谷崎潤一郎『文章讀本』「一 文章とは何か」(1)言語と文章

人間が心に思ふことを他人に傳へ、知らしめるのには、いろ/\な方法があります。たとへば悲しみを訴へるのには、悲しい顏つきをしても傳へられる。物が食ひたい時は手眞似で食ふ樣子をして見せても分る、、その外、泣くとか、呻《うな》るとか、叫ぶとか、睨むとか、嘆息するとか、毆《なぐ》るとか云ふ手段もありまして、急な、激しい感倩を一と息に傳へるのには、さう云ふ原始的な方法の方が、適する場合もありますが、しかしやゝ細かい思想を明瞭に傳へようとすれば、言語に依るより外はありません。言語がないとどんなに不自由かと云ふことは、日本語の通じない外國へ族行してみると分ります。

なほ又、言語は他人を相手にする時ばかりでなく、ひとりで物を考へる時にも必要であります。われ/\は頭の中で「これをかうして」とか「あれをあゝして」とか云ふ風に獨りごとを云ひ、自分で自分に云ひ聽かせながら考へる。さうしないと、自分の思つてゐることがはつきりせず、纒《まと》まりがつきにくい。皆さんが算術や幾何の問題を考へるのにも、必ず頭の中で言語を使ふ。われ/\は又、孤獨を紛らすために自分で自分に話しかける習慣があります。強ひて物を考へようとしないでも、獨りでぽつねんとしてゐる時、自分の中にあるもう一人の自分が、ふと囁《さゝや》きかけて來ることがあります。それから、他人に話すのでも、自分の云はうとすることを一遍心で云つてみて、然る後口に出すこともあります。普通われ/\が英語を話す時は、先づ日本語で思ひ浮かべ、それを頭の中で英語に譯してからしやべりますが、母國語で話す時でも、むつかしい事柄を述べるのには、しば/\さう云ふ風にする必要を感じます。されば言語は思想を傳達する機關であると同時に、思想に一つの形態を與へる、纒まりをつける、と云ふ働きを持つてをります。

さう云ふ譯で、言語は非常に便利なものでありますが、しかし人間が心に思つてゐることなら何でも言語で現はせる、言語を以て表白出來ない思想や感情はない、という風に考へたら間違ひであります、今も云ふやうに、泣いたり、笑ったり、叫んだりする方が、却つてその時の氣持にぴつたり當て篏《は》まる場合がある。默つてさめ/゛\と涙を流してゐる方が、くど/\言葉を費すよりも千萬無量の思ひを傳へる。もつと簡單な例を擧げますと、鯛を食べたことのない人に鯛の味を分らせるやうに説明しろと云つたらば、皆さんはどんな言葉を擇びますか。)恐らくどんな言葉を以ても云ひ現はす方法がないでありませう。左樣に、たつた一つの物の味でさへ傳へることが出來ないのでありますから、言語と云ふものは案外不自由なものでもあります。のみならず、思想に纏まりをつけると云ふ働きがある一面に、思想を一定の型に入れてしまふと云ふ缺點があります。たとへば紅い花を見ても、各人がそれを同じ色に感ずるかどうかは疑問でありまして、眼の感覺のすぐれた人は、その色の中に常人には氣が付かない複雑な美しさを見るかも知れない。その人の眼に感ずる色は、普通の「紅い」と云ふ色とは違ふものであるかも知れない。しかしさう云ふ場合にそれを言葉で現はさうとすれば、兎に角「紅《あか》」に一番近いのでありますから、矢張その人は「紅い」と云ふでありませう。つまり「紅い」と云ふ言葉があるために、その人のほんたうの感覺とは違つたものが傳へられる。言葉がなければ傳へられないだけのことでありますが、あるために害をすることがある。これは後に詳しく説く機會がありますから、今はこれ以上申しませんが、返す/゛\も言語は萬能なものでないこと、その働きは不自由であり、時には有害なものであることを、忘れてはならないのであります。

次に、言語を口で話す代りに、文字で示したものが文章であります。少數の人を相手にする時は口で話したら間に合ひますが、多數を相手にする時は一々話すのが面倒であります。又、口で云ふ言葉はその場限りで消えてしまふのでありますから、長く傳へることが出來ない。そこで言語を文章の形にして、大勢の人に讀んで貰ひ、又は後まで殘すと云ふ必要が生じた譯であります、ですから言語と文章とはもと/\同じものでありまして、「言語」と云ふ中に「文章」を含めることもあります。嚴密に云へば、「口で話される言葉」と「文字で書かれる言葉」と云ふ風に區別した方がよいかも知れません。が、同じ言葉でも既に文字で書かれる以上は、ロで話されるものとは自然違つて來ない筈はありません。小説家の佐藤春夫氏は「文章は口でしやべる通りに書け」と云ふ主義を主張したことがありましたが、假りにしやべる通りを書いたとしましても、文字に記したものを眼で讀むのと、それが話されるのを直接に聞くのとは、感じ方に違ひがあります、口で話される場合には、その人の聲音《こわね》とか、言葉と言葉の間とか、眼つき、顔つき、身振、手眞似などが這入つて來ますが、文章にはさう云ふ要素がない代りに、文字の使ひ方やその他いろ/\な方法でそれを補ひ得る長所があります、なほ又ロで話す方は、その場で感動させることを主眼としますが、文章の方はなるたけその感銘が長く記憶されるやうに書きます。從って、口でしやべる術と文章を綴る術とは、それ/゛\別の才能に属するのでありまして、話の上手な人が必ず文章が巧いと云ふ譯には行きません。


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最終更新:2016年01月04日 22:13