私はこゝに萬葉集大成の編纂に參加し、拙著萬葉集總索引を増補訂正して世におくる事になつた。私は此の書を編纂して出版を了したあとで、多くの誤植ある事に心付いた。私は其れを發見する毎に、頁の上部へ少さな貼り紙をして見出にする事として置いた。或日柳田國男君が來られて其を見つけ、是れは何の印かと問はれた。私は誤植のある印であると答へた。君は斯う誤植が有つてはどうにもならぬではないかと言はれた。實に其の通りで恥ぢ入るの外は無い。但し此の索引の一頁の文字數は普通の本の幾倍かあるし、殊に歌辭は全部ルビ付きである。一所懸命の注意はしたのであるが、結果はこんな事であつたと言ふの外は無かつた。然し何時か訂正した版を出したいとの希望は捨てなかつた。其の次に國歌大觀の番號を單語篇に加へたかつた。元來此の本を編纂しかけた時から思はぬでは無かつたが、其の當時は其れ程大觀番號が必要では無かつたのであるが、今日ではどうしても加へた改訂版を出さねばならぬ。然し其の事業は口にするのは安いが實際になるとたやすからぬ仕事である。單語篇力ードを取る時にすればさ程困難ではないが、一たんカードが分類せられてしまつてから、其を一々さがして番號を附して行くと言ふ事は、出來あがつたのを見ると何のへんも無いやうだが、實際やつて見ると非常な努力が入るのである。又後で引合せと言ふ事は出來ない。私は十分の決心を固めて注意をしてでないと出來ない事だと思った。然し是れは私が仕途げて置く義務が有ると思つた。是れを用ゐられる今後の幾千幾萬の人々の負擔を輕減する事は私のやうなのろまが爲べき適當な仕事であると思って、十分の決心の許に丹念に仕事に懸った。其れと同時に一々原本に當るのであるから校正のよい機會であると思つて、一々に原本で校正をした。其誤植は柳田君が驚いた數に倍した。斯くて私は戰時中から戰後に渡つて生活と戰ひつゝ此の事業に四五年を費した。一應完了したが、其れをどうして出版すべきかは又大な問題であつた。古典全集刊行會でやる積りで有つたが、たやすくは出來ないから原稿本は渡されない。もとより新に組替が出來るわけは無いから、卷丁數の横に縱二分一の活字で捺すか、印刷して張つてオフセット版にするより外はないと考へた。是れ又、た易く出來ないと思ったので副本を作つて渡した。然し中々物になりさうにもなかつた。さうかうしてゐる中に佐伯梅友君が前のままの紙型で、本文は新校萬葉集を用ゐて刷つてはどうかと言ふ照會があつた。私は國歌大觀番號を苦心して入れたのだから、出來れば其を出し度いがと言つてゐた。處が或日突然尾山君が來られて、平凡社の萬葉集大成に編入して國歌大觀番號入を出版せぬか、社長の下中さんが一部求めて感心してゐると言ふやうな談であつた。其の前日か佐伯君からも通信があつた。私はとにかく世に出さへすればよいので有るから、尾山君の言はるゝまゝに承諾した。斯くて此の書が世に公になる幸を得た次第である。誤植もことごとく訂正せられ國歌大觀番號も入れられる事になつた。私は重荷を下したわけである。是れで私の念願の大部分はかなつたのである。私は此の以外に讀添の索引を作つて置き度い願をも持ってゐたのであるが、昨年よりの眼病は其れをゆるさないやうである。 (梅雨晴れんとして晴れやらず。むし暑い日、盲に近い目で此附記を認めた。昭和二十八年七月七日)
正宗敦夫
最終更新:2015年10月05日 23:36