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山田美妙「日本辭書編纂法私見」

 (一)其國の語法(文法)に據って其語を用い、少なくも其鑑識を有つだけの人に意味の理解の出來るべき語を其國の語といふ。それ故に日本語とは日本國の語法に據ってそれを用い、少なくも其鑑識を有つだけの人に意味が理解ざれ得るものに限る。此日本大辭書には此種類の日本語に限って採る。
    よしやチンプといふ語が英國語にしろ、之を日本の語法に據つて用いて、前言ふだけの人に理解の出夾るからには充分これを日本語と看做せる。もしも日本の語法によらず、却って他の國の語法に據ったが最期、日本の語法の鑑識を有つ人に其意味の理解は出來ぬ、斯うなれば最早その語は日本語と言へぬ。同じく、漢、梵、其他の外國語とても其とほり。日本固有の語ばかりが必ずしも日本語の名を占める譯でない。
(二)日本語で日本語を解釋したのを日本辭書といふ。此日本大辭書では日本語に日本語を當てて解く。
    日本語を用いずに解けば對照の體裁となつて、純粋の日本辭書とは爲らぬ。日本語を英語で解けば則ち和英辞書となる。同じく漢語で解けば和漢辭書となる。日本從來の辭書らしい物の多數は和名抄といひ、下學集といひ、多くは皆和漢對照の  寧ろ—字書で、純粹の辭書では無い。後世になり、或は和訓栞、或は呉竹集などやや辭書らしい形ちを備ヘ出したものの、是とても偏する所が有つて猶わるし、明治の初年、文部省で學者を集めて語彙を編み、すこぶる體裁を備ヘたものの猶まだわるし。いよいよと云ふ終りと爲つて大槻文彦氏の言海が欧洲の辭書を摸型としてここに始めて完全な形ちが出來かけたものの、猶まだ物足らぬ所が多い。
  (三) 日本辭書たるべき日本辭書には大別して二つの種類、即ち普通辭書と專門辭書と。その普通辭書とは所謂普通語を挙げたもの、また專門辭書とはある一科目の專門語のみを挙げたものである。
 此日本大辭書は普通辭書の體裁を取る。
     強ひて言へば、普通語と專門語との間に殆んど是ぞといふ區別も無くなるものの、姑く便宜から區別の有るものと看做す。  それ故に此大辭書に於ても事情の許すかぎり迄は専門語を採り、また想像の神の名は不動明王、摩利支天の類)も想像の地理の名(蓬葉山、龍宮の類)も同じく假りに普通語と看做して採る。
  (四)日本辭書に擧げた語には發音、音調、語類、語原、解釋、書典例證の六種を備へさせるに限る。 此日本大辭書は悉く皆これを備へる。
  (五)發音。カハ(河)は其實カワと讀み、アフヒ(葵)が又アオイと讀む、是等讀み方を示すのが辭書に必用の第一である。
  (六)音調。 ハナ(花)はナに於て上聲となり、ハナ(端=冒頭)はハに於て上聲となり、ハナ(鼻)はハ、ナ、共に平聲となる、是等音調の上下て示すのが辭書に必用の第二である。
     大槻氏の言海は此六種の内、音調を看落して一言も言葉をそこに及ぼさず、遺憾にも一大欠典を作リ出した。  畢竟發音と音調とは似て非なるもの、燕石其類を誤り易いのも至當ではある。
    さりながら、此音調が辭書に於ては非常に大切である事は今改めて言ふ迄もなし、之がために例のウヱブスタルが非常な苦心をしたのを見ても其容易でないのは知れるものを。
     日本で從來辭書にこれを調べた例が無い。珍らしく和漢三才圖會の中に唯一け處四聲を説いた處は有る、が、それとても殆んど杜撰で充分の例とは見られもせぬ。 これが研究されずにあつたため今迄に音律の取り調ベ、または歴史の考證にいかほどの不自由て感じたか?
