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明治の中葉以後に始まつて今あるやうな發達した日本文の形式……いはゆる言文一致體、或は口語體と稱する文體は、現在では殆ど完成の域に行き着いたといつていゝ。しかしながら私のやうに日常文筆を以て世渡りをしてゐる者は、自分が始終此の文體を使ひこなしてゐるだけに、實際の經驗上から、いろ/\の缺點にも氣がつき、まだいくらでも改良すべき餘地があることを、しみ/゛\感じさせられる。人々の口から口へ話される言葉は、人爲的に改良しようとしても到底出來ないことだけれども、文章の方は社會一般がその心がけになり、教育家や著述家などが少しその方に眼を開けてくれたら、必ずしも改良は不可能でない。一例を擧げれば今の口語體は一と通りのことを記述するには結構間に合つてゐるものゝ、少しく精密な、たとへば哲學の理論を表現したりするのには、とかく晦澁に陷り易い。早い話が西洋哲學の飜譯書で、敢て名文と云はない迄も、意味がはつきり分るやうに書いてあるものは甚だ少い。英語もしくは獨逸語の書について、コツコツ字引を引きながらでも拾ひ讀みをした方がまだ呑み込めると云ふ場合が多い。これは飜譯者の罪と云ふよりも、現代の國文そのものに何等かの缺點があると見ていゝ。古い時代の語法でも現代には活用出來るものは生かして使つたらよささうなものだが、私の信ずる所では、今の口語體は國語の持つ特有の美點と長所とを悉く殺してしまつてゐる。云ふ迄もなくこれを研究することは、社會一般を利益するところが大であるから、茲に私は自分の仕事の上に就いて感じたことを世間の識者の參考までに記してみる。學術的に、秩序を立てゝ檢討するのは國學者の任であつて、私の柄にないことだから、矢張いつもの隨筆風に、思ひつくまゝを次々に述べて行くであらう。
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口語體と云ふものは明治以後の産物のやうに思はれてゐるけれども、必ずしもさうであるまい。源氏物語の文章なぞも矢張あの當時に於いては、一種の口語體であつたであらう。嘗て學校の教室で教はつたところでは、口語と文章語とが分れて來たのは平安朝の末ごろであつたやうに聞いてゐる。すると鎌倉時代以後の和漢混交體を經て、明治に至つて王政の復古と共に國文も亦口語體の古へに復つたのである。つまり我が國に假名文字が發明されてから後の國文の發達は、大體に於いて平安朝と、鎌倉以後と、明治以後との三段に分けていゝ譯である。
ところが、私が自分でも日常それを使つてゐながらしぱしば不思議に感ずることは、現在の口語體の「のである」と云ふ云ひ廻しである。かりに私はこれを「のである口調」と名づける。(のである、のであつた、あったのであらう等、さういふ云ひ廻しの總べてを含んでゐるものと解して貰ひたい。)いつたい此の「のである」と云ふ口調は何處から始まつたか。われ/\が實地に口で話をする時に「のである」と云ふ言葉はめつたに使はない。演壇に立つて公衆を相手にする時には使ふけれども、その場合その人は口語でしやべつてゐるのでなく、文章語でしやべつてゐるのであつて、演説や講義でも多少碎けて物を云ふ時は、あります口調かございます口調になる。今日の標準語は東京語に律つてゐるのださうだが、「のである口調」は絶對に東京の口語でない。從つて江戸つ兒の言葉でもない。或は舊幕時代の武士の用語であつたかとも思つたが、どうもさうでもなささうである。
そこで思ひ出すのは、故大隈重信侯が存生の頃、例の「あるんであるんである」と云ふ侯の口眞似が、しばしば當時の新聞紙上を賑はしたことがある。私はまのあたり故侯に會つたことがないから分らないが、新聞の口眞似がほんたうだとすれば、侯は日常の會話に「のである口調」を用ひたのであらうか。それとも又、あゝ云ふ地位の人だから新聞記者や訪客などに接する時は、自然と演説口調になつたのであらうか。これは私の想像であるが、演説口調で物を云ふのが習慣になつて、知らず識らず日常の會話にもそれを使ふやうになつたのではないか。もちろん家族の人たちと話をするやうな、餘程打ち解けた時は兎に角、さうでない時、いくらか裃《かみしも》をつけた氣分になる場合は、おのづと「のである口調」が出る。──侯に限らず、凡そあの頃の政客、主として薩長土肥の人たちはみんな多少ともさう云ふ癖があつたのではないか。
こゝで一足飛びに私の獨斷を云つてしまふと、「のである口調」はどうもあの頃の四國人や九州人が東京へ持つて來たやうな氣がする。彼等のお國言葉のうちにさう云ふ云ひ廻しがあつたかどうかはよく知らない。けれども恐らくは、お國言葉を避けるために、田舍訛りの謗りを免れるために、一種中立のあゝ云ふ言葉を使ひ出したのではないか。それと動機は違ふだらうが、今の陸軍では兵士に「であります」と云ふ口調を使はせてゐる。それは特殊の陰影や地方色のある言葉を避けて、簡單明瞭に、達意を主にするために採用したのであらうが、「のである口調」もいくらかさう云ふ必要から起つたとも見られる。昔は百人一首のかるたはいろ/\の書體で書いてあつたのが、今では活字體の標準かるたと云ふものが出來た。「のである口調」はちやうどその活宇にあたる。今でもよく、たとへば琉球とか、青森とか、邊陬の地から都會へ出て來る人たちは、教育のある者であればある程、「であります口調」や新聞雜誌の文體に近い口語體で、切り口上で物を云ふのはしば/\見受けるところである。但し、維新當時の「のである口調」は、徳川時代の禮儀正しい、今から見れば寧ろ卑屈な、階級的な言葉づかひが殘つてゐたあの頃の東京に於いては、いくらか權柄づくに、敗殘の御家人や町人を相手に威張つて物を云ふ心持もあつたであらう。即ちあの當時には活字以上の役目を果たしてゐたであらう。
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なほもう一つ思ひ出すことは、嘗て東京の府立第一中學に在學の時分、或る年學校の記念日に、當時麻布中學の校長をしてをられた故江原素六翁が來賓として出席され、講堂で訓話をされたことがあつた。私は翁が維新の豪傑の一人であり、當時も有名な政客であり、高潔な人格者であることを聞いてゐたから、子供にありがちな英雄崇拜の心持を以て翁の演説に耳を傾けたが、意外にもその言葉づかひは自分の學校の校長や教師の「のである口調」でなく、實にキビキビした江戸辯であつた..「おらア知らねえ」とか、「仕方がねえ」とか、翁はさう云ふ言葉をさへ交へた。人も知る通り、江原翁は徳川氏の遺臣であり、生粹の江戸交化の中に育つた人であるから、演説にもその持ち味が出ずにはゐなかつたのであらう。徳川の末期になると、旗本の武士も市井の町人と殆ど變らないサバケた口調を使つたもので、翁の言葉を聞いてゐると全く私の親父なぞの話しぶりと同じであつた。私は後にも先にも、こんな氣持のいゝ、カラリとした演説を聞いたことはなかつた.、少しも裃を着けてゐないで、翁の颯爽たる人格が言外に溢れてゐた。勝海舟翁などの話しぶりも恐らくさうではなかつたであらうか。
