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潁原退蔵「俳諧と俗語」

潁原退蔵『江戸時代語の研究』第四章


 俳諧が俳諧之連歌の略称であることは、その特性が滑稽に在ると解せられて居たことを示してゐる。しかもその滑稽は主として通俗卑近の事物に求められ、随つてそれらの事物を示す言語が、俳諧の用語として多く取上げられねばならなかつた。こゝに俳諧と俗語との密接な関係が生ずる。けれども俳諧の滑稽が常に俗語の使用に依存するのでないかぎり、その関係は密接ではあつても必然ではない。だから『犬筑波集』の中には、
    あまり寒さに風を入れけり
  賤の女があたりの垣を折焚きて」
    罪を思へば行ひもせず
  汲むは昼閼伽井の水に魚住みて」
    思ふまゝにはいはれざりけり
  山人の薪に花を折添へて
等の如き全く俗語を用ひてない作も収められ、かの『新増犬筑波集』に「無俳言、上々の連歌なり」などと評された句はなほ少くないのである。又守武の『独吟千句』にしても、
    目もとすさまじ月残る影
  朝顔の花のしげくや萎るらん」
    いかにふたつの心ぼそがる
  こぞ生みし子や古里に残るらん」
    八つは七つの道のやすらひ
  はし見れば三河のさはに数足らで
等、殆ど俳言と見るべきもののない句がかなり多い。室町末期頃の時代語を知るべき資料として、俳諧が最も重要である事は言ふまでもなく、その意味で『犬筑波集』の如きは確かに貴重な俗語の宝庫である。けれども宗鑑・守武の時代までは、俳諧に於ける俗語はなほ必ずしも不可欠の要素ではなかつた。
 俗語が俳諧と必然的な関係を持つに至つたのは、貞徳以後の事である。周知の如く貞徳は連歌と俳諧との別を、俳言の有無によつて定めようとした。「抑はじめは俳諧と連歌のわいだめなし。其中よりやさしき詞をつゞけて連歌といひ、俗言を嫌はず作する句を俳諧といふなり」(御傘、序)といふのは、俳諧に於ける俗語の使用を消極的に認めたにすぎないやうであるが、『増山の井』の中には「貞徳云(中略)俳諧はすなはち百韻ながら俳言にて賦する連歌なれば」と、百韻全部句ごとに俳言を用ひるべき事を積極的に言つて居る。『新増犬筑波集』に俳言のない句を一々指摘して、これを上々の連歌なりと評して居るのは、明かに俳言の有無を以て俳諧を連歌から区別すべき必須の要件と見なしたからであつた。だからこゝに俳諧は滑稽諧謔といふよりは、むしろ俗語を用ひた連歌の意に解せられねばならぬ。実際、例へば『犬子集』附合の部の最初に掲げられた、
     なべて天下の春のよろこび
   けふ初に一|花≪ケ≫ひらくる梅をみて     貞徳
にしても、何処にも滑稽は感ぜられないのである。たゞ「天下」といひ、「一花」といふのが俳言である故に俳諧とされたにすぎない。貞徳は『犬筑波集』の、
     霞の衣すそはぬれけり
   佐保姫の春立ちながらしとをして
に対して、その附句を、
   天人のあまくだるらし春の海
と改めて居るが、それが俳諧として認められる唯一の点は、「|天人≪てんにん≫」といふ漢語即ち俳言が用ひられて居る所にある。もしそれが「あまびと」とでも訓まれるならば、全く連歌になつてしまふのである。更に、
   鑓梅の道具おとしは小枝哉    休音(犬子集)
   夕立や目のさやはづす稲光り     徳元(同上)
     春はたゞ帰る雁がね追々に
   本利そろふる燕ざんよう    一正(同上)
等の如く、純粋な俗語を用ひた例をとつても、それらの滑稽を構成するものは、雁に燕、鑓に道具、夕立(太刀)に鞘といふ縁語仕立であり、しかもその縁語がすべて俗語であるからであつた。もしそこに雅言が用ひられて居たとすれば、和歌連歌の所謂秀句と少しも異る所はないのである。だからこれらの句が俳諧である所以は、縁語仕立そのものが直に滑稽とされるのでなく、俗語を以て縁語とした事にあると言はねばならぬ。即ち滑稽の要素は全く俗語に存するのであつた。
 用語の卑俗が何故そのまゝ滑稽と解せられるのであるか。それについてはかつて小稿を草したことがあるが(『文学』昭和十三年八月号、及び『芭蕉・去来』所載拙稿「俳諧の笑」〔編者註 本著作集第一巻所収〕参照)、一般に文芸の用語が雅馴な言葉たるべきことが常識とされて居る場合に、卑俗な日常語がそれに代つて登場するからである。言はば礼服着用の紳士の頭には、山高帽でも乗つて居るのが普通であるのに、そこへ手拭が鉢巻となつて居るやうなをかしみが感ぜられるのである。実は俳諧に於ける滑稽の本質は、宗鑑・守武の時代以来、むしろその点に考へられねばならなかつた。『犬筑波集』中の大部分の句は、決して内容のをかしみを主としたものではない。その滑
稽は多く縁語・掛詞に於ける用語の卑俗性にかゝつて居るのである。而してさうした滑稽がいかなろ性質のものであるかも一往吟味すべきであるが、それは姑く嚮に発表した小稿に譲つて、今はたゞ事実だけを述べて行きたい。即ち俳諧は必ずしも俗語の使用を必須の要件として発生したのではないが、貞徳に至つて俳諧の滑稽とは結局その用語の卑俗性に帰するものと解せられるやうになつた。それは貞徳が「抑々はじめは俳諧と連歌のわいだめなし云々」といふ立場に立つたからで、俳諧を以て連歌へ入るべき階梯とする彼の指導原理は、両者の区別を単なる用語の差に置かせる外はなかつたのである。そのことがやがて貞門の俳諧をして文字の遊戯化せしめるに至つたのではあるが、かうした極めて形式的機械的な区別こそ、偶ζ俳諧に於ける俗語の使用をその根本的な構成要素とさせたものであつた。江戸時代に興つたあらゆる新しい文芸は、ある意味ですべて中世文芸の俳諧化であつた。例へば『竹斎』や『東海道名所記』は、『海道記』や『東関紀行』の俗語化と見られ、西鶴の『一代男』は『源氏物語』の俳諧化と言はれる。そこには雅馴な道行文のかはりに、「旅のかれいひもり山や、手にとりや見る鏡山、我が影ながらむさ〳〵と、愛知川渡れば足痛く、駄賃のねさへ高宮の」(寛永刊、竹斎、上)といった諧謔があり、世之介の恋の背景には寝殿・対屋のかはりに茶屋・揚屋から暗宿までが出て来る。言はば近世文芸の新しい触手は、まづ用語の卑俗性へ延びて行つたと言つて宜い。而してその機運を形づくる根柢となつたものは、実に俳諧だつたのである。
