小高敏郎『日本古典文学大系100江戸笑話集』解説

一 近世の笑話について

 笑話の発生 笑話は、歌謡と同じく、その発生は正規の記載文学より古いものであった。やがて記紀や風土記の素朴な洒落を楽しむ地名説話となって以来、日本文学の一要素として、いろいろ形を変えながら長く生き続けて、江戸小咄として週刊誌や雑誌などで現代人をさえ楽しませている。だが、記紀以下の書物に記載されたものはごく稀な一部で、多くはその場その場で聞き手を笑わせ楽しませるだけで消え失せてしまったのであろう。
 また笑話は、多くの人々、殊に文字などに熟さない庶民層を楽しませながら、日本の文学の歴史においては正式な文学とは考えられていなかった。もともと滑稽を主とする文学は、物語など優美を主とする文学より劣等視される。これは世界共通のことで、西洋文学においても、喜劇は悲劇よりも長い間文学的地位が低く、近代に入ってようやく悲劇と同等の価値を認められるようになった。そういうわけだから、滑稽文学、しかも歌謡と同じく元来口誦的な文学で、それだけに読書人よりも無学無知な民衆の間に喜ばれた笑話というものは、文学とは認められず、記載されることも少なかったのであろう。その点、同じ滑稽を主とする文学でも、狂歌は、和歌的教養を背景とするだけに、知識人に親近性を有するから、記載されることも多かったようである。
 だが、笑話が各時代において、物語・和歌など正式な文学や或いは狂歌などよりも広い層に浸透し、多くの人々を楽しませたことはたしかであろう。いつの時代、どの社会にも、滑稽な話をして人々を笑わせる人物はいるものである。古くから滑稽な話を身ぶり手ぶりおかしく演じて、高貴の人のお伽をしたり、或いは中央・地方を経廻って民衆を楽しませるような人物がいたはずで、やがてはそれを職業とするような者も現われてくる。もちろん、こういう人々も正式には文献には残らないが、古く万葉集(巻三)に見える、持統天皇と志斐の嫗との贈答歌「いなと言へどしふる志斐のがしひがたりこのころ聞かずてわれ恋ひにけり」「いなと言へど語れ語れとのらせこそ志斐いはまをせしひがたりとのる」などを見れば、天皇の無聊を慰め珍しい話や滑稽な話をする者の存在が、持統朝という古代にさえあったことが知られる。更に平安時代の藤六などという滑稽をこのむ人物も、そういう人物がいたことは確かだろうが、沼の藤六・野間の藤六などとして、単なる一人の人物の固有名詞ではなく、面白おかしい話をして人々を喜ばせる、かかる種類の人々の共通名詞であったように思われる。下って、|暁月坊≪きようげつぼう≫(教月坊)、一休和尚、|雄長老≪ゆうちようろう≫、曾呂利新左衛門なども然りで、いずれも一応社会的地位があり、殊に一休、雄長老のごときは生前当代屈指の高僧として、有名でもあり、広汎な教化活動や文学的業績を残していながら、死後半世紀もたたぬうちに、その伝や本来の業績、活動は忘れられてしまい、滑稽な人物としてのみ記憶されると共に、種々の滑稽譚が付会されている。

 笑話の流行 更に時代が下って中世以降になると、将軍家や大名家にお|伽衆≪とぎしゅう≫或いは|伽≪とぎ≫の者、|話衆≪はなししゆう≫などという職制があらわれる。ついで戦国時代から織豊期になるとますます盛んになって、太閤秀吉の朝鮮進発陣の人員表を見ると、無慮八百人の多きに及ぶ。その他、武田家はじめ諸大名のうちに、多くのお伽衆、話の者がいたことも明らかにされている。これらのうちには、秀吉のお伽衆のある者のように何万石の大名もおり、また内典外典に通じて当代屈指の碩学といわれた|大村由己≪おおむらゆうこ≫をはじめ、学者・僧侶出身の知識人も多かったようである。さらに、その学識・詩才を謳われた天竜寺の|策彦≪さくげん≫和尚、安土法問などで有名な西光寺の|貞安≪ていあん≫和尚のごとき高僧たちも、お伽衆という固定した身分ではないが、しばしば信長のもとに出入りして、お伽衆的役割を果したことが推定される。これは江戸時代になっても同様で、|安楽庵策伝≪あんらくあんさくでん≫や本阿弥光悦、松永貞徳などが、京都所司代板倉勝重によばれてお伽衆的な役割をしたことが知られる。また将軍家においても、もと大名であった者が、将軍の側近に侍して、お伽衆となっていた事実もある。
 もちろんこれらの人々は、その地位・経歴から見て、すべてが滑稽な話をして主人を楽しませたとは考えられない。一種のブレーントラストとして、その豊かな経歴や学識をもって将軍や大名の政治的諮問に答えたり、政治機構の整備や立法、文化政策、或いは当時勢力の強かった寺院政策の樹立に預ったことも多かろう。事実、秀吉による京都の大々的な都市改造計画には、大村由己のほか細川幽斎、連歌師の|里村紹巴≪さとむらじようは≫などもこれに参画している。或いは呂宋への外交文書の作成にも、里村紹巴や五山の僧たちが文案を練ってもいる。しかし、中には曾呂利新左衛門などのごとく、専ら滑稽な話をして主人を慰めるお伽衆もいたはずであり、その他のお伽衆も、主人が退屈な時、武辺話などのほか、滑稽な笑話をしてその無聊を慰めることも多かったことであろう。かくて、笑話は、次第に口誦文学の域から脱して、れっきとした記載文芸に発展、変貌する。即ち徳川時代の始まる慶長・元和・寛永頃には古活字版・整版となって、流布流行の度を高める。つまり説話の一部に過ぎなかったものが、ここに独立して、実際には一つの文学ジャンルとして成立することとなる。