これを以て見ても、「のである口調」は矢張他國から這入つて來たものに相違ないと思ふ。
何にせよ此の口調は、地方的、乃至は歴史的特色がないだけ萬人向きのするものであるから、これを標準にすることに私は異存があるのではない。既に紅葉漱石の如き江戸人ですら此の文體で立派な作品を遺してゐる以上、過去に於いても相當の功績を認めなければならないし、況んや現在では、善いにも悪いにも、動かすことは出來なくなつてしまつてゐる。
しかしながら、簡單明瞭とか、達意とか云ふこと以外に、美の表現を目安に入れる小説に於いては、さう一も二もなく此の文體にきめてしまふこともなからうかと思ふ。尤も今日でも「のである」の外に、「だ」と云ふ口調、「であります」と云ふ口調の文體も多少は行はれてゐなくもない。中里介山氏の「大菩薩峠」の如きは「であります口調」で書かれた作品中での雄篇と云ふべきであらう。簡單と云へば「だ」止めが簡單であり、力も強いが、その代り音がキタナイ。「であります」は冗長のきらひがあるけれども、優しみがあり、親しみ易くもあり、實際の口語に近くもあり、何處かに傳統的な和文と共通なひびきもある。「のである」は、何と云つても政治冢の演説口調から出たものだけに、四角張った、多少取りつくろつたやうな、ギゴチない感じを起させる。殊に此の頃のやうな政界の有樣では、議會の速記録を想はせるだけでもあまりいい氣持はしない。餘計なことを云ふやうだが、此の間前大臣が裁到所へ呼ばれた時に所懷を記した文句に「雲はやがて晴れるものである」と云ふのがあつたが、あれを讀んでから「のである」が變に不偸快になつた。
それに、文章に苦心する程の人は誰でも氣がつくことであらうが、「のである」の文體だと、不必要に「のである」を重複させ、濫用する弊に陷り易い。たとへば「行つた」と書けば濟むところを、「行つたのである」とする。甚しきは大隈侯の如く「あるのである」とする。私なども此處へ「のである」を附けるのは無駄だと思ひながら、どうも附けないと落ち着きが取れず、据わりが惡いやうな氣がして、結局附けてしまふ場合がある。「あつたのであつた」「ないことはないのである」などゝ云ふ語法は、耳馴れてゐるからさほどに感じないやうなものゝ、考へて見ると隨分をかしい。そしてそんなことのために、「あります口調」より却つて冗長になり易い。「あります口調」なら、「ありますのであります」、「ありましたのでありました」、「ありませんことはありませんのであります」などゝはめつたに書くまい。
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現代に於いて、漢文くづしの文體で、自由に、有効に、古人の名文にも劣らないほどの美しさと力張さを以て表現することの出來る人は、幸田露伴先生を措いては殆ど一人もなくなつてしまつた。大谷光瑞氏なども書くことは書くが、どう云ふものか此の頃發表されるものは以前のもの程整つてゐない。その他の人々のは私が書いても書けさうな程度のものばがりである。が、それならあゝ云ふ云ひ廻しは亡びてしまつたかと云ふに、案外さうでなく、今の口語體の中に惰勢を殘してゐるやうに思へる。
「あるのである」、「あつたのであつた」、「ないことはないのである」等々の不思議な云ひ廻しはそれぐ漢文くづしの文體の、「ある也」、「なる也」、「ありし也」、「なりし也」、「たりし也」、「あらざるなき也」、「なきにあらざる也」等の變化ではないかと、私は見てゐる。明治維新の頃に演説でもしようと云ふ豪傑氣取りの人たちの頭は、たいがい漢文くづしの文體で固まつてゐた。その證據には、あの當時の政論などの文體を見るとよく分る。即ち「のである口調」は漢文くづしをそつくりそのまゝ口語に移したものであらう。現に此の頃でも徳富蘇峰大人の文章なぞはその生きた標本ではないか。一般の人はあれほど極端ではないけれども、多かれ少かれ文章軌範的云ひ廻しの餘勢を受けてゐるのである。まさか當節の人の頭に十八史略や八大家文の口調がこびり着いてゐる筈もないが、それでも高山樗牛あたりの衒學的論調が何等かの感化を及ぼしてゐないことはあるまい。それに釣られて、全く漢文の影響を脱し切つてゐる青年たちまでが、無意識のうちに引きずられてゐるのであらう。
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今日、夕刊の三面なぞに載つてゐる講談の筆記を讀むと、ずゐぶん自由な云ひ廻しをしてゐる。「のである」「あります」「ございます」等をちやんぼんに使ひ、名詞止めもあれば、動詞止め、「てにをは」止めもあり、少しも囚はれたところがない。あれは餘程參考になると思ふ。「のである口調」の一つの大きな缺點は、いかにも彈力がないことである。「たりし也」「たらざる也」の漢文口調にはピーンとした響きがあり、語勢を強める効果があつたのに、「あるのである」になつて來ると、べたべたと菎蒻でも蹈んづけるやうな氣がする。それにいつたい、今の人の書く物は一つのセンテンスが短かく、十中の八九まで動詞を以て終るものだから、(此のことに就いてはいづれ後段で委しく述べる。)從つて「る」と「た」が一層重複する。試みに座右にある現代作家の著作をひろげて、一つーの文章の終りの字を見ると、「る」か「た」でないものは殆どない。日本語と云ふものはもつと融通が利く筈であるのに、これでは餘り堅苦し過ぎる。さしあたりもう少し實際の口語に近く、思ひ切つて碎けてみたらどうか知らん。日常の會話に「さうでせうね」とか、「さうかえ」とか、「あるんだよ」とか云ふ一種の捨て字──「ね」、「え」、「よ」、「わ」、「や」、「な」、「さ」、「わい」、「わよ」の類、──文法上は何の品詞に入るものかよく知らないが、──あれなぞ男女老若の區別をするのに重寶な日本語獨特のものであるが、小説中の會話だけでなく、地の文にも使つてみたらいゝであらう。親しみもあり、語勢を強める働きもし、「る」止め「た」止めの頻出を避けることも出來るではないか。
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さて、以上は大體論であつて、これから少しく別な方面を考察しよう。
