石垣謙二「主格「ガ」助詞より接續「ガ」助詞へ」3止



五 接續形式の發展

 今昔物語三十一卷の全「が」助詞を調査すると、主格形式第一類・第二類・第三類共頻繁に用ゐられてゐるのは勿論、第二類中「の」助詞以外の形式によつて形状性名詞句の構成されるものも亦極めて多く見出す事が出來るが、特に接續助詞と認めざるを得ないものが八例發見されるのである。

 (1) 三井寺ノ智證大師ハ若クシテ宋ニ渡テ此ノ阿闍梨ヲ師トシテ眞言習テ御ケルガ、其レモ共ニ新羅ニ渡リ御シケレドモ (卷十四)

 働 落入ケル時巳ノ時許ナリケルガ、日モ漸ク暮ヌ (卷十六)

 ㈲ 宣旨ヲ奉テ后ノ御病ヲ療治セムガ爲ニ宮ノ内ニ候ケルガ、殿上ノ方二俄ニ騒ギ隍ル晋シケレバ、鴨繼驚テ走入タルニ (卷二十)

 ㈲ 公任ノ大納言當テ讀ミ給ケルガ、既ニ其ノ日ニ成テ人々ノ歌ハ皆持參タリケルニ、此大納言ノ遲ク參リ給ケレバ(卷二十四)

 ㈲ 女糸喜シト宏テ行ケルガ、恠ク此ノ女ノ氣怖シキ樣二思エケレドモ (卷二十七)

 ㈹ 子二人ハ彖ヲ衞別ケテ居タリケルガ、此ノ子共ノ山ヨリ返來タルニ (卷二十七)
         カコミワ
 の 殊ニ勝レテ賢カリケル狗ヲ年來飼付テ有ケルガ、夜打深更ル程ニ異狗共ハ皆臥タルニ、此ノ狗]ツ俄ニ起走テ(卷二十九)

 ㈲ 男子二人有ケルガ、其ノ父失ニケレバ、其ノニ人ノ子共戀ヒ悲ブ事年ヲ經レドモ (卷三十一)
之等の諸例に於ては傍點を附した語が文の主體を表して居り、「が」の下の部分が完全な一文である事を認めなければならないから、隨つて「が」は接續助詞と考へざるを得ないものである。即ち平安時代初期より中期に亙つて次第に「が」助詞の上下の結合度が弛緩し、「が」の上も下も共に互に獨立した文と文とに成長しようとする傾向は、途に院政時代に至つて完全に結實して茲に接續助詞としての「が」が登場し來つたのである。

 さて之等八例の「が」を仔細に檢すると、中(1)㈲㈲㈲㈲㈹の六例は皆共通した構造を有する事に氣付くであらう。之等の六例にあつては、「が」の上なる部分即ち前件に於ける主體と、「が」の下なる部分即ち後件に於ける主體とが同一である。例へば(1)に於て前件の主體は「智證大師」であるが後件の主體「共レ」も亦「智證大師」を指す代名詞と解されるのであつて以下の例も全く同樣である。

 之に對してGりは異つた構造を有する。(1)に於て後件の主醴たるものは「此ノ狗」であるのに之は前件の主體と同一ではなく、「殊二勝レテ賢カリケル狗ヲ年來飼付テ」の「狗」と同一なのであるから前件の客體と同一であるといはなければならない。
 茲に於て想起せられるものは主格形式第二類と第三類である。何となれば先づ主格形式第二類は「が」の承ける名詞句の主體と複文全體の主體とが同一なるものであるから、例へば、

  ○すめの尼君は上逹部の北の方にて有りけるが、其人亡くなり給ひて後、〔この尼君〕むすめ唯だ一人をいみじくかしづきて (源氏手習)
のやうに括弧内の語を補ふと直ちに右の(1)等と同じ例になり、逆に右の(1)等に於て、

  三井寺ノ智證大師ハ若クシテ宋ニ渡テ此ノ阿闍梨ヲ師トシテ眞言習テ御ケルガ、共ニ新羅ニ渡リ御シケレドモ
の如く後件の主體を取除けば直ちに主格形式第二類と同じ例になるのである。
 又主格形式第三類は「が」の承ける名詞句の客體と複文全體の主體とが同一なるものであるから、例へば、

