものと見らるゝもの例へば「于」を助詞「二」にあてたり、「勿」を地名の「置勿」(オキナ)に用ゐたり、「日」を「五十日太」(イカダ)「多日宿取」(タビヤドリ)に用ゐたりしたもの、の如きを收めたが、訓義の一音のものの多くはここに收めてある。「勿」を禁止助詞「ナ」にあてたもの「日」を「幾日」「七日」の「カ」にあて、「朝月日」「朝日影」の「ヒ」にあてたもの等皆こゝに收めてある)三、「訓義」(これは「一」「二」以外の訓によつて用ゐたもの、即ち「音讀」以外のもののうちから「一」「二」を除いたものすべてを收めてある樣子だから、訓義といふ名目に該當するかどうか傾かるゝものをも便宜收めてあるやうである。例をいふと、「七」の訓義の條に「七種」「七瀬」「七夜」等の「ナナ」、「七條」を「ナナツヲ」とよむ場合の「ナナツ」「七日」を「ナヌカ」とよむ場合の「ナヌ」「七月」を「フミツキ」といふ場合の「フミ」等の如きである。)この三項を設けてそれ/゛\に相當する字の用例を盡して掲げて單語篇に照應せしめ、兩々相待ちて檢索に便利なやうに記載してある。次に四「音讀」と標して歌以外の題詞左注等の内に音讀すべくなりてあるものすべてを網羅して、その音を示し、次には五「篇外」と標して單語篇に採録してゐない文字のすべてを收めて、それの所在を示してある。以上は底本そのまゝの文字の收録を行つたもので、この漢字篇の中心であるが、底本に誤があるのを正さねばならぬ場合のものは六「正字」と標してその正した文字を示し、七「誤字」と標してその誤と認めた文字を示してある。例をいへば「三手代人名」といふ人名を「之手代人名」としてある場合その「之」の部にそれを誤字の例とし、「三」の部に正字として掲げた如きである。又底本に誤脱があること著しく、或る字を補はねば語を成さぬと認めらるゝ場合には底本には見えないけれども補はねば讀み得ないこともある。さやうな場合に補つて讀むやうにしたものは八「補入」と標してそれを示した。例へば卷二十、防人歌の部に「右一首帳丁若麻續部諸人しとある「帳丁」は「主帳丁」で無くてはならぬことは官制の上から明かである上に、他の例は皆「主」の字があるのでこゝは誤り脱したことは明白だからである。それから底本にはあるが、元來そこに在るべき道理の無い字が加はつてゐることがある。蓋しそれは轉々書寫し傳へられて來た間に何かの誤で加はつたものであらう。さういふ文字をば九「衍」と標してそれを示してある。例へば卷六、第四十二張裏初行の題詞に「悲寧樂故京郷作歌」とある「故京郷」は見馴れない字面で「故京」か「故郷」かで無くてはならぬ筈だが、元暦本等多くの古寫本に「故郷」とあるから「京」を衍字として除かねばならぬのである。以上の「正字」以下の四項はこの索引が本文に武断を加へず、合理的の處置を施し、しかもその次第を公明に示してあることを示したもので正宗君の忠實なる學的態度に由來す乃ことを知るべき要點である。随つて若し正宗君の處置に異議ある場合でも、その所在をこの索引によつて直ちに索め得るであらう。かやうな次第であるから、萬葉集二十卷の内にあらはれてゐる漢字は遺漏無く、この索引を用ゐる人々の嚢中のものとなり、自由自在にとり出すことが出來るのである。
さればこの漢字篇は萬葉集を根本的に研究するには先づ第一に必要なものである。この篇は之を用ゐる人の見識如何によつて、なほ他の方面の研究にも役立つことがあらう。例へば奈良朝時代に如何なる漢字が一般に通用してゐたか、といふやうなことの研究にとつては大なる資料となるであらう。又それらの漢字が如何なる有樣に用ゐられてゐたかといふことを考ふる資料としても有力なものとなるであらう。例へば漢文の助辭たる「矣」「於」「于」「乎」「哉」「也」等が或は音を以て假名として、或は義を以て助詞「ヲ、二、ヤ」等に借用せられてあること、又本義のまゝに使用せられてあるか如何等のことを仔細に考ふる時にそれは單に萬葉集だけの問題では無くなつて行く。即ち汎く古事記、日本紀、續日本紀の宣命等に照し合せて、一般的に當時の漢字の用ゐられ方を知ると共に、その時代の學問の範圍や程度までゝも卜知すべき有力な研究資料となるであらう。さういふ風に利用活用するとなれば、これは單に萬葉集だけのものでは無いことにならう。私はそのやうにこの漢字篇を活用する人の多く出でむことを希うて止まぬ。
