ここに訓點といふのは訓點物即ち點本のことであつて、漢文を和讀する爲に、假名訓と乎己止點とを以て、之を表したものをいふ。點本の現存の資料は平安朝初頭以降の佛經・儒籍・國典等に亘つてゐて、近くは近世の新點まで及んでゐるわけである。題名は大き過ぎるが、自分はこれらの總べてに亘つて見たといふのではない。眞にその片端、殊に古い方の或物を見たに過ぎないが、數年來それを見てゐる間に、訓點物によつて國語の如何なる方面が考へられるであらうかについて、その都度氣附いて來た諸點を擧げて見るに止まる。もとより不完全なるものであるから、切に識者の補正を仰ぐ次第である。尚この話では、國語研究の資料としての訓點を見るのであるから、假名や乎己止點の事は省略して言はない。假名や乎己止點を手段に借りて讀下して國語とした上のものが、國語研究の資料として如何なる位置を取るかを眺めて見たいのである。
二
凡そ國語研究に供する資料について、第一に考へらるべきは、それが國訓される醇不醇のことである。我が國古來の文獻にはその形式が種々あるが、たとひそれが邦人によつて自國の事を記したとしても、國語に讀下し難いものがある。即ち純漢文又は準漢文で書かれたものは、國語としての誦讀が多くは不定である。たとへば記・紀・風土記のやうなものにしても、その眞假名書きの部分を除いては誦讀が不定である。誦讀不定の文學はそれを國文學として見ても不醇であるのみならず、又それは嚴格な國語研究の資料にはなり難いのである。我が古代文獻にはそれが多い。然るに訓點物は多く支那産の漢文でありながら、之を日本語に譯したものであつて、勿論醇不醇の度はあるが、その完全なものになると、全部國語樣式に讀下し得るやうになつてゐて、誦讀固定の文獻である。隨つて國語基調の文學に劣らず國語資料を含んでゐることは、古代に於ける誦讀不定なる文學に勝つてゐる點である。
第二は年代的に確實なることである。我が古代文學の多くは、その作られた當時のものの遺存せるは殆どなく、皆二次三次と傳寫を經たものである。我が古代の文獻は漢字をのみ以て記された國典でも、假名を以て記された文學でも皆さうである。只漢字のみで記された資料は傳寫による變化が比較的少いものと考へられるが、假名文學の物語・日記等に至れば、傳寫による變化が前者に比してより多く起り勝ちである。極端な例かも知れないが、枕草子の流布本を堺本や前田家本などに比較した時、何人も、その差異の餘りに甚だしくて、殆ど適從する所を知らないだらう。かかる種類のものは、第一次の原據を最も貴しとする國語資料としては價値の低いものである。この點に於て我が訓點物は第一次の原據である。その或物は施された年月が明かに記されてある。よし年代の不明なものでも、年代明記のものに比較して、種々の點から大體の推定がさして困難ではないのである。かくて訓點物が時代的に確實なる徴證となり得る點は、他の多くの文獻よりも殊に價値の高い所以である。
第三は遺存せる分量についてである。訓點物は現存の量から觀て決して他の文獻に輸けるものではない。試みに吉澤先生の點本書目(岩波日本文學講座)を見たならば思半ばに過ぎるであらう。無論あの中には完全に施されたもののみではないが、完全に國訓に讀貫き得るものが相當に多い。試みに比較的古い時代に完全に近く施されてゐるものであつて、私の見たものについて言へば、西大寺の金光明最勝王經點の完全に施訓された十巻が缺けず殘り、正倉院及び東大寺の成實論天長點十一巻、地藏十輪經元慶點八巻は缺本ながら亦完全に施訓され、石山寺の大智度論天安點及び瑜伽師地論古點の如きは共に百巻を存し、東大寺の大般若涅槃經及び石山寺の同經は、共に四十巻を存して、而も完全に施訓されてゐる。これらは現存點本に於ける眞の小部分に過ぎないが、これだけでも已に源氏物語の五十餘帖や榮華物語の四十帖に對して、分量上決して引けを取らないものであることを知るであらう。分量の多いことが必ずしも貴い資料でないとも言はれようが、量的に多いものほど、表れ來る國語に於ても廣きに亘つてゐることは勿論、たとひ同一樣のものが反覆されたとしても、資料は表れ來る度數の多いほど、その確實性を高めるわけである。訓點物の量的に多いことは亦尊重すべきことであると思ふ。
以上を要約するに、我が訓點物は國語研究の資料として、或醇粹性と或確實性とを以て相當に豊富なものを我等に供給してゐると言ひ得る。
三
