東條操『全国方言辞典』「編簒の趣旨」

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 方言辞典の本質は国語の方言語彙を記述し登録する点にある。
 国語の方言語彙は、言うまでもなく国語そのものの語彙である。従って、正確な意味での「国語辞典」は、方言語彙をも含まなければならない。本来の国語辞典は、「普通語辞典」乃至は規範意識を有する「標準語辞典」とは別箇の存在であって、現代普通語のほかに古語をも収載することは勿論、古今の方言をも採録すべきものであるが、従来の国語辞典が方言を殆ど載せないのは、恐らくは事実問題として、不可能であることが原因となって、十分に方言にまで記述が及ばなかったのであろう。やむをえないことではあるが洵に遺憾なる事実である。
 方言は未だ開かれざる国語の宝庫である。国語の語彙の一半をしか職録しなかった国語辞典は、方言をも採録することによって、初めて国語の語彙の全貌を記録することができる。リンクヮ(茶釜の把輪)、ヨポウ(液体をつぐ時に容器の尻に伝わること)そのほか無数の命名表現があることを知れば、国語の語彙がいかに豊富であるかということが理解されるであろう。僅かに本辞典に収載した方言だけを加えることによっても、国語はその豊満さを倍加するに違いない。
 方言辞典は、古語に重点を置いた「古語辞典」が国語辞典の一種若しくは一部として有り得る如く、国語辞典の一環として存在するものである。従って、将来理想通りの国語辞典が現れるならば、方言辞典は古語辞典と共にその中に統合されるべきものである。
 方言辞典の本質が斯くの如きものであってみれば、方言辞典の形態は当然この「全国方言辞典」の如きものでなければならない。
 語義によって分類彙集し、或いは標準語からそれに対当する方言を索出するような形式も考えられるが、それは本質的に「方言索引」の域を出ないものであって、方言辞典としての性質を没却したものである。
あらゆる方言語彙を記述し得る形式は、方言語彙の五十音順排列乃至はそれに準ずるものしか無いであろう。
 方言語彙の表記を音声符号によってすることも考えられるが、それは、全国諸方言の語彙事象を記述すべき辞典の語彙の表記としては、本質的に疑問があり、且つ事実上不可能に近い。音声事象は音声事象として独立別箇に記述すべき重要なる研究事項でもあるのである。
 本辞典に於ては、語彙を表示するのに仮名を用い、仮名遣にこだわることなく語形を表示したが、音声を精密に表記することを期しはしなかった。語彙の表示は国語の音韻意識にもとづくことが必要にして十分なる条件であると、信ずるからである。
     ○
 国語の歴史悠久數千年、非常な発達をして今日に至っているが、いかなる原因によって新語が生れ、いかなる方法をもって新語が作られているか。国語史の原理の研究は従来その資料を殆ど過去の文献語にのみ求めていたが、資料を方言に仰ぐことによって、眼界大いに開けるものあるを疑わない。
 国語史原理の有力なものの一は、少しく語形を変えることによって分化した意味を表現する方法である。ウチ・ブチ(打)とムチ(鞭)、ヲシ(借)とホシ(欲)との如き類であるが、本辞典に収録した語彙を精査するならば、それがいかに有力に働いた原理であるかを知るであろう。日(比)と火(非)、上(加美)と神(加微)とは、或いは語原を異にするかも知れないが、特殊仮名遣の相違のみを根拠としてそう考えるならば早計である。
 コ(粉)とコナ、タネ(種)とサネとの如きも、かようにして発生した語であろう。よく同義語ということが言われるが、厳密なる意味に於ける同義語は存在することが無い筈である。コナは本来「屑物」の意味が添加されたものであり、サネは種のうちでも実の中にある果物の種などを特に区別した表現だったようである。かような事も方言を観察することによって推定し得るのである。
 語義の変遷については、例えば紫陽花の意味に転用した「七面鳥」の如き、或いは諸種の意味に転化した「南蛮」の如き、資料として多くの好例を見出すであろう。特に、普通語として原義の失われている語については、方言の考察によって初めて本義を知ることができる。「蛇がコワイ」「流行がスタル」の如き、その一例である。