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此の間左團次一行が露西亜へ行つた時、あちらで歌舞伎劇の紹介に勤めたレニングラードのコンラド君が二三年前に來朝した折、コンラド君、同夫人、及び關西に在佳する日本文學通の露人プレトネル君、ネフスキ君、及び私と、奈良ホテルに會合したことがあつた。その時のコンラド君の話に、今の露西亜で私の「愛すればこそ」を譯してゐる人があるのだが、第一に此の標題の飜譯に困つてゐる、「愛すればこそ」は、一體「誰」が「愛する」のですか、「私」が「愛すればこそ」なのですか、「彼女」がですか、それとも「世間一般の人」がですか、要するに主格を誰にしていゝかが明瞭でないと云ふのであつた。私はそれに答へて云つた、「愛すればこそ」の主格は此の戯曲の筋から云へば「私」とするのが正しいやうである。だから英譯では「ビコース・アイ・ラヴ」となつてをり、佛譯では「ビユイスク・ジユ・レイム」となつてゐる、しかしながら、本當を云ふと「私」と限定してしまつては少しく意味が狹められる、「私」ではあるが、同時に「彼女」であつてもいゝし、「世間一般の人」でも、その他何人であつてもいゝ、それだけの幅と抽象的な感じを持たせるために、此の句には主格を置かないのである、それが日本語の特長であつて、歐洲語では主格を入れないと語を成さない場合でも、日本語ではそれを必要としない、曖昧だと云へば曖昧だけれども、具體的である半面に一般性を含み、或る特定の物事に關して云はれた言葉がそのまゝ格言や諺のやうな廣さと重みと深みとを持つ、だから出來るならば露西亜語に譯すのにも主格を入れない方がいゝと。
これは日本文ばかりでなく、漢文についても同じことが云へる。たとへば李白の玉階怨を取つて見よう、──
玉階白露生 夜久侵羅襪
却下水晶簾 玲瓏望秋月
此の詩の起句と承句とは白露が主格であるけれども、轉句と結句とには主格がない。「却《しりぞ》イテ水晶簾ヲ下《くだ》シテ、玲瓏秋月ヲ望ム」者は誰であるとも斷つてない。これは帝王の寵愛の衰へた宮廷の美姫の閨怨を詠じたものには違ひないが、此の詩に何か悠久な美しさがあるやうに感ぜられるのは、主格を入れてないためである。かりに歐洲語であつたら、承句の「羅襪」と云ふ名詞の前にも「彼女の」と云ふ代名詞が必要であらう。それから結句の「玲瓏」と云ふ語も何を形容したものか、玲瓏たるものは月の光であるか、水晶簾の内にゐる美姫の容顏であるか、恐らくその兩方に取つてよからう。こゝに於いて此の「玲瓏」と云ふ言葉は非常に生きて働いてゐる。一つの情景を叙すると同時に、その蔭にある他のもう一つの情景を連想させる。日本の枕ことばや掛けことばなども決して單なる駄じやれではなく、矢張さう云ふ働きを持つてをり、二度に云ふことを一度に濟ます役目をしてゐる。就中俳句はかう云ふ表現法の極致を示したものだと思ふ。
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私は、殊に近頃、英文の小説を讀む毎にいつも感じることなのであるが、西洋人と云ふものは分り切つた手順を馬鹿ていねいに記して行くので、そのために非常にまどろつこしい。日本文ならこんな所はアツサリ片坿けるのにと思ふと、讀んでゐてもじれつたくなる。西洋人は「あなたは鉛筆をお持ちですか?」と云ふ場合に、「あなたと一緒に、」──「ウイズ・ユー」と云ふ言葉を加へる、それでなければ「今そこにお持ちですか」と云ふ意味が通じないものだと、中學時分に教へられたことがあつたが、まさか實際はそれほどでないにしても、兎に角さう云ふ云ひ方をしたがることは事實であつて、彼等の國語の性質上、自然さうなるのだと思ふ。獨逸へ行つた私の友達が、ボーイに湯をくれろと云ふ時、「ハイス・ワツセル」と云つたところがどうしても通じない、何度くり返しても分らないのでやう/\氣が付いて、「ハイセス・ワツセル」と云つたら、「あゝ、さうですか」と直ぐに通じた、「ハイス・ワツセル」でも大概察しが附きさうなものだのに、さつばりさう云ふ氣轉が利かない、教育のない者ほど尚呑み込みが惡いと云ふ話であつた。萬事がそんな調子であるから、小説の描寫なども不必要に念が入り過ぎ、細か過ぎる傾きがあつて、そのために却つて鮮明を缺き、印象が稀薄になる。これは「饒舌録」の中でも言及したことであるが、元來うそをほんたうらしく感じさせるのには、成るべく簡單に書くのに限る。くど/\説明すればするほどうそが一層うそらしくなる。たとへばこゝに「Aと云ふサラリーマンがあつた」と書くだけで濟むものを、「歳はいくつで、何處の學校を出て、何々と云ふ會社に勤めて、いくらくの月給を貰つて、……」と、さう書くと却つて拵へごとじみる。必要がなければ人物の名前なぞも記さない方がよく、伊勢物語の「昔男ありけり」で澤山である。現代の日本の作家で、ほんたうらしく書く點に於いては徳田秋聲氏を第一とするが、さすがに同氏は此のコツをよく心得てゐる。西洋でも近頃ポール・モーランあたりは大分書き方が東洋風で、思ひ切つて筆を省略してゐる。モーランの物はあまり唐突で分りにくいと云ふ批評があるのは、いつの間にか讀者の頭が西洋物にカブレてゐるのである。
だから、哲學とか科學とか、理詰めで正確を期する記述には西洋流の方が勝れてゐるけれども、文學に於いては必ずしもさうとは云へない。日本の詩や歌や謠曲などを英譯する場合、もしほんたうに原文の味を出さうとするなら、文法的にはどうあらうともサブジエクトのないセンテンスを使ふより外にないと思ふ。いくら西洋人だつて日常の會話にいつも必ずサブジエクトとプレデイケートを伴ふ譯てもあるまい。半分口の内で云つただけでも用が足りる場合の方が、實際には多いであらう。現に電報の文句など主格を略すのが常ではないか。
人はよく、日本語はヴオキヤブラリーに乏しいと云ふ。私なども青年時代にはしば/\痛切にそれを感じ、口にしたこともあるのだが、さうして事實、乏しいには違ひないのだが、さう云ふ國語にはそれを補ふに足るだけの長所があることを忘れてはならない。
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今の中學校や專門學校で教へる國文法と云ふものはどうなつてゐるのか、私たちが學生時分に教はつたのと大して違つてゐないのであらうか。明治年間は何事につけても、西洋文物の模倣時代であつたから、文法迄が英語や佛語の直譯に終つたのは是非もないけれども、私たちの習つたやうな文法が今も教へられてゐるのだとしたら、全く有害にして無益なものである。その後さつぱり用がないので文法の本なぞつひぞ覗いたこともないからなんとも云へないが、もう今日は獨創的な國文法がおこなはれてゐてもいゝ頃である。
英語では全然必要のない場合でさへ、體裁のためにサブジエクトを置かないと承知しない。これに反して日本語に於いては、少くとも詩や小説の文章には主格を置かないのが普通であつた。平安朝の昔から徳川時代まで、西洋の眞似の流行らない時代はさうであつた。今こゝろみに雨月物語の「白峰」の冐頭を見ると、
あふ坂の關守にゆるされてより、秋こし山のもみぢ見すごしがたく、濱千鳥の跡ふみつくる鳴海がた、不盡の高嶺の煙、……なほ西の國の歌枕見まほしとて、仁安三年の秋は、葦がちる難波を經て、須磨明石の浦ふく風を身にしめつも、行く行く讃岐の眞尾坂の林と云ふにしばらく笻を停む。