單語篇は總索引の中堅たるもので、初版の本では四六倍版本で一千三百三十七頁を占めてゐる。これは集中の歌の中に用ゐられてある語一切をそれ/゛\に分解して一々それを標示して洩らすことが無い。かやうに萬葉集の語を抽き出し集めて示した書は古來少からずある。又それらの語を索引によつて索めらるべくした書も少くはなかつた。それらの書の事は大體上にも述べたところである。それら多くの書どもはそれ/゛\その編纂者の苦心も察せられ、又その用ゐて利便なことも輕んじてはならないことではあるが、正宗君のこの總索引の精到なものと比べて見ると段が違ふことになる。この單語篇の緒言にはその編纂方針として次の如く述べてある。
編纂方針は萬葉の歌辭の全部を一語をも洩すことなく、單語に分割して類聚し、題辭及び左註等は其の必要ありと認めらるゝ單語熟語等を適宜に採擇し、これ等を併せてことごとく五十音順に排列して直ちに其の語の全例を見渡し得るやうに編したものである。
とあるが、その實際に就いて見ると、地名、人名、普通の名詞、代名詞、形容詞、動詞、所謂助動詞、副詞、助詞等はそれそれその分解して得たものをあげてあるが、接辭は之を分解しないで、「伊隱」(イカクル)「可夜須伎」(カヤスキ)「棘多智」(カミタチ)「安麻乎等女登母」(アマヲトメドモ)「子等」(コラ)「可反流佐」(カヘルサ)「帥佐備」(カムサビ)等は一語としてあげてある。これは穩當の處置である。枕詞も亦そのまゝ一言としてとつてある。この篇には題詞左注に於いては其の地名、人名、年月日、動植物の名、位階、官職の名目、熟語其の他の主要なる語をも收めてある。(この篇に收めない文字は漢字篇の「音讀」「篇外」に收めてある)。
かくしてすべての語を掲げてあるが、用言に於いてはそれ/゛\活用の語尾變化があり、又俗に所謂助動詞と稱へてゐる複語尾があつて、その形は頗る複雜であるが、正宗君はそれ/゛\の活用語尾はそれ/゛\之を區分して掲げてある。例へば、「アリ」ならば「アラ」といふ未然形(五〇頁から五四頁まで)「アリ」といふ連用形終止形(二形同じであるから一として五七頁から六〇頁まで)「アル」といふ連體形(六一頁から六三頁まで)「アレ」といふ已然形(六五頁から六六頁まで)それ/゛\一々例をあげてあるその「アリ」といふ語の本體は五七頁中段に
あり(有)ーラ・ーリ・ール・ーレ ○猶アロをも見よ
と掲げてある。讀者はこれによりて、上にあげた「アラ」「アリ」「アル」「アレ」の各項を檢してその詳細を知りうべく、猶卷十四の東語の「安路許曾要志母」の「アロ」もこの「アリ」の訛つた用例だといふことを知りうるであらう。更に所謂助動詞は之を單語として取扱つて別に標示してあるが、これにも亦活用の語尾變化があるから、用言の本幹の活用の場合と同じくその語尾變化に隨つて之を區分して掲げてある。又同じ語でもそれを表記した文字の上にいろ/\差異があらはれてゐることも萬葉集には屡見る所であるから、それらはそれ/゛\の用字の上からこまかく分けて掲げ以て學者の研究の便をはかつてある。例へば、「アキカゼ」の例をば「安伎可是」(卷十五等)「安吉加是」(卷二十)「秋風」(卷三等)「臼風」(卷十)「金風」(卷九等)「冷風」(卷十一)の諸項に分けてあげ、「キリ」の例をば、「奇里」(卷十五等)「奇利」(卷十七)「奇理」(卷十七)「紀利」(卷五等)「綺利」(卷十七)「霧」(卷二等)「白氣」(卷七)の諸項に分けて示してあるが如きである。かやうなわけ方は用言にも副詞にも助詞にも行はれてゐる。