 また、織豊期になると、笑話がこれら上層部ばかりでなく、巷間にもますます盛んに語り興ぜられていたことが推定される。即ち、戯言養気集・寒川入道筆記・昨日は今日の物語・醒睡笑などを互いに比較して見ると、同一の原本から書承したり書抜き増補したとは思われない。話にあまりに異同が多く、しかもたまたま見出だされる類話も、文体から主人公の名など異なっているからである。昨日は今日の物語などに至ると、諸本によって、話も異なるし、文体・語り口も異なっている。これは、策伝が醒睡笑の序文に、「策伝某小僧の時より、耳にふれておもしろくおかしかりつる事を、反故の端にとめ置たり」と言っているように、当時笑話が巷間に広くもてあそばれており、以上の諸書も創作というより、これら民間で語り伝えられていた話を採集し、笑話文学として一書にまとめたと考えられるからである。
 笑話の文学史的評価 そう考えると、笑話が時々の人々に与えた文学的な喜び、即ち文学的影響というものは、文学史的事実として無視することが出来ない。だが笑話は、かかる盛行の事実にもかかわらず、江戸時代はもちろん、明治以降も正式に文学の一ジャンルとして認められることがなかった。ただわずかに今昔物語や宇治拾遺物語など説話類の一要素とし、或いは、民俗学における民話の一部として触れられているだけであった。笑話を文学の一ジャンルとして取上げた文学史もないようだし、明治以来国文学の研究は、研究の領域も広がり研究テーマも細分化されたが、それでも、笑話を専門に取上げた国文学者の研究書さえない。だが笑話がこれだけの長い享受の歴史と、広く民衆へ浸透していたという文学史的事実を有する以上、今後是非開拓しなければならない一部門だと思われる。
 まして江戸時代になると、前述した笑話の流行が、折からの印刷術の発達と結びついて、飛躍的に享受層を拡大する。今まで写本や口で伝えられたものが、印刷によって一度に何百何千とテキストが作られるから、大衆層への流布浸透はめざましい。ことに多くお伽衆らの手すさびになったと思われる古活字本時代をすぎて、寛永期の整版本時代になると、その流布力は甚だしい。かくて、笑話は飛躍的に盛行する。出版刊行された笑話本の数も一千余種に上る。量的な面から言っても、川柳・狂歌・黄表紙に決して劣るものではない。また、その盛行の時期も、織豊期から幕末まで近世三百年にわたり、黄表紙はもちろん、川柳などよりも長く、また、時代と共に複雑多岐な発展変化をとげてもいる。明かに、独自の一ジャンルを形成しているのである。或いは、かくて一千余種もの本が刊行され、広く読まれれば、自らそこには他の文学ジャンルにも大きい影響を与える。それなのに、川柳以下は文学史で文学上の一ジャンルとして認められているのに、笑話においては、前述のごとくこれを一ジャンルとして認めた文学史は未だないのである。
 笑話はまた、単にかかる多くの享受層を有し、厖大な作品群を生んでいるという単なる文学史的事実ばかりでなく、その文学としての価値も、決して川柳・狂歌・黄表紙などに劣るとは思われない。

 笑話の魅力  では、笑話の面白味・魅力、つまり文学的価値というものはどこにあるのであろうか。まず第一に、著者乃至は語り手が、正式の文学と考えていないから、それだけに伝統的な文学観の支配をうけない。従って対象を伝統的な型にはまった捉え方をせず、自由ありのままに物事を見るから、自ら清新で鋭い見方が生ずる。また滑稽文学らしく、正面からオーソドックスに取組まず、一ひねりした特異な角度から対象を眺める。同じ時代の仮名草子の中でも、薄雪物語以下の古典文学の影響の強い、いわゆる擬古物語と、本書所収の昨日は今日の物語を比べてみれば、事は自ずと明らかであろう。第二には、笑話は伝統的文学観の影響を受けることが少ない上に、語り手自体に文学を創作するという構えた意識もなけれぽ、また元来民衆的なものとして教養の乏しい人の手によって語られてもいるので、伝統的な文体を離れ、自由に口語調の文体・語り口を発揮している。安楽庵策伝が書留め編集した醒睡笑は、さすがに編者の深い文学的教養を反映して、かなり伝統的な文語調であり、時には長歌のごとき韻文口調で一篇をおし通したり、或いは衒学的な漢文で綴った部分などもあって、伝統的な文体の影響力を脱し得ていないが、これに先行する戯言養気集や寒川入道筆記、或いは昨日は今日の物語においては、殆んど口語調といってよい新しい文体で、俗語や卑俗な表現を平気で用いている。当時にあっては、さぞ清新な文体の魅力があり、平易で気楽な読み物だったはずである。
 また、笑話の一つの魅力は、時代・世相を如実に反映していることである。伝統的な道徳観に支配されず、自由に時の人が興味をもった事件・話題を、そのまま語っている。それだけに、世相を端的、如実に語っているのである。これは初期の笑話に共通した性格だが、更に元禄期になると、意識的に世上の事件・話題をとらえて、際物的なあてこみ≪、、、、≫|の話が多くなる。しかも、伝統的な文学意識乃至は文学を作るという意識は依然稀薄なので、自分の個性や意見をはっきり出さず、世相の移り変りに従って、柔軟に変化し、時の人の好みに合せてゆく。それだけに時代の風潮乃至は好みがそのままあらわれている。天明期になれば江戸っ子意識がはっきりと出てくるし、軽妙洒脱な江戸趣味とか、粋とか、気のきいた洒落、江戸の通言が話し本に氾濫するし、寛政の改革以降化政から幕末になれば、文化の大衆化をそのまま反映して、簡潔で気のきいた笑よりも、冗長平俗でわかりやすい話に変貌する。笑話は短簡な文学ながら、時代の雰囲気をまことに如実、端的に語っているのである。
 更に一言すれば、笑話本は時代性が強く世相を如実に反映する点、文学研究の好個の資料であると共に、また、それが殆ど口語乃至は準口語体で書かれている点、江戸時代の口語の変遷、実態を知る上に好個の資料である。殊に、天明期以降の笑話本には、洒落本のごとく、会話で話の筋を進めることが多く、その表記も、必ずしも伝統的な仮名遣によらず、江戸訛というか、江戸っ子風の発音、アクセントを表わそうとした表音的な用字の工夫さえ見られる。しかもその盛行の時代が長い点では、洒落本のごとく一時期に栄えたものよりも、更に利用価値の大きい資料であるというべきである。この二点からしても、江戸の笑話が学問的に取上げられて然るべきだと思うのである。