櫻を近く掘り植ゑけるが〔その櫻〕枯れざまに見えければ (大和物語)
のやうに括弧内の語を補ふと直ちに右の(1)と同じ例になり、逆に右の(1)に於て、

狗ヲ年來飼付テ有ケルガ、夜打深更ル程ニ異狗共ハ皆臥タルニ、俄ニ起走テ
の如く後件の主體を取除けば直ちに主格形式第三類と同じ例になるのである。
 かやうに(1)偶(1)㈲㈲(1)圖の諸例は夫々主格形式第二類・第三類に對應すると考へられるのであるが、殘りの一例師ち(2)の例はこのいづれとも對應しない。

  落入ケル時巳ノ時許ナリケルガ、日モ漸ク暮ヌ
に於て後件の亠土體たる「日」は、前件の主體とも客體とも同じだといふ事は不可能である。
 然るに此の例では後件が少しく特殊な構造を有してゐると考へる事が出來る。今試みに觀智院本類聚名義抄を見ると、「晩」に「ヒクレヌ」とも「クレヌ」とも註し、「昏」に「ヒクル」とも「クル」とも註してゐるから、「日暮る」は單に「暮る」といふのと全く同義であると考へられる。名義抄には又「燻」「眩」に夫々「ヒクレ」と註してゐるのを見れば、當時既に「日暮れ」といふ體言があり一複合語として用ゐられてゐた事が知られ、「日暮る」も或は「目、暮る」といふ主述關係でなく「日暮る」全體で一複合語と見徹されてゐたかも知れない。いづれにせよ「日暮る」が意味上「暮る」と同じである以上は、「日モ漸ク暮レヌ」は結局ただ「漸ク暮レヌ」といふに等しく、全文の意味する處は「落込んだ時に巳の刻ばかりであつたのが、漸く日暮れになつた」と解し得るのである。さすれば「日モ漸ク暮レヌ」は「が」助詞に對して後件を形式してゐるといはんよりは寧ろ述部を構成してゐるといふに近く、隨つて「日」は後件の主體たるよりも寧ろ述部の一部分を提示したものたるに近いのである。然し乍ら「日モ漸ク暮レヌ」は形式上ではやはり一文を構成すると見るべきであるから、「が」は接續助詞とすべきであらうが、然る時は後件が多分に述部的で後件の形式上の主體は極めて提示語に近い事を認めなければならないのであつて、かやうな「が」助齢詞は最も主格形式に近い性質を有すると考へられるのである。

 さて右のやうに今昔物語には三種類の異つた接續形式を見出すのであるが、その中の二種類は前述の如く夫々主格形式の第二類と第三類とに對應するものであるから、その發展過程も亦主格形式の場合に對應すると考へるのが理論上自然であ戞又殘りの黐は最も霧形式に近い性質をもっと見られるゆ桑接續形式の源が主格形式に存する以上、この類が最初に發生したと推定する事は充分に妥當である。依つて、最も主格形式に近い性質を有するものを接續形式第-類、前件の主體と後件の主體とが同一なものを接續形式第2類、前件の客體と後件の主體とが同一なるものを接續形式第3類と命名する事が出來るであらう。
由來今昔物語は語法上より檢討する時、卷二十以前には漢文調が彊く隨つて文語的であり保守的であると稱する事が出來るに對し、卷二十二以後には生きた口語たる色が濃く、或は後人の増補かと疑ふ事さへ出來るのであつて、この事に就いては昭和十六年十月「國語と國文學」の拙稿「語法より觀たる今昔物語」に愚見を述べたのであるが、右の第3類のみが卷二十二以後に限つて見出されるのは恐らく第ユ・第2の二類より新しい語法である事を示すものと見てよいのであると思ふ。
 (註) 右の如く今昔物語には接續形式と認めざるを得ない例が存在するのであるから、常時の人々は既に接續助詞としての「が」を知つてゐた事が明かである。ざすれば此の時代に於ては、主格形式第二類の中「の」助詞以外の形式によつて形扶性名詞句の構成せられるものや、又主格形式第三類の如きものは、今日の吾々に於けると同樣、主格形式よりも寧ろ接續形式と考へられる可能性が強いと見なければならない。然しながら之等が皆接續形式と考へられたと假定しても既逋のやうに主格形式第二類は當然接續形式第2類となり、主格形式第三類は雷然接續形式第3類となるべきであるから、やはり今昔物語の接續形式は三種類を出でないといひ得るのである。
 次に鎌倉時代の状態を、宇治拾遺物語・愚管抄・古今著聞集・保元物語・卒治物語の五作品に就いて檢覈してみようと思ふが、右の中保元物語と平治物語とは語り物としての傳誦を考慮に入れるならば、そこに見られる語法が必ずしもすべて同一の日附を打ち得るか否か俄かに斷定し難いものであるから、此の二作晶は參考の程度に於て最後に一括して觸乳るに止めたいと思ふ。
 先づ宇治拾遺物語の全「が」助詞を調査すると、主格形式の諸類が盛んに用ゐられてゐるのは勿論、接續形式と認めざるを得ないものも亦存在するが、それらは次の三種に類別する事が出來るのである。
 (1) 長門前司といひける人の女二人ありける沖、姉は人の妻にてありける (卷三)