然らば訓點物は如何なる特殊の資料を我等に供給するか。その第一は音韻的資料である。我が古代國語の音韻資料は所謂眞假名表記の文獻であるが、訓點物は之に次いだ音韻表記の資料である。我が國語音は平安朝に入って一期を劃した變化を見るのであるが、それらの變化を見得るものは當時の眞假名表記の資料と共に我が訓點物である。訓點は略體假名の表記即ち廣義の假名遣によつて、國語音の変化が忠實に表れ來るのである。先づ音の混淆(特殊假名遣の消滅、ア・ヤ・ワ三行の混同の如き)音の移動(ハ行轉呼音の發生、バ・マニ行の互換の如き)及び所謂音便の發生によつて、國語本來の音聲ではない長母音・撥音・促音等の發生情態が比較的正直に表れて來るのが訓點物である。その或物
には個人的の訛音さへもありのままに表れてゐるのである。
今一例として平安朝初期の地藏十輪經元慶七年點を擧げて見るが、音韻上種々の問題を我々に提供するのである。この點には已に、次の如きウ音便、またはイ音便、
浸・徐 ヤウヤク 馥 カウハシ 陶 ネウシ
呵 サイナマレム
更にまた、
已 ヲハヌル 不信受 セスナナム 頭 カへ
の如く撥音便をさへ生じたらう疑がある。而してウルハシ(美・麗)といふ語には、「ウルワシ」とハ行轉呼音さへ見
えてゐる。殊に故大矢博士が指摘されたやうに、ア行の衣ヤ行の江の混同若しくはア行のイ・オとワ行のヰ・ヲとの混同の始まつたらしい跡が見えるが(地藏十輪經元慶點參照)、かかる問題及び之が資料を我等に提供してくれるものは、この時代に於ては訓點が唯一のものである。更に降つて平假名文學の盛に表れる時代に在つても、音韻的現象を比較的正直に表してくれるものは訓點であつて、音韻の変遯を觀察するには、訓點は缺くことの出來ない資料である。
以上は國語音についてであるが、訓點は又字音の資料を供するのであつて、我が國に於ける漢字音の實際については、是非訓點を觀察しなくてはならない。訓點に於ける字音の表記は凡そ三種類あつて、一は古字典による反切であり、二は類音字を以てするものであり、三は純粹の假名書きである。
一、〓烏沒反 〓時規反又市縁反 羯居謁反 弭彌爾反 〓陟訶反(飯室切古點)
二、蕉少 辛身 癘禮 遞帝反 謫着反(地藏十輪經元慶點)
三、墜ツイ 重チウ 鮮セン 感カム 涸カク反 喪相ウ反(同右)
の如きが是である。其の内最も國語資料となるものは純粹假名書き、次いで類音書きのものである。それは漢字の日本的發音が最も明かにされるからである。
今一例を擧げるが、正倉院聖語藏の藏本に央掘魔羅經があつて、平安朝初期の白點と推定されるものが施されてゐる。之は經を全然音讀したものと見えて、字音のみを類音字と假名とで附けてあるのであつて、この時代の漢字音の資料として貴重なものである。恐らく字音をのみ記した古訓點の唯一なものであらう。その假名づけを見ると、無論所謂呉音に屬すべきものであるが、當時の讀書音の如何なるものであるかを知るべく、相當豊富なものを提供してくれる。字音の事は詳細にいふと限りがないから、茲にはこの資料に由つて知られる主要な點を例示するに止める。
我が字音は已に國語音を以て要攝して了つたものであるから、支那原音の微細な區別の表れてゐないことは勿論であつて、例へばこの資料に於て、翅・齒・賓は皆之と、慕・務・憐は皆ムと假名づけ、詳・傷・唱・牀は皆生の類音づけをしてゐることは言ふまでもない。字音の精密な考察に入るとこの點まで言及しなくてはならないが、今は言はない。先づ終聲(尾子音)の三内撥音・同入聲は次の如くであつて井然として定まつてゐる。
m(ム) 深四ム 鹽延ム 濫良无
n(二) 戰世爾 彈七爾 〓奈爾 苑乎爾 猿惠爾
ŋ(ウ) 象佐字 融由宇 聾リ宇
P( )例ナシ
t(チ)突止矢 竭可矢 蔑女矢 卒追矢
k(ク)匿爾口 翼由久 穽也久 脚可久
只「匹比木」といふ慣用音が存してゐること、而もそれだけが終聲キとなつてゐるのは注意すべきである。二重母音の音尾は、
綵左イ 哀阿イ 〓へ宇 遶根字 遭左ウ
などの如く、イ・ウで表すこと古今同一である。
次に初聲(頭子音)については清濁の別である。假名字母は清濁共用であるから、それの表れない憾みがあるが、その爲には特殊な文字を用ゐて濁音を表すことをしてゐる。
〓白 祇義 慙坐ム 瓶平 鞠其ロなどが是である。
中聲(體母音)については直拗の別である。
詳生 渚初 擲丁 〓白 螢永 臭首 瓶平 鳴命 索昔
活果矢 醢化 血決
などの所謂拗音を表したものである。すべて拗音は假名表記の方法がまだ出來てゐなかつたと見るべく、すべて類音づけであるのに注意すべきである。只ここに一つ後世ヤ行拗音に表記する音の中、次のやうな二重母音表記のものの存することは特に注意を要する。
溺三悪 歴リ阿口 壌爾阿宇 嬰伊阿宇