 さて、上述のように、笑話は近世を通じて一千余種の書物が刊行されるほど、広い読者を楽しませてきたが、笑話は時代性が強いものであるから、この三百年のうち、その時々の事件や風潮を反映し、自ら時代の移り変りと共に、変貌をとげている。従って、以下これらの笑話を四期に大別し、その変遷のあとを辿って、江戸笑話の全体的把握、体系化への第一歩を試みるとともに、昨日は今日の物語以下八篇を特に本書に選び収めた理由を明らかにしておこう。

 織豊期から寛永期  長い戦国の世が、信長によって統一され、つづいて豪放濶達な秀吉の時代を迎える。戦乱の世に苦しんだ人々もようやく一息ついて、俳諧や狂歌のごとき初歩啓蒙的な戯笑文学に手を染めはじめる。即ち俳諧や狂歌は伝統的な文学教養もいらないし、気楽にふざけちらしてよいという、戦国乱世で十分な文学教養をもたぬ武士層や、或いは経済的実力は有しても、同じく教養の乏しい新興の町人層にとっては、恰好の文学形式であった。こういう気運は、徳川の寛永期まで一応つづく。文学史でいわゆる啓蒙期、或いは文芸復興期といわれ、貞門俳諧をはじめ、狂歌、仮名草子などが、その本来の平易通俗的な庶民性を発揮していち早く活撥な動きをみせ、折からようやく盛んになった印刷術によって、まず古活字本によって広く流布し、更に寛永期に入ると、整版本として、古活字本の十倍二十倍という書物の大量生産が行われるので、流行の度を一段と盛んならしめた。
 既に述べたように、織豊期には笑話が上下各層において流行していたわけだが、これもかかる風潮のもとに、まず戯言養気集・昨日は今日の物語などが、古活字版によって刊行された。同じく古活字版で刊行された新撰狂歌集も、詞書が長くついている一種の狂歌話、笑話と見做してもよかろう。或いは寒川入道筆記なども、今は佚亡してその存在を知らないが、古活字版があったのかもしれない。つづいて整版時代になれぽ、昨日は今日の物語が十五年間に四種以上の新版を出しているし、醒睡笑も整版として広く流布するようになった。或いは我が国最初の飜訳文学である伊曾保物語なども、ローマ字のキリシタン版のほか、口語訳の整版が出ている。その他、仮名草子中でも、笑話に入れるべきものも多い。
 この期の笑話本の特色は、未だ戦国の余風を存して自由奔放、呵々哄笑する明るい無遠慮な笑いである。バルザックの風流滑稽譚ほどではないが、これに似た、粗野だが線が太い逞ましさがある。時に無遠慮すぎて卑猥な作品として伏字なしでは戦前には復刻出来なかったような話もあるし、事実、人前で読んだり話したりするには憚られる話も多い。だが、これも人の劣情をことさらにそそるようないやらしさはないし、古拙な文体に助けられて、不愉快猥褻な感じはない。卑猥だとか下品だとかいうのは、気むずかしい現代人の感覚で、粗野豪放な時代の大人の笑いだったのである。戯言養気集などは、お伽衆の手によって成ったものであるから、語り手も一応教養や社会的地位のある人物であったし、聞き手も信長や秀吉はじめ、いわゆる高位高貴の人であった。或いは当時屈指の学僧といわれた|英甫永雄≪えいほえいゆう≫、つまり雄長老の狂歌百首に、謹厳な公卿学者|中院通勝≪なかのいんみちかつ≫が評を加えた、雄長老百首にしても、かなり卑猥な箇所がある。粗野な戦国武将ばかりか、伝統的な文学教養を有する公卿社会にも、かかる無遠慮な話が語られていたのである。或いは、醒睡笑は、一代の名所司代として名高く、廉直を以て鳴った板倉勝重に向って、同じく高僧の誉が高かった安楽庵策伝が語った話だといい、まだ幼少だった勝重の子重宗も、傍に侍してこれを聞いていたという。醒睡笑は、戯言養気集や新撰狂歌集・昨日は今日の物語に比べれば、上品な話が多いが、それでも時には人前、まして少年の前では語れないような話が混じている。やはり時代の風というべきであろう。とにかく、こういう明るく無遠慮な笑話であって、教養ある人士でさえ、平気で楽しんでいたのだから、まして教養の乏しい一般の人々が、これらを歓迎し楽しみ、笑話の流行をみたのは、当然のことといえよう。寛永期はようやく徳川氏の全国統一政策が浸透し、諸制度も完備してきたとはいえ、やはり文化方面では、いまだ戦国の余風を存して自由濶達な雰囲気があったようである。
 また、これら笑話に登場してくる人物も、僧侶・稚児・田舎武士など、中世社会に活躍していた人物が大部分である。元禄以降の笑話のごとく、町人がまだ主体となってはいない。題材も、同じ恋愛でも時代の風潮を反映して、僧侶と稚児との恋ほか、男色関係のものが多い。元禄期になれば、男色は役者の陰間ほか、ずっと数を減じ、更に天明期以降の笑話になれば、殆ど題材として取上げられなくなる。ここにも笑話の時代性・世相を敏感に反映する性格があらわれている。また、平家物語や幸若物など、次の元禄期にはもう衰退期に入って、笑話本に次第に見られなくなってゆくものも、この期には未だ多く取入れられていて、醒睡笑などでは、「平家」「舞」などと、特別に一項を設けてそれらの話を集めているほどである。これも時代の風潮をよく反映しているといえる。
