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松下大三郎「宇都保物語は鎌倉以後の偽作か」

宇都保物語は従来竹取物語に次ぐ最古の物語で源氏物語よりも五十年以上古いものとして尊重せられ殆ど之を疑ふものが無かつた。空穂物語は其の分量に於て源氏物語の四分の三に及んで居る程の長篇であるから、これが後人の偽作でないならば実に世界最古の長篇小説といはなければならない。縦令其の文章が源氏に及ばないとした所で、其の源氏よりも古く、源氏を生み出す母親となつた点に於て源氏よりも尊い物と云ひ得られる。然るに、何事ぞ、この空穂物語は甚だ疑はしい点が沢山有る。私は断じて後人の偽作と思ふ。少くも鎌倉以後、事に由れば南北朝以後のものかも知れない。併しながら私の偽作だとして挙げる証拠は或は証拠にならないかも知れな・い。私は私の挙げる証拠が証拠にならずに却つて偽作でないといふ反証が挙り、そうして空穂物語が依然として世界最古の長篇小説であるといふ名誉を保つことを希望する。
私は元来空穂を信じて居つた。此の大著に活版本がなく世に普及されないことを慨し、明治三十五年国文大観十巻を編輯した際に全紙数の八分の一を割いて空穂物語を加へた。そうしてこの空穂の索引を作る為には特に他人の補助によらずに殆ど全部を自らやつた。その為に空穂を読んだことは前後五回位に及んだ。そうして唯其の文の古雅質朴を愛し、其の思想の堅実を愛し、物語の上乗であると思ひ、全くこれが偽作であらうなどといふ疑が生れなかつた。が併しその疑の萠芽ともいふべきものはその項から脳裡に潜在して居つたといふことを今日になつて悟つたのである。
一昨年の秋であつたか、高橋龍雄君を訪問した所が丁度折口信夫君が来て居られた。偶ま空穂の話が出た。そうして折口君の云はれるには「私は空穂は偽書だらうと思ふ。恐らくは鎌倉以後のものであらう」といふ。全然空穂を疑はなかつた私は奇抜な説だと思つた。そこで何故かと問ふと折口君の云ふには
「空穂には左大臣忠恒の子の忠乞僧都は幼時継母に窘められたとある。継子いぢめと云ふことは平安朝の少くとも中期以前にはあるべからざることである。平安朝時代は妻を娶つても妻はその親の家に居り夫の方から通ふのであるから、継母、継子と、いふ問題は起らない。然るに継子いぢめといふことのある以上,少くとも平安朝中期以前のものとは見られない。
且つ行文の上から見て古雅で質朴な様であるが、何となく鎌倉以後のものと思はれる。」
私は反問して、継子いぢめのことは落窪物語にもあるがこれはどうかと云つた。君は
「だから落窪も古いものではない。凡そ伝説学上継子いぢめといふことは極新しい形式である。稍新しくなると、実子と継子との対照が現はれ、実子は失敗して継子が幸福を贏ち得るといふ話が出来る。其れから継母なる第三者が現はれて来るのは極新らしいことである。こういふ順序を経ずに継子窘めの話が突然現はれることはない筈だ。」
と。私は最初之を信じなかつた。継子窘めが新しい型であるとしても其れは比較上の話で平安朝も奈良朝よりは新しいのであるから継子いぢめといふ新しい型が平安朝といふ新しい時代に現はれたとも云へる。且平安朝時代の結婚は始めは妻を妻の父母の所へ置いても後には自分の方へ引き取るのである。妻を父母の所へ置くのは云は父許婚の時代である。自分の住宅へ引き取らない場合には別に家を作つて引き取るのである。そうして先妻の生んだ子などは現在の妻に教育を托する場合が多い。継母継子の問題は平安朝時代既にある。源氏物語に由るも源氏の君は明石の上の生んだ娘即ち明石の中宮を紫上に托した。紫上は気立の円満な婦人であるから明石中宮を窘めた様子はないが継母と継子との関係には相違ない。紫上が若し円満な婦人でなかつたならば明石中宮は窘められたに相違ない。継子いぢめの事が有るから空穂を後世のものだと云ふことは無理である。又空穂の行文が何となく後世のものらしいと云ふことは捉へ所のないことである。私は当時漫然こう思つた。
が併し妙なとには斯く思ひつゝも折口君の一言を聞いて何となく厭な心持がした。何だか胸へ針を刺されるやうな厭な心持がした。喩へば親の死んだ夢を見て覚めた時の様に心の中で夢は信ずるに足りないと知りつ瓦、何だか気になる様なものである。折口君の説は心の中では充分弁駁し得たつもりで居るのに、然るに折口君の説は折口君がその説を言語に明示しないので何か言外に意義がある様な気がする。自分は何か空穂が偽作であるといふ証拠を暗示されながら其の証拠を探り得ないのではないかといふ様な気がする。
卒然として悟つたのは空穂物語の人名に実在の人名と一致して居るものが沢山有ることである。私が空穂を疑ふ心が脳裡に潜んで居りながら自ら意識しなかつた所めものはこれであつた。折口君の暗示は私のこの潜んだ意識を呼び覚したのである。

