本文を草するに当って、最初に、|他所≪よそ≫の詞に関する記憶を語って見たい。なぜならば、そんな何でもないことが積り積って、老来郷里の方言を集めると云う仕事と進展した様に思うからである。
私の郷里は肝属郡の中部、少し東寄りにあるが、今一つ東に内之浦と云う村があって、そこには親戚が昔から居たのであるが、私がまだ幼少の頃、そこの娘さんが来て泊ったことがある。するとその娘さんが何かの場合に「ンデンデンデ」と叫んで皆が笑ったのを記憶して居る。これは標準語で「おやおや」と云う意味に相当して、これは高山町(私の村の名)では一般に「ンダモンダモ」と云って居るので、この「ンデンデ」は初耳で有った。又同じ幼年時代のことだが、母に連れられて西方一里の地にある、隣村|姶良≪あいら≫村のホゼに行った。ホゼは奉斎と書く相だが、他府県の秋祭りのこと、旧暦九月中各村日を違えて、この祭を行い、この時他村の親類同志が互に礼訪して平素の疎状をおわび傍々聊か馳走に預るのである。その折私が一番いやだったのは、そこの女達が私を呼んで「ボンチサン」と云うことであっだ。これは大阪では「船場のボンチ」などと云って、標準語の「坊ッチャン」と同じ意であるが高山にはない詞であった。も一つ耳新らしい詞は「行きましょう」と云う意味のことを「イキンソヤ」と云うのであったが、これは高山なら「イキモソヤ」と云って居る。
それから学齢に達して、村の小学校に通う様になった時、僅かな河一つ隔てた部落の少年達の詞に、吾等と違ったのが一二あった。その一つは蜘蛛類の中に「女郎ぐも」と云って、地方に依っては、この蜘蛛を二匹集めて喧嘩させて喜ぶのであるが、吾々はこれを「ヤマコブ」と云うのに、向う岸の子供達は「ヤマヤン」と云うのであった。又私達は「こらえて呉れ」と云うことを「カンニン」と云うのに、河向うの方では「コトネ」と云う様な事もあった。
さて私は十六歳の三月小学校を卒業して、鹿児島市にある、県立尋常中学校の第五級と云うのに入学した。第五級とは今の第一学年の意味である。この時私は始めて薩摩方面の青少年の詞と云うものを聞いたが、その時一番違って居たのは、肝属郡では長崎系統のバッテン(正しくはバッチェンである)をみんなが使って居るのに対して、薩摩方面は悉くドンカラと云うのであった。私は衆人の中で只一人バッテンを使う勇気もなく、さりとて直ちにドンカラに豹変する程軽薄にもなれず、その中を取って只ドン丈云って、後のカラは略して仕舞い、それを今日迄通して居る。又薩摩方面では「……である」と云うことを「……ヂャッガ」と云って居たが、私は在学五年間この詞を使わず、肝属詞の「……ヂャル」で押し通して仕舞った。
明治三十三年三月中学校卒業、直ちに上京半年ばかり神田の素人下宿に居た。その頃宿のおかみが扶養して居る職人の弟子が居て、それを毎朝起すのに「マサコ!」と怒鳴るのが珍らしかった。コは女にのみつけると思って居たからである。又そこの子供が「モッタイナィ」と云う詞をうまく使ったのを成程と聞いたり、小学校の校長を、大先生と云ったのも珍らしかった。間もなく私は寄宿舎に入って、諸国の詞を耳にしたのだが、埼玉県人で上野を何時もウイノと云うのが居り、又同室には岩手県のものも居たが、それには、ひまあればジとヂ、ズとヅの区別を教えたものである。その頃近松の浄瑠璃などを読んだりしたが、その中にソルベクソロ「可候候」と云う詞や、オミ(御身)や、ワセルなどと云う詞に逢着したのだが、この時生れて始めて肝属詞が古典にも出て居ると云うことを知ったのである。