 貞徳以来俳諧は真に俗語の宝庫となつた。今江戸時代初期の文献について当時の時代語を採集しようとするならば、恐らくその八割乃至九割までは俳諧の中に見出されるであらう。ひとり作品そのもののみならず、『毛吹草』『世話尽』『木間さらひ』『懐子乳母』『嘲哢集』『初元結』『和歌竹』『便船集』『類船集』等の如く、世話俗諺等に亙つて俳諧の用語を集めたものも種々出た。それらが江戸時代語の資料として如何に貴重であるかは言ふまでもない。もとより俳諧以外の文献によつて知られる江戸時代初期の俗語も決して少くないが、もし貞門の俳書が今日に伝はつて居なかつたとしたら、全く知られずして終つた俗語はかなり多くの数に達するであらう。また当時の文献に現はれた俗語の幾割かは、すでに室町時代から用ひられたものであらうが—中にはもつと古く溯られるものもあるかも知れない—、その存在もまた俳諧を俟つて初めて知られたものが多いわけである。『毛吹草』や『世話尽』の俗諺はすでに辞書類に採録されて居るが、なほ汎く古俳書に亙つて俗語を蒐集して見ると、現在の国語辞書類に逸せられて居る語句は意外に多く、その研究は今後の学界に残された大きな仕事である事を感ずるのである。例へば『毛吹草』の世話の部の終に、世話の単語九十八を採録してあり、それは当時としては最も普通に用ひられた言葉と思はれるにもかゝはらず、
 置網を言ふ
 すみづつく
 手袋を引く
 濡草鞋
等の如きは、恐らく国語辞書類に全く見出されないであらう。これらの語は勿論俳諧以外にも用ひられてゐるが、その用語率は何と言つても俳諧が最上位にある。「置網を言ふ」は『毛吹草』世話に「をきあみをいふ」、同雑冬の句に、
   おき網をいふや冬から春霞    弘永
等とあり、その語義はなほ明かでないが、
 あすの枕もあがらぬやうにさしやんすは、 一夜がかぎりでもあるまいそとわるじやれぐちいへば、おさんきゝて、たまはまだ何事もないさきからおきやみいふてなぶりやるか(|宝永六年、好色堪忍記、一)
の如き例から見て、まだ網も置かない先に早くも漁獲した如く言ふとの喩であらう。「|角水≪すみづ≫つく」は『毛吹草』世話に「すみつつく」とあり、『落穂集』(寛文三年)に、
   書初にわらへもすみづつくゑ哉     重尚
と見えるのを初め、談林の附合、宝永の笠附等に至るまで用例は散見する。『西鶴大矢数』三に、
   業平の罷出られて|角水擣≪スミズツク≫
     そこな番匠時しらぬ山
とあるので、それが水盛をする意から出た語であることが知られ、更に『天草本平家物語』三の十一、
 のらせ(車に)らる」時は後ろから召させられ、下りさせらる」時は前からこそ下りさせられいと申したれども、なにどこも車であれば、すみづをついて下るるに、むつかしい事があらうそといふて、遂に後ろから下りてござつた。
とある条の原註に'sumizzuuo tcucu sotto xita cotouomo tadaxi togamuru coto.とあつて、その語義も明かにされる。水盛して僅かの高低をも検める如く、些少の事までも吟味だてすることである。
「手袋を引く」は『毛吹草』世話に「てぶくろをひく」とあり、従来も『風俗文選』巻二「後麿山賦」中の、
 人くのをのが国びゐき物くらべしあそばむにも、難波の浦のあしさまにいはぬをと、ひたすらにあまの子のあさましとのみ思ひあなづりて、都の商人も手袋ひきたるためしおほしとかや。
といふ一節で注意されてはゐるが、明確な解釈はなほ下されてない。だが古俳諧の、
   ふくかせの手ふくろをひく花もかな     如貞(新続犬筑波)
   卑下しては手袋をひく新茶哉     可浅(続山井)
等の例を見れば手を引込ませる、手出しをせぬ等の意であることが推定される。—語源的解釈はなほ下せないが、或は鷹詞から出た語か。—「濡草鞋」は『毛吹草』世話に「ぬれわらづ」とあり、それが言葉通りの意の語でないことは、他にあげた世話からも直ぐ考へられるのであるが、
   年神のぬれわらちなり千代の宿     松巴(功用群鑑)
と用ひられて居るので、確かにたゞ濡れた草鞋を言ふのでない事が知れる。而してこの語は現在も或る地方の方言として残つて居り、旅先で初めて草鞋を解き世話になつた家を言ふのである。
 右はわづかに『毛吹草』にあげた世話の中の二、三について言つたにすぎないが、それだけでも思ひ半ばにすぎるものがあらう。なほ今少しこれを具体的に示す為に、寛文元年刊道甘撰『糸瓜草』を例にとつて—特にこの書を選んだのは大した理由はない。俗語を用ひてゐる率も普通であり、年代も貞門としては古くもなく新しくもなく、そして翻刻されて居ないといふ位の理由にすぎぬ—、その中から現在の辞書類に全く採録されず、あるいは極めて特殊語と考へられて居るやうな語句を含む作を若干抄出して見よう。
   口笛か鶯も朝うそ〳〵時    友世
   花に似ぬ木やすねくろし梅こん性     宗房
 いき木ならほつしと梅を折絵哉   
 雪消てとつとろはげや稲荷山    正房
 春風にをしなめらとく氷かな 道甘
 菱の餅はかとを絶さぬ祝ひ哉 良設
 地獄詰の茶や手たすかり蓮花王 
 手鼓や俄おとりのかなりかけ 不知作者
 雨の夜やもん躰もなし文月夜 正家
 吹風にかどをたをすな藤はかま 重尚
 稲くはれてしゝふしいふや竹の垣 
 山賤や狩場あらそふ喧嘩しゝ 宗方
 油月の字のなりに似た行燈かな 世久
 横雲の引は大餅月夜かな 野治
 にしめぬる塩をも引や鼠茸 道甘