と、こゝ迄が一つのセンテンスであつて、此の中に主格にあたる言葉は何處にもない。隨つて此の長い道中をした主人公が誰であるかは讀者の想像に任せてあるので、「圓位」と云ひ「西行」と云ふ名が出て來るのは、われ/\の原稿用紙なら三四枚も先へ行つてからである。尤も國文學の素養のある者なら讀んで行くうちに次第に見當がつくやうに書いてあり、そこに奥床しさがあるけれども、同時に又、主格がないために此れを讀む者は自分がそれらの名所古蹟を見て廻つてゐるやうな感じを起す。主人公の西行の境涯と讀者のそれとが一層切實に結び着けられる。作者がそこ迄を意識して書いてゐようともゐまいとも、かう云ふところが日本文の特長なのである。西鶴などの文章は最も顯著に此の筆法を用ひてゐる。源氏物語の「桐壺」から「花の宴」迄を調べて見ても、冐頭のセンテンスに主格のあるのは、「桐壼」、「帚木」、「紅葉賀」の三篇だけで、その他の五篇は悉く省略してゐる。
思へどもなをあかざりし夕がほの、露にをくれし程の心ちを、年月ふれどおぼしわすれず、ここもかしこも、うちとけぬかぎりのけしきばみ、心ふかきかたの御いとましさに、けぢかくなつかしかりしあはれに、似る物なう戀ひしく覺え給ふ。……
──と、此れが「末摘花」の書き出しである。もう一つ「空蟬」の冐頭を引くと、
ねられ給はぬままに、われはかく人に憎まれてもならはぬを、こよひなんはじめて憂しと世をおもひしりぬれば、はづかしうて、ながらふまじくこそ思ひなりぬれなどのたまへば、涙をさへこぼして伏したり。いとらうたしとおぼす。……
此處では「ねられ給はぬままに」から「こぼして伏したり」迄が一つのセンテンスで、「いとらうたしとおぼす」は又別のセンテンスである。ところで最初のセンテンスには、隱されてゐる主格が二つある。即ち「ねられ給はぬままに……ながらふまじくこそ思ひなりぬれなどのたまふ」者は源氏であつて、「涙をさへこぼして伏す」者は從者の小君でなければならない。それから次の「いとらうたしとおぼす」者は再び源氏になつてゐる。源氏物語の文章が今の人に分りにくいのは、かう云ふ風に一つのセンテンスに二つ以上の主格が出て來る時でさへもそれを省略するせゐであつて、もし學校の綴り方の時間に生徒がこんな文章を口語體で書いて出したら、必ず訂正されるであらう、しかしながら、それが日本文である限り、口語體であらうと昔の和文體であらうと、此の書き方は文法的に正しいのである。主格を入れても勿論誤まりではないが、どちらかと云へば入れない方が美しいのである。そんならどうして二人の人を區別するか、一つが源氏の動作であり、一つが小君の動作であることが何處で分るかと云へば、動詞で分る。源氏の方は「ねられ給はぬ」と云ひ、「のたまふ」と云ひ、「おぼす」と云ひ、ちやんと敬語が使つてある。小君の方はたゞ「伏す」となつてゐる。
さう考へると敬語は單に儀禮上の言葉ではない。文法上立派に一つの働きを持つてゐるのである、
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羅典語は主格がなくとも、動詞の變化で分るやうに出來てゐる言葉ださうだが、日本語に於いても、敬語を使ふ場合には主格を略すべきであり、そのための敬語と考へていゝ。禮儀から云つてもその方が正しい。恐れ多い譬ではあるが、「行幸」と云ひ、「行啓」と云ふやうな言葉は、元來主格たるべき御方の御名を口にするのが勿體ないために出來たのではなからうか。
「給ふ」と云ふ動詞は、昔は二た通りに變化した。「給はん、給ひ、給ふ、給へ」と變化する時は、高貴の人の動作を敬まふ言葉になり、「給ひ、給ふる、給ふれ」と變化する時は、高貴の人の前へ出て、自分の動作を卑下して云ふ言葉になつた。これなどは、ちよつと聞くと隨分面倒な區別のやうで、學校で教はつた時分には昔の人は厄介な使ひ分けをしたもんだと思つたゞけだが、よく考へると、中々重寶な役目をしてゐる。なぜなら、此の使ひ分けに依つて、「主人が曰く」、「家來が曰く」と一々斷る必要もなければ、二人の關係を説明する手數も省け、たゞ對話を記すだけで双方の身分が分るやうに出來てゐる。かう云ふ風な便利な言葉はその外にもまだ澤山あつた。「御邊」と云ひ、「おん身」と云ひ、「それがし」と云ひ、「妾」と云ひ、「まろ」と云ふやうな人稱代名詞も矢張さうであつた。これらは總べて、便利と云ふことを目的にして生れたのではないとしても、實際の文章の上では何程か言葉の省略に役立つてゐた。
「給ふ」と云ふ語の第二の變化は、今日ては既にすたれてしまつたし、それでなくても、階級的差別の撤廢されつゝある現代に於いて、昔のやうな敬語を復活することは不可能でもあり、好ましくないには極まつてゐるが、しかし今でも「おつしやつた」、「いらしつた」、「遊ばした」、「せられた」、「なさつた」と云ふ程度の敬語は生きてゐるのだし、「給ふ」だつて第一の變化の方はまだすたれた譯ではない。第二の變化の方も、それに代つて自分を卑下する言葉はある。「僕」と云ふのを「わたくし」と云ひ、「はい」と云ふのを「へい」と云ひ、「です」と云ふのを「ございます」と云ふ類は皆さうである。だからそれが使はれてゐる限りに於いて、主格を略すことが出來る。
「私」と云ふのに「アイ」と云ふ言葉しかなく、「はい」と云ふのに「イエス」と云ふ言葉しがない英語は、便利で簡單なやうだけれども、小説などを書く時には却つて不便な場合が多い。
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私は日本の文法の書に、性の區別、ジエングーの項が設けてあるのを見たことがない。少くとも私の學生時代には、「彼女」「彼女等」と云ふ直譯の代名詞を除いては、日本語にはジエンダーがないものゝやうに教へられてゐた。
けれども昔は「妾」と云ひ、「御許」と云ひ、「御前」と云ひ、それらがさう規則的に使はれてゐなかつたにせよ、兎に角代名詞にジエンダーがあつた。現代に於いても歐洲語のやうに一つ/\の單語に性はないけれども、男の話す話と、女の話す話とは、實際にはちやんと區別が附く。小説の中の會話を讀んでも、男が云ふのか女が云ふのかは直ぐに分る。それは主として前段に述べたやうに、「ね」、「わ」、「わよ」、「だわよ」、「てよ」、「の」、「のよ」等の捨て字に依つて分るのであるが、その外にも「しない?」「しなくつて?」等の女性特有の云ひ方がある。「下さい」と云ふ時に、女だつたら「くれない?」とか、「頂戴」とか、「頂戴な」とか云ふのが普通である。食物の味を形容する「うまい」と云ふ言葉は關西地方では女は決して使はない。女なら必ず「おいしい」と云ふ。女が「うまい」と云へば「巧み」と云ふ意味に限られてゐる。
尤も歐洲語に於けるジエンダーは、たとへば獨逸語で太陽が女性だつたり月が男性だつたりするやうに、必ずしも人間の男女の區別はかりには使はれてゐない。それはそれで、澤山の代名詞が重なつたりする時に、それらの代名詞の指示する物を互に區別することが出來、さう云ふ點で役に立つてゐるけれども、會話に性の分ちがないのは、小説家に取つて此の上もなく不便である。恐らく此れは世界中で日本語だけが持つ特長ではないだらうか。支那語にだつて多分かう云ふ區別はあるまい。