小説乃至物語の作者が人の気の附かないことで割合に苦むものは人名である。名前の附け方は自由であるが余り自由過ぎて却つて附け憎い。その作者自身の同情する人物の名などは自分の子の名を附ける様に自分の好きな名前を附ける場合もあるが、長篇物など無法に人名の多い小説物語では、出任せとは云ひながら何等かの聯想に由つて名づけられるのである。事件に多少モデルが有れば大石蔵之、助を大星由良之助とし、三島を川島とする様なこともあるが、事件の本筋には関係なく極めて一寸として似寄或は単純な聯想から全く別物の名を借りることが多い。忠臣蔵の塩谷判官、高師直などがそうだ。
故に小説物語中の人名には模倣が多いと云はなければならない。併し偶合もある。偶合と模倣とは厳別する必要がある。一致して居るものを全部偶合と見ることは間違である。
人名の偶合は幾らもあることである。新聞の三面記事などの中に自殺などをした人の人名が名士と偶合して居ることなどは沢山有る。併し偶合は大抵、単に姓名だけの場合である。官名まで同じである様な偶合は甚だ稀である。殆ど無からうと思ふ。私の知人に鈴木梅太郎といふ人が有るが農学博士ではない。島田三郎といふ人があるが新聞社長ではない。況や兄弟二人が他の兄弟二人と官位勲等姓名を均しくするといふ様なことは偶合としては実際には無いことである。
市ケ谷士官学校の脇を通つたらば、とある門に「加藤虎之助」といふ門札と「福島正則」といふ門札が二つ並べて懸けてある家が有つた。「加藤虎之助」だけならば、清正の名に気づかずに附けた偶合かとも思ばれるが、二つ並べてあつては偶合の姓名の二人が偶然同じ門の中に住居するものとは誰しも思ふまい。
空穂物語の主人公は藤原の仲忠であつて其の父は兼雅で兼雅の兄は忠雅である。仲忠の恋人は「あて宮」であつてあて宮の父は源雅頼である。「あて宮」の兄弟には兼純、仲純などが有り、仲忠と共にあて宮に恋した人には実忠、仲頼、行政などが有る。そうして此等の人は皆実在の人に有る名前である。先づ最も著しいものは兼雅と忠雅である。
兼雅と忠雅とは兄弟で藤原氏である。弟兼雅は左大臣となり兄忠雅は太政大臣となつた。
所が実在の人物では藤原忠雅と藤原兼雅どは父子であつて父忠雅は太政大臣となり(六条天皇の仁安三年八月太政大臣となり嘉応六年二月薨ず)子兼雅は左大臣となつた(後鳥羽建久九年)。;こ熟拡決して暗合と云へまい。勿論姓名の一致には暗合と模倣とある。そうして模倣には甲が乙を模倣する場合と乙が甲を模倣する場合とある。そうして官位姓名の一致となると其姓名の方は模倣で官位の方は暗合だと云ふ様に混合する場合も有り得る。
今父兄太政大臣藤原忠雅、子弟左大臣藤原兼雅、此の父兄子弟の官位姓名が物語空穂と実在の人物とに一致して居る場合に、全然暗合と見る人は無からうと思ふ。唯物語が実際を学んだのでなく藤原氏なる実在の人が物語中の人名を真似て自己の子と孫に名づけたので其れは模倣であつて官位の一致は偶合であると見る人が有るかも知れない。其の説では大臣などは家柄でなるのであるから藤原氏が父が太政大臣となり子が左大臣となるのは当然だと云ふかも知れない。