 しやうじこうじ柘榴の粒やわけ隔 広次
 ざまくにも木の葉ちりかみな月かな 道甘
 風の手や三めうさがす六のはな 重尚
 らむうゐのおく山でやけあさき炭 昌次


一々詳しく検べたのではないが、右の句中圏点を附した語句の如きは、『大日本国語辞典』『言泉』『大言海』『大辞典』等の大部な国語辞書類にも採録されて居ないやうである。しかもこれらの語は、決して『糸瓜草』だけに偶〻見出されたものではない。他の俳書からも—勿論俳書以外からも—、なほ用語例は数多くあげることが出来るのである。今前掲の語のすべてについて用例を挙げるのは、あまりに煩はしく思はれるだらうから、その中二、三の語だけをとつて見よう。例へば最後の「あさき炭」は、
   煩悩かおこりやすきはあさき炭     久重(細少石)
   おこる物やひさしからさるあさ木炭      重治へ捨舟集)
   炭は浅木夢みし程の火の気哉     未琢(続山井)
   里うるや山けふこへてあさきすみ     定勝(伊勢正直集)
   いけてよもあすまてはあらし浅木炭      三禧(後撰犬筑波)
   いけてよも明日迄あらし浅木炭     三保(到来集)
   かくれ家にたけるや山はあさき炭     読糟(続連珠)
   おこるもの久しからぬや浅木炭     調味へ向之岡)
等盛んによまれて居り、伊呂波歌の「あさき夢見し」にかけた作意、おこり易く消え易い意の趣向等、同巣等類のものが多く、中には全く同一句といふべきものすらあるが、とにかく当時汎く一般に用ひられた言葉である事は十分知られる。これはすでに『千載集』『夫木抄』等の歌にふしの序詞として用ひられて居る浅木、即ち節の多い雑木で焼いた下等の炭である。さうした極めて卑近なものが文芸の用語として取上げられた所に、千篇一律的な着想を繰返して居るにもかかはらず、なほ喜ばれる所以があつたのである。随つてこの際浅木炭が何であるかといふ事を知るのは、一句の解釈上やはり最も重要な事でなければならぬ。
 第十三句目に用ひられた「油月」の如き、この一句だけ見ると、或は「油|坏≪つき≫」にかけた一時の造語かとも思はれるが、夙く『犬子集』に、
  油月あんとんけなる光かな    春可
の句が見え、例へば『遠近集』(寛文六年)一部だけをとつて見ても、
  海上やてらす鯨のあふら月    藤昌
    あかしにて
  ほのかにもあかして見よや油月   吉竹
  油月の夜半にや君かひとり虫     春良
  黒雲はおりとやいはん油月    三也
  さしそへて内くらからぬ油月     守久
等の例をあげることが出来る。その他、
 あふら月の影やちうめく鼠壁    信元(崑山集)
 あふら月はとうしみせんの光哉     定利(同上)
 有明やつれなくみえし油月    宗畔(口真似草)
 油月もおほろに見ゆる夜明哉    玄政塵塚)
 明やすきよや天の戸にあふら月     重友(伊勢正直集)
等諸集に散見するものが頗る多く、「油月」といふ言葉が確かに日常語として用ひられて居た事は明かである。しかもこれほど屡〻俳人たちに取上げられて居りながら、今日ではその語義すら全く知られないのである。古俳諧では言葉がいつも縁語や掛詞の技巧的要素として取扱はれ、言葉自身の意味にはあまりかかはりないので、多くの用例に徴しても結局語義を解し得ない場合が少くない。この「油月」などもさうであるが、どんげな光、ほのかに明す、内くらからぬ、朧に見ゆる等言はれて居る事から思ふに、月の光が水蒸気の為に潤んで、周囲に油を流したやうに鈍く見えるのを言ふのであらう。たとひそれが正解でないにしても、「油月」といふ語が注意されただけでも、これらの多くの古俳諧に対して、解釈の上に一歩を進め得たと言つてよい。次の「横雲の引は大餅」の如きも、
   夏山の大物をひく音頭に
     いつち鹿子の逃ていぬらん       (正章千句、十)
   山に引は大物ならて霞かな    正信(鉋屑集)
   大もちは例を引物を粥はしら       (洗濯物)
   こなかきの大もちひかんなつな哉      一六(難波草)
等の例を知らないと、或は全く看過されてしまふかも知れない。芭蕉の『貝おほひ』中の句「郭公谷から峯からこんゑをせい」の判詞に、
 谷から峯からこゝはちつくりこざかしくいひ出されし|大持≪だいもち≫に、心はひかれ侍りき。
とある大持も同じ語である。『甲陽軍鑑』巻一に「石材木の|大物≪だいもつ≫を引け共」、『それ〳〵草』(正徳五年)巻下に「盗を見付けて縄をぬふ男、糸で|大物≪だいもつ≫引出す類」等とあつて、|大物≪だいもつ≫とも言つたらしく、随つて漢字で大物とあるのはダイモツとも読めるが、『吾吟我集』(慶安成)の序にも「ながらの橋もつくるなりときく人は、もとのだいもちひきし木やりの歌にぞ心をなぐさめける」とあり、恐らくダイモチといふ方が普通であつたのだらう。語意は以上の例から明かに知られる通り、木材・石材等の大きな物をいふのである。それで横雲の一句も容易に解釈する事が出来る。即ち大物を引くと望月との縁語・掛詞によつて仕立てられた句であるが、この句を俳諧として成立せしめたものは、言ふまでもなく大物といふ言葉であつた。
 次の「にしめぬる塩をも引や鼠茸」にしても、それが「鼠の塩を引く」といふ俗諺によつて居ることを知らねば、 一句の解釈は全く出来ない。尤も右の一句からだけでは、さうした俗諺の存在に気づくことを望むのは無理であらう。しかし少し古俳諧を注意して見るならば、いかにこの諺が好んで利用されたかは直に分る。即ち、

 塩ひくも満るも月の鼠哉    吉数(鷹筑波)
 日鼠の引塩なるか今朝の霜    成政(口真似草)
 住の江のしほ引は日の鼠哉    往良(夢見草)
 鼠ならて霞の引や塩の山   不存(尾陽発句帳)
 月かけは塩にひかるゝ鼠かな    武珍(伊勢正直集)
 出る日は霜の塩引鼠かな    一竹(難波草)