從つて西洋の小説では、「と、彼女が云つた」「と、彼が云つた」と斷らなけれげ分らなくなる、彼の國の作家は此の「云つた」の頻出を避けようとしていろ/\違つた言葉を置き換へるのに苦心するらしく、嘗て何かの英字新聞にそのパロディーが出てゐたのを見たことがあつた。それを讀むと、「ヒー・セツド」、「ヒー・アンサード」、「ヒー・リプライド」、「ヒー・コンフエツスド」、「ヒー・プロテステツド」、「ヒー・リトーテツド」と、あらゆる言葉を並べてあるが、さうすればする程、苦心のあとが餘計眼について耳觸りになる。
のみならず、會話の間に「云つた」を挾むと、喧嘩口論の場面のやうな急迫した情景は死んでしまふ。英語ではよく、一人が云ふ言葉を二つに分けて、「と、彼は云つた」を間へ挿入するやうにする。
「はい、私もさう思ひます」
と彼は云つた。
と書くべきところを、
「はい、」
と彼は云つた。
「私もさう思ひます。」
と云ふ風に分ける。思ふにかうすると受け答への問に地の文が這入らないで、いくらか應酬ぶりが生き/\とするからであらう。
會話をする者が二人に限られてゐる時はまだ始末がいいけれども、よく彼の國の小説にある晩餐曾などの場面、大勢の淑女紳士たちがサロンに集まつて、彼方の隅や此方の隅から警句が飛んだり、舌戦が挑まれたりするやうなところになると、西洋の作家はそれを明瞭に書き分けるために隨分忙しい思ひをするらしい。全體さう云ふ賑かな席の雜談の空氣を生き/\と描寫することは、いづれにしても相當に作家的修業を要する仕事ではあるが、日本語のやうに男と女の區別がつき、「僕」、「わたくし」、「わし」と云ふやうな代名詞に依つて年齡や身分の相遅を現はすことの出來る國語は、そんな場面に餘程面倒が省ける譯である。
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尚ついでながら、普通われ/\は小説の中の會話と地の文とを分つために「」の印、──カギを用ひる。これは英語の第一第二クオーテーシヨン・マークにあたるものだが、此のカギも日本語に於いては實はそれほど必要はない。
徳川時代の作品にもカギはしば/\用ひられ、そのカギの肩へ、しやべつてゐる人の名前の頭字を入れたのがある。たとへば小春と治兵衞の會話なら、小〽として小春の言葉を書き、次に治〽として治兵衞の言葉を書くやうにする。けれども此れは會話と地の文とを區別するためと云ふよりも、むしろ話し手と話し手とを區別するためのものであつた。當時は話し手が變る毎に行を改めることをしないで、ずつと書き綴ける習慣になつてゐたから、會話が幾つもつながる場合には力ギを入れないと分りにくかつた。が、それに反して會話から地の文へつながる場合には、口語と文章語とが截然と分れてゐた時代であるから、そんな印を使ふ必要はなかつたであらう。
今日われ/\の作品に於いては、會話は話し手が變る毎に一々行を改めるのが通例になつてゐる。その上口語と文章語との區別も、昔ほどハツキリとはしてゐないものゝ、「のである口調」を用ひる限りはまだ/\相當に隔たりがあつて、たとひ續けて書いたにしてもそんなに紛れ易くはない。「のである口調」はその點に於いて、「あります」や「ございます」口調に比べて、たしがに小説の文體としては便利である。私は歐洲語の實際をよく知らないからあまり口幅つたいことも云へないけれども、思ふに西洋の口語と文章語との距離は、われ/\の現代の作品に於けるそれよりも一層近く、紛らはしいのではなからうか。さうだとすれば此處でも日本の作家の方が得をしてゐる勘定である。
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以上に述べたやうな日本語及び日本文の長所は、誰よりも先にわれ/\小説家が最もよく心得てをり、それを充分に活用してゐなければならない筈である。然るに不思議にも事實は反對なのである。
一つの新しい時代が來れば、藝術の上でも舊套を脱しようとする運動が起り、在來の傳統を破つた若々しい手法が生れるのは言を待たない。明治の文人が維新以來の時勢に應じて口語體と云ふ自由な文體を創めたことは、平安末期の和漢混交體と共にたしかに文學史上に於いて特筆される功績であつた。さうして又、それと同時に西洋風の調子の云ひ廻しを取り入れたことも、當時に於いては必ずしも無益な努力ではなかつた。それはあの頃に於ける歐米模倣の一般風潮に捲き込まれた結果ではあらうが、さうだとしても、一度は通つて來なければならない道程であつたかも知れない。鹿鳴館の舞蹈會のやうな、たわいのない、笑ふべき模倣ではなかつたかも知れない。私はこゝで懺悔をしなければならないが、有りていに云ふと、われ/\の口語體が最も西洋臭くなつたのは自然主義勃興前後の時代、ちやうど私などが文壇へ出かゝつてゐた時分からであつて、紅葉や美妙齋の頃には、まだ雅俗折衷體の臭味が脱け切つてはゐなかつた。その證據には、今でもあの頃の文體を守つてをられる鏡花氏などの作品を見れば、思ひ半ばに過ぎるであらう。即ち年代から云へば、明治の末期、或は大正の初期頃から顯著に西洋風になり始め、その後は日に/\その傾向が急激になつて遂に今日の状態を來たしたもので、私なども多かれ少かれ勢ひを助けてゐるであらうが、その功罪は兎も角もとして、最早や今日では、明治以來歐化の方向のみを辿つて來た文體に何等かの變化を生じてもいゝ時期ではあるまいか。こゝらでわれ/\の國語の性質を考へ、その長所を生かすやうに努めても、まさか時勢が逆戻りする心配はあるまい。
もと/\西洋と日本では言葉のジニアスが違ふのであるから、模倣したところで程度は知れたものである。そして模倣すればする程、日本文としては醜くなり、分りにくゝなる。早い話が飜譯物を見てもさうではないか。西洋の作品をわれ/\の口語體に直すと、大概の場合は原文よりも冗長になるので、日本語と云ふものは不便な國語だ、歐洲語と同じ事を表現するのに餘計言葉數を費しながら意味は却つて不明瞭になると、よくそんなことを云ふ人があるけれども、一つの國語を直譯風に他のもう一つの國語に移せば、何處の國の言葉でもさうならざるを得ないのである。まだしも歐洲詩を日本語に直すのだつたら曲りなりにも意味は通じるが、その反對の例を考へてみるがいゝ。和歌や俳句の英譯がいかに長たらしく、原文の二倍三倍の文字を費しながら、殆ど内容が違つたものになつてゐるかは、われ/\のよく知つてゐることではないか。さう云ふ場合、日本語のやうな簡便な云ひ廻しを持たない歐洲語では、直譯しようにもする道がないので、結局パラフレーズするより外はなく、飜譯と云ふよりは一種の註釋のやうになつてしまふ。もしわれ/\が西洋物を譯するのに、直譯體に依らないで純然たる日本風の表現法を取るとしたら、むしろ原文より短かいくらゐになることは、鴎外漁史の「創興詩人」などを見ても分る。