併し其れは無理な弁護と思ふ。藤原氏だからとて悉く大臣になれるのではない。忠雅兼雅の大臣になつたのも一通りの事でなつたのではない。忠雅の父は僅に中納言で死んで居る。孤児であつたのを中納言宗成が引取つて世話をしたので決して楽々と太政大臣になつたのでない。今岡田なる人が子に岡田文部大臣と同名を附し、孫に前所長と同名を附して一木姓の人に養はしめたとして、その子と孫の二人が他日一人は文部大臣となり一人は宮内大臣となるとは決してあるまい。何と見ても空穂物語の方が歴史上の人名を採つて作中の人に名づけたと見るより外はない。
第二には兼雅と雅頼との関係である。空穂に於て藤原兼雅は源雅頼と名声を争つた。雅頼が左大将となれば兼雅は右大将となり、雅頼が左大臣となれば兼雅は右大臣になつた。
歴史上の人物に於ても藤原兼雅と源雅頼とは共に中納言となつた時其の才名は並び称された。`第三は空穂の雅頼の子に顕澄、師澄、'親澄、忠澄、仲澄、兼澄等が有る。其の女婿に「すゑふさ」が有るo歴史上の人物には雅頓の父に雅兼があり、雅頼の祖父六条右大臣源顕房の弟に師忠が有り其の子に師澄、師親がある。顕房の子に季房があり其の子に忠房が有る。これら一族の名を以て雅頼の一族に名づけたのであらう。之を表にすると
〔歴史上〕 〔空穂〕
雅頼 雅頼
師澄 師澄
師「親」 「親」澄
「顕」房 顕澄
「忠」房 忠澄
雅「兼」 「兼」澄
季 房
すゑふさ「すゑふさ」は空穂に「とうえい」と書いてある所が多い。これは「すゑふさ」が学者である所から「すゑふさ」の文字に「陶英」の字をあて瓦其れを支那人風に音で読んだのである。陶器は「据ゑ物」であつて「陶」は「すゑ」と読み「英」は「はなぶさ」だから「ふさ」とよむのである。「藤ゑい」と書くのは誤である。雅頼の子に仲澄が有る。これは「雅頼」の文字を顛例すれば頼政であるので頼政の子に仲綱兼綱があるから雅頼の一子を兼澄の聯想から仲澄と名づけたのではなからうか。
第四は源仲頼である。歴史上にも兼雅、雅頼と同時代の人に源仲頼がある。
第五は兵衛介「ゆきまさ」である。著聞集に左兵衛の尉行政といふ名が出てゐる。
右に挙げた第四、第五は偶合かも知れない。併し第一、第二、第三は断じて偶合ではないひそうして実在の人が当時待てはやされもしない空穂物語中の人名をまねて命名したのではなくて物語の方が歴史上の人名を仮用したのであることは勿論である。
以上挙げた歴史上の人物は大体平安朝の末から鎌倉時代へ懸けての人物である。空穂物語がそれらの人名を仮用したものである以上は空穂の出来た時代は其れよりもずつと後と見なければならない。恐らく現代の人名を用ゐることば無からう。少くとも死後数十年を経てからのことと見るべきである。そうすれば鎌倉時代の著作と見るべきであらう。少くとも鎌倉の中期以後の作であらう。