 鋤 となりにあるおきな左のかほに大なるこぶありけるが、このおきなこぶのうせたるを見て (卷一、類例一)

 ㈲ 藤の花いみじくおかしくつくりて松の稍よりひまなうかけられたるが、時ならぬものはすさまじきに、これは塞のくもりて雨のそぼふるにいみじくめでたうおかしうみゆ (卷七、類例二)

右の中、(1)は後件が形式上一文たる資格を備へてゐるが、前件に對して多分に述部的性質を有し、その主體を示す語「姉は」は寧ろ述部の一部分を提示したものに近い。即ち今昔物語の接續形式第1類と同類に屬すべきものである。又働㈹は夫々傍點によつて知られる如く(1)は前後件の主體が同一であつて今昔物語の接續形式第2類と同類に屬すべきものであり、㈲は前件の客體と後件の主體とが同一であって今此臼物語の接續形式第3類と同類に屬すべきものである。

 宇治拾遺物語の接續「が」助詞は右のやうに今昔物語の三類と夫々同類と認められるものが見出されるのであるが、これ以外の異つた種類は發見されない。

 然るに愚管抄の全「が」助詞を調査すると、主格形式の諸類が盛んに用ゐられてゐるのは勿論、接續形式と認めざるを得ないものも亦存在するが、第ユ類・第2類・第3類のいづれにも屬さない新例を次の如く二種類まで見出すのである。

 (1)其後又頼家ガ子ノ、葉上上人ガモトニ法師ニナリテアリケル、十四ニナリケルガ、義盛ガ方二打モラサレタ々

  者アツマリテ、一心ニテ此禪師ヲ取テ (卷六、類例一)

 働 信頼ハ中納言右衞門督マデナサレテアリケルガ、コノ信西ハマタ我子ドモ俊憲大辨宰相、貞憲右中辨、成憲近衞司ナドニナシテアリケリ (卷五、類例二)
右の(1)に於ては、前後件間に第1類の如き關係を認め得ないのみならず、第2類の如く前後件が主體を同じくするのでもなければ、第3類の如く前件の客體と後件の主體とが同一といふのでもない。然らば兩件間には何の聯關も無いかといふに、前件の主體と後件の客軆とが同一なる關係を有する事、傍點の部分によつて明かであり、丁度第3類と邀の關係で全く新しい一類と認める必要が存するのである。

 又図に於ては前後件の間に何等形式上の關聯を見る事が出來ないのみならず、後件が述部的性質をもつとも絶對に考へ難い。前件で「信頼」の上を述べるかと思へば後件では俄かに轉じて「信西」の上を敍してゐるのである。即ち兩件は互に對等的で、後件は前件に對して極めて唐突に現れるのであつて、全く新しい一類と認める必要が存するのである。

 かやうに愚管抄には新しい二種類を發見するのであるが、次に古今著聞集の全「が」助詞を調査すると、主格形式の諸類が盛んに用ゐられてゐるのは勿論、接續形式と認めざるを得ないものも亦相當に存在する、特に愚管抄に甫めて見出された二種類は茲にも同樣に現れて居る上に、更に既出のいづれの類にも屬さない新しい一類をも見出す事が出來るのである。即ち、