これを要するにわれ/\の書く口語體なるものは、名は創作でも實は飜譯の延長と認めていゝ。故有島武郎氏は小説を書く時しば/\最初に英文で書いて、然る後にそれを日本文に直したと聞いてゐるが、われ/\は皆、出來たらそのくらゐなことをしかねなかつたし、出來ない迄もその心組みで筆を執つた者が多かつたに違ひない。それは努めて表現を清新にするための手段でもあつたけれども、正直のところ、美しい文章、ひびきのいゝ文章、──と云ふことよりも、先づ第一に西洋臭い文章を書くことがわれ/\の願ひであつた。斯く云ふ私なぞ今から思ふと何とも耻かしい次第であるが、可なり熱心にさう心がけた一人であつて、有島氏のやうな器用な眞似は出來なかつたから、その反對に自分の文章が英語に譯し易いかどうかを始終考慮に入れて書いた。西洋人はかう云ふ云ひ廻しをするだらうか、西洋人が讀んだらどう思ふだらうか、と、それがいつも念頭にあつた。
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誰であつたかゞ、幸田露伴氏は非常に長いセンテンスを書く、時とすると一ぺージもつゞく程のがあると云つてゐたが、これは私も夙に氣が付いてゐたことで、露伴先生の文章と云へば、層々壘々と句を重ね、言葉を疊み、いかにも呼吸の長い、息の深い感じを起させろのは、主としてそのためであつて、現存の作家中長いセンテンスを書く點に於いては恐らく先生を隨一とするであらう。その外には泉鏡花氏、里見弴氏、宇野浩二氏などが長い方だが、概して大正期以後の作家の物は、一つ/\のセンテンスが短かい。若い人ほどさうのやうである。
私の見る所を以てすれば、これは關係代名詞と云ふ重寶なものゝない日本語を以て、歐洲文の組み立てを模倣した結果であると思ふ。英語のセンテンスの最も簡單なる形、
何々ハ何々デアル
と云ふ語法が、何處迄もわれ/\の口語體に附いて廻つてゐて、而も此の形式を備へた一つのセンテンスと、他の一つのセンテンスを結びつける言葉がない。尤も全然ない譯ではなく、「何々ガ何々シタ時ニ、何々ガ何々シタ」と云ふやうなのは云へるけれども、「何々ハ何々ガ何々シタトコロノモノヲ、何々シタ」と云ふやうな、英文法で云ふ從屬的クローズが附く文章は、云つて云へなくはないにしても明瞭を缺き、そんなクローズが二つ三つも重なつて來たら到底分らなくなつてしまふ。だからさう云ふ文章を日本語に譯さうとすると、いかに忠實な飜譯者でも一つのセンテンスには譯し切れないで、二つにも三つにも分けることになる。(岩波から出てゐる久保勉氏譯の「ケーベル博士論文集」は原文の關係代名詞を生かすやうにしてありながら、明晰さを失つてゐない。あれなどは先づ例外の名譯と云つてよからう。譯者の苦心が思ひやられる。)
かう云ふ場合、昔の日本文では前に引用した源氏の「空蝉」の一節がいゝ例であるが、あゝ云ふ風に幾つものクローズの中にある不必要な主格を略してしまひ、時に依つては極く肝腎な主格だけを入れるので、却つて意味がハッキリするし、どんなに長いセンテンスでも割りに紛糾を來たすことなく續けられる。それのみならず掛け言葉と云ふものがあつて、二つの主格、──或は主格と目的格、その他いろ/\の場合、──を一つの動詞又は形容詞で受けることが出來、關係代名詞よりもつと便利な働きをしてゐた。ところが西洋流に「何々ハ……」「何々ガ……」と一つ/\、主格を入れると、「ハ」だの「ガ」だのが徒らにめまぐるしいばかりで、澤山の動詞がそれらの孰れを受けてゐるのだか見分けがつかない。そこで仕方なくクローズを獨立させて、別のセンテンスにするやうになる。
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英語でも規則動詞の過去の形には必ず語尾に"d"の音がつく。しかしながら、日本語のやうに動詞がセンテンスの終りへ來ることは稀であるから、それほど耳ざはりではないけれども、われ/\の口語では、殊にセンテンスの短かいものでは、どうしても「る」止め「た」止めの頻出を免れられない。
私は敢て「た」止めの多い文章が悉く惡文だと云ふのではない。少くとも「た」の音や「る」の音の繰り返しは、音樂に於ける鉦や太鼓と同じやうに拍子を取ることになる譯だから、表現にテムポを與へようとする時は、「た。……た。……た」と行くのも悪くはない。實際「た」止めの文章の持つ魅力の大半は、此のリヅムの感じから來る。名文家と云はれる人は此のリヅムを非常に生かして使つてゐる。「る」止めでも同樣な譯であるが、「た」のやうに齒切れがよくないので、効果が薄い。「た」の方を太鼓とすれば、「る」の方は木魚ぐらゐにしか響かない。
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今日は何事もテムポの世の中であるから、拍子入りの文章が然く盛んに行はれるのも或は偶然でないかも知れない。兎に角「た」止めの文章は齒切れがよく、爽快、新鮮、剛健と云つたやうなものには適するが、繊細なもの、優婉なもの、暗示的なもの、象徴的なものを云ひ現はさうとするには、決してふさはしい文體ではない。
前にもちよつと觸れて置いたやうに、日本語の表現の美しさは、十のものを七つしか云はないところ、言葉が陰影に富んでゐるところ、半分だけ物を云つて後は想像に任せようとするところにあつて、眞に日本的なる風雅の精神と云ふものはそこから發してゐるのである。尤もかう云ふと、それだから日本語は不完全な國語だ、十のものを七つしか云はないのでは舌足らずがしやべるやうで、到底歐洲語のやうに、説いて委曲を盡すことは出來ない、と云ふ人があるかも知れない、それは人々の考へやうだから、一概には片附けられないけれども、私に云はせると、全體人間の言葉なんてさう思ひ通りのことを細大洩らさず表現出來るものではないのだ。手近な例が料理法の本だとか、手品の説明書なぞを讀んでも、それが日本文であらうと英文であらうと、圖解でも這入つてゐなかつたら中々分るやうには書けてゐないではないか。言葉と云ふものはそれほど不完全な、微細な叙述になつて來ると一切實用にならないものなのだ。試みに鰻をたべたことのない人に鰻の味を分らせるやうに説明してみうと云つたつて、何處の國の言葉でもそんな場合の役には立つまい。然るに西洋人と云ふものは、なまじ彼等のヴオキヤブラリーが豐富なために、さう云ふ説明の出來得べくもないことを、何とか彼とか有らん限りの言葉を費して云ひ盡さうとして、そのくせ核心を摑むことは出來ずに、愚かしい努力をしてゐるやうに私には見える。獨逸語は哲學の理論を述べるのに最も適してゐるのださうだが、それにしても作者自らが此れで充分と思ふ程には決して云ひ盡せはしないであらう、現にショウペンハウエルが「意志と現識の世界」の序文で、「自分の本は一字一句が全體に關連してゐるから、正しくは二度讀んでくれないと理解されない」と云つてゐるやうに、言葉を費せば費すほど、全面を同時に具象的に云ひ表はすことが至難になる。さう云ふ點を考へると、少くとも文學に於いては、日本語のやうに言菓の云ひ表はし得る限界を守つて、それ以上は暗示するだけに止めた方が、賢いやり方ではないであらうか。