用言での例をいへば「トホキ」を「等保伎」(卷十五等)「發抱吉」(卷十四等)「遠伎」(卷五)「遠杵」(卷六)「遠」(卷四等)「遐」(卷三等)の諸項に分けて示した如き、助動詞の「ケム」を「家牟」(卷三等)「家武」(卷二等)「家無」(卷五)「計武」(卷一等)「祁牟」(卷九等)「異六」(卷六等)「異牟」(卷十)「異將」(卷十三)「價牟」(卷二)「兼」(卷一等)「險」(卷七等)「監」(卷二等)の諸項に分けて示した如きである。副詞での例は「イマグ」を「伊末太」(卷十四等)「伊麻太」(卷五等)「伊麻陀」(卷五等)「伊麻他」(卷五)「未」(卷二等)の諸項に分けて示してある。助詞でいへば副助詞「グニ」を「太爾」(卷二等)「多爾」(卷十五)「谷」(卷二等)「彈」(卷十二)と書いたのを示し、係助詞「ハ」を「八」(卷十三)「方」(卷十三)「半」(卷二十)「伴」(卷五)「羽」(卷一等)「葉」(卷四等)「齒」(卷四)波(卷一等)「破」 (卷四)「婆」(卷十四等)「盤」(卷十一)「薄」(卷九等)「者」(卷一等)等の諸項に多くの用例を分ちあげてある。かやうにそれ/゛\の語を類聚してゐるのみで無く、その用字例をも丹念に掲げ示してしかも洩らす所がないから、我々はこれらと漢字篇とを照し合せて當時の人の漢字を使用した有樣を多くの骨折を經ずして見うるのである。
さて上にいふ如く、すべての例を一々洩すこと無く掲ぐるといふことは一見器械的の如くで、骨の折れぬ話のやうであるが、實はそれと正反對の事である。その多くの例を一々洩すこと無くあぐることは器械的の如くに見ゆるかもしれないが、實はこの點が索引としては最も大切なので、あまり、同じ語の例が多くてうるさいから、少し略さうなどといふことになると、その客觀性が薄らいでしまふ。そのやうにうるさく思はるゝやうな場合に臨んでも、それらを編纂者の思ひなしによつて加減したり、取舎選擇することなく公平に掲げ盡した所に本篇の長所があるのである。既にも言うたやうに、とかく編纂者の考へ樣により甲乙をつけたくなり、或は採り、或は採らないといふことになり易いものであり、又あまりに例の量が多いと、それを一々列舉するのがうるさくもあり、又あまり愚直のやうであり、何か代表的のものだけにして、よい加減に節略したくなるものである。又それを節略するといふことでなく、それらを悉く舉げ示さうとするときに、同じ樣の語が夥しく集まつたのに對すると、それは混亂を生じ易く、それを編纂してゐる人のあたまがぽうとして來て時とすると譯の分らぬやうになりがちのものであつて、それらを徹底的に客觀的に行ひとほすことは實際上なか/\困難なものである。今、この單語篇を見てゐると、格助詞の「の」が八五六頁から九一一頁まで五十五頁に亙つてあげてある。その例の數は今一々計算するのは困難だが、八六二頁では六十九例あり、九一〇頁では六十五例であるから、それらを目安にして見ると大約三千七百例位を示してあるのだらう。それら同じ樣なものを根機よく順序を正しく排列した正宗君の骨折は並大抵のことでは無かつたと思ふ。かやうな困苦なことを堪へつゝ正宗君は集中の語を一切網羅して掲げ盡されたのである。
さてこの單語篇はそれらの語の用例を並べて示してあるに止まる樣であるが、それは之を用ゐる人の考へ樣によつていろいろの事實を知りうるであらう。例へば同じ語に基づく熟語でありながら、その熟語の違ひによつていろ/\の現象を呈しして一概にはいはれぬものだといふことを實際に知らしむることもある。例へば神祗は必ず「カミ」に一定してゐるが、熟語をなす時にはいろ/\になる。即ち「可美佐夫流」(卷二十)とあるのは自然のやうだが、それは一つしか例が無くて、多くは「可武佐備」(卷五等)「可牟佐夫流」(卷十五等)であつて一定はしないが、「可武奈何良」(卷五等)の場合は決して「カミナガラ」とはいはなかつた。又用言に於いては或る語は限られた活用形だけしか用ゐられてゐないが、或る語はその活用形の各種が活用に用ゐられ、所謂助動詞を盛んに分出せしめて活撥に用ゐられ複雜に展開してゐるといふ有樣をも見ることが出來るのである。