   と言つて封建の餘習の猶殘る此國の言語、東西に音調の相違も有る、それを殘らず擧げる事は素より望めぬ。 勿論歐洲の辭書とても多くは此點から其國の首都などの音、その最も普通なのを擇ぶ、この手段は日本の塲合ひに應用しても好い。 今首都といへば東京、それ故に今日の塲合ひでは東京の音の、而も其最も普通なのを拔くのに限る。その仕方は耳などの脆弱な感覺は頼めず、音樂にいふ律の第一階を「去」に配し、其上を「平」に配し又其上を「上」に配し、かたがたそれに據って高下を定めるに限る。
   すべて此規則に據つて此大辭書でも一一の音調を取り扱ふ。 精密に言ふときには平上去この三聲を示さなければ爲らぬものの、今ただの辭書に於て其全體を示すだけとすれば、必ずしも去の鑑識を人人に有たせるには及ばぬ。
   畢竟上といふのも去といふのも何れ絶對のものでは無し、平が中心に位すれば上が其上にあつて、去が其下に在るだけの事で、それ故一つの語の中の一箇處にーーもし上聲が有るならーそこだけに符號を用いて事は濟む。其例は左の通り、
  ・  ハナ(第二上){花   ハ ナ(第一上){端}  ハナ(全平){鼻}
     カキ(第二上){量}  カ サ(第二上){笠}   カサ(全平){梅毒}
     カヘル(第一上){歸}  ミダル(第二上){亂}  カタル(全平){語}
(七)語類。 ふで(筆)は名詞、なんぢ(汝)は代名詞、其他、動詞、副詞、形容詞等それぞれは文法にすでに言ふ、此語類を示すのが辭書に必用の第三である。
    從來の日本辭書が示した語類の中、ことに名詞ほど杜撰きはまる物は無い。言海すら既に此弊に陷つた、是が中中容易には見られぬ。之に付いては頗る私見が有リ、後の第十九項につぶさに記す。
 (八)語原。アクタイモクタイの語原は「アクタ、モクヅ」(芥藻屑)、阿修羅の語原はサンスクリツト語「アアスラ」など、此等語原は探れるだけ探って載せるのが辭書に必用の第四である。
 (九)解釋。 論理學にいふ法則により、解釋を受ける語を苟しくも解釋の文の中に用いず、原語が荷ふだけの意味を説明するのが辭書に必用の第五である。
   解釋はその儘を原語に代用して成るべく適當するやうなのを尚ぶ。言海に「氣ニアタル」といふ句を「怒る」と解釋したのは正に此規則に外れた。 「氣にあたる」の間接の意味こそ「怒る」でもあらう、「氣にあたる」それが直ちに「怒る」では無い。 試みに「先方の言ひぐさが氣にあたる」の文に此「怒る」を代用して見て、果してうまくはまるであらうか? 「先方の言ひぐさが怒る」、これでは意味も何も通ぜぬ。「氣にあたる」の解釋は「感情をそこなふ」で無ければならぬ。
(十)出典例證。 必要に應じてその語の出所、又は用例などの證據を擧げる事は著者の責任を重くするための事で、苟しくも信用すべき辭書にはこれを置くのが必要の第六である。
(十一)日本辭書の語は五十音で配列するに限る。
   五十音を執る説が近頃は一般に多くなって、事事しく言ふ必要も無い。 和名抄、拾芥鈔、下學集、三才圖會などの部門類別法は素よりわるし、イロハ順の配列は順序の暗記に困難なり、この塲合ひ、五十音ならばアカサタナハマヤラワの十音をさヘ順序を覺えればそれでいいといふ、此便利に勝つものは全く無い。語彙、言海、田口卯吉氏の人名辭書など皆此例に據る。
(十二) 濁音(ダ、バの類)は清音(タ、ハの類)のつぎ、半濁音(パの類)は濁音の次に置く。
    この事には從來かれ是の異論も無い。
(十三) 一種逼聲の「ツ」、及び又「ン」、此二音の相當な位置は「ツ」をアカサタナハマヤラワの「ワ」の次、
「ン」を又その次に置くに限る。
   「ン」をアカサタアハマヤラワの最後に置くとの説は一時高崎五六氏などの關係した言語取調所の議決にも爲つたと洩れても聞いた。 但し「ツ」に至つては誰もタチツテトの中に入れて構はぬと思ふ。かならずしも搆はぬとは思はぬ。習慣に背くために敢て断行の説を出さぬ。