以上は私が他所人の使う詞に関して、今猶記憶に残って居るだけを摘記したので有るが、こんな云わでものことも、現在の方言の仕事と一脈相通ずるものが有る様な気がして、ここに記録する。その後私は学校の英語教師となった。而して専ら英書に親しんだ。同時に日本の書籍をも気の向く儘に硬軟各方面に亘って漁り読んだが、併し郷土関係のものは只一冊以外に出でなかった。それは柳田先生の「山島民譚集」上巻である。大正の初め頃、日本橋の丸善から「甲寅叢書」と云って、五百部限定版、定価一冊五十銭で各方面の珍書を逐次出版した事が有った。「山島民譚集」はその叢書中の一で有ったが、この本を読んだ時、私は何とえらいもんだと感じた。資料が次から次からと限りなく提出されて応接に遑なしと云う様で有った。で其時は只読んだと云うだけに止った。その故は、私は柳田先生をもともと詩人だと思って居た。麻布の連隊前にフランス料理を食わせる竜土軒と云う西洋料理屋が有り、田山花袋など出入して居て、先生もそのグループに属すると承知して居た。だからこの本を読んだ時は何だ詩人らしい所などないじゃないかと云う反撥心も手伝ったりして後味が残らなかったのかと今では思って居る。一方英語教師たる私は鴃舌を口にして居る中に早くも不惑の年を過ぎ知命の齢をも後にして仕舞ったが、人間誰しも手に皺が見えたり、歯が抜けたりして来ると懐古癖になるものだが、昭和の初め頃になると、私も時々倭漢三歳図会など座右にして、昔なじみの物名と図会などに逢着すると、云い難き歓喜を覚ゆるので有った。この時しも現われたのが、先生の「蝸牛考」で有った。今迄懐古的に愛玩して居た郷土の方言が何ぞ料らん学問的に重要な資料となり得ると云う事を教えていただき、そんなものなら身分に相応した御奉公を方言界に致したいと決心し、この時初めて方言帳を座右に備えつけて本格的になった。地域は任地奈良県宇智郡と郷里児島県肝属郡に限り、鋭意蒐集に努めた。宇智郡方言に関してはここに云わず、肝属郡方言を集めるに如何なる方法に依ったかと云うに、自分一人で憶い出すのもその一つ、古い書籍や字引によるのもその一つで有ったが、若しわからぬ事が有ったら、郷里に居た姪共に尋ねてやるのが最も有効で有った。姪は三人あって山形シゲ、太田ミネ、江副ハギと云う。この三人に随時手紙を出して教えて貰った。姪達は自分が知ってることは直ぐ返事して呉れた。又知らぬことは人に尋ねて教えて呉れた。有り難い事に私には十年前頃迄八十代の母、七十歳の長兄其他兄姉悉く健在で有って、姪共はこれら年寄り其他に尋ねる所多かったと思う。最後に今尚感激に堪えぬことは、昭和六年の冬私は久々に帰国して一週間滞在した。それは母が明くれば九十歳になるから向後長い命とも思われぬ。願わくばその九十の年の正月を母の膝下で致したいと云うので有った。却説帰って見ると七十歳の長兄が先ず喜んで、今度はわしが知ってる村の事を残らず語っておくと云って一週間そばを離さず語りつづけた。母は母で同じ囲炉裏に無闇と火をたきつつ話しかけたものだ。私は二人の語る方言を聞き書きした。この時の収獲は甚だ大で有った。こんな事をして居る中に京都帝大新村博士指導の近畿方言学会にも早速入会して得る所有り、やがて「高山方言考」(高山は肝属郡内にある私の郷里の名)を草し、初めて柳田先生に見て貰った。これが私が先生に弟子入した最初で、方言考はやがて先生の紹介に依り、雑誌「方言」に一部掲載された。次いで今度の方言集にかかった。方言集と云った所で、全く老のすさびで洩れた詞も多々有る事と思う。併し私だけは一生懸命にやったつもりだ.最も熱心な時はノートと鉛筆を枕元におき、思い出したらはね起きて電灯を点して記入した様な事も再々あった。而して数年を経て出来たのだ。それが初めて世に見えると云うのだから、年取ってからの一人子と同じでうれしい次第である。これも偏えに先生の学恩と今は鬼籍にある母と兄、及び現に健在なる三人の姪共が有ったればこそと深く感謝する次第である。
昭和十六年十一月
野村 伝四
最終更新:2016年06月13日 11:55