の如きが是であつて、この表記の方が支那の原音に近いのである。この資料にはア列の例のみであるが、他のウ列・オ列のものの發音は實際如何であつたか剣らない。次に拗音を直音化して了つた音の存することであつて、之はより國語音化したものであるが、古代にこの種類のあることは周知のことである。
脚可久 術頁矢
單音節の音の長くなつた例も唯一つだけ見えてゐる。
〓リイ(履字と誤つたもの)
普通慣用の音と異なる次の例なども字音研究の參考になるであらう。
鞠其口 翼由久 雹ハ宇 聾リ宇
また字音の附記は亦國語自身の或徴證を示してゐる。
鹽延ム
はヤ行のエのア行のそれと分別されてゐたことを表し、
素曾 祇義 臂非 屠止
の如きは、已にそれら特殊假名遣の音の混淆したことを表してゐるものである。尚字音にも國語特有の連濁の行はれてゐることは、「卅九旋」の旋字に千と類音づけをしながら、「遶旋」の旋字に善と附けてある如きを見て知れる。
以上がこの字音群に野する主要な注意點であるが、諸訓點に殘されたかかる資料を檢討して時代づけ、系統づけることが將來行はれなければならない領域であると思ふ。尚反切書きの資料は古字典の字音研究に役立つが、それはここには省略した。
終に佛典には亦梵語の資料を遺してゐる。佛典の梵語は漢字を以て音譯したものであるか、訓點にはその漢字に讀方を假名で附けたものがある。私はまだこの方面には甚だ暗いものであるが、彼の陀羅尼に附けてある讀方の如きは、悉曇學の資料になるものであらうと考へられる。ここでは主として音韻の事をいふのであつたが、經文中に交つてゐる梵語には讀方のみならず、その意味も附けたものがあつて、それらは亦梵語彙の資料ともなるものである。
阿輸伽【】ムウ○(不明)ノ木(大智度論天安點)
阿摩勒 天在アマクタ(モノソ)其形如桃核 〓沙 介沙米造クスリソ
倶拔陀羅飯 米也又(不明)キミ米ノイヒ(以上願經四分律古點)
鳩羅邪文若草サキクサ
舎羅草イタトリ(以上唐寫四分律點)
これらが果して適譯であるか否かは、その道の人に教を乞ひたいが、この種類は梵語の古い國譯の資料として亦何かには役立つであらう。 (括弧は推定による補讀を示す。)
四
第二は語彙的資料である。古い語彙の存在を觀察して、之を時代的に考へることは如何なる文獻に於ても同樣であるが、訓點にも亦相當珍しい古語が見出される。茲に私が最近出邁つた一二の例を示す。私は曾て成實論天長點を調査した際に、
負ヘル責《ハタ》リノ日ニ息《モ》ユルガ如ク……。
といふ文の息字のモユルといふ訓を珍しく感じたが、今秋石山寺の法華經玄賛(淳砧内供の點といふ)を見るに及んで
切韻ニハ估ハ市ニ税《モヤ》ス也《ゾ》。
と税字に「モヤス」といふ他動詞の訓を得た。利息のつくのを「モユ」といひ、税をかけるのを「モヤス」といつたのである。是等は辭書などには見えない語である。尚十輪經には沃字を「モヤシ」と讀んだものもあつて、土地を肥やす義で亦同類の語である。「モユ・モヤス」について聯想されるのは、古訓點に於て「ヲヤス」といふ語の繁用されることである。西大寺本金光明最勝王經に、
所有ル毒藥・蠱《マレモノ》・魅《クルボスモノ》・厭《オソフモノ》・禱《ヲヤスモノ》……。
と訓じた所がある。この「ヲヤス」は古事記に神武天皇の熊野に於て大熊に出逢はれ、遠延たまうたとか、御軍が皆遠廼て伏したとかいふ「ヲユ」に對する他動詞であつて、蠱惑する義である。古事記傳は仁徳紀・欽明紀等に見える古訓「ヲヤス」を引用して説明してあるが、この語は後世に忘れられて了つたから、書紀の傍訓には「ヲカス」と誤り改めたものさへある。然るに大智度論天安點には、
廻リミ盻《ミ》テ巧ニ睸《ヲヤ》ス。
とあり、法華經玄賛點には、
狐ノ音ハ扈都反、玉篇妖《ヲヤ》ス獸ゾ、鬼ノ所乘ナリ。
とあつて、魅惑するとか、「バカス」とかいふ義に用ゐてゐる。これらも平安初期まで用ゐられたらしいが、普通の辭書には見えない語彙である。
次にかかる訓點の語彙は古語の解釋に役立つものである。即ち意義の不明になつた古語が偶〻漢字の訓として附けられたのを發見すれば、漢字の原義によつてその語を解釋することが出來るのである。この訓點を古語の解釋に利用することは古くから行はれたことであつて、かの源氏物語の注釋河海抄などはその著しいものであるが、殊に近世國學者は盛にこの方法を取つてゐる。枕草子に、
よろこびそうするこそをかしけれ。うしろをまかせてしやくとりて……。
とある「マカス」を、旁註も抄も「後ノ裾ヲ弓ニテ巻セテ也」など言つてゐるが、春曙抄が、
裾を引く事なるべし。日本紀神功紀に引の字をまかせてと訓じたり……。
マカセテ ヲ
といつて、「時引2儺河之水1」の訓點をその證としたのである。因みに石山寺の羯羅經略疏寛平點には「漑灌田水」の漑字をマカセと訓じてある。田水を引くことをマカスといふのは歌詞に於ては常の事である。源氏物語の若紫の巻に、