所がまう一つ疑が有る。これは単に疑であつて私は決して断言はしないが頗る疑はしいことがある。空穂に「実忠」といふ人があるが、雅頼の好意に由つて中納言まで進んだ。此の人は仲忠と共に「あて宮」を恋した人であるが三条の邸に妻が居つた。それで実忠の妻のことは三条の上と書いてある。
歴史上の人物に一二条中納言実忠といふ人が有る。官名まで同じであつて而も本人又は妻の住居が同じであるといふことは単なる暗合であらうか。前に挙げた例から云ふと此れも模倣かも知れない。そうして三条中納言実忠は後醍醐天皇の時の人である。これが万一偶合でないならば空穂物語は南北朝以後の偽作といふことになる。併しこれは単に疑だけである。
南北朝以後といふことには疑があるが鎌倉以後といふことは争はれないと思ふ。勿論作者は枕草紙などを十分読んだ人である。
今次へ一致或は類似の人名の全体の表を挙げる。

〔歴史上〕
(兼雅と声望相譲らざる)源雅頼
(頼政の子)驫
(雅頼と同時代)源仲頼
左兵衛尉行政
三条中納言実忠
左大臣藤原兼雅呪
源雅頼(兼雅と声望相譲らず)

鑾(雅頼の子)
源仲頼
左兵衛介行政
(三条に北の方ある)中納言実忠
〔空穗物語〕
太政大臣藤原忠雅}剃

空穂を信じて懸ればこそ気がつかない様なもの玉信ぜずに懸れば色々な欠点が目に附く。
先づ折口君の「突然継子窘めの伝説は生じない」といふとが首肯される。
空穂には人名が非常に多い。源氏前後の物語を見ても空穂の様に人名の多いものはない。源氏や狭衣は人物は沢山出ても姓名を輔々挙げてはない。これが古い物語の一傾向である。所が後世になると戦記物でも何でも人物の姓名が一々挙げてある。これは時世の要求であらうと思ふ。
空穂の文は古雅な様であるが実は拙いのである。唯余程古文に慣れた人が書いたものと見えて拙いだけで、こ瓦が古文にない云ひ方だと捉へられる様な点がない。
空穂物語には異本が少い。否異本といふ程異なつた本はない。現存の物は板本の外には二三種に過ぎない様だ。而も其れが甚しい相違はない。源氏や枕草紙などの様に系統を異にした異本はないo相違は唯巻々の順序であると云つても善い位だ。巻々の順序は伝へる人に由つて狂ふことが有るべきである。第一巻第二巻といふ様に数字で立てられた順序ならば狂はない訳であるが空穂の順序は唯俊蔭の巻忠乞の巻藤原の巻などといふ様な名称の順序であるが巻の重ね様を間違へれば直ぐに順序は狂ふ。巻の順序が違ふだけでは異本どは云へない。
唯不思議な問題は菊宴の巻と嵯峨院の巻がその半分づ瓦が略同一の事であることだ。唯一方は中の人名が一方より少ない。殿村常久の説に由れば
この菊宴の巻と嵯峨院の巻を同年とすれば人々の年立悉く違ふなり。因りて常久按ずるに今の嵯峨院の巻はまことの元の巻にてはなく元は太后宮の御賀ありて嵯峨院の六十の御賀のことを記したる巻の有りつらむを、そは早く亡び失せて此処彼処に僅に残れるを後人のこの菊宴巻の異本などの有りしを綴り合せてこの今の嵯峨の院の巻とはなしつるなるべし。かれこの嵯峨の院の巻のいと紛はしきなるべし。
即ち嵯峨院の巻は半散佚したのをその残片へ後人が菊宴の巻の異本を加へて今の嵯峨院の巻を作つたのだといふP
私は此の説は違ふと思ふ。国文大観の索引へも書き夂嘗て国学院雑誌へも書いたが、今簡単に之をいふと嵯峨院の巻では「源の涼」がまだ出て居ない。そうして其の記事の大要は
東宮があて宮を妃となす思召あることをあて宮の父雅頼に仰せられる。その時仲忠が(主人公)傍で聞いて居つて大に驚いて狼狽する。雅頼は即答せずに家へ帰つて室大宮に相談する。、とあつて「源の涼」のことはまだ見えない。菊の宴の巻も同一言辞を以て同じ事が書いてあるが傍に居つたのは仲忠だけでなくて源の
涼もそこに居り同様に悲観する。
雅頼は即答が出来ない。それは嵯峨院が「あて宮」を涼に配せしめる様にといふ内意を雅頼に漏したことがあるので何方の命に従つて善いかに迷つたからで、退いて之を其の室大宮に相談する
とある。同じ様でもこれだけ違ふ。
私は此れは異本の混入ではなからうと思ふ。異本といふものはどうして出来るかといふと元は同じであつたものが彼方でも此方でも謄写されることから自然脱漏誤写が出来る。其れが異本である。併し中には最初から違ふ場合がある。今日でいふ初版再版といふ様に作者が人に見せる為に控へ本を作る。
或は世に広まつた後でも作者は控本を訂正して書き通す。其れが各転写されれば異本と称せられる。併し人に見せる本と控へ本、或は草稿と清書とでは其れが何れも自筆本であれば異本とは云へない。所謂異本とはそういふものをいふのではない。誰が流布した訂正版に対し初版を異本といふものか。
空穂の嵯峨院の巻は草稿であつて菊宴の巻は作者が訂正したものだらうと思はれる。草稿であつても捨てるのは惜しく作者は其れを一緒にして置いたのであらう。其れが其のま瓦伝つたのであらうと思ふ。
作者は或は人に見せたであらう。併し余り面白くもないから大して珍重されなかつたに相違ない。そうして作者はこれが我が家に伝つた空穂の珍書であると云つたにした所でどうせ読みかけて見て面白くなければ真偽の問題を生ずるまでに人に持てはやされなかつたらうと思ふ。其れで若干謄写した人があつただけで弘く行はれずに江戸時代に及んだのだらうと思ふ。江戸時代になると疑書とは気がつかずに之を刊行し或は他本を校合したり巻々の順序を立て直したりしたものであらう。