   但し大改革には今日が非常の好機會ともいふべきもので、既に「ン」て最後に置く事に决する人もあるからには「ツ」もその邊へやって承知する人も有つていい譯である。
   「ン」と「ム」と混同するは解剖分析の細微に入らなかつた古代の説で、不道理なのは論を俟たぬにまた况んや「ツ」とても同樣なもの、性質は正さに「ン」と同じなものを、故さらにそれだけを未練らしくタチツテトの中ヘ入れるには及ぶまい。
   強ひて言へば逼聲の「ツ」の假名も何か換へたい。ただ文字の改良はやがてまだ此後の事とあきらめる儘に是だけは捨てても置く。
 (十四) それぞれの語の性質を以上六種の解で明きらかにすると同時に又その語が古語(雅)であるか、普通語であるか、乃至癈語であるか、俚語、方言であるかを示すのが辭書に當然の事である。 此日本大辭書は一一の語に此注意を怠らぬ。
 (十五)すべて今日より以前に出來、又行はれたのを古言といふ。 その終に後世に至り、通用の力を失ったものを癈語、または死語といふ。今日の普通文、また普通言に用いて適當し、得られるものを普通語、即ち言文兩用の語といふ。 ある一地方、又は一部分に限つて(專門語以外)通用する語を方言といふ。 その意味に眞面目でない心を有つ一種の方言を俚語といふ。
 從來の語學家が多く古言を雅とし、新言を俗としたことの不道理なのは言海でも既に論じた。
もしも時代に因つて雅俗の標準が附くものならば今のー…それを語學者が云ふー俗語はこれから幾時代かの後では雅語か? 萬葉は古今より雅か?
 用い方に因そてこそ雅俗の意味はあらはれる。 决して其出生生存の時代に因らず。古言かならずしも雅のみでなし、新言かならずしも俗で無し、そもそも俗雅と分類 を立てるだけが正しくない。 で、この日本大辭書には誓つて新古に俗雅の字を當てぬ。 古ければ單に古言とのみ云ふ。
 古言で後世に至リ、あまり通用せぬやうに爲つた語にありありと認め得られる二種類が有る。其第一種は後世の語をその語に代用して充分にそれだけの意の現はれるもの。及び、其第二種はこの代用の出來ぬ物。流行病の一種で今日云ふハシカ、即ち麻疹を上古はアカガサ又はアカモガサと言つた。 この古言のアカガサもしくはアカモガサに今いふ處のハシカ或は痳疹を代用して更に其意味の點に於て不都合の無い、是が今いふ第一種である。 が、アガタメシ(縣召シ)などの語になれば、よしや其義を譯したにしろ、後世の言語で何なりと代用しても其代用の効力は迚も現れるもので無い、即ちアガタメシは只其語にのみ特殊の義を有つ類のもので、これが今云ふ第二種である。 即ち之を約言すれば第一種の語はその語を有つ品又は有り樣が昔から今日まで變はらずに殘って、唯その名義だけが變はつたもの、、また第二種の語はそれが昔から今日まで必ずしも殘つて居ぬもの、ただこの一點。 すなはち、第二種の古言は其目的とする物事の有るに狗はらず、其語それだけが遂に死に果てた着の、廢滅に屬した物iつまり前言ふ癈語であつて、同じく、又第二種の古言は永久のもので、それ故假り二概して古言とこそは言へる、癈語とは决して言へぬ。
   カハ(川)、サト(里)などは昔から有る語で今日の所謂普通文にも、普通言にも通じて用いられる。
 併しながら語に因っては是に用いられて彼に其事のならぬのが有る、これらの區別は辭書で然るべく簡易に示すのが當然である。
  東京でシロウリ(白瓜)、京都でアサウリ(淺瓜)、所謂「難波の葦は伊勢の濱荻」で土地などの相違から自然に言語にも相違の有るのは迚も免かれ得られぬもので、これら一地方又は一部分に限って通用し得るだけの語が即ち誰もいふ方言である。