 更にその文体は、古典的教養の深かった歌人、策伝の醒睡笑を別にすれば、古拙素朴で、仮名遣はもちろん、文法や誤字・宛字などには殆ど意を介さない。俗語や訛も平気で口語乃至は準口語体で、平易に語りかけている。殊に寒川入道筆記は、文章の格をはずれた不器用粗雑な文章で、終りに「…といふた」などと、余計な結びをつけている。昨日は今日の物語の古活字本も、内題にさえ平気で「きのふわけふの物語」とした本もある。また戯言養気集になると、せっかく面白い話の終りに、史記の「太史公曰く」ばりの、「評して曰く」などと、もっともらしいお説教がついている場合が多い。これは、お伽衆の話の語り口が、かかる笑話にまで未だ痕跡を残しているものといえよう。だがとにかく、文体・語り口、共に古拙不器用なのが話の内容と調和して、大らかな味を出していることは否めない。
 以上が織豊期から寛永期にかけての笑話の特色だが、これらの作品のうち、昨日は今日の物語は、他の作品に比べて、時には非笑話的な話もあるにしろ、全体的に笑話としての純粋度が最も高い。とにかく当時の笑話本は、啓蒙期の文学として、教訓性・実用性・啓蒙性など夾雑物が多い。また、題材の選択、笑いの内容も一番自由で不遠慮であり、話としても面白いものが多い。文体・語り口も類書の中では一番すっきりしている。そういうわけで、この期の笑話の代表作として本書を選んだ。

 元禄期 元禄期は、近世文学の黄金時代といわれる。西鶴・芭蕉・近松など天才的な作家が一時に輩出した。笑話もかかる文学界の風潮を反映して、複雑多岐な発展をしている。前期の笑話本が、すべて京都で編纂され京都で出版されたのに対して、京・大阪・江戸と地域的に拡大されてゆく。即ち、江戸には、|鹿野武左衛門≪しかのぶざえもん≫以下、四人もの|座敷仕形咄≪ざしきしかたばなし≫という職業人が、江戸図鑑綱目に堂々と載せられているほど、仕形咄が流行している。読む笑話から、身振り。声色をまじえた聞く笑話に発展しているのである。座敷仕形咄というように、身分のある人や金持の家によぽれて演じたり、或いは芝居小屋や風呂屋(これはいずれも插絵から知られる)などでも演じたらしい。いわゆる|御座敷芸≪おざしきげい≫なのである。更には、もっと大衆層を喜ばせる|大道芸≪だいどうげい≫が流行していたと思われる。事実、同じ頃京都には|露≪つゆ≫の|五郎兵衛≪ごろべえ≫なる者が、真葛が原や四条河原など、人の多く集まる所で、大道露天の|辻咄≪つじぱなし≫をし、一人十二文の代金をとったという。或いはほぼ同時に、大阪にも|米沢彦八≪よねざわひごはち≫なる者が、同じく辻話をして人気を博している。露の五郎兵衛などは、辻咄の名人として全国的に知られていたようだし、彦八もその名声がかなり広く聞えていたようで、わざわざ名古屋の地まで呼ばれて出演し、多くの聴衆を集めたという。これら第一流の名人ばかりでなく、二流三流の辻咄を職業とする者も多くいて、それらが地方を巡業したり、或いは地方の大都市には、そこに住みついた辻話の職業人もいたことであろう。こういう職業人を支えるほど、笑話が流行していたのである。即ち笑話は、寛永期のいわゆる仮名草子時代の読む笑話から、聞く笑話即ち落語に変貌すると共に、また全国的に流布するという特色を有しているといえよう。
 さて、これらの笑話は、江戸・京・大阪と、地方により、また作者の個性により、それぞれ持味というか、特色を有しており、題材の点でも、地名や話柄もそれぞれの土地のものを用いてはいるが、反面また笑話は時代性の強いものであるから、共通の性格も有している。即ち登場人物も前期の笑話本が中世的世相の名残をとどめて、僧侶や将軍・大名などが多かったのに対して、ここでは町人が圧倒的に多くなり、同じ武士でも浪人者や下級武士や仲間などに代ってきている。文体も仕形咄、或いは辻話として、口語調に一層近づき、平易流暢さを増すとともに、語り口に技巧が加わって、落ちの効果が生かされるようになっているし、洒落や|地口≪じぐち≫もずっと手がこんできている。そのため、時に鹿の巻筆のごとく、技巧にはしりすぎ、あまり重苦しいというか、煩わしく、苦労した失敗作に陥った場合もある。本の体裁も、仮名草子から浮世草子へ変貌した小説界の風潮をうつして、見事な插絵入りの浮世草子風仕立のものが多くなっている。本書に収めた鹿野武左衛門の鹿の巻筆、露の五郎兵衛の軽口露がはなし、米沢彦八の軽口御前男など、いずれも半紙本五冊であり、その他のものも時に大本や中本または三冊本もあるが、多くこの体裁になっている。
 かく元禄期には、笑話本はお伽衆の手すさび乃至は書肆の「なぐさみ本」の域を脱して、書物の体裁を整えると共に、その出版点数もかなり多くなっている。しかし、右にあげた三書は、殊に名高い三人の代表作であり、しかもそれがそのまま三都それぞれの土地の特色を反映してもいるので、この期の笑話本の代表作として選んだ。

 天明期 鹿の子餅の出版された安永元年は、慶長八年に江戸幕府が開かれてから百七十年目にあたる。百七十年の歳月は、新開の江戸の地にも漸くその土地固有の文化を醸成せしめた。加えて、元来地方割拠を本質とする封建政治体制とはいっても、徳川幕府の政治機構は甚だ中央集権的傾向が強く、やがてこれが実ると共に、享保の改革などの影響もあって、江戸の地は名実共に全国の中心となる。いわゆる文運の東遷というのもその一現象であり、この時代には既に文化の中心は、上方から江戸に移っていた。そこに江戸っ子気質・江戸前などという江戸自慢が生れてくる。これは雄渾とか壮大乃至は悲愴などという深さ・強さには欠けるが、軽妙洒脱であり、明るく楽天的なものであった。上方風のねちっこさに比べて、淡白な傾向があることは否めない。雄渾壮大或いは深刻な長編の文学ではなく、ごく短い形でさらりと軽妙淡白に諷刺滑稽を旨とする|小咄≪ごばなし≫は、川柳や天明調狂歌と同様、まことに江戸好み、江戸の文化的風土に合致した文学形式であった。諷刺滑稽というもの自体、知的なもので、気のきいた「江戸好み」にぴったりする。天明調狂歌や川柳が江戸の地で栄えたのも故なしとしない。笑話もその点同様で、つまり狂歌や川柳の散文化といってもよいものだから、この時代になると全く面目を一新し、落ちに向って、話は一直線に進んでさらりと短かく終る。軽妙洒脱、気のきいた小咄となる。かくて笑話はその面目を一新する。徳川時代の笑話を普通一般に江戸小咄とよんだりするのも、それが、江戸の地に生まれたという、この文学史的事実によるものであり、現代人の抱く江戸小咄という概念は、かかる味わいをもったこの時期の笑話類によるのである。