例へば「アトモフ」といふ語は「安騰母比て」(卷二十)「安騰母比賜」(卷二)「阿騰母比立而」(卷九)「阿登毛比底」(卷十七)「足利思代」(卷九)「率比賜比」(卷三)「牽而」(卷九)の如くさま/゛\に表記してはあるが、いづれも連用形だけでその他の活用形の用例は見えない。又「カシコム」といふ語は四段活用の語と思うてゐるが、萬葉集には「可之古美」(卷十七等)「可之故美」(卷十五)「可思古美」(卷十四)「加之古美」(卷十七箋)「加志古美」(卷二十)「加思古美」(卷十四)「加思故美」(卷十五)「恐見」(卷三等)「恐美」(卷二等)「恐彌」(卷九)「畏美」(卷一)「懼見」(卷十 )「恐」(卷二〉といふやうに書きあらはし方は十三樣もあるのに、「カシコミ」の形の用例に限られてゐる。然るに、「思フ」といふ語の如きはその用例が多岐多端で今ここに一々舉げ示すことは出來ぬ。その一九〇頁より一九八頁にわたつて例が示され、その「思フ」が「アリ」に熟合して生じた「オモヘリ」といふ語の各活用が引きつゞいて掲げられ、更に「オモホユ」につゞき、ここに十頁以上「オモフ」の語に基づく用例が占めてゐる。それらを以てこの「思ふ」といふ語が如何に頻繁に用ゐられたかをも知り得るのである。又助詞の用例の如きは格助詞「の」の場合は上に述べたが、その他にもたとへば格助詞「ヲ」接續助詞「ヲ」を共に「乎」であらはしたものが格助詞に十八頁、接續助詞に五頁合せて十三頁にわたつて舉げ示されてゐる。かくの如くにしてそれらの用例が一々洩れなくあげてあるので我々はこの單語篇を活用することによつて、當時の言語の具體的事實をありのまゝに認識しうるのである。
今更に一歩を進めて考へて見ると、この單語篇に掲げられたあらゆる語の例は單にそれらの語が存在するといふ平面的のことに止まらず、それらの語の用ゐられた實地の事情をも推測するたよりになるであらう。例へば「梅」が百二十例以上あるのに「櫻」は四十例に過ぎないこと、「馬」の用例が五十例以上もあるのに「牛」は三例に止まるといふやうなことは我々をして種々の方面に考察を向けなければならぬことを示してゐるやうに思はるゝ。又用言に就いて見ると船を漕ぐといふ語の用例が頗る多いのを見る。それは一々の語例は略するが、その未然形が六例、連用形が八十七例、終止形が七例、連體形が三十三例すべて百三十三例もある。之は船を漕ぐといふ事が盛んに行はれてゐたことを示すもので無からうか。かくて之を上の馬の五十例と比べて見ると頗る興味深いものがある。この馬も主として騎乘したもので主たる交通の機關であつたらうが船も亦同樣主として交通機關としたものであらう。、かくしてその漕ぐの例が馬に對して二倍半以上もあるといふことはそのうちに漁船もあつたらうが、何としても我々の先祖は海上水上の生活に深く親んでゐたことを推定してもよいやうに思はしめらるゝ。又別に「飽ク」といふ語を何氣なしに調べて見て驚いたことであつた。この語の用例を見ると未然形が極めて多く「安可受」(卷一-等)「安加奴」(卷十四等)「安賀奴香」(卷二十)「不足」(卷九等)「不厭」(卷二等)「不飽」(卷一等)等打消の例が七十一例、「安加米也」(卷二十)「將飽八」(卷六)「安加無伎彌加毛」(卷二十〉の如く反語になつてゐる例が三例で「安加麻之母能乎」(卷十五)が一例ある。連用形では「安伎氐牟」.(卷十九)が一例で外に「飽キ足ル」といふ熟語になつたのが十一例あるけれども、その積極的の語意のものは一も無いと言つてよい。即ち「安伎太良奴可母」(卷二十)「阿岐太良奴比」(卷五)「厭雖不足」(卷十)「飽不足香裳」(卷二等)の如く打消の語尾をもつてゐるものが八例、「何如將飽足」(卷十九)「飽足米夜母」(卷十九)「秋足目八方」(卷六)の如く反語になつてゐるものが三例である。又終止形は四例、「美等母安久倍伎宇良爾安良奈久爾」(卷十八)の一例が反語となりてあり、他は「安久庶低爾」(卷十七)といふのが文字がかはつてすべて三例あり、連體形は、「飽事無」(卷十一)の一例に止まる。以上を通じて見ると打消が七十九例で、「アクコトナシ」もやはり打消の意になるから合せて八十例。