  俚語は方言の一部分であるには相違ない、その何の點から方言と違ふかは甚だ説明にも苦しむ。 わづかに注目すべき處は方言は眞面目な思想で云ひ、俚言は眞面目でない思想でいふ、只此の奇妙な點ばかり。 よしや東京でアリ(蟻)といふのを越後でアリン坊と云ふにしろ、其云ひやうに眞面目な思想が有れば充分に方言とは見られる。 處て、もしも東京でアリン坊と云ったらいかが? 東京にアリの語が無いなら知らず、有つて殊更に他の方言を用いるからには其用いるときの思想の眞面目で無いことは云ふまでも無い。
(十六) 熟語たるべき資格の有無を定めるには其意味と音調との變化とを検べるに限る。
  意味の變化とは語が熟語となつて後其原語が有つだけの意味の外更にまた特誅の意味を出すのを云ふ。例すれば、ヤマドリ(山鳥)といふ語、その原語はヤマとトりとの唯二つ。 その二つが相合して別に一つの語を成した處で、必ずしも其新たに成したヤマドリといふ語が普通に「山の鳥」との義は示さぬ。別に一種の鳥、尾の長い一種の鳥との義を成すところで、これが即ち特誅の意味を出す類。純粹の熟語と看做し得られるものである。
   音調の變化とは語が熟語となつて後多く其原語とは全く違った調子になるのを云ふ。例すれば、カラシナ(辛子菜)といふ語、その語原はカラシ(全平聲)とナ(上聲)との唯二つ。 但し二つが合した所でー1合して原語とはまた特殊の意味を成したところでー即ち、其點から言へば、たしかに熟語の資格を一つ具へたところでーーさて其調子はどうかと云へば、何ぞ料らん、これまた原語とは丸で違はうとは! 原語そのままならばカラシナ(平平平上)であるベき筈、但し、苟しくも結び付いたが最期、一變してカラシナ(平平平平)となる。同じく、ハナゾノ(花園)といふ語、原語はハナ(平上)にソノ(上平)である故、結び付いても平上上平かといふに、怪我にも自然にさうは爲らず、必ず變じてハナゾノ(平平平平)となる。 これら變化は自然に出る。決して人造の手際で無い。
(十七)資格に合ふだけの熟語は辭書に素より擧げて可し、よし資格に合はずとも然るべき由緒から熟語らしくなつた語は是亦擧げるのが當然である。
   私見に因つては前の第十六項の資格に照らして一一の熟語を採る。 但し此資格に外れても猶由緒のあるのは採る。
   大槻氏はハルカゼ(春風)を熟語で無いといふ。 つまりは氏は此音調の變化を認めぬものの、前いふとほりの筋からいへば、是非も無くハルカゼ、これまた一つの熟語である。 ハルは普通が上平、カゼは平平、但し合すれば|平上平平トナル、上平平平とはならぬ。
   これをハルカゼの類、原語以外の語を出さぬ熟語は採らぬといふのが大槻氏の説である。さりながら、音調の點から云へば右のとほりであるに、それも顧みず斷然打ち捨てて搆はぬか? 私見では不道理と考へる。
   ただし、一方また別に一種の魔物が有る。熟語らしくなりながら原語以外の義をも出さず、また音調も變化せず、冷淡に殘る類の語、即ちデキアキ(出來秋)のやうな、これ。 原語以外の義を出さぬ以上は採らぬといふ論者は必ずこの類の語は省きさうなもの。 處が比比みなさうで無い。
  自家撞着では無からうか? 私見ではこの類の語、よし第十六項の資格には外れたにしろ、同じく亦平等に採リ上げる。 なぜといへば、これら何れも由緒が有る。
   デキアキとは云へる。 デキナツ、デキハル、デキドシ、デキヅキなどとは夢にも云へぬ。 して見ればデキは限りのある語に添ふだけのもの、他のおほ(大)などが何れの名詞にも搆はず續き得るのとは類が違ふ、即ち類が違ふといふだけの由緒が有る。凡そ此たぐひの語は頗る多く、或はある特殊の|慣例から、或は音調の加減からこれに添つて、あれに添はぬなどの規律が有る、この規律の有無を示す事が辭書に欠けぬ眼目である。
   これらの規律は名詞以外のものにも適ふ。 適はぬのは語が句に出來て特殊の意味も、特殊の音調も出さぬ場合ひばかり、他は皆適ふ。
 (十八)日本語にはス、又はスルを添へて動詞の體を成すのと、又成さぬのとの二種が有る、これを日本辭書では一一示すのが當然である。