 語そのものの成立には、その語を使用する人々の生活が結びついている。蚊と言って蟆子を意味し、普通の蚊を特に「夜蚊」と称して区別する如く、或いは虹を「鍋鉉」と表現する如く、対象の把握の仕方或いは表現の方法は必ずしも国内一様ではない。日本人の物の見方考え方を考察する場合には、普通語のみならず方言についても観察を怠ってはならないのである。
 語の構成論に於ても、普通語には僅かに。ゴムケシ(消護謨)の一語ぐらいしか見当らない特殊な構成が、或いはカギッツルシ(自在鈎)或いはトリクサ(薬草採取)の如き若干例を加えることによって、何等かの解釈を要請されるであろう。
 文法事象については、独立に方言文法論が成さるべきものであり、語彙辞典としては殆ど触れるところが無いが、少數の助動詞助詞或いは接辞を取入れてある。品詞名の注記は甚だ統一を欠くが、それは寧ろ今日の文法論の反映である。標準語文法についても多くの疑問を存するが、方言を考えることによって、再考熟慮しなければならない事柄の一層多いことを知るであろう。本来形容詞の一用法であるコタエナエを副詞とし、ベシの連体形から出たベーを助詞としたのも、やむをえないところである。
 音韻事象についても、独立に音韻論が成さるべきものであっで、語彙辞典の記述するところではないが、国語音韻論の資料としては、音韻転化の例としてかなり多くのものを取出すことができるであろう。それらを整理することによって、転化の方向について或る程度の法則を立て得る可能性もある。例えばコーバイモ・コーボイモ(馬鈴薯)は直接の転音でなく、もとコウバウイモからの音韻分化であり、フーゾ・フーヅーバナ(紫雲英)はホーゾーパナからの転化であろうという推定が、法則性を根拠としてなされるかと思う。
 古語の解釈の上に方言が参考となることは、伊久里(万葉集)、麻賀礼(古事記)そのほか若干の優れた先例があって多くを言う必要も無いが、大辞典の活用によって更に新見の生れる可能性も多い。謡曲安宅の「かほど賤き強力に太刀刀を抜ぎ給ふは。めだれ顔の振舞は臆病の至か」は、メダレ、メダレヲカウ(人が弱いとみるとつけあがる)の方言が参考となるし、浄瑠璃女殺油地獄の「とどしては手もとゞかねば立上り」はトドスル(坐す)によつて正解が得られる。
 語原の研究に方言が役立つことも言うに及ばないところである。俗語のアベコベ(反対)が「彼方此方」の意であることは類例によって明かであり、オジャン(終)は従来の語原説のほかにジャミ・ジャミルとの関係から有力なる一説を立てられるであろう。或いは「家」の語原を「上」の分化と考定し、或いは「星」の語原を斑点として把握した名称であろうと推定することも、本辞典の関係語彙を比較することによって、或いは強められ或いは思い着かれるところである。
 地名の研究は地理学上に重要な意味を有しているが、その多くは今日の普通語では既に解し難くなっている。方言を参考するならば、例えば太平洋岸の所々にあるスカ・スガという地名にしても、その命名の由来が推定できるし、また千葉県の四街道という地名が、遠く香川県に四辻の意味で日常語として行われている事実は、それが偶然の一致であるかどうか、研究すべき問題となって来るであろう。
 方言研究の上にこの辞典が有用であることは勿論言うまでもない。方言区画説と方言周圏論との対立乃至並立に関しても、依拠資料に多少の地理的偏倚があるから断定的根拠とすることは憚るべきかも知れないが、収載語彙の分布状態を検討することによって、従来の見解を一歩進め得ることだけは疑い無い。蛙又蟇を意味するドンク(九州)が遙かに離れた福井県に行われていたり、打消のナンダ(近畿)が群馬県の一隅にあったりするようなことは、大いに考えさせられるところである。
 理念としての標準語は遺憾ながら未だ定立せられていないものであるが、将来これを制定する場合には方言からも遣珠を拾ってこれを加え、表現力に富む優れた言語にしたいものである。本辞典はそのためにも多くの資料を提供するであろう。魚のシラコ(雄卵)に対して、雌の卵をマコと称し、一人で物を担ぐに対して、二人で担ぐことをツルまたはカクと言うが如き、今日の普通語には区別する方法が無く、方言に於てのみ区別し得るものも少くない。或いは名も知れぬ多くの星を「糠星」と称し、横坐りを「流れ膝」と言うが如き、思わず膝を叩かしめられるような表現も多い。これらのうちには、標準語の制定を待つまでもなく、文芸家あたりに拾い上げられて普通語に昇格せしめられることが望ましいようなものもある。