(1) 大なる人あかきくみをくびにかけて四季の御屏風のうへに見へけるが、主上御覽じてのち御心地れいにたがはせ給ひて、いくほどなくて崩御ありけり (卷十七、類例二)

(2) おなじ四年四月廿九日未時ばかりにつじ風吹たりけり、九條のかたよりおこりけるが、京中の家或はまろび或は柱ばかりのこれり (卷十七、類例二)

㈲ 目出たくは書て候一ける一が、難少々候 (卷十一、類例四)

右の中(1)は前件の主體「大なる人」が同時に後件の客體となるものであるから、愚管抄の(1)と同類に屬すべきものであり、又(1)は前件で「風」の事をいひ後件で「家」の事を述べ、實際には夫々原因結果をなしてゐるとしても少くも敍述の上に於ては前後件は極めて唐突な關係に在るといはなければならないから、愚管抄の(2)と同類に屬すべきものである。

 然るに㈲に於ては之等と趣を異にし、前後件が意味上所謂逆戻の關係に立つてゐて、「目出たく書てある事」と「難が少々ある事」とは互に反撥し合ふ事實であるゆゑ、「が」は「けれども」「にも拘らず」「然るに」等の意味と解されるのである。逆態接續的用法は現代語の「が」助詞に於ける一特色とも云ふべきであるが、かかる用法は右の類に甫めて見られるといひ得るのであつて、この點新しい一類と認める必要が存するのである。

 さて鎌倉時代の接續「が」助詞には、上述の如く愚管抄と古今著聞集とに、都合三つの新しい種類を見出すのであるが、古今著聞集の制立は著者橘成季の自序によつて建長六(一二五四)年と定められ、愚管抄の制立は慈鎭(慈圓)の作として當然彼が入寂の嘉祿元(一一三五)年以前でなければならないから、愚管抄の方が少くも三十年は早い事となる。この事實は右の三種類の新しい接續形式が著聞集にはすべて見出されるに對して愚管抄には中二種類しか見られない事實と誠に正確に照應してゐるといふ事が出來、隨つて之等三種類の中で最も後れて發生したと認め得るものは古今著聞集にのみ見出される一類でなければならない。然るにこの類に於ては前後件間に意味上逆戻の關係が存在し、三種類の中で鼠最も「が」助詞の上下が遊離の傾向に在ると考へられるのである。最も後に發生した類に於て最も「が」助詞の上下が遊離してゐるといふ事は、此の時代に於ける接續形式發展の大勢を窺はしめるに充分であるから、愚管抄に同時に見出される二種類の先後もおのつから推定し得べきである。

 即ち、愚管抄には前述の如く、前件のギ體と後件の客體とが同一なる類と、前後件が對等で互に極めて唐突な關係にある類との二つが存するのであるが、前者は前後件闇に形式上の聯關を見得る點に於て接續形式の第2類や第3類に近く、後者はそれが見られない點に於て著聞集の類に近いのである。依つて、前件の主體と後件の客體とが同一なるものを接續形式第4類、前後件が對等で互に極めて唐突な關係にあるものを接續形式第5類、前後件間に意味上逆戻の關係が存するものを接續形式第6類と命名する事が出來るであらう。
L竝で參考の爲に、保元物語と平治物語との全「が」助詞を一括して調査すると、主格形式の諸類が盛んに用ゐられてゐるのは勿論、接續形式と認めざるを得ないものも亦相當に存在する。而も特別の新例は見られないが鎌倉時代に新たに發生したと考へられる第4類・第5類・第6類はいづれも發見し得るのである。即ち、
九郎判官は〔中略〕又奥州へ下り秀衡を頼みて過されけるが、秀衡が一期の後、鎌倉殿より泰衡を賺して判宮を撃たせ (平治卷三)
右は接續形式第4類の例であり、

鳥羽殿には故院の舊臣左大將公教卿、藤宰相光頼卿、右大辨顯時朝臣など籠居し給ひけるが、去んぬる八日より彗星東方に出で將軍塚頻りに鳴動す (保元卷一)
生を變へての後までも生土は忘れぬ習ひなるが、追つ立ての檢使、青侍季通、粟田口より次第に路次に弄び物を奪ひ取りて狼藉殊に甚し (平治卷三、類例九)
右は接續形式第5類の例であり、