 本の体裁も、元禄期の半紙本五冊の形式から、軽妙な小咄という内容にふさわしい、小本一冊の気のきいた形になっている。殊に初期のものは、鹿の子餅など、洒落本仕立の体裁をとっている。これは、時に天明期の小咄がその簡潔な表現を中国の笑話本から受けたといわれるが、実は、洒落本の流行という文壇風潮が直接の刺激となっていることを示しているように思われる。本の体裁ばかりでなく、会話によって筋を進める文体・語り口も洒落本に近いし、軽妙な洒落、粋な味わいを楽しむ文人の戯作趣味という点でも、洒落本とこの期の笑話本とは、甚だ相近いからである。また、この期の小咄の特色は、創作話もあるが、趣向つまり先行の笑話などを世上の噂に巧みにからませて新しい話とする機智の面白味が強くなっている。同じ頃流行していた黄表紙と同様、文壇風潮の反映である。ともあれ、元禄期の笑話本が語り聞いて楽しむという形に変貌しはじめたのに対し、ここでは再び読む笑話に戻っているともいえよう。
 とにかく、この期の笑話本の流行は甚だしく、きわめて多くの本が出版されている。|蜀山人≪しよくさんじん≫は、「この頃話本が世上に流行して、毎年一冊は出る」などと言っているが、事実は、毎年数点の咄本が刊行され、聞上手などに至ると、一年のうちに三編まで続編が刊行されたらしい。本書では、かかる多数の中から、いわゆる簡潔な天明調江戸小咄の嚆矢となり、後来の作品に大きい影響を与えたという鹿の子餅、咄本中もっとも好評であったといわれる聞上手、及び、いかにも軽妙洒脱、才人ぶりを発揮している蜀山人の鯛の味噌津を代表作として収めることにした。
 化政期 寛政の改革は、もと政治中心の政策であったにかかわらず、文化界にも稀にみる大きい打撃を与えた。川柳・狂歌は共に諷刺性を失って、俳諧歌・狂句などという低調平俗なものになった。洒落本も衰え黄表紙も仇討物になった。作者層にも変化があり、蜀山人・朋誠堂喜三二はじめ御家人や大名に仕える武士も戯作を発表することを遠慮したり、或いは全く筆を絶った者が多い。とにかく寛政の改革は元来は政治中心のものだが、当時の文人・文化界にも大きい打撃を与えたのである。
 だが、話の流行はますます一般化する。この頃になると、一書を編むだけの実力をもつ戯作者だけでなく、狂歌や川柳をいくらかひねる程度の者までが作者となって小咄を作るというほどになった。この風潮のもとに、咄の会というものを催し、これら話の同好者を大々的に組織し、素人の話を盛んならしめたのが、大工の棟梁|烏亭焉馬≪うていえんば≫である。
 咄の会というのは、古く天明三年四月、柳橋の河内屋で、焉馬が自作の落語を披露して好評を博したのを機縁として、同六年四月に、蜀山人・|桜川慈悲成≪さくらがわじひなり≫・|鹿都部真顔≪しかつべまがお≫ら当時の戯作界の大立者が集まって、第一回の咄の会を向島の武蔵屋権三の席で開いた。これが非常な人気をよび、第二回は同八年正月、両国の京屋、第三回は寛政元年二月、柳橋の大のし楼、更に同二年、同三年と京屋で毎年開かれ、同四年以後は、|咄初≪はなしぞめ≫として、正月二十一日を例会の日と定めるほどになった。この咄の会は、落し咄の好きな同好のグループが、互いに自作を口演し、楽しむ会である。歌会や連歌の会を洒落のめして、和歌三神・柿本人麿・天神像などのかわりに、昔話の祖として桃太郎の図などを飾って、貸席などを利用して開いたものである。これには、いわばラジオ、テレビの視聴者参加番組的魅力があり、出演する者はのど自慢などに出るような芸自慢を満足させる素人の遊びであったから、甚だ成功し、「士農工商僧侶の嫌いなく、高座に上って話す」楽しみを得た。だが、あまり盛んになったので為政者の弾圧をうけ、寛政九年十月取締りの禁令が出された。しかし禁令が出ても、宇治拾遺物語ならびに戯作披講とか、狂歌雅号披露などと名目を変えて、禁令をくぐっては続けられた。これらの話のうち、焉馬が秀作を選んで刊行したのが、|喜美談語≪きびだんご≫(寛政八年)、|詞葉≪ことば≫の|花≪はな≫(寛政九年)であり、無事志有意(寛政十年)である。このうち、最後に出た無事志有意がやはり一番体裁も整っているし、面白い話も多い。それ故、本書では、無事志有意をこの期の笑話本の代表作として選んだ。
 だが、大衆化は一面卑俗化をまぬかれない。これらの咄本には、天明期の小咄の軽妙洒脱さ、簡潔な表現は既に失われて、冗長間のびした文体で、鋭さや粋な味わいは失われてしまっている。これには、会場で一人一話として、ある程度の間を持たせなければならないので、長くなったということもあろう。即ち読む咄本から話す咄本に転化しているのである。いわば素人の作った鹿の巻筆なのである。これはまた笑話本から落語へと推移発展してゆく機縁となっている点、落語の発展史上から見れば、ある程度の意義を有している。また作者が大衆化し殆ど無名の町の好事家たちがその作者の大半をなしていることも、|卯雲≪ぼううん≫・蜀山人などの文人らしい知的な鋭さを失わせて、低俗化を招いたのであるが、これも寛政の改革を機とし天明調狂歌が俳諧歌に、川柳が狂句に、前期滑稽本が一九や三馬の後期滑稽本になったように、大衆化低俗化という文壇一般の趨勢の然らしめるところでもあった。内容も、時に機智あふれた作者の創作話もあるが、一般に殆どが創作でなく、先行の話の焼直しである。これは、語り口の巧みさを主眼とし題材は意にしないという風が強くなったためもあろう。だが、新奇巧みな話を創造したりするだけの能力に乏しいことも事実だったろう。また、趣向立てが依然踏襲されているが、それも機智の鋭さが乏しくなって、つまらぬあてこみに得意になっていることが多い。もっとも、元来が素人の遊びだったことを思えば、そうしち面倒くさく論ずる必要もあるまい。