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だが、さうは云ふものゝ、日本語にしても今日の黷譯體を改めて、その本來の傳統的な語法を復活しさへしたら、ずゐぶん細かい心の働きや物の動きを表現することが、──或は氣分に依つてゞも感じさせることが、──出來るのである。それも和文の云ひ廻しが今日の口語體に全く應用出來ないのなら仕方がないが、いくらでも活かして使ふ道があることは、既に上來述べて來たところで大體明かになつたと思ふ。私の知つてゐる限りに於いて、今日の作家で古い手法を上手に活かして使つてゐる人は、泉鏡花氏のやうな老大家を除いては里見弴氏と久保田万太郎氏の二人である。それが近頃のことでなく兩氏とも可なり若い時代からずつとその心がけでゐたらしいのは敬服に値ひする。さうして而も面白いのは、同じく古法を守りながら兩氏の行き方が全然違つてゐることである。里見氏の方は思ふに鏡花氏の文章なぞからコツを覺えたものらしく、盛んに主格を省略してあり、その結果として筆が極めて自由自在に、何處迄でも腰が伸び、云はんと欲して云ひ得ざることなく、殆どおしやべり過ぎる程に迄、痒い所へ手が屆くやうに行き亙つてゐる。久保田氏の方はそれと反對に、出來るだけ言葉を愼しみ、云はないで濟むことは成るたけ云はないやうにして、守錢奴が錢を吝むやうに一語々々を惜しみつゝ暗示的に使つてゐる。メーテルリンクの行き方などゝ稍〻趣を一にしてゐるが、あれで久保田氏が、狹少な下町情調の世界のみでなく、もつと多趣多樣な方面にまであの語法を押しひろげることが出來たら、私は文句なく頭を下げるであらう。が、何にしても此の二人の文章は、日本語の積極的な長所と消極的な長所とを、先づ遺憾なく代表してゐると云つていゝ。
今の若い人たちの眼からは、里見氏の文體も久保田氏の文體ももう古くさいであらうが、何も此の兩氏のスタイルをそつくり眞似ろと云ふのではない。古い語法も活用の方法次第では却つて非常に新しくなる。むしろ現在の口語體の方が、今では一種の型に囚はれてしまつてゐる。さういつ迄も「彼は云つた」「それはあつた」ばかりで押して行くこともなからうではないか。西洋でもアンリ・ド・レニエの文章は、何處が始まりで何處が終りだか分らないやうな書き方だと聞いてゐる。ジヨウヂ・ムーアの此の頃の物も、會話に行を改めず、クオーテーシヨン・マークを施さず、地の文の中へ、一つセンテンスに書き込んでゐるところは昔の日本の小説と同じである。殊に近來はジエームズ・ジョイスなどゝ云ふ奇拔な作家が飛び出して來る世の中だから、今に西洋の方が一と足お先に失敬して、主格のない文章なんかを書くやうなことになるかも知れない。
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われ/\創作家の心がけもさる事ながら、私は今の小中學校の教師、──就中文法、綴り方、古典文學を擔當する人々や、教科書の編纂者あたりがもう少し此の點に氣を附けてくれたらどうかと思ふ。云ふ迄もなく、國語の傳統的精神を發揚することは、東洋思想を奪重することである。徒らに左傾思想の取り締まりをするよりは、此の方がずつと有効ではないか。
取り分け私は、今の女學校の先生たちに忠告したい。近頃の女子は綴り方でも手紙の文章でも、全く男子と區別がないやうな書き方をするが、あれは學校がさう云ふ方針で教へてゐるらしい。女子と男子が平等であると云ふことは、女子を男子にしてしまふこと、女性の美點をなくしてしまふことでない以上、そして日本文には、立派にジエンダーの差別が設けてある以上、その折角の國語の機能を亡ぼしてしまふ必要が何處にあらうか。ほんたうを云ふと、もつと高級な小説や論文でも、女性の筆に成るものは一見して男子と區別されるやうに書いたら、隨分讀み物に變化が出來て面白いと思ふ。假に男子の「のである口調」に封して、女子が「あります口調」を使ふのなぞも一つの方法ではないか。さうして此れは、繰り返して云ふが、ひとりわれ/\の國語に於いてのみ實行出來ることなのである。
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私は自分が小説家であるから主として小説の文體について得失を考へて來たのであるが、普通日常の實用文で小説の中に含まれてゐないものはないから、私の論旨は殆ど總べての口語文に當て篏められるものと思ふ。たゞ餘程專門的な學術上の論文とか、哲學的の理論とかは、私には畑違ひであるから自信のあることは云へないけれども、あれも何とかもう少し分り易く、親しみ易く、日本風に云ひ現はせる方法があるに違ひない。一般的にどう云ふ風に改良しろとは云へないながら、獨逸哲學の飜譯書などを讀んで見ても、此處をかう云ふ工合に云つたらもつとハツキリするだらうにと思ふやうな所がザラにあつて、一字一句に就いてなら幾らでも缺點を指摘し得る。蓋し西洋哲學の飜譯は飜譯中の難事であつて、理想を云へば飜譯者が原著者と同程度の頭腦を持ち、原著者の思想を悉く消化し盡してから、然る後に全然自分の物として原文の字句に囚はれることなく表現するに越したことはないであらう。尤もたまには「ケーベル博士論文集」のやうな例外もないではないが。
但し、こゝに、誰でも氣がつく筈であり、早速改良しようと思へばなし得る缺點が一つある。それは用語、テクニツクに就いてゞある。
此の間近松秋江氏が何かの雜誌に、「近頃新聞紙上に現れる若い人たちの評論は何を云つてゐるのやらサツパリ分らない、新渡戸博士のやうな人が、矢張あれを讀んでみて分らないと云つてゐた、なぜあんなものを始終掲載するのか、新聞紙の見識にかゝはる」と云ふやうな氣焔を擧げてゐた。秋江氏の云ひ方は少し極端ではあるが、所謂評論家の文章が讀みづらいことはたしかである。われ/\のやうにその方面に馴染みを持つてゐる者が、成るたけ親切に意味を汲み取るやうにして讀めば、まさか分らないことはないけれども、全くのしろうと、殊に新渡戸博士のやうな老人だつたら、いくら學者でも分らないと云ふのが本當であらう。つまり文壇では通用しても一般には通用しないのである。それが論戰などの場合、急き込んで筆を走らせたりしたのは尚更分らなさ加減がひどい。近松氏は此の弊害を、評論家の頭腦の問題に歸してゐるかのやうであつたが、──さうして事實、頭のよしあしにも依るには依るが、──半分以上は用語の選擇に原因するところがあると思ふ。どう云ふ譯か若い人になればなる程、創作にはわれ/\よりもやさしい言葉を使ひながら、論文の場合には馬鹿に澤山の漢字を列ね、何々的何々的と云ふ風に幾らでも四角張つた文字を積み上げ、殆ど語を成してゐないのが多い。そしてそれ程の必要もないのに殊更哲學上の熟語を用ひる。大衆に向つて呼びかけてゐる人程さうなのは甚だをかしい。