さるべきもの(イふん)つくりてすかせたてまつる。
といふ段があつて、この「すく」を河海抄は、
すかせはのまする也、世俗に飲いるるをすきいるるといふなり。
と解いたが、契沖の拾遺が更に、
テ ヲスク
日本紀第二十四皇極紀「以v水逶v飯」、うつぼ物語に「松の葉をすきて」といへり。
といつたのは、また訓點を徴證として注釋したものである。
私は昨秋(昭和八年)石山寺の大智度論を見て、圖らず、刮字にソダタキといふ附訓のあることを發見して、古事記に於ける「曾陀多岐」といふ語の意義に於ける學者間の問題に解決がついたやうな氣がした。(「文學研究」第七輯の拙稿參照、「國語叢考」所收)また枕草子には、
をさめみかはやうどたびしかはらといふまでいつかはそれをはぢかくれたりし。
といふ條があり、源氏物語蓬生の巻には、
萠え出づる春にあひ給はなむと念じわたりつれど、たびしかはらなどまでよろこび思ふなる御位あらたまりなどするに……。
といふ條があつて、そのタビシカハラには古來意義の解釋に種々の説があつた。契沖の源註拾遺が元輔家集の、
みがくらむ玉のひかりをたのむかなかずにもあらぬたびしかはらを
を引いて正解に到達し、更に谷川士清の倭訓栞が日本靈異記の礫字の訓「タビイシ」を引いて(但し「タビイシ」の解釋を誤つた)證據立てたが、齋藤彦麿が傍廂に於て、「タヒシ」を荼眦師、「カハラ」を屠兒等とする奇説を出した爲に、新しい註釋者を少からず惱ましたものである。石山寺本蘇摩呼童子請問經平治點には、
淨除所有荊《ヲトロ》・棘《ムハラ》・瓦《カハラ》・礫《タヒシ》・糠《ヌカ》・骨……。
の如く明かに「カハラ」・「タヒシ」とあつて、これらを見ると、契沖や士清の説の正しいことを強めるものである。惟ふにこれは佛典に起源した語であつて、國語本來の言方ではないであらう。これらも訓點によつて古語を解釋する例である。〔因みに動詞「アタム」(敵)については、後述(三七三頁以下)する。 全集には見える〕
次に諸訓點から語彙を採集して、之を年代的に順序づけて見る時、語彙の歴史的觀察が出來るわけである。私は曾て「ヤウヤク」といふ語の成立を考へたことがあつた。この語は比較的早い音便語であつて、平安初期に已に生じてゐるが、平安中期には「ヤウヤウ」となつたことが訓點並に假名文學に於て證據立てられる。ただこの語の起源については疑問があるのであつて、本居宣長は古事記傳に於て「ヤヤヤヤ」が「ヤウヤウ」と音便化し、更に副詞の語尾「ク」がウ音となることの逆類推から「ヤウヤク」になつたのであると論明してゐる。しかしこの説明は訓點並に假名文學の資料から見て、「ヤウヤク・ヤウヤウ」の前後が全く反對であつて、肯定出來ないし、抑々この點が「ヤヤヤヤ」から出たか、單に「ヤヤ」から出たかについては一考を要するのであつて、疑を存しておいた。(「文學研究」第二輯「古訓漫談」參照、後「國語叢考」所收)然るに今秋石山寺の大智度論を閲することに由つて、図らず「ヤヤク」といふ訓に出遭つたのである。
是時世尊、|安徐《ヤヽク》扶此病比丘、起將……。 (卷八)
(此ノ時二世尊、|安徐《ヤヤ》ク此ノ病比丘ヲ扶ケテ、起シテ將テ……。)
といふのが是である。これで漸くこの語が、
ヤヤク↓ヤウヤク↓ヤウヤウ
と変化して行つたことが明かになつて、始めて疑問が解けたのであつたが、是は皆訓點の資料が證明してくれたものである。
尚一例として「イダク」(懐・抱)といふ語の歴史的変化なども、全く訓點資料によつて明かに蹤づけることが出來た。元來この語は萬葉集に「武太伎」、八十巻華嚴音義に「牟太久」とあるが、靈異記に至つて「于田支」と変じ、源氏物語や枕草子に至ると「いだく」になつてゐて大體の変化はわかるが、更に訓點を見ると、成實論天長點の抱字に「ムダカハル」、一訓「ムダカム」と附けてあり、大智度論天安點の「擁抱」に「ウダキ」、十輪經元慶點の懐字に「ウダク」、法華經義疏長保點の抱字に同樣「ウダ○テ」とあり、下つて將門記承徳點の懐字抱字が「イダク」となつてゐる。但しこの「ウダク」は大分後の訓點まで因襲的に用ゐられてゐる。將門記の「イダク」は遙か以前に変つた語らしいが、私の見た訓點の範囲では未だ他に見出せない。さて將門記より以前已に金剛界儀軌寛仁點の抱字の「ダイテ」、禪呪心經寛徳點の懐字の「ダク」、蘇悉地經承保點の懐字の「ダク」が見えるのである。かくしてこの語が、
ムダク↓ウダク↓イダク↓ダク
の順序で変化して行つたらう大要が明かになるわけである。實に訓點は語彙の歴史的変化を見るに必須な資料を供してゐる。