 住吉より塩引てゆくか鼠島    不煩(筑紫海)
 春の日は雪の塩引鼠かな    但秀(誹諧師手鑑、後集)
等の句は、数多く目に触れるのである。諺の意は句意によつてもほゞ考へられるが、
 そろり〳〵と鼠の塩なむるごとく聞覚、かへりては猫の爪|磨≪とぐ≫がごとくに書付(一休咄、序)
 五年|足≪たら≫ぬに四百貫目鼠か塩ときゆれども、猶うき過たせんしやう(好色十二人男、五)
 人不如意の時またの時節あらんと悟顔にて、家を売り職にはなるゝ人世に多し。いきほひ既につきて鼠の塩を引ごとく、|浮≪うき≫時つるゝ友もなく、広き世に捨らるゝとなり(それ〳〵草、上)
 その座の無首尾、嘉内に挨拶そこ〳〵に鼠の塩引ごとくお内儀へ一礼、親仁さまには桝かけまではたしかな御寿命と追従軽薄いひて(庭訓染匂車、五)
 あきない物は云におよばず、紙たばこ迄ぬすみ上なば、ぶんげんないとやのしんだいも、ねずみのしほ引やうに、いつ共なう皆に成て(お俊伝兵衛十七年忌)
     奢をしめす
   親の銀鼠の塩を引ごとくあつぱれむすこ毛猫一疋  貞堂(狂歌猿筑波)
等の例から知られるとほり、鼠が塩を引去るのは極めて小量づつで目立たないが、いつの聞にか多量になるので、すべて事が少しづつで目立たぬうちに大に変つて行くやうな喩に用ひる。それで前にあげた古俳諧の句意と、その言語技巧とは十分解釈出来るであらう。もしこの俗諺が知られなかつたとすれば、前掲の句が貞門の俳諧としてもつ特質は、全く理解されずに終る外はない。
 他の言葉については今一々詳しく述べることを略し、ただ語義と句意の簡単な解釈に止めよう。「うそ〳〵時」は黄昏又は未明をいふ。句は口笛のうそ吹くとかけた作意。「梅根性」は執拗で性質を変へ難いことで、これに対して柿根性といふ言葉もある。これは性質をかへ易い方である。句は梅の木が花の優しさにも似ず曲りくねつて居るとの意。「生木」は枯木に対して生きて居る木をいふ。句は絵に書いた梅だが、その絵を折ると、生木なら丁度枝を折るわけだといふだけの洒落。「とつとろ兀」は「ととろ兀」に同じく斑に兀げること。句は稲荷の狐の劫を経て毛が兀げた縁で仕立てたのであらう。「なめら」は一概に、ひつくるめてといふ程の副詞。句はおしなめてと言掛けたのである。「かどを絶さぬ」は次に数句を経て用ひられて居る「かどを倒さぬ」と同じで、器物・衣類などの古くなつても形を崩さぬ意。転じては人が窮してもなほよくもとの体面を持する事などにいふ—詳しくは「西鶴の用語」参照—。句意は菱餅も藤袴もそれで明かであらう。「地獄詰」は地獄に罪人を詰める如く物をぎつしり詰め込むこと。句は茶壷の一種である蓮花王に冥府の王をきかせた作意である。「かなりがけ」はどうかかうか相当に間に合せて行くことで、今日副詞に用ひるかなりはこの語から出たのであらう。句はかなりがけのかけをかけ踊にきかせたので、手鼓で俄に始めた踊でも、かけ踊として相当間に合ふとの意である。「もんたいなし」は文体無しで、ちやんと整つた形が無いさま。即ち条理も立たず、わけも無いやうな事にいふ。句は|文≪、≫月の縁たる事勿論で、折角の月も見られないので分も無いと酒r%;;たのである。
「ししふし言ふ」は何のかのとぐづ〳〵言ふ意。句は|猪≪しお≫と|結≪ゆ≫ふとにかけた作意。「喧嘩じし」のししの意はなほ明かでないが、言葉全体としての意は、用例に徴すれば喧嘩腰といふのと大体同じい。句が猪にかけたことは言ふまでもない。柘榴の句は「柘榴障子しといふ言葉があるからの着想である。それは柘榴の実が一粒つつ入つた間の障壁をいふので、さうした俗語に対する当時の俳人たちの興味が如何に大きかつたかは、柘榴の句といへばすぐに、
                                             
   縦横の枝や柘榴の障子骨    俊寿(崑山集)
   赤きこそ障子を取し柘榴粒       (同上)
   障子はるや柘榴戸ならで清所   行正(沙金袋)
   貌あかきあかうは柘榴障子哉     良保(破枕集)
   日面の柘榴はあかり障子かな    幽長(小川千句)
等の如き趣向を構へて居る。『糸瓜草』の句は障子を小路にかけ、それから小路を引出し、更に柑子と柘榴と区別があると、中〻手のこんだ仕立方をして居る。「ざまく」は物の乱雑粗勿なさまをいふ—「七部集の用語」参照—。句は散りと塵紙、紙と神無月とかけ、落葉が紙の如く散乱するとの意。「三めうさがす」はなほ用例に多く接しないのでその意を明かにし得ない。『破提宇子』(元和六年)に「|三冥≪サンミヤウ≫ヲサカイタル事」とあるが、これも文意を十分解する事が出来ず、又洒落本・川柳等にサンミヤウサラシといふ語が見えるが、語の系統はとにかくとして語義は異るもののやうである。それで今は後考を俟つ外はないが、句は手と探す、三と六との縁語もしくは対語仕立であらう。以上句としては勿論貞門時代の作であるから、純粋な文芸的鑑賞に堪へるものではないが、古俳諧は古俳諧としてその特質を明かにしようとする場合、ここに列挙したやうな俗語の解釈を得る事無しには、それは殆ど不可能の事となる。同時に古俳諧に於ける俗語が、いかに重要な役割を占めるかは、愈〻明かとなるであらう。
 『糸瓜草』一巻だけからでも、従来国語辞書の類に殆ど採録されなかつた俗語が新に見出され—勿論前にあげた外にも、なほ詳しく検べたら、多くのさうした俗語があげられるにちがひない—、しかもそれらの言葉は、大部分は他の俳書からも容易に見出されるものであつた。従来古俳諧に於ける俗語の研究が、如何に等閑に附せられて居たかが分るだらう。尤も梅根性・|生木≪いきぎ≫・ととろ兀・なめら・廉を倒さぬ等の語は必ずしも古俳諧の渉猟によらなくとも、他の文献中にも見出し得るものであるが、例へば「うそ〳〵時」の如きは管見の範囲では俳諧以外の用例を全く知らない。今知り得た例は『糸瓜草』の外に、