枕の草紙に物語は住吉、空穂の類とあるが其の住吉、空穂は今日伝つてゐるのは両方とも偽書だ。そうして空穂物語は偽書であるなしに拘らず昔からあまり人に読まれなかつたもので江戸時代の古学復興期に入つて始めて研究され出したものである。其の世人に読まれなかつた理由は本が少く且つ誤が多くて読み憎かつたこと、其れは後世の話で、古人に読まれなかつたのは源氏などに比して面白くないからだといふ。
私はこう思ふ、空穂物語といふものが源氏物語よりもずつと以前にあつた。其の一巻には俊蔭の巻といふ名の巻などもあつたであらう。併し余り面白いものでなかつたから竹取だけは残つたが空穂や住吉は蘆火たくやの物語などと同様廃滅して仕舞つた。そうして元の空穂物語は今日の空穂のやうな長篇ではなかつたらう。紫式部の天才を以てしてこそあんな長篇も出来る訳であるが其れより以前に出来たものとすれば恐らく竹取の幾倍でもなかつたらう。

空穂を疑つた学者は今日までに全然ない訳ではない。安斎随筆に
藤原忠寄公、宇都保物語は源氏物語絵合の巻に宇都保の俊蔭といふと有りて古き物語といふ。伊勢貞文の談に俊景の巻のみ古くて外の巻々は後人の作り添へたゐものかと云へり。此の考の如くなるべきと思はる玉文も有り。宇都保物語の中蔵開きの巻の中の文に「御つ瓦みにす瓦みて持て参れり。大臣引きいで見給へば貞信公の石の帯、いと畏まり驚き給ひて此れはきたなきものなり。これを給はり給ふばかりにつかまつりなんせしめ給へるこそいと恐ろしけれ。此れは小野宮の左大臣のみ帯なり。
此れに由りてなん思しの事ありし。其れに由りてなんしんこん院の律師山籠りにしかば小野に籠り居給ひて今は又領すべき人も侍らずとて院に奉り給ひしを内の位に居給ひし時渡し奉りたまひて、こや畏き御宝なんせさせ給へる許多さぶらひつらめども此れがやうには得あらじとのたまふ(下略)貞信公は村上天皇の天暦三年己酉八月十三日薨。紫式部が源氏物語を獻ぜしは一条院の御宇なり。天暦三年より一条院即位の初め永延元年まで年数三十九年になる。年暦久しきにあらず。又小野宮実頼公は円融の天禄元年庚午正月十五日薨永延元年まで僅に十八年なり。此の年数を以て考ふれば宇都保物語俊蔭の巻の外の巻々は源氏よりは遙に後に作りたるものなるべし。貞丈云清少納言枕草紙にも物語は住吉宇都保は既に古くて世に名高き物語なりければこそ斯く彼れにも其の名を出せるなれ。其の古きは俊蔭の巻のみなるべし。忠寄の考につき按ずるに小野宮殿の薨じ給ひしは一条院の御位の始め永延元年まで僅に十八年になりぬ。然るに小野宮殿の事物語の面にては遙か昔の事の様に聞ゆれば俊蔭の下の巻々源氏物語枕草紙よりも遙に後の世に作りそへし物とは知られたり。忠寄の考に従ふべし。