 だがとにかく、焉馬を中心とする咄の会によって、聞いて楽しむ笑話が流行した。焉馬が落語中興の祖と称されるのも、もっともであろう。この他桜川慈悲成など、やはり同好者のグループを集めて咄の会を行っている。そういう咄の会の流行は、やがてその中から話を職業とする専門家、即ち咄し家・落語家を生むに至る。話の大衆への浸透化は、またこれらの落語家を経済的に支える基盤を十分に用意してもいた。かくて、焉馬や慈悲成の門下には落語家となった者も多いし、その他この二人とは別系統に三笑亭可楽なども出て、有力な落語家の一派を開くにも至る。咄の会によって読む笑話から聞いて楽しむ笑話に変貌したものが、遂に別種の|話芸≪わげい≫たる落語に姿を変えてゆくのである。だが、本書は笑話本の代表作を集めるのを目的とする。落語の発展やその台本については、また別種のものとして取扱うべきだと思って、これは割愛した。それに、俳諧歌や狂句に文学的価値や興味を感じないように、化政期以降の笑話本にはくすぐりや駄洒落が多く、またいたずらに冗漫で笑話本としての魅力をも欠いているからである。
 なお、この寛政期及びこれ以降幕末まで、右の咄の会の佳作集などのほか、一般の笑話本もおびただしく刊行され、中には絵を多くした黄表紙仕立のもの、馬琴など文人の手に成ったものもあるし、或いは一九なども晩年に咄本を大量生産している。しかし、黄表紙仕立のものは、単なる趣向の珍しさにすぎないし、馬琴の笑話本はその性格を反映して、衒学的かつ不器用で面白味がない。一九の笑話本は狂言などを利用したりもしているので、狂言との比較や膝栗毛との関係など問題はあるにしろ、それは国文学者の興味であって、笑話本としては低俗で文学的価値は低い。
 更にまた、開口新語以下、|笑府≪しようふ≫の口訳本或いは漢文体、漢文読み下し文風の笑話類もあり、これはたしかに異色なものであり、また中国笑話との関係など、研究課題としても面白いが、これもオーソドックスな江戸笑話本の流から見れば、傍流というべきである。従って、これらはすべて本書には省くことにした。

二 所収作品について

 きのふはけふの物語 本書は、従来殆ど注目されていない、いわば知られざる文学の一つである。だが、戦国乱世の大人の無遠慮な笑いを書留めたものとして、線が太く逞ましい戯笑文学であり、仮名草子中でも屈指の名作である。
 もともと仮名草子というものは、過渡啓蒙期の文学として、非文学的な雑多な夾雑物の多いものである。即ち、仮名草子中の名作として聞えている竹斎にしてからが、医者竹斎の滑稽失敗譚という滑稽的要素を中心としていながら、まず「京内めぐり」という名所記風な部分に始まり、次いでかなり長い男色物語という恋愛物の要素をふくみ、更に最後には、江戸の日本橋に終るという、名所記風の結びをつけている。漫然と読むにはよいとしても、著者の創作意識の中心にあったと思われる滑稽文学として見れば、あまりにも異質な夾雑物が多すぎて統一を欠く。或いは、同じ笑話本でも、戯言養気集は太閤秀吉の朝鮮役参加の人名を長々と録したりしているし、内容的にも前述のごとく、末尾に教訓を加えたりした、教訓性・実用性・啓蒙性などという、笑いにちぐはぐな要素を加えている。また、笑話本として近時注目をあびている醒睡笑と比べてみても同様で、醒睡笑には、「聞えた批判」など、後の|比事物≪ひじもの≫とも称すべき、笑話的要素の乏しい説話や、宗祗や宗長などの和歌・連歌についての話など、笑話とは異質の情緒性・啓蒙性を主とする和歌・連歌の説話などが相当量載せられていて、笑話本としては夾雑物とすべき部分が多い。然るに、本書はかかる非笑話的な話は稀で、題材の面から言っても、かなりの程度に純粋に笑話で統一されているのである。
 また、文体の面から言っても、戯言養気集に見られる多くの話の後に、「評して曰く…」という教訓的な文句がついているような、いわゆるお伽衆的な話の教訓的な泥くささがない。また、醒睡笑のごとき、編者の伝統文学の深い教養による伝統的文学観や雅文意識がなく、やや粗雑だが、ざっくばらんな口語調で語られている。これは当時の人にとってたしかに新しい文体であったはずで、平易で親しみやすい感じを与えたことであろう。更に笑いの面から言っても、戦国の大人の哄笑であり、時に無遠慮過ぎることもあるが、文体・語り口の古拙の大らかさに助けられて、卑猥というか、不潔ないやらしさを感じさせない。
 以上が本書を仮名草子中の秀作とする理由であるが、これは現在における文学的評価ばかりでなく、当時にあっても、仮名草子中他に類を見ないほどのベストセラーであったらしい。即ち、古活字本だけでも少くとも全然系統の異なる四類(七種)以上の本があり、恐らく、出版元を異にしたものであろう。こういう場合、書名を変えたり、最初の部分だけ違う話を入れて、先に刊行された本と違う種類の書物に見せかける場合が多いのに、本書に限って、四類七種の本、いずれも「昨日は今日の物語」の書名を襲って、改題したものは見当らない。それのみか、四類各話の順序に異同が多いのに、冒頭の部分はすべて同一の話が載せてある。即ち、新しい笑話本とみせかけて売るよりも、「昨日は今日の物語」というものが、十分流布したトレードマークのごときものであって、この名さえつければ、かえって新版物よりも売れやすいというほど、流行していたのではないか。これはまた、寛永の半ばから正保四年まで十五年というわずかの間に、全く異なった整版が四種類以上も出ていることからも推定出来る。普通整版は、おおむね同一の版木を用いるのに、大きい費用を投じて、新しく版を起したのは、よほど売れるか、売れる見通しがあったからであろう。これほど短期間に版を重ねた仮名草子を私は他に知らない。仮名草子中一、二を争うベストセラーだったのではないか。