   おちかゝるうそ〳〵時の雨の音(附句)  野坡(炭俵)
   うくひすのうそ〳〵時やわすれ鳴     天垂(淡路島)
   月の秋うそ〳〵時の切通し(附句)  許六(韻塞)
   うそ〳〵時の銭の六つき(附句)  柳吟(安良智山)
   夕顔のうそ〳〵時や三井の鐘     袁立(淡雪)
等があり、外にも「うそ〳〵」「うそ〳〵暮」等の語がやはり俳諧だけに散見する。例へば、
 笹尾峠の返照に心せかれて、うそ〳〵の比土山に泊る(虚空集)
   火をともせうそく暮のとしの花     皆酔(立日頭集)
  猫の子の百目になれば盗まれて     李里
   うそ〳〵暮にはつす衣張    桃隣(別座鋪)
   壷の金ちよつちよと堀て遣ふ也   暁台
  暮うそ〳〵と遠き人声   宰馬(秋の日)
等と見える。すでに『虚空集』では句の詞書たる普通の文章の中にも用ひられて居り、勿論俳諧専用の語であるべき筈はない。恐らく今後気をつけたら、一般の文献中にも見出されるであらうし、現に方言として用ひて居る地方もある。だがそれにしても寛文・延宝から元禄に及び、更に明和・安永の頃まで降つても、今管見に入つた用例が俳諧の集に限られて居るといふ事は、とにもかくにも江戸時代を通じて、俳諧ほど多方面に亙り俗語を用ひた文芸はないといふ事を物語るものである。その他なほ二、三の例をあぐれば、「足駄蔵」「太鼓炭」「手叩水」「見上皺」等の如き語は、俳諧には、
  煤はきに開きたつるや足だ蔵     重晴(破枕集)
  けふひらけなにはの里のあした蔵     永雪(旅枕)
  あしだ蔵の霞雪の白木綿(附句)  元常(天和三年三ツ物)
  行雲の雲に乗たる足駄蔵(附句)  春澄(宮古のしをり)
  何入て置ともみえぬ足駄倉(附句)  巴丈(小弓集)
  結ほれて下ゆく水の足駄蔵(附句)  百里(銭竜賦)
  古寺や芭蕉はやふれ足駄蔵    諾目(古琴集)
  足駄蔵かた山里の久しさに(附句)  淮祖(墨吉文集)」
  しろずみやひばんの時の太鼓炭     良昌(崑山土塵集)
  ばち〳〵とあたれはなるや太鼓炭     基春(落穂集)
  俵しむる縄はしらへか太鼓炭     二子(阿波手集)
  太鼓炭の煙となるや富士浅間    蝶々(伊勢踊)
  太鼓炭おこせ五徳の舞あふき     調和(同上)
  太鼓炭や打よりあたるいろりふち     政納(詞友集)
   まさな事なとして集居し時
 太鼓すみはでん〳〵かくをやくし哉      遊 外 (晴小袖)
 太鼓炭置てあたるや丸火鉢    吉重(己己巳己千句)
 台に又ことくは似たり太鼓炭    風琴(玉江草)」
 さはかぬや手たゝき水にゐる水鶏     加笑(落穂葉)
 さわらびの手たゝき水か春のあめ     似遁(如意宝珠)
 世に住は手たゝき水の蛙かな    馬六(桃の首途)」
 老と成はしめか月を見あげしは     正頼(鷹筑波)
 老たおやのかほを見あくる師走哉      正親(玉海集)
 朝かほのしほめるや日を見あけしは    秀朝(同上)
 名によせて幾度月を見上皺    空存(腰子伽)
 としのくれてうきやひたいのみやげじは      三成 (新続犬筑波)
 よる人の見あけしはもや花の浪 勝政(小町躍)
 ひえの山月や小野から見上じは     維舟へ藤枝集)
 藤の棚や浪ここもとに見上|皺≪ジハ≫     正休(俳諧三部抄)
 憂事の胸にとまれば見上皺(附句)  山蜂(末若葉)
 ちゞまつた朝日をはかる見あげじは(笠附)      (若えびす)
 軒脇は沈金彫の見上ケ皺(附句)  一亭(子母銭)
 初富士や八幡大名見あげ皺       (蘇明山荘発句藻)
   此ひとつよそほひかねて見上皺(附句)   夜兎へ住吉千句)
   生白き飛子上リのみあけ皺(附句)  完来(続一夜松)
     青風か初老の賀
   たのもしや梅にはしめて見上皺     三津人(我と我)
   べんくとおとこゑらみの見上皺        (武玉川、十六)
   諌言に四十の顔の見上皺      (種卸、二十三)
等、実に多くの例を見るにも拘はらず、他の文献で管見に入ったものは全くない。特に「見上皺」の如きは寛永の古俳諧から寛政・文化頃の雑俳に至るまで用ひられて居るのだが、俳諧以外の例をまだ気づいて居ない。しかもこれらの語はその語義から考へて、俳諧のみに専用される筈はない。「足駄蔵」は足駄を穿いたやうに床下を高く作つた蔵を言ふらしい。『古琴集』や『墨吉文集』の例から見ると江戸後期にはその構造が廃れて、古寺や片田舎などに纔かに存して居たのであらう。「太鼓炭」は胴炭と同じく大形の丸い切炭の称と思はれる。「手叩水」は少量の水をいふ。ある地方の方言で飯を煮る時水が纔かに米を浸し、水の上から手で叩くと米に触れる程にするのを手叩水といふ。さうした語源から出たのかも知れない。「見上皺」は上を見る為に目を引上げた時、額による皺をいふ。—これらの語はいつれも従来の辞書には記載されてない。—ともあれかうした実例はなほいくらでもあげ得るので、俳諧を資料とした江戸時代語の研究には、今後大きな収穫が期待されるのである。