五
第三は語法的資料である。訓點が語法的資料として役立つことは語彙に於けると同一であつて、これが語法に於ける古格の考察、語法の時代的変遷の考察等に資すべき好材料であることなどは、殆ど言ふを要しないことである。それ故茲には理窟を拔きにして、私が最近氣づいた一二の實例を示すに止めようと思ふ。「オソル」(恐)といふ動詞の活用は、後世下二段が普通の用法となつてゐるが、古代にさうでなかつたことは周知のことである。續紀宣命に「オソリマス」とあつて、四段活用らしい形が見えるが、我が訓點物にもこの語の連用形を「オソリ」とすることは隨分後まで見えてゐて、「オソレ」などいふ形は殆ど見えないのである。さて、
オソリ bハ(カ)リ
懼 慮 (聖語藏阿眦達磨雜集論點)
オソリ ヲノヽク
惶 懼 (石山寺金剛般若集驗記點)
などは平安初期に屬するものであるが、連用形「オソリ」のみであつて、他の活用形の例の見えないのが惜しいことである。(括弧は推定による補讀を示す。以下同斷。) 然るに、
オソリ (カシ)コマリ カシコマリオソルヽコト
戰 悸 戰慄謹言(知恩院玄弉三藏法師表啓點)
オソリ オソルヽ
無 畏 無有所懼(西大寺金光明最勝王經點)
オチ オソルヽ ヒオソリ(テ)
悚懼心 王聞喜愕(地藏十輪經元慶點)
などは連用形と共に、連體形の例の表れてゐるものである。これらを見ると、一樣に連用形が「オソリ」であつて、連體形は「オソルヽ」である。若し假にこの「オソリ」を四段活用とする時は、連體形は同一活用のものではなくなる。連體形「オソルヽ」は二段活用であるからである。ここに一疑問がある。普通の辭書は「オソル」を四段の語と下二段の語との二つに別けて掲出してあるが、その四段の實例にはこの連用形の「オソリ」のみを出して、未然形も連體形も缺けてゐるのである。これは活用形を定めるには不完全であつて、これだけの用例ならば、この語は上二段活用であると言はなくてはならない。我等は當時の古訓點物に於て未だ未然形を求め得ないのは甚だ遺憾であるが、この語は當時「オル」(下)・「コル」(懲)などのやうに上二段に活用させたものではないかと思ふ。大矢博士の假名史料に從へば、史記延久點に「オソラバ」があり、修行法儀軌嘉保點に「オソラズ・オソラム」といふ形が見えるが、私は之を直ちに古く四段であつた證とすることには躊躇する。現代人が古い「オソリ」を以て直ちに四段と定めたやうに、當時の人も亦「オソリ」の連用形を四段に類推して作つた形ともいはれるからである。之に野して群書治要建長點や古文尚書正和點が「オソリラル」(未然)・「オソリタリ」(連用)と用ゐてゐるのは上二段活用の殘つてゐるものである。當時は己に下二段の「オソル」が出來てゐた時代、訓點が一種の讀書語として全然日常語と離れてゐた時代であるから、これも一種の類推から作つた形であらうかとの疑もあるが、とにかく無意識にも上二段活用とした人のあつたことを示してゐる。かかる問題を提供する訓點もあり、之を解決してくれる訓點もあるわけである。「オソリ」は古今集序にも土佐日記にも見える形であるが、前述の訓點の例はこれら文學の語と、相互にその確實性を徴證し合ふものであつて、この點に訓點の役立つことは語彙の條に於て述べた所と同一である。
「ケル」(蹴)といふ語の古形「クウ」(ワ行下二段)は、新撰字鏡や和名抄の時代には「マリコユ」(蹴鞠)、「アコエ」(距)などのやうに「コユ」(ヤ行下二段)となつてゐるが、石山寺の大智度論點にそつくり、
アコエ コユ
距 以右足蹴之
と見えてゐるのも、時代の近い資料だけに興味あることである。
新古今集の序に、
目をいやしみ、耳をたふとぶるあまり、石上ふるき跡をはづといへとも……。
といふ語があつて、この「タフトブル」のルは衍であるとして解する人もないではないが、この活用形の當時に存したことを知る時、それが決して誤でもなく改むべきものでないことに氣附くであらう。史記孝文本紀延久點に尊字を「タフトブル」と訓じ、それと前後した時代の點と見える石山寺の摩訶止觀には珍字を「タフトブル」と讀ませてある。平安中期以後の訓點には學字の「マナブル」、辭字の「イナブル」などの同類が見えて、殊に儒家點に多かつたやうに見える。元來前掲の序の文は、文選東京賦の「貴耳賎目者也」といふ典據があることであるから、後京極良經が漢文讀みの語を用ゐたことは首肯されることである。かかることは殊に訓點資料が解決してくれるのである。