   明らかに此點に於て自分は大槻文彦氏と意見を違へる。大槻氏は斯ういふ、 「あらゆる名詞にスを添へて動詞に爲し得られる」。と、よし明言は爲ぬにしろ、其「言海」に於て是だけの意味はほのめかされた。
    すべての名詞がもしも眞實ことごとくス又はスルて添ヘ得るものならば素より一も二も論は無い。 が、决してさうで無い。自分の見る所で、その添ふのと添はぬのと有る以上は夢にも之を一概には言ひ下せぬ。假りに漢語で例を取れば「奮撃」といふ名詞(と見做して)是には無論スが付いて「奮撃ス」と充分爲る。 ただし「未練」といふ語の時はいかが? 果たして「未練ス」と言へやうか? 日本語でも例は同じ、アサイ(朝寢)はアサイスとも言へる、但し、アサ(朝)はアサスと言へぬ。
   卒然として迷へば此ス又はスルの屬くべき語は動詞から生まれた名詞などに限るかとも見える。 オホトノゴモリス、コモツビクヒス、アサイス、ユキカヘリスなど何れも皆此例、が、決して又さうで無い。
   フミ(文)は言ふまでも無く、獨立の名詞であつて、それでフミスと爲らなくは無し、同じくカツラ(鬘)も名詞であって、それで猶カツラスと爲る。 それ故に、ス又はスルの屬くべきもの、必ずしも動詞からのものに限らぬ。
   して見ればいづれにしても一言で此處を推し得べき天則は要するに此塲合ひ無さざうに思はれるところで、そもそも案内を知らぬものは何をで標準として宜からうか? 辭書に此區別を示す必要は即ち此點。
   それ故にまた言ふまでも無く、此ス又はスルの附属する語の一種類として、是だけは許して大槻氏も言海に擧げたコウズ(困)アンズ(案)などの語も無論自分は辭書の中に採る。
 (十九)日本語に限って、名詞、動詞、形容詞、助動詞、副詞、接續詞、感歎詞、天爾乎波、及び枕詞以外に又一種の詞が存在する。
 この事從來の諸學者はいづれも冷やかに觀過ぐして別段の注意を加へなかつた。 あるひは之を名詞と見、或ひは形容詞と考へたばかり、誰も事事しくは見なかった。
 即ち、まづ純粹の日本語から、例すればアカ(赤)といふ類の語、その真実の性質は果たして何か? 從來の學者たちは何れも之を名詞といひ、で無ければまた形容詞といふ。が、是がわるい。
 畢竟これを名詞といふのは、酷く評すれば、その實やりどころの無いための苦肉の手段で而もまた形容詞といふのはアカシ(赤シ)に最も近い形を做したばかりの故である。
 名詞、これを文法から言はず、言語學の上から見たらば何と解いて宜からうか? もしも此アカを名詞とする事がひとり語法からのみで無く、他の言語學から見ても正に適當して居るならば論は無い。が、適當せぬ。
 稍長くなるものの、斯うなればまづ「名」といふものから、簡畧にしろ、いふ必要が有る。是についてはホイツトネイやマクス、ミユラルの諸先輩が既に大方は言ひ盡くして、甚だしくは遺憾も無い。即ち、われわれの先租がまづ物又は事に對し、その最も此方の目に付いた點を捕ヘ、そのままて付けたものが、所謂その物、又は事の「名」で、之を日本語で例すればウミ(海)シホ(鹽)の故にウシホ(潮)といひ、イヅ(出)ミヅ(水)の故にイヅミ(泉)といひ、フミ(文)テ(手)の故にフデ(筆)といひ、ツチ(土)モリ(盛)の故にツムレ(培〓)といふ類、その時に目についた點は人によつて違ふにしろ、兎も角もその對する物事の特質(で、無くとも、特質らしいところ)を捕ヘ來てその名とした、これからして考へれば日本では古事記、萬葉の昔から之を「ナ」(名)といひ、英では之て「ネエム」(Name)といひ、サンスクリツトでは之を「ニヤマン」とぃひ、拉丁では之を「ノオメン」といふやうな、いづれも是だけはNの音て大方出すのも或ひは又何かの點に於て相一致關係する所は有るかも知れぬ。 よしさうで無い處が、兎も角も此命名法は何れの國、何れの人民を問はずことごとく皆一樣の法則の下に在つて行はれる處で、さてさうして出來た、所謂「名」といふものは實際どういふ性質の物か?