 談林時代に入つて俳諧に於ける俗語の使用は益〻盛んになつた。貞門の指導者たちは、和歌連歌の文芸理念によつて俳諧の文芸性を説かうとしたので、「俗語不苦とは申ながら、あまり道外過たる詞は如何」(徳元、誹諧初学抄)とか、「あたらしき附合とて、世にはやる猿若がすゞろごと、馬をひ共のたわことなどを、附合と思ふは浅ましき事なり」(立圃、河船徳万歳)等と言つて、用語の卑俗性に或る限界を設けねばならなかつた。而して徳元は、此方へ御座れ、いやで候、是非ともおぢやれ、御座らせられぬ、御月さま、御日待、虫ほえて、鷹をくゝり付等の例を示して、「かやうのふつゝかなる詞は不可書。さすがに俳諧も和歌の一躰なれば、道にはづれたる儀は仕ふまつるべからず」と説き、立圃は新奇な言葉の中将来永続性のあるもの、又すでに汎く流布されて耳に熟したもの等のみを、俳諧の用語として許容し、玉子酒、白茶、たばこ、南蛮菓子の類、数寄屋の鉦、盧路せきだ、梅、椿、菊、ゆりの花の名、松の継木、海道の松、かつは、たちつけ、ともかうも頭巾、ぬめりもの、かぶきおどり、人形のあやつり、猿まはし、木曾踊、癆擦ぶしの小歌、ほそり歌、鼻尺八、舌鼓、歌念仏、子もち瘡、肥前瘡、薬風呂、水風呂、轆轤、釣瓶等をその例としてあげて居る。要するに貞門の俳諧にあつては、用語として俳言の存在を必須としながら、これを質的に制限せねばならなかつたのである。即ちあまりに道外過ぎた詞とか、単に一時の流行に止まるやうなものは、一般に制禁の詞とされた。然るに談林の新風は、俳諧の通俗性を徹底的に強化しようとした。ここに俗語の使用は全く無制限となり、新奇の事物や流行詞の如きは最も喜び迎へられるに至つたのである。だからかの貞門・談林の論戦に際して、保守派の人々からは「今様新俗不浄下輩のはやりことば、乞食・口多の道具を第一とさがし出して、新しきとてうれしがる事人倫のまじはりに非ず」(誹諧破邪顕正)とか、「当世の島原ことば、四条芝居のきのふけふ、俳諧にいひ出し紙面にのする物に非ず」(同上)等の批難がしきりに出たのであつた。
 かうして俳諧の全歴史を通じて、談林時代ほど俗語の最も自由な使用を見たことはなかつた。貞門時代に於ける俳言には、なほ和歌連歌の理念に基づく文芸的選択が行はれたのであるが、今や人々はさうした顧慮にもはや必要を感じなくなつてゐた。談林の俳諧が一時非常な勢を示しながら忽ち行詰つてしまつたのは、結局その為に文芸性の根柢を失ふに至つたからであるが、それはともあれ俳諧に於ける俗語の問題を考察する場合、談林の俳書がいかに豊富な資料を提供するかは言ふまでもなからう。例へば新附合として編まれた『二葉集』(延宝七年刊 西治撰)一部をとつて見ても—中には西鶴撰の『物種集』(延宝六年刊)と重複した句も多い  、
  秋も最中二千五百里露更て
    なんはんもめんはた織の声   西国」
    のり懸て越す山は疱瘡
  宿札は笹の才蔵とうたれたり     如雲」
    小六ころりとしんと跡まて
  町衆も不祥についた|竹の|杖    西六」
    まつ弁慶は坊主也けり
  高〳〵に読上たりや十馬切       素 玄」
    八島の浦はさん|餅鰻頭
  二口屋能登守とそ名乗ける   西鶴」
  とうしても内は出にくひ峰の月
    虫の音一つくゝれ一六    悦重」
 集銭出し三百三文つなかれて
  くはぬかそんよあのく鱈汁     鈍句」
 銭の事三日三夜乞詰て
  明智か天下あさやうつらん     遠舟」
 聟入の時宜も作法も習ひあり
  ふやらの夫婦はしまりの松     久任」
  なもをみ豆腐煮てもやいても
 此疎気禅師も棒をすてらるゝ    梅翁」
  水あやつりや智恵の深川
 夕詠松田浮舟かゝり舟   西深」
  十二つかひや那須の篠原
 武士の具足着なからひさまつき       西治」
  喧嘩好する手ふり鶯
 人の親の夜の目もあはぬ谷の庵     西長」
  其あひ莚ふんたりこいたり
 あら麦のふとし計や残るらん    遠舟」
 擯榔子今は藜蓼の草と成
  長崎どいや伏羲神農    益友」
等新奇の事物に関する言葉はもとより、流行唄、カルタ、双六等の詞から、中には説明を憚かるべき類の語句までが用ひられて居る。しかもこゝに注意すべきは、それほど多方面の新しい俗語が見られるにもかゝはらず、特に俳諧でなければ求められないといふ言葉が、貞門時代よりも却つて少くなつて居る事実である。前掲の語句の中でも、延宝頃までの他の文献に全く用語例を見ないものは極めて少い。今一々確実には言へないが、恐らくなもおみ豆腐、松田浮舟、手ふり鶯等の数語にすぎないであらう。管見の範囲では、
 なもをみ豆腐かはつた〳〵     一時軒
 ざく〳〵を切て両断となしたりけり      同  (次郎五百韻)」
  波のまくらを二つとり出す     西六
 磯際の松田か名誉つかまつる   西鶴(西鶴五百韻)」
 くるまきの音も自由に廻ります   西伊
  松田浮舟深ひ分別   西長(飛梅千句)」
  鼠のはねのはへし鶯
 人の目を松田浮舟霞せて      (山水十百韻)」
  月日のめくり閾の代の時
 からくりに松田浮舟のつて出       (西鶴大矢数)」
 花に鳥苧笥を遣ふと鳴せたり
  若緑たつ松田うき舟     (同上)」
    羽ねつくは鶯袖の手ふりかな    未得(一本草)
    つまて野をかへるや手ふり鶯菜     俊佐(落花集)
    揃ふては手ふり鶯飛て行
      かふりしほの目あは雪の山        (西鶴大矢数)」
      家老役とて持す鑓梅
    三人並ひ手振鶯すつ〳〵す      (同上)」
等の例を知るにすぎない。しかしそれが少し年代を降れば、俳諧以外からも多くの例を見出す事が出来るのである。「南無阿弥豆腐」は、
 かべをにらんで九年めにさとりをひらき、なむおみとうふ〳〵と、ならくのなべへ落入たる湯豆腐も、
 終には浮み上る所を(元文二年、御所桜堀川夜討、四)
 かたへに茶店|煎売≪にうり≫店、是へく|団≪うちは≫手を打て呼ひ込|拾≪ひろい≫込、南無阿弥とうふにひかされて、群衆は押シも分ケられず(延享二年、軍法富士見西行、二)
   正月は念仏講もばくち汁南無おみたうふさいの目にきり  貞堂(宝暦三年、狂歌猿筑波)
 禅宗は南無おみとうふと唱ふる故にや、念仏も白く布目あり(宝暦八年、白宇瑠璃、三)
 禅寺の住持雲道は……身にも応ぜぬ腕立を好み、南無おみたうふをやつこにして、茶わん酒のきほひには(明和六年、出家形気、一)