私は曾て「カスム」(掠)といふ語の古く四段活用であつたことを言つたが、新修の大言海が初めてこの語を載せた。なるほど書紀の古訓には下二段活用と共にこの四段語が見えるやうであるが、平安初期の訓點に於けるこの語は皆四段活用である。天長前後と見える西大寺本最勝王經點や飯室切點に見えることは曾つて言つた所であるが、石山寺本金剛般若集驗記・法華經玄賛・大般涅槃經等の點にも見えるのであつて、皆加點年代の不明な資料ではあるが、共に天暦以前のものと推定して誤はないであらう。尚平安中期の加點とされてゐる東洋文庫本日本書紀にも見えるが、これらは傳承の訓であつて直ちに時代的確證にはならないかも知れない。而してこの語の二段化の何時頃であるかは、私の見た訓點資料だけでは定めにくいが、とにかく院政時代の資料とされる觀智院本唐大和上東征傳には、
カスメテ ノ ヲ ヲ カタカラト メテハ ヲ ス ト
常劫取波斯舶三二艘、取物爲己貨、掠人爲奴婢。
とあり、之よりも稍古いかも知れないが、やはり院政時代初頃かと見える興聖寺本大唐西域記點に「侵掠」を「ヲカシカスメム」と讀んであるから、院政時代には二段の語のあつたことだけは確實である。
以上は語法の中、主として活用についてのみ云爲したのであるが、訓點は語法のすべてに亘つて、その古格を檢討し、歴史的觀察を行ふ資料を供給してくれるものである。
六
第四に文體的資料である。訓點によつて讀下されたものは文章としての資料であることは勿論である。而してこの種の文章は漢文を譯した一種の譯文であつて、譯文の形そのものが、自然の國語文に對して如何なるものであるかといふ考察の對象となることは言ふまでもない。我が文語文殊に和漢混淆文の成立を考へる上に於て、この文體は見逃すことの出來ないものである。之に關しては後に言はうと思ふが、只ここに注意したい一つは、訓點の中には國語文體の表記形式の發達過程を見得ることである。換言すれば片假名交り文の成立經路を討ね得ることである。西大寺本最勝王經古點や飯室切古點に於ける片假名交り文の資料については、曾て述べたことがあるから、今それらについて再説することは避けるが、彼の今昔物語樣式即ち片假名宣命體の成立は訓鮎に起源したものであつて、初期の訓點からその資料を含んでゐるのである。今その一二の小例を補加することにする。抑々片假名宣命體の原則は實質語を漢字で記し、形式語を片假名で右側若しくは双行に細記するのに在る。久原文庫本(大東急記念文庫現藏)天安二年點百論には本文の側に白墨を以て書加へた文字があるが、皆、
住セルカ 時ニ 求ムルニ 禪ハ 知ルトハ 因成ル
などの樣式であつて、片假名宣命體の原則に據つたものである。石山寺本大智度論は恰も同年の點であるが、「譬如飢人得百味食、棄捨去反、食六十日穀飯」(卷六十八)といふ條に、白墨で頭註して、
影師云六十日穀者糜穀小赤穀等ソ六十日熱物ハソハ麥
とある如きは、まだ假名の入るものが極めて少いけれども、文は書下しの國語樣式であつて、殊に助詞の「ソ」や「ハ」を右側細記にしてあること、「ソハ麥」は偶々假名を交へながら、實質語である爲に、その形を普通大に書いたことは、後に發達する片仮名交り文を律した固い約束であつて、零細なものではあるが、等閑には看過されない資料である。尚この事は舊拙稿「片假名交り文の起源について」(「文學研究」第一輯、本書所收)を參照されることを望む。要するに片假名交り文の發達を考へるには、その經路からもその實際資料の存在からも、訓點を除外するわけにはいかないのである。
七
已上が國語資料として訓點の用ゐられる場合の概觀であるが、これらの訓點資料は今一たびその實質について顧慮して見なくてはならない。それは國語的醇粹性についてと、時代的確實性についてとである。
古代に於ける漢文訓讀はそれが直ちに意義を取ることであつた。それ故彼等は努めて國語表現として妥當な形を取らしめようとしたことは言ふまでもない。その語彙の和譯は勿論、語法・言廻しに至るまで、國語として無理のないものにしようとしたのであつて、彼等はその爲に漢文に表れない助詞・助動詞・活用語尾はもとより、敬讓語・接續詞等を補讀し、時に或は一字を再讀さへし、無論國語として不用な文字は省略しても讀んで行つた。されど本來原文に即いて逐字讀みするのが原則である以上、如何に苦心しても國語の自然性に悖る所を生ずるのは免れ得ない。恰も梵典を翻譯した佛書の漢文が、支那の自然文と相當の隔たりのあるのと同一である。況や漢文を或年月讀習つて、漢字に對する訓義が相當に固著して來た人は、却つて漢文を意讀することをば緩舒にして置いて、文字で意義を取つて、その訓方の緩舒な點を許容して來ることになる。然る時はその許容が却つて國語の自然性を冒して來ることになる。話が少し抽象に流れて了解しにくいかも知れないから、今一例を擧げることにする。