 成立年代は不詳。内容は戦国時代から織豊期の話が一番多いが、下巻第8話に大阪浪人の子の話が出て来ており、この話は古活字本・整版本のいずれにも共通して載るので、整版で新たにつけ加えたものとは思われない。すれば最初の古活字本の成立でも、その大阪夏の陣の終った元和元年を溯れない。むしろ、大阪浪人が社会的な問題とされ出した寛永初年頃の成立と見てよいのではないか。これはまた、現存古活字諸本の面からも推定される。即ち、現存古活字本中最も古いと思われるものも、時に慶長古活字を交えているが、おおむね寛永頃の古活字で組まれているように思われるからである。成立事情も判然としない。著者名はもちろん、序跋から刊年、出版書肆名など、すべて記されていない。整版のうちでも寛永十三年版にはじめて刊記が見えるだけで、これとて著者名はおろか、序跋から出版書肆名まで省かれている。思うに、これは古活字本の時から出版社が儲げのために非公式に刊行する、いわゆる「なぐさみ本」であって、同じ古活字本でも、伊勢物語闕疑抄以下のごとき正式な出版ではないから、序跋がないのはもちろん、著者名や出版書肆名を伏せるばかりか、刊年さえ書入れなかったのであろう。そう考えると、古活字本四類が同一題名をもち、同一話ではじまりながら、話の排列順序が異なる理由も納得がゆく。恐らく本屋の主人か、或いはその依頼によって、誰か器用な者が原稿を作り、それぞれの版を刊行したものであろう。もし同一の書肆が、売行きがよいので再刷したのなら、十行古活字本の場合のごとく、同種異植版になったはずで、かかる話の順序の異同、及び、甲にはあり乙にはないという話の出入りなど生ずるはずがない。本書の流行をあてこんで、それぞれ異なる書肆が勝手に出版したためと考えたい。そのためか、四類の古活字本は、それぞれ異なった古活字が用いられてもいる。これはまた整版の場合にも、ある程度あてはまることであろう。他の書店から出版されたものを無断で出版することを禁ずるという、著作出版権の萌芽ともいうべき出版法規の政令が出たのは、のちの享保以降であり、この頃はいわゆる無統制時代だから、それぞれの本屋が勝手に版をおこして、四種以上もの整版が出来たと思われる。そうでなけれぽ、出版費用の大部分を占める版木の彫りおこしをせずに、古い版木で再刷を続けるはずである。そういえば、整版のうちでも版木が磨滅したような刷本を目睹したことがない。
 著者は、以上のような成立事情が推定される以上、不明というより致し方ない。しかし、古い古活字四類の諸本のいずれもが、ほぼ同時代の笑話集たる戯言養気集・寒川入道筆記・醒睡笑などに見られる類話と比較すると、文体・語り口すべての点で全く異なるから、それらの書物から適宜書きぬいて安易に編集したものとは思われない。わずかに同文と見做される話が、新撰狂歌集に一、二見出されるが、これは全く例外的な例であり、それに新撰狂歌集が本書からその話を転載したとも考えられる。だが本書の編者は巷間に語り伝えられた笑話を採集し、これを十分整理して、先述のごとく教訓性・実用性・啓蒙性などという仮名草子一般の夾雑的要素を除き、題材を笑話で純粋に統一し、更に文体も伝統的な文章観に煩わされず新しい文体を開いている点、すぐれた文学的乃至は編集の才能の持ち主であったと思われる。当時、笑話などというものが、たわいのない遊びで文学と見做されていない時代だから、編者自身も名を顕わさなかったし、書肆や周囲の人もこれに触れることがなかったのであろうが、とに角その編集の才能は見事というべきである。

 |鹿≪しか≫の|巻筆≪まきふで≫ 近世小説は、天和二年の好色一代男以降、仮名草子から浮世草子へ変貌してゆく。昨日は今日の物語は、仮名草子の代表作であったが、貞享三年の鹿の巻筆から、露がはなし・御前男になると、小説界一般の推移にしたがって、咄本も趣を変えて、浮世草子風になる。その中でも最も西鶴の浮世草子に近いのがこの鹿の巻筆である。
 本の体裁も半紙本五冊。当時一流の人気浮世絵師|古山師重≪ふるやまもろしげ≫の筆になる、見開き二頁にわたる見事な插絵が二十図も入っていて、見ても楽しい。著者名を巻頭に書入れているのはもちろん、序跋まで備え、正式な文学書の体裁を整えている。この体裁は、そのまま著者の気負った文学者意識に通じる。また、插絵中の三図に、自らの口演の姿を大きく描き入れ、横に「鹿野武左衛門」と注記してあり、泥くさい自己宣伝臭というよりも、その気負った所がほほえましいくらいである。従って、話も先行の作品の焼直しでなく、彼自身が苦心をして作った「創作」である。