等と、後の浄瑠璃・小説・狂歌等に盛んに出て来る。この語は禅僧が多く豆腐を食することから、その念仏の声がナムオミドウと聞えるのに言ひかけた洒落詞で、単に豆腐のことである。「松田」は西鶴の『世間胸算用』に見えるので、すでに西鶴語彙として注意されて居り、その他の浮世草子にも散見する。「手振鶯」も近松の作に二箇所出て来るので、語義につき種々の推定説が行はれて居る。「松田」は当時名高い手品師の名で、特に水|機関≪からくり≫に妙を得て居たので浮舟と続けて呼ばれたのであらう。「手振鶯」はまだよく声を出せない幼鶯を言ふ語と思はれる—「近松の用語」参照—。かうして談林の俳諧に夥しく用ひられた時代語も、結局俳諧でなければ採集されないものは極めて少いのであるが、しかもそれらの語がまづ逸早く俳諧に現はれて居るといふ事実は、また何よりも俳諧に於ける俗語の地位を有力に物語つて居る。即ち延宝頃からは小説・浄瑠璃等にもまた時代語の使用が漸く盛んとなり、特に浮世草子には新しい俗語が最も豊富に用ひられたのであるが、その俑を成すものは実に談林の俳諧だつたのである。—前掲の『物種集』から抄出した言葉については、 一々これを説明するのは煩はしいから、その中難解と思はれるものだけ、簡単に語義を解いて置かう。笹の才蔵は疱瘡の呪符として宿札に書く名。小六・竹の杖は小六節の文句による。坊主と十馬切は共にカルタの言葉。算餅は|算木≪さんぎ≫餅と同じで、『懐子乳母』(万治二年)に「算餅 算木ニ似」と説明してある。—俳諧では音数の関係から、算木餅と書いてサンモチとよませた例が多い—。|二口屋能登は京都の名高い菓子屋。くぐれ一六は双六に言ふ常套語で、古俳諧・浮世草子等にかなり散見する。言ふ場合は明かでないが、とにかく一と六の賽目を乞ふ時などであらう。あざをうつもカルタ語で、あざは手札として最も強く、それを巧く打つと勝を得るのである。ふやらのふうは不明だが小唄の囃子詞などに見える。|十二番ひは秘戯画。相莚を踏むは男女の交はりをすること。麦の褌は麦の実の片方にある縦溝をいひ、表皮がここに深く入つて居るので、搗きやうが粗であると皮が離れずに残る。それで句意は明かである。
 延宝末年から天和・貞享の頃に及び、俳諧はその行詰りを打開する為に、漢語もしくは漢語調の使用によつて、一面俳諧に文芸性の根柢を与へ、一面俳諧の特性たる通俗性を保持しようとした。何故なれば漢語は仮令高雅な概念を現はすものであるにせよ、俗語と同じく俳言として取扱はれて居たからである。『俳諧無言抄』によれば、
 俳言 こゑの字なへて俳也。屏風・几帳・拍子・律の調子・例ならぬ・胡蝶、かやうのものは連歌に出れと、こゑの字は俳言になると云にならひて俳言もつ也。又千句連歌に出ぬる鬼・女・竜・虎、その外千句の詞俳言也。又連歌嫌詞の分、桜木・飛梅・雲峰・霧雨・小雨・門出・浦人・賤の女なとの詞、無言抄にも紹巴の聞書等にもあまた見へ侍也。かやうの物皆俳言也と知へし。
とある。即ち音読すべき語や、連歌に嫌ふ詞等は事実上卑俗性を持たなくても俳言とされたのである。談林のあまりに卑俗に走つたのを救ひ、しかも連歌に対する特性を保つ為、このやうな俳言の解釈が人人に注意された。かの『武蔵曲』や『虚栗』の如き風調の勃興した契機は、恐らくここに求められねばならないであらう。所謂天和調の俳諧に於ける用語の考察は、談林から蕉風への過渡期の史的研究上からも極めて興昧深いのであるが、単に時代語資料としての価値から言へば談林の俳諧に比して著しく劣るわけである。とはいへ、勿論天和の俳諧が俗語・流行詞の類を全く排したのではない。だから例へば天和三年の『歳旦三ツ物帳』からでも、カルタ言葉を用ひた、
   十馬のきりきわや過てけさの春     盛重
のやうな句が見出せないのではないが、さうした例は非常に稀である。やはり、
   春の日おのこども札あまりといふ事をよめる     慶之
   羽子板帯に似て 腰をめぐるは面白し      信房
   白鷺の羽ヲつかせてハ金銀ノ玉を出されたり      正範
のやうな雅言めいた言廻しや、漢語口調に俳諧を見出さうとするのが大多数であつた。
 蕉風の俳諧はこれを用語の問題から見るならば、俳言の意義を文芸的に深化したものと言つて宜いであらう。即ち貞徳以来連歌と別つべき形式的要素としてのみ取扱はれた俳言を、俳諧に特殊な詩境乃至文芸美の意にまで拡充して解するに至つたのである。『三冊子』に芭蕉の言葉として伝へられる、
 春雨の柳は全体連歌也。田にし取烏は全く俳諧也。五月雨に鳰の浮巣を見にゆかんといふ句は、詞にはいかいなし。浮巣を見に行んと云所俳也。又霜月や鴻のつく〳〵双居てと云発句に、冬の朝日のあわれ也けりといふ脇は心詞ともに俳なし。ほ句をうけて一首のことく仕なしたる所俳諧也。詞に有、心に有、其外この句の類作意に有、信所一すしにおもふへからすと也。
の一節のごときは、連歌に対する俳諧性がひとり詞の相違のみに存するのでなく、心に存し、また作意に存することを明かにしたものであつた。言はば芭蕉に於て、俳言は俳味に置きかへられたのである。古池に飛込む水の音も、餅に糞する鶯もそれらが俳諧としての特殊性を保つ所以は、俳言の使用によるのでなく、むしろ新たな俳味を見出した点に求められねばならなかつた。しかもこの俳味は和歌連歌の詩美と本質的に少しも異る所はない。芭蕉の俳諧はかうしてみごとにその文芸性を樹立し得たのである。だから俳言の使用は、今や俳諧に於て必須の要件ではなかつた。試みに芭蕉の句集を繙いて、その元禄年間に入つて以後の作を検するならば、そこに用ひられた俗語がそれ以前の作に比して如何に少いかは直に知られるであらう。けれども俳諧の和歌連歌に対する特殊性は、あくまでもその通俗性に存する。芭蕉が晩年に唱へた軽みの理念は、畢竟この通俗性の再認識を強調したものに外ならなかつた。其角の如き豪放な作者でも、自句、
   朝顔に花なき年の夕へ哉      (末若葉)