ヤ
荒亂初定 荒亂初メテ定ミヌ。 (石山寺本金剛般若集驗記)
クラオ
令被白馬 白馬ニ被カシム。 (同大智度論)
モタ
頭不自勝 頭自ラ勝ゲズ。 (同大般涅槃經)
右は上の漢文を下のやうに讀まるべく施點してあるのであるが、被字を「クラオク」、定字を「ヤミヌ」、勝字を「モタゲ」と訓ずることは、國語として先づ妥當に意讀したものと言はれるであらう。最後の文と同類の文であつて、
オラ オサ
悲號不自勝 悲シビ號ブコト自ラ勝ヘズ。(西大寺本最勝王經)
の如く訓じた例なども、如何に個性的意讀に力めたかを知る好資料であらう。併し彼等はその漢字の意義を相當理解して來るやうになると、その訓法などは極めて中性的にして置いても、その文字で物を言はせるやうになる。而してその中性的な訓法が國語として亦その場合の漢字の意義を持つて來ることになる。是が國語の漢文に冒された點である。前例について言へば定字を「ヤミヌ」と訓まず、中性的に「サダマリヌ」と讀んで濟まして置くことである。かくてサダマルといふ、國語には元來持たなかつた「亂の止む」の義が生じて來るのである。被字を「カヽフル」、勝字を「タフ」と讀んで置くことも之に準ずるわけである。是が國語の漢文によつて尠からず曲げられる所である。而してそれは各語彙についての論であるが、更に原文の各字を逐つて訓んで行くことに於て、如何にその語法・言廻しが強ひられるかは、言ふを待たない所であらう。
我等は、純國語基調の文章中に漢文の譯文の入るものを讀むことに於て、如何に異なる感じを持つかを知るであらう。一例ではあるが、土佐日記の中に「棹は穿つ波の上の月を」などの詩句は勿論のこと、「日を望めば都遠し」などいふ小文句でも、漢文の譯文の如何に自然國語の感じと違ふかを知るであらう。今左に古い訓點文の一例を擧げる。
イキ モ
有ル一比丘偏袒シテ(白)佛二言サク、我ハ出ヅル息ニ於テ還リテ入ラムマデノモノヲ保ヅマジ(不)。入ル息還
ナシ モ
リ(テ)出デムマデノモノヲ保ツマジ(不)トマヲス。佛言ハク善哉善哉汝眞ニ死想ヲ脩ズルモノナリトノタマフ。 (成實論天長點卷二十一)
この文は隨分意讀に力めた跡は見えながら、その語彙に於ても、語法・言廻しに於ても、或佶屈さがあつて、國語の自然が缺けてゐる。「有ル」といひ、「ニ於テ」といふ語彙、「言サク……マヲス」「言《ノタマ》ハク……ノタマフ」などいふ言廻しは、漢文に即いた結果である。かくて國語的醇粹性から觀た訓點文は甚だ不純なものと言はなくてはならないのである。
かかる譯文は當初こそ自然國語から隔離して居る感知を持つたとしても、それが年月を經ると共に、學者の口に慣らされて不知不識に自然國語を冒して來る。抑々國語の受けた外國語の影響中、最も大きなものは漢語・漢文のそれである。その影響は單に漢語彙の直接輸入ばかりではない。たとひそれは國語の形を裝つてゐながらも、それが國語本來の言方でなく、直譯語彙・直譯語法であるものが甚だ多い。國語に於ける漢語の影響をいふ人が、漢語彙の如何を數へ立てることはあるが、未だ直譯語彙や直譯語法の研究は十分出來てゐないやうに思ふ。前文に出てゐる「アル」若しくは「アルイハ」といふ語などは、漢文に於ける有字若しくは或字(或有也とある)をそのまま讀んだことから生じたものであらうと私は考へてゐる。已述の「イダク」といふ語の如きも國語本來の意義は身體にてかかへる義であるのに、心に思ふことをもいふのは、「懷抱也」といふ訓から「オモフ」義の懐字を「イダク」と讀んで來たことから移つたのである。國語にはかかる直譯語彙ともいふべきものが可なり多いのである。又廣義の語法に於ても漢文訓點の影響が尠からずある。可能の「……スルコトヲ得」、「況ヤ(何ニ況ヤ)……ヲヤ」、「豈……ムヤ」、「當ニ……スベシ」などの承應法が漢文訓讀から固定して了つたことは明かな事實である。その内「アニ」の承應の如きは漢文の句作の爲に、國語本來の形を變じて了つたのである。古代は「アニマサラジカ」「アニヨクモアラズ」「アニサハルベキモノニハアラズ」などのやうに、否定を以て正説したのに、後世「マサラムヤ」「アラムヤ」などのやうに、否定を去つて反語表現に固定したのは、たしかに漢文句法の影響であつた。右はその一例に過ぎないが、かかる方面は國語研究に於て重要なる部分であり、殊に已述の如く我が文語文、殊に和漢混淆文の成立を考へる上には看過してはならないことであつて、その徹底的研究は訓點にその主なる資料を仰がなくてはならない。
八