 国語教育に於て方言矯正ということは重要な一部門であるが、本辞典はそのためにも役立つように配慮した。往年の方言撲滅論は論外として、方言必ずしも全部改むべきものでないこと前記の如くであるが、一国の言語が分裂し、同じ国民でありながら言語による十分なる意思の疎通を欠くことは、憂うべきことである。全国共通の言語の用いられることが理想である。少くも郷土語と共に普通語にも熟達し、普通語によって十分に意思の表現ができるまで習熟せしめることは国語教育の任務である。たゞ、地方に生れ地方に育った者にとっては、或る語が方言であるか否かを判じ難いことも少くないようであるが、その際にも本辞典を役立てることができるであろう。例えばシアサッテを明々々後日の意に用い、ヤノアサッテを明々後日の意に使うのは、普通語の言い方でないから、明々後日の意味のヤノアサッテはシアサッテと改め、明々々後日の意味のシアサッてはヤノアサッテと言うように心懸くべきである。或いは蜥蜴をさしてカマキリと言っているならばトカゲと改むべく、蟷螂を意味するトカゲという語を使っているならばそれをやめてカマキリと言うように注意する必要がある。本辞典に於ては、漢字を用いた語解の次に仮名書きしたものがおおむね今日の普通語を示したものである。たゞし、アメンボ・アメンボー(水馬)、クルブシ・クロブシ(踝)などの如く、いずれの語形を標準語と認むべきか定め難く、普通語としても動揺しているものについては、仮名書きを必ずしも統一してないが、標準語としての独断を避けるためにはやむをえまいと考える。
 普通文の中に時折方言が混在し或いは引用されているような時も、この辞典を利用することができる。例えば文部省著作教科書「高等国語」(一上)に、「関の小まんが米かす音は一里聞えて二里ひびく」とあるが、このカスは普通の国語辞典に解説されていない意味であって、本書によって初めて、中部地方から近畿にかけて行われる「米をとぐ」という意味の用語であることが分るであろう。同じく「中等国語」(一(3))野口英世のことを扱った一文中に「てんぼう」という語が見える。これは国語辞典でも採録しているが、この語が東北を主として本州東半部に使われているということは、本書の「てんぼ」を見て初めて知り得ることである。
 獅子文六の「てんやわんや」がいかなる語であるかを知りたいような時も、この辞典を見れば、それが江戸時代の文獻に採録されており、類似した「てーやわいや」という語が使われている地方のあることも分る。火野葦平の赤道祭に出ているアカングヮーユ(人魚)という琉球語の語原が赤児魚《アカングワーユ》という意味から来ていることも、本書によって知り得るところである。
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 本辞典編纂の趣旨、方針並びに効用とも言うべきものは前記の如くである。
 編纂の方針は正しいと信じるが、何分にも全国方言辞典は殆ど本邦最初の企てであるから、理想通りのものを作ることはできなかった。資料の多くが従来の方言研究家の業績に頼ったものであり、全国にわたって実情を吟味することは不可能であったから、或いは誤記誤報をそのまゝ採り用いたものがあるかも知れないことを虞れる。現代文献についても古文献についても、比較研究の結果その誤りと息われるものを或いは正し或いは省いて、おおむね信じ得る語彙をのみ採録したつもりではあるが、なお今後の補訂に俟たなければならない。
 本辞典の言わば効用については、仮りに数項を数え立てたが、そのほかにも利用の仕方はあるであろう。それらの利用方法のうちには、普通語から方言を索める索引を必要とするものもある。索引は、方言辞典として本質的に必要なものではないが、辞典の利用価値を一層大ならしめるものであって、これを欠くことは編者の本意ではない。今は諸種の事情によって省かざるを得なかったが、機会を得て補いたいと考えるものである。


最終更新:2020年12月25日 22:36