について、「当句さしあてゝ誹言なしと聞ゆれ共、云々」といふやうな言訳をして居る。俳諧に於ける俗語の重要性は蕉風の俳諧にあつても少しも失はれて居ないのである。俳諧七部集中の用語だけについて見ても、当時の用例として俳諧以外からは容易に見出し得ない語句をかなり検出することが出来る。例へば、
  巾に木槿をはさむ琵琶打(附句)  荷兮へ冬の日)
   日のちり〳〵に野に米を苅(附句)  正平(同上)
   いとゆふのいとあそふ也虚木立    氷固(猿蓑)
  旅の馳走に有明しをく(附句)  芭蕉(同上)
   てんしやうまもりいつか色つく(附句)   去来(同上)
   なしよせて鶯一羽としのくれ     智月(炭俵)
  外をざまくに囲ふ相撲場(附句)  嵐雪(同上)
   はへ山や人もすさめぬ生くるみ     北鯤(同上)
  中よくて傍輩合の借りいらゐ(附句)  野坡(同上)
等の如きはそれである。これらの語については別に述べるから略するが—「七部集の用語」参照—、蕉風時代に於ても、俳諧が時代語資料として如何に重要であるかを示すため、「虚木立」の一語だけを選んで見よう。この語は従来正しい訓み方さへ知られて居ない。まづ管見に入つた用例を列挙する。
  家さくらつほみの時やから木立   道繁(明暦四年、鸚鵡集)
  家さくら花さかぬまやから木立     永守(延宝六年、筑紫琴)
    たゝきて落す下駄の歯の雪     木節
  一二町はなれて寺のから木建     楚江(元禄四年、西の雲)
  水風呂や乳より上は冬の空    又巴
    がらんと家の先から木立   桐葉(元禄八年、皺箱物語)
  しくるゝや太山の堂のから木立     翠袖(元禄±二年、末若葉)
    寒に入夜の澄かへる月    松星
  本家から泊に通ふから木建    露川(元禄十一年、記念題)
  名月の能見処やからき建    可楽(元禄十二年、誹諧曾我)
  初嵐吹や野寺のから木立    車南(元禄士輩、男風流)
  から木立しまらぬ花の月夜哉     従吾(元禄十三年、草庵集)
    鯛のすましに坊は浅漬    支考
  賑にふとき柱の空木立    旦栖(元禄十四年、枕かけ)
  木からしや麓の家のから木建     桃妖(享堡二年、鯰橋)
  空木建すれば見に寄ルつばめ哉     野苑(享保五年、目団扇)
虚字をカラと訓む事は虚家・虚腹等の例がある。虚木立が以上の例のから木立・から木建・空木建と同一語たる事は容易に知られる。而してそれがカラキダテと訓むべき事は、多くの用例からでも推定されるのであるが、『目団扇』によつて更に明確に示されて居る。これだけの用例をあげると、語義もまたおのづから明かであらう。即ち柱立や桁組だけ終つて、まだ屋根を葺いたり壁をつけたりして居ない素建の家を言ふので、現に石川県のある地方では—他地方にも勿論あるであらうが—、その意味で今も用ひられて居る。一々の句について解釈して見れば、それが正解たる事は十分首肯される。即ち第一句は家桜の家の縁で、その莟の時を柱立の時に比したので、第二句も全く同工の作意である。以下は蕉風時代に入つてからの作だから、すべて虚木立の家そのものの情景として解釈する事が出来る。『猿蓑』の句について、『七部大鏡』に「虚木立は枯木にはあらす、只木芽の出さる前にしてから木なり」といひ、『標註七部集』にも同じく「芽出シセヌ前ヲ云也」と註し、又『猿蓑逆志抄』にウロ木と訓んで、大木の幹のうつろになつた義などと解して居るのが、いかに荒唐の説であるかはもはや言ふまでもなからう。俳諧の用例からこれだけの事が分ると、西鶴の『桜陰比事』巻二の五に、
 子細は此ふしん地筑石垣の時も見えわたる事を、から木だて時もいはずして、屋ねを葺、|上≪うは≫ぬりまでもしまはせ、間もなく是をこぼたす事またあるまじき曲者なり。
とある「から木だて時」の語義も明かとなる。これは建築の際基礎工事をすませて柱立などに移つた時期を言ふわけである。しかも従来この語は西鶴の研究者たちからも、嘗て注意されなかつたやうである。それは怠慢か不注意かのいつれかでなければならぬ。なほこの虚木立といふ語は、『嬉遊笑覧』の或問附録に引かれた享保十年の文書(江戸浅草に三十三間堂を創立した事に関したもの)の中に、「カラ木立はかり千五百両の契約にて寛永十九年造立、霜月廿三日に相渡申候」とあるのが最も新しい用例で、享保以後の文献には、今までのところでは全くその用例を見ない。勿論今後見出す事は出来るだらうが、少くとも江戸後期にはこの語が漸く用ひられないやうになつた事だけは確かである。さればこそ文化・文政頃からの七部集の註釈者たちが、あのやうな誤解をあへてするに至つたのである。
 享保時代に入つて美濃風が俗談平話を頻りに唱へ、沾徳一派や不角等の徒が新奇を争つた結果、俳諧に於ける俗語の使用は、むしろ談林以上の放埓さを思はせるものがあつた。不角系の俳書の如きは、実に奇怪な文字の跋扈である。ここに再び俳諧はその文芸性の根柢を失つた。ついで天明時代に芭蕉への復帰が叫ばれたが、天明の俳諧は元禄のそれと決して同じ性格ではなかつた。例へば蕪村の離俗論には新たな文人的浪漫主義ともいふべき精神が見られる。蕪村や暁台の作は著しく古典的浪漫的傾向を帯びた。麦水は『虚栗』の古調をさへ鼓吹した。勢ひ俳諧に於ける俗語は次第にその影を薄くするに至つた。江戸後期の時代語の資料として、俳諧は全く黄表紙や洒落本にその地位を譲つた。しかし俳諧に於ける俗語使用の伝統は、別に雑俳・川柳として承け継がれたので、こゝに又考察すべき豊富な分野がある。又天明以後の俳諧に於て、俳言、即ち俗語の存在が重要性を失つた所以についても、文芸的観点から述ぶべき事は多いが、今は蕉風時代までの俳諧に於ける俗語が如何に用ひられて来たかの事実をほゞ明かにして、こゝに筆を擱くことにする。

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最終更新:2016年10月10日 22:49