訓點はその施した年代が明知されてゐるにしても、そこに表れる語が、その當時の國語と密接してゐるか如何は更に考ふべき問題である。漢文に訓讃の存したことの明かに知られるのは奈良朝のことであるが、この訓讀の事たる、それが師資相傳であつて、決して個人個人自由なものではなかつた。それ故それが勢因襲的になる。殊にそれが文字に表記されるに至つて、更に固定する傾向を生ずるのである。されば最古に於てこそ年代的に密接してゐたらうけれども、漸次時代の下るに從つて、それが時代語と或懸隔をもつて來ることを覺悟しなくてはならない。それ故平安初期における訓點語は已に時代語と或距離をもつてゐたことを思ふ。恰も歌語が因襲を以て早く時代語と相離れたのと同一である。私は平安期初期の訓點に特殊假名遣の名殘の存することを思ふが、それらが只文字使用の因襲から殘つてゐるものもあることを考慮に入れる必要があると思ふ。語彙に於ても同じであつて、例へば「イ」といふ主格助詞が已に一般に用ゐられなくなつたらうと思はれる平安朝に、よほど後まで訓點にのみ使用されてゐるのは全く師資傳承から來てゐる。勿論時代語の變化が訓點に表れ來ることも無論であるが、それは概して晩いのが常であらうと考へられる。彼等は已に文語として一種の雅正感を伴はせてゐる訓點語に、新しい變化語は鄙俗なものとして之を退けたものがあつたらうことさへ想像されるのである。我が國で唇音(マ行音・バ行音)の前に來るウ母音はムに近く發音される音韻現象が古くからあつた。已に萬葉集にも見え、平安初期の辭書類にも見え、傳貫之自筆模寫の土佐日記にさへ見えてゐるから、平安朝初頭には十分實存した音韻現象であるのに、訓點物では願經四分律古點が偶々、
驛ムマヤ 驢ウサキムマ
などを見せてくれる位であつて、他の多くのものには表れないのであるが、或は之を一種の變訛音視したものではないかと思ふのである。物語日記文學にはこの表記が多く取られたやうに見えるのに係らず、訓點物には院政期以後に多く見え出すのである。右は一例に過ぎないけれども、時代語の變化の比較的晩く表れて來ることを證するものである。それ故訓點にはその施された時代の語よりも古い語の多く存することと、時代の變化に勤しては多少後れてゐることに注意されなければならない。私はこの點に於て平安朝に入つて國語基調の散文の發生した當時には、已にそれらに遠ざかつた漢文訓讀の文語が、一方に存立してゐたことを想ふものである。
枕草子や源氏物語を長保・寛弘期の時代語基調の散文と見た時、同時代の訓點物の一例として長保四年點の石山寺本法華經義疏を比較して見ると、それが時代語に密接したものとは如何しても言はれない。假にその中に出て來る語彙を取つて見ても、「マナ」(勿)といふ禁止詞、「ノレリ」(似如)・「ウダク」(抱)・「フラバフ」(〓)などいふ動詞は、枕草子や源氏物語には皆他の形を以て表れてゐる。かかる種類の語は訓點語といふ一種の文語であつて、已に時代語にはなかつたのだらうと思ふのである。(因みにマナといふ禁止詞については、講演後大坪併治氏の指教を受けて、落窪物語や枕草子にその名殘の見えることを知つた。厚く感謝する次第である。)それ故この點は他の文献との嚴密な比較研究を行つて、訓點に表れる語の新古を見分けることが、又この方面の重要な一事になるわけである。
九
述べ來つて見ると、國語研究の通り一遍の話となり了つて、訓點といふ資料の特殊性が餘り強く出て來なかつたやうにも思はれるが、それだけ訓點は國語研究の全面に亘つて役立ち得ることを物語るかも知れない。とにかく以上は概略ながらこの資料の用處及び重要さについて述べたつもりであつで、そこにこの資料の位置が存すると思ふ。訓點の事は未だ眞に開拓されてゐない一面に屬してゐて、或は其の端緒として著手された假名字體や乎己止點の研究が、この研究そのものであるかの如くにさへ考へられてゐるかも知れないが、それは國語研究の全面から見れば、極めて特殊な一部分の研究であつて、我等は今よりその假名や乎己止點の手段をかりて、その全部を讀下したものを作り、之を國語そのものの實質的研究に於て、以上述べ來つた諸方面に役立たすべきであると思ふ。訓點は少くも上述のやうな意味に於て、國語研究上他の國語基調の文學と相並んで、大きな半座を別けてもらふべき資料であると思ふのである。
追記
「タフトブ」・「マナブ」・「イナブ」等(一五頁)がもと四段活用であつて、平安朝に上二段に變つたやうにも思はれるが、これらは上二段活用の方が上代からの古い形であつて、四段になつたのが平安朝以後のことである。
本稿は去る十一月二十五日、京都大學の國文學會二十五周年記念大會に於て講演した梗概であつて、多少の補正を加へた上、自ら綴つたものである。 (昭和九年十二月二十五日記)
最終更新:2016年08月31日 14:10