重祚の御事は我が朝には齊明稱徳二代の先蹤あるが、朱雀白河の兩院も終に御素意を途げ給はず (保元卷三、類例一)
餘所人の流さるるは大いなる歎きなるが、頼朝が流罪は稀代の悦びなり (平治卷三、類例四)
右は接續形式第6類の例である。
 最後に、院政鎌倉時代に於ける接續「が」助詞發展の後を承け、天草本の平家物語と伊曾保物語に就いて室町時代の状態を一暼しておきたいと思ふ。天草本に現れる所を以て論ずれば接續形式の上の六類は益ヒ頻繁に用ゐられてゐるといふ事が出來るのであつて、簡單に各辷一例つつを掲げるならば、
 第1類

尼二人木の根を傳ひおりくだるが、先に立つたは樒躑躅藤の花を入れた花篋を肱にかけ、今一人は爪木に蕨をとりそへてだかれた (平家卷四)(類例、平家十四、伊曾保一)
 第2類

かの乘り馬がこれを見て「……」と由々しげに罵つてすぎたが、その馬ほどなう兩足をふみ折ったによつて
  (伊曾保)(類例、伊曾保六・平家二十九)
 第3類
また靜、女一人見せに遣はすが、女程なう走り歸つて (平家卷四)(類例、平家五・伊曾保二)
 第4類

武藏と下野の境に利根川といふ大河がござるが、それをも馬筏をつくつて渡いてござる (平家卷二)(類例、平家七・伊曾保三)
 第5類
                   わ きみ
これは越中の前司といふ者ぢやが、我君はたそ? (平家卷四)(類例、平家二十一・伊曾保二)

 第6類
おのれは風呂に唯ひとりあると言うたが、この群集は常よりも多いは何ごとそ(伊曾保)(類例、伊曾保三本家十四)
右のやうになるであらう・
 天草本平家物語には右の外に、
この妻戸をばかうこそ出でさせられたが、あの木をば自らこそ植ゑさせられたが へ卷一)
の如く後件を省略して餘情を言外に籠めるといふ風な語法が見られるが、尤も之は平家物語の本文、
此妻戸をば角こそ出入給しか。あの木をば自らこそ植給しか。(少將都還)
から來てゐるもので實は「き」の已然形「しか」の訛誤ではあるけれども、現代語で「もう少しの所だつたがなあ」などといふ「が」助詞に或は連なるものではないであらうか。然りとすれば大體以上の諸用法を以て今日吾々が知つてゐる接續「が」助詞の用法は盡されてゐるやうに思はれるのである。
 如上接續「が」助詞を調査し終つた結果、大略六類乃至七類の異つた種類を識別したのであつて、之を列記すれば次の如くになるのである。
 第1類
  後件は形式上文を形成してゐながら、倚前件に野して述部的性質が濃厚で、後件の主體が極めて提示語に近いもの。
 第2類
  前件の主體と後件の主體とが同一なもの。
 第3類
  前件の客體と後件の主體とが同一なもの。
 第4類
  前件の主體と後件の客體とが同一なもの。
 第5類
  前後件の間に何等形式上の聯關が無く、兩件は互に樹等で、後件は前件に樹して極めて唐突に現れるもの。
 第6類
  前後件の間に逆戻的の意味が見られるもの。
 さて之等の各類は資料の上より觀ても大體右の順序に從つて發展したものと考へ得る事、既述の通である。さすれば大勢に於て接續形式の發展毛亦「が」の上下の關係が弛綏してゆく點に存すると見得るのであつて、主格形式の發展に於ける傾向と矛盾しないばかりか正に之と軌を一にするものである。即ち、第1類では後件が一文を形成しつつも尚前件に樹して述部的性質が濃厚で、最も主格形式に近似してゐるが、第2類に至ると後件の述部的性質は全く失はれ、前後件は單に主體を同じくする點に形式上の聯關を保つに止る事となるのであつて、此の變化は宛かも主格形式の第一類から第二類への變化に類するものがある。次に第2類より第3類に至ると前後件間の形式上の聯關も著しく弛綏する事は又、宛かも主格形式の第二類より第三類への變化と全く同樣である。
 更に第4類に於ては前後件の間に尚形式上の聯關を見得るのであるが、その聯關は第3類とは逆になつて居り、前件の主體と後件の客體とが同一である。隨つて第2類や第3類では前件中で(主體又は客體として)既に紹介濟みのものが後件の主體となるに反して第4類では未だ前件中に何等紹介されてゐないものが突然後件の主體として現れる結果となる爲に兩件間の聯關は一暦弛緩するといふ事が出來る⑳である。主格形式には第4類に對應するものが存在しないが、之はその性質上當然であらう。「が」の上の部分に現れてゐないものが「が」の下の部分で主體となれば、その「が」は既に接續助詞と認めなければならないからである。
 かくして前後件の關係が愈≧稀薄となるに至つて第5類が生じたのであつて、この類に於ては前後件間に何等形式上の聯關を認めず、後件は前件に對して極めて唐突に現れるのであるが、之は兩件が毫も拘束制約し合ふ事の無くなつた結果であるといはなければならない。