反語が七例あるが、これも結局は否定である。その他の例を見ると「アカマシモノヲ」「アキテム」は飽きたいといふ希望をあらはすものだし「アクマデ」云々の三例もやはり希望である。それ故に、以上九十二例すべて現實に飽き足りてはゐないのである。これはまことに驚くべきことで、何か當時の人の反映では無からうか。この事實に就いてはいろ/\考へさせらるゝ點も思ふのであるが、總索引の紹介とは縁の遠いことであるからこれ以上は言及しない。以上二三の例は私がこの稿を起草しつゝある間に思ひついて單語篇を繰返しつゝ五六時間で得た事柄である。靜かに調査したらばいろ/\の事が考へらるゝものと思ふ。若し、この單語篇が無かつたらば、上に示したやうな實例はさう容易に得らるゝものでは無い。以上の私の言ふ推定は或は正鵠を得てゐないかも知れないが、ここにあげた例證は決して間違つてはゐない。
以上の如くであるから、この單語篇は萬葉集の索引であることは正面の事で、他面から見れば萬葉集の完全な語彙である。而してそれと共に之をうまく利用活用すれば、當時の古典を研究する者に對して力強き參考資料ともなり、又當時の社會生活精神生活を卜知する有力なる資料ともなるべきものである。この單語篇に對する讃辭はこゝに止めて、私は少しく注文のある事を述べよう。
この總索引はまことに結構なものであるが、唯一つの缺點がある。それは何かといふと、各の語の所在を示したのは結構だが、それの所在を示すのに寛永版本の張數だけに止めて、國歌大観の番號を利用しなかつたことである。それ故に寛永版本を本文として用ゐる場合には間に合ふけれど、さうで無い本を用ゐる時には所在を急につきとめることが出來ない。止むを得ず、その張數をたどつて寛永版本に就いてその歌を捜しあてた時にその番號をたよつて他の諸本に就くといふ二重の手數を要するのである。若し初めから國歌大觀の番號を加へてあつたら、今日の萬葉集にはどの本もその番號を轉載してゐるから、如何ばかりか之を使用する人々の便利を感ずることであらう。私はかつてこの事を正宗君に話したことが在つたと思ふ。正宗君も夙くその事に心づかれ、再版の場合はそれを加へようと語つてをられた。なほ近頃聞き及ぶ所によれば既にその番號を加へた本を作製してあつた由であるが、その原稿を預つてゐた出版者がその半を紛失させたので、正宗君は再びその稿本を作られた由である。随つて、この大成本に編入せらるゝ總索引には歌の番號がすべて加へらるゝ由である。これまことに喜ぶべきことで、かくしてこそこの總索引はいよ/\その効果を發揮するであらう。私はこの事を聞いて眞に慶賀に堪へぬことと思うてゐる。なほ舊版本には多少の手落があり、若干の誤植も見えたが、今回はそれらもすべて補正せらるゝといふことであるから、完璧のものとなるであらう。
こゝに私は筆を擱かうとするが、一言この總索引の爲に出版者に感謝の辭を呈したい。如何に良い著述が出來上つても、之を出版する人が無い時はその著述者の功勞が空しく埋沒し去ると共に世間に何の益をも與へないで終るのである。良著を出版するのは著者の功勞を世に彰すと共に世に大なる益を與ふるものである。然れど世に稀にして世人の耳目に疎い著述は容易に世に公になり得ない。國歌大観の時も名ある出版者は一顧も輿へずして終に一洋服店の主人の義侠によつてはじめて版に上つたのであつた。正宗君の總索引の初版も容易の事では無かつた。これも佛蘭西學の書を專門にしてゐる白水社がお門違の出版を引受けてくれたから世に出たのであつた。私は當時の出版者福岡氏木村氏の好意を今以て忘れず又出版主任だつた石田貞一郎氏の好意も忘れられない。今この總索引が面目を新にして世に出づることになつた。夙くからこれの補正再版を冀うて止まなかつた私の願は今や實現することになつた。私はここに平凡社長下中氏に對して研究者の一人として謝辭を呈しその大成を祈つて止まぬ。
昭和二十七年十月
最終更新:2015年10月04日 16:42