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全體日本に於ける漢學と洋學とは、兩極端のやうであつて實は思ひの外縁が近い。今日のわれ/\の口語文に於いても、眞に日本的なる和文の文脈こそ廢れてしまつたが、漢文口調は未だに潜勢力を保つてゐることは前に述べた通りである。それのみならず、明治になつてから、西洋流の物の云ひカが輸入されたと同時に、漢語や漢字の使用量も徳川時代よりは却つて殖えた。
その證據には、明治以後に於ける諸官省の公文書、新聞雜誌等の記事文と、徳川期のそれらに該當するものとを比較して見れば直ちに分る。役人の名前にしてからが、御老中、若年寄、町奉行、目付、岡ツ引、お小姓、お小姓頭、組頭、お側用人、お馬廻り、勘定方、賄ひ方などゝ云ふのと、今の内閣總理大臣、總督、長官、知事、參事官、秘書官、刑事、警部、巡査などゝ云ふのと、どつちがより日本的であるか説明する迄もないだらう。
蓋し漢語風な役人や役所の稱呼はその由來する所が久しく、唐制を模倣した王朝時代に端を發してゐるのであるが、鎌倉幕府になつてからそれが始めて日本風な呼び方に改められ、徳川時代迄ずつとさうであつたのが、明治維新と共に、漢字や漢語の使用までが王政の古へに復つたのである。しかしながら、官吏の稱呼を改めることは、人心を新たにするための政策であつたとしても、何故かうまで支那や朝鮮臭くする必要があつたゞらうか。
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それと云ふのは、漢語はいかに日本語に同化されたと云つても元來外國語であるから、西洋の熟語に當て篏める易合に、純粹の大和言葉よりはエキゾチツクな感じを出し易く、何となくハイカラに聞えるせゐであつたに違ひない。たとへばコンサーンと云ふ英語を、「係はり」「係り合ひ」「氣が玉り」などゝ譯したのでは一向耳新しくないが、「干與」とか「關心」とか云ふと變に西洋臭く、意味ありげにひゞく。即ち漢語は明治の歐化熱の機運に乘じて、計らずも洋語と握手したのである。
尚もう一つの理由は、日本には昔から科學らしい學問がなく、醫學、天文學、本草學等をすべて支那から學んだ結果、それらの學術上の熟語も漢語をそつくり使つてゐたのが、明治以後に於ける科學思想の勃興と共に、そのまゝ新來の西洋の熟語へ應用された關係もあらう。しかし漢語でもさう云ふ風に昔からあるものを使つてゐるうちはまだよかつたが、追ひ/\學者たちが勝手に漢字を組み合はせて、思ひ/\に新奇の熟語を作るやうになつてからは、漸くその煩に堪へられなくなつた。そして一時は、新しい熟語を使ひさへすれば新しい思想家であるかのやうに見せかけることが出來たので、此の弊害は今でも全く終熄したとは云ひ難い。私の知つてゐる範圍でも、「觀念」の代りに「理念」などゝ云ふ隨分不思議な哲學上の言葉が出來たのはつい近年の事のやうに記憶してゐる。「觀念」と「理念」と、學者に云はせたらいくらか感じが違ふのかも知れないけれども、一字か二字の漢字の中へ思想的内容を盛り込まうとするのは無理な話で、さう云ふ人たちは一字々々が意味を持つてゐる漢字の性質に禍され、言葉は符牒に過ぎないことを忘れてゐるのである。
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ハイカラな近代的熟語のやうに見えても、案外古い言葉もある。「舞蹈」と云ふ語は枕の草紙に出て來るし、「觀念」と云ふ語は元は佛教の方の言葉で、方丈記の中にも使つてゐる。その他「藝術」、「文藝」などゝ云ふ言葉も、今と多少は意味が違つてゐるにもせよ、明治以前にないことはない。そんな譯で、すでに成語として適用するものは改める迄もないけれども、此れから新しく作る熟語、或は飜譯する熟語は、もつと日本語らしいものにしたらどうであらう。漢語に直すくらゐなら西洋に原語のあるものは寧ろそのまゝを使つた方が、まだしも此れからの世の中には分り易く、便利ではなからうか。漢字は一字一語であるから、ちよつと考へると簡單に用が足りるやうだが、昔なら知らず、今後の時勢では、──殊に四聲の區別を持たない日本人に取つては、──澤山の漢語が重なつて來ると、たゞ無意味なる音の累積としか感ぜられなくなるであらう。
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イギリス人はアイデイアと云ふ言葉を哲學の熟語としても使へば、普通の會話の中にも使ふ。さう云ふ風にわれ/\の哲學も、われ/\が日常口にするやうな碎けた言葉で云ひ現はすことは出來ないだらうか。況んやそれ程嚴密なる叙述を必要としない、新聞紙上に現れる評論の如きにおいてをやである。
「觀念」、「概念」等の厄介な言葉を使はないでも、大概な場合は「考」と云ふだけで濟むことである。然るに多くの評論家は、「知つてゐる」で濟むところを「意識してゐる」と云ひ、「餘り」「差引き」「さや」で濟むところを「剩餘」と云ひ、萬事がさういふ行き方で、ことさらに漢字を多く使ふ。就中最も眼につくのは「的」の字の亂用である。あれはたゞ「の」の字に書き換へて差支へのない場合が非常に多い。たとへば「思想的背景」は「思想の背景」で、「社會主義的文學」は「社會主義の文學」で澤山である。(現在の支那語に於ける「的」の字は「の」の字程にしか使はれてゐない。)それも程度問題であるが、いかなる漢語にでも「的」の字を加へて強ひて形容詞の働きをさせ、それを幾箇となく積み重ねるに至つては、先にも云つたやうに音の連續になるばかりで、意味を追ひかけて行くのに骨が折れるから、到底晦澁になることを避け得られない。
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純然たる日本語で熟語を作ると、長たらしくなり、纒まりがつかなくなると思ふ人は、農夫、漁師、大工、左官、指物師、塗師屋《ぬしや》等の間に使はれてゐる用語を見るがいゝ。實際、今日眞の日本語らしいテクニツクが生きて使はれてゐるのは、彼等の階級に於いてのみである。彼等が日常それで結構用を足してゐる愛すべき言葉、──働きのひろい、細かい、簡單で氣の利いた言葉は、遠く室町時代頃からの正しい傳統を引き繼いでゐるのである。
私は、漢字制限よりもローマ字採用よりも、何よりも先づ用語の矯正と、「新しい言葉の作り方」の改良とが急務であると思ふ。それからでなければ漢字制限もローマ字採用も實行出來る筈がない。
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かう云ふことは、凡そ筆を執る程の人がみんなで氣を揃へてくれなければ、私一人が突如として異を樹てゝみても一向實効のないことである。恐らく世間には私と同樣の意見を持ちながら、仕方なしに大勢に引きずられてゐる人が多いであらう。何とかならないものであらうか。
谷崎潤一郎全集(新書判) 21巻(昭和33.7)
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初出 『改造』昭和4年11月号
最終更新:2016年01月04日 10:18