これらは稀に見る見識と云はなければならない。併し小野宮実頼の薨去は一条帝の即位に先つこと僅に十八年であるのに実頼の事を遠い昔の様に書いてあるから源氏より遙に後の物であるとの断案は独断である。実頼の死後十年位後に書いたとしても遠い昔の様に考へることは出来る。桂公の薨去後何年でもないが我々は遠い昔の様に思ふ。そうして清少納言が枕の草紙を書いたのは一条天皇の即位よりはずつと後の話である。清少納言から見れば宇都保は二十年も前に出来たと見られる。今の若い人が尾崎紅葉の小説を読む位の物だ。当時竹取、宇都保、住吉等数ふるばかりしか読物がなく其れが皆竹取に幾倍でもない短篇であつたとすれば人は何遍もく読んで読み飽きて仕舞ふ。紫式部をして源氏を書かしむるに至つた所以も了解される。
右の様な説も成立つ訳であるから藤原忠寄や伊勢貞丈の説は推理としては無理だと思ふ。併し其の見識は敬服するに足ると思ふ。見識といふものは推理に由る場合もあるが独断に由る場合が多い。推理は後から其の考を確めるだけである。
私は藤原忠寄等の見識に敬服する。併し藤原忠寄等と雖源氏より新しきものと思つただけで鎌倉時代以後などと思つた様子はない。先づ狭衣と同時位と思つたものと見るべきである。

然るに独り折口教授は鎌倉以後のものだと推測した。実に慧眼と云はなければならない。其の継子窘めが突然には現はれ得ないといふ理由のみを以て、偽書であることを看破した。推理としては、折口君も自ら満足するものではなからうと思ふ。併しながら折口君は証拠の如何に拘らず空穂を信じない所のある直観を持つたのであらう。此直観が眼識である。名医は病人の脈を取つて診断を下すのに決して間違はない。他人から何故に然診断するかと問はれたら恐らく一々答は出来ない。それは推理にのみ由るのではないからである。医者が若七今日の医学を以て推理にのみ由つて診察したら恐らく診断は出来まい。
私は空穂を疑つた動機は実に折口君の一言の刺戟である。若し私の説が正しいとしたら、空穂の偽作であることを発見した功績は私よりは寧ろ折口君に在ると云ふべきである。
学問といふものは、物理学や数学などは別として哲学や人文科学に属するものは純然たる推理だけでは、少くとも今日の人智を以てしては成立しないかも知れない。幾分かは直観を認めなければなるまい。人の思想には其れく一つの傾向がある。この傾向の似てゐる人同志が意見が合ふのである。思想の傾向が違へばどんなに確実だと思はれる証拠を突き附けても賛成が出来ない場合が多い。況や証拠に多少不備な点がある場合は勿論そうである。空穂の偽作である証拠は人名の類似だけでも私は十分だと思ふ。併し世の人々の中には不充分或は無価値と見る人が頗る多いかも知れない。願はくは遠慮なしに批評して載きたい。
〔附言〕
折口氏の説は記憶に拠つて書いたので或は氏の真意を伝へて居ない点があるかも知れない。
此の稿を草するに方つて山本博士が一つの材料を給与された。これは私の深く感謝する所である。
(「国学院雑誌」大正一四年六月号)

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最終更新:2016年11月19日 14:33