  連體形式 主格0 接続1 2 3 4 5 6 7
宣命 232 39                    
祝詞 49 3                    
土佐 5 3                    
竹取 25 9 2                  
伊勢 7 4   1                
大和 33 16   2 2              
源氏 506 117 134 71 8              
今昔上 1415 458 32 53 8 1 2          
今昔下 505 351 34 144 10 4 1        
宇治拾遺 293 137 18 129 3 1 2 3        
愚管抄 324 87 3 57 16 1 2 3    
著聞集 311 133 5 157 15 2 4 3 3 5    
保元119 33 1 54 2 3       1 2    
平治 176 58 4 91 6 6 1 10 5    
伊曾保 107 263 3 22 2 1 7 2 3 2 4  
平家 377 784 12 190 12 15 29 6 8 22 14 2


1)○印は體言を承ける主格「が」助詞である。
2)今昔物語上下とは夫々卷二十以前と卷二十二以後とである。
3)喚體形式は散文中にも稀に見られるが表中には省いておいた・
4)宣命・祝詞は補讀の例をも含む。
 最後に第6類に至れば、後件は前件に對して對等の關係から更に一歩進んで、意味上前件と全く逆戻的な立場に立つのであつて、第5類が零の關係と稱し得るならば第6類は正にマイナスの關係とも稱する事が出來るであらう。
 實に接續形式の「が」の發展過程は、主格形式の「が」の發展過程及び主格形式より接續形式の發生する過程と全く同一轍であると考へられ、兩者に共通なる原動力は、即ち「が」助詞發展を貫く推進力は、終始一貫「が」の上と下とが互に獨立しようとする傾向であり、結合力の弛綏である。

六 結

 以上管見の範圍内に於て主格形式より接續形式へ「が」助詞變遷の過程を一應跡づけたのであるが、右に用ゐた文獻に於ける連體形式・主格形式・接續形式の各頻度を散文の例のみに就いて表示すれば、右の如くになるのであるが、既に指摘したやうに接續形式を識別するに當つては、接續形式と認めざるを得ないもののみに限定し、接續形式とも認め得べきものには及ばなかつたのであるから、實際は接續形式の數が右表の數字よりも多くなるかも知れない。然しながらそれは第2類と第3類に限られる事既述の通りである。
 さて、如上縷述せる處によつて、或は主格助詞といひ或は接續助詞といふものの實は「が」助詞の變遷發展中に繼起せる諸相に過ぎない事、而もその變遷發展が如何にも漸進的になだらかに行はれてゐる事、更にその變遷發展が終始渝らざる目的性を以て唯一の傾向に沿うて行はれてゐる事等が首肯し得ると思ふのである。先に平安時代初期に於て主格「が」助詞が甫めて用言をも承け得るに至つた時に、爾後の活浚なる變遷發展も延いては接續助詞たるべき運命も、實にこの時に既に約束せられたとさへ云ひ得べきであると述べた所以である。接續「が」助詞の發生といふ院政時代に起つた一現象の原因を極める爲に、平安時代初期にまで或は奈良時代の喚體形式にまで遡源しなければその眞相に觸れ得ないといふ點にこそ、助詞の特異性が存するのであつて、隨つて助詞研究に對する態度を示唆するものも亦ここに存すると信ずるのである。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2016年04月10日 16:36