 すでに其本來がそれぞれの固有の點て出來るだけ取って「名」とはする。 が、其固有の點を取つたばかりではまだ「名」のみには必らず限らぬ。動詞、形容詞などの他の語でも固有の點は何れも取る。
 ただ取つての後に於て吾々の理解に持ち來らす工合ひが違ふ。動詞ならば「ハタラキ」をのみ言ひあらはす、即ちスペエス(空間)で無くてタイム(時間)を示す、形容詞ならば「性質」をのみ言ひあらはす即ちスペエスでもタイムでも無いところを示す、副詞ならば「性質」のほかにタイムを稍示す、スペエスはやはり言はぬ、その他の語いづれも皆一致してスペエズをば示さぬところで、さて此「名」ばかりはどうかと云うに、正に只是ばかりは明きらかにスベエスを言ひあらはす。
 正にただ「名」ばかりはスペエスを言ひあらはす。 よしや「智慧」、「ココロ」などの無形のものにしろ、「山」、「サト」などの有形のものにしろ、その語が言ひあらはして吾吾の理解に持ち來たすところは必らず皆そのスペエスで、即ち、言葉を換へて言へば、つまりその目的とするものを一物體として理解させる。
 この、一物體として理解させる事が「名」にかならず屬する物質とすれば、單にその「名」の文法上名目、即ち「名詞」といふも同じく此特質を持つと言へる。
 が、實に此一點! 今までを序論とした子細も亦これ故。從來の諸學者が或は名詞、又は形容詞と見做れたシヅカ(靜)、アカ(赤)。アキラカ(明)などの語は、自分の意見に於ては、前言ふだけの特質を持たぬ、ースペエスを言ひあらはさぬ。
   ここに至ると多少彼の一種の詭辯哲學者、即ち堅白同異の辯者の言ふ事と稍似たらしくなるものの、實のところ自分の理解で、このしヅカ、アカなどにスぺエスが有るとは言へぬ。シヅカな物は有る。 ただし、しヅカと云ふものがスペエスを充たして居るとの理解は出來ぬ。アカイ花は有る。 ただし、アカといふものが獨立に存在するとの理解は出來ぬ。
   もしもスペエスを言ひあらはすのが名詞であるといふ前の論が誤まつて居るなら是非も無し、それが誤まつて居ぬ以上は疑ひもなくこれらスペエスを現さず、そのくせ名詞に最毛近い形ちを成した語は斷じて名詞とは言へぬ。
   それゆえに此辭書に於ては是等の語を名詞とは見做さず、その性質の一部分が多く、他の名詞、又は形容詞、又は動詞などの基本となる趣きを持つところから假りに名づけて根詞といひ、たしかに名詞と區別を立てた。
   ひとり純粹の日本語のみで無く、支那から傳來した語に至つても道理は同じ、「鮮明」、「胡亂」、これら何れも此辭書では根詞と見做す。
   根詞の特質は主にナ又はナルを添へて形容詞となり、サを加へて、程度を示す處の名詞になるなどの事で、それらの委しくは附録に譲る。
(二十)「一擧兩得」、「心不亂」、「生者必滅」などは其實のところ語では無いものの、さて又一つの成句となって、歸する處一語と見做されるだけの價ひの有るものゆえ、此大辭書には是等いづれも句として採る。
 (二十一)ヤイユエヨのイ及びエ、ワヰウヱヲのウ、此三つの字はアイウエオのと分別する必要も無いことゆえ、他の辭書と同じく此辭書でも之をアイウエオの中に組入れる。
 (二十二)假名づかびの不明な語はいづれも假定して、その理由を添へて載せる。
 (二十三) すべて兩樣又は兩樣以上の音で言へるのは成るべく之を兩樣の處に收める。
 (二十四)漢字の音に於ても第二十一項の格に據る。
 (二十五)漢字の眞、軫、震、文、吻、問、元、〓、願、寒、旱、翰、〓、潜、諌、先、銑、霰等、此十八韻に属するものは何れも舌のさきを上齒のすぐの後ろヘ付けて發するン、即ちNの音を出す。 それゆえ是から來たのは昔から同じくニ(NI)ともなり、ゼニ(錢)ラニ(蘭)などの音をあらはす。 又、侵、寢、泌、覃、感、勘、鹽、〓、〓、咸、〓、陷等、此十二韻に屬するものは何れも唇を上下共に輕く閉ぢて發するン、即ちMの音を出すそれゆえ、是から來たのは昔から同じくミ(MI)ともなり、トウジミ(燈心)、カザミ(汗衫)などの音をあらはす。但し、後世二至っては區別が無いゆえ、特別の先例の有るのは格別、一般は皆差別ち立てぞもつぱら一様にンの中に組み入れる。

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最終更新:2016年11月02日 22:53