 だが、かかる文学者気取り、気負った態度は、結局、本書をして力みすぎた失敗作に終らせることになったようである。即ち、本書は昨日は今日の物語などと違って、いずれも相当の長文であり、しかも巻頭の「ばんどうや才介」「三人ろんぎ」はじめ、凝りに凝って、双六や将棋、かるたなどの用語をもじっている。本人が苦労して、これでもかこれでもかと、無理にこじつけもじるにつけ、読む者はうんざりして、もう沢山だといいたくなる。どだい説明を聞かなけれぽわからぬような洒落は面白いものではない。作者の気負い力みすぎが、結局滑稽味を減殺してしまい、失敗作となったのである。恐らく当時の読者も、現在の我々ほどではないまでも、ただ読んだだけでは、このしつっこさには興味を削がれたことであろう。にもかかわらず、本書がかなりもてはやされ、著者|鹿野武左衛門≪しかのぶざえもん≫が身分のある人の屋敷に招かれたり、時には芝居などにも出演したり、とにかく堂々たる一芸として世間に認められていたのは、結局、彼の座敷芸としての仕方咄の面白さにあったことと思われる。即ち、江戸図鑑綱目の「舞能太夫芸者并堺町諸色太夫付住所」の項に、座敷仕形咄として、鹿野武左衛門を巻頭に、休慶・伽羅小左衛門・同四郎斎の四人の名があげてある。これはその前にあげてある、座敷独狂言と区別されて別項目となっているところよりすれぽ、座敷で一人で役者の真似をするのと違って、芝居や浄瑠璃の場面をくずすという面白味があり、かつこれを|仕方≪しかた≫、つまり身振りをまじえ、時に当時の人気役者の声色や身振りまで似せたり、或いは浄瑠璃の人気太夫の語り口を模して、面白おかしく話したと思われる。それが読む文章としては比較的つまらぬこれらの話を、当時見聞く者にこれは何の芝居の何々太夫のくずしなどと、いきいきと面白く感じさせ、その声名を高めたのであろう。そうなれば、一人で座敷乃至は芝居の一コマをつとめなければならないので、或程度の間をもたせなければならない。従って、かなり長文の話が多くなり、また長文にするために、単なる笑話とちがって、くどくどあれこれともじったりかけたり、手のこんだ工夫を重ねなければならなかったわけで、その意味では、本書を単なる読物として、力みすぎた失敗作とばかり断ずるのは酷というべきで、座敷仕形咄の台本としては、致し方がないばかりか、かえって効果をもたらす場合も多かったことであろう。
 なお、本書は三十九話のうち、十一話を歌舞伎種の話でしめている。これは、著者の武左衛門が芝居小屋などにも出演したり、歌舞伎の世界によく通じていたという、特殊、個人的理由が大きいのであろう。そのため、本書の話の中には、当時の歌舞伎の実態を窺う好資料がある。即ち、本書刊行の貞享三年といえば、寛文元年の京都の若衆歌舞伎の禁により野郎歌舞伎となり、歌舞伎がようやく若衆の男色など、性的なものをたちきって、純粋な演劇として独立発展しようとしていた時期である。しかしその頃の歌舞伎劇の実態を知るべき資料は、この頃には未だ極めて乏しい。その点、本書によって歌舞伎劇が演劇として発展する時、その脚本面で幸若舞曲を多く利用したとか、当時の陰間が依然売色を行っており、中には歌舞伎などに全然縁のない無粋な浪人者が、生活のため私娼を抱えるように陰間を抱えていた事実(野暮のかげまもち)など、当時の歌舞伎の実態を窺う好資料でもある。
 成立年代については、話の内容からして、刊記のごとく貞享三年として問題はない。前著、鹿野武左衛門口伝ばなしから、三年の後である。口伝ばなしは三巻中、中巻を欠くが、これと比較しても、大分咄に手がこんで、武左衛門なりの努力と進歩のあとが見られる。思うに、口伝ばなしののち、次第に名声も上り、作者も更に努力して、巻数を五巻にふやし、堂々たる書物を編むこととなったのであろう。
 著者鹿野武左衛門の伝は明らかでない。大阪の人で、本姓を志賀といい、それから鹿(鹿野)の芸名をつけた。口伝ばなしも三巻ながら、半紙本より一まわり大ぎい本で、堂々たる書物であるから、江戸の地で既に天和三年ごろから名を成し、三年後には堂々たる鹿の巻筆を出すに至った。次第に名声を高め、江戸図鑑綱目の出た元禄二年には座敷仕形咄の第一人者として、自他共に許す存在であった。だが、それから五年、元禄七年には、思わぬ奇禍を受けることになった。即ち、元禄六年四月、馬が人語を発して、江戸にソロリコロリという悪病が流行するが、これを防ぐには南天の実と梅干を煎じて飲めばよいと言ったという風説が広がり、そのため南天の実と梅干の値段が二十倍にもはね上り、梅干まじないの書まで刊行されるほどであった。そこで町奉行が、この流言を取調べたところ、翌七年になって、かかる風説を流し、梅干と南天の実の騰貴によって暴利をはかろうとした八百屋の惣右衛門と浪人筑紫園右衛門の陰謀とわかり、一人は死刑に処せられ、他の一人も牢死した。ところがこの流言は、鹿の巻筆(この頃も好評でなお再刷をつづけていた)の「堺町馬の顔見世」からヒントを得たというだけの理由で、直接著者とは関係のないにもかかわらず、武左衛門も大島に流され、版木は焼却を命ぜられた。奇禍というべきか。その後武左衛門は五年の刑期を終え、元禄十二年四月江戸に帰ったが、遠島の疲労から、間もなく同年八月、五十一歳で世を去った。
 なお、本書の跋文には、広く話を募集し、その秀作を武左衛門が撰んで一書として刊行する計画が述べられている。かくして読者層を作者層に近づけ、享受層を拡大することは、既に古く俳諧において行われたことであった。貞門俳諧は、テレビやラジオのごとき広報宣伝機関もないどころか、飛脚制度さえ十分整わない時代に、僅か数十年の間に全国的に俳壇組織を確立し、会所・取次所という地方の下部組織を作りあげ、俳諧の隆盛をはかり、俳諧点者の経済的基礎を築ぎ、俳諧師・俳諧点者という職業人を多く輩出せしめた。これはその後も雑俳や|万句合≪まんくあわせ≫などに受つがれた方法だが、武左衛門もその点よい着眼であった。だが俳句とちがって、笑話はさすがに作りにくいためもあってか、この計画は多少それに類した何人かの作者の合作本が出たにしろ、その動員数は甚だ限られていたようで、結局は成功発展しなかったようである。広く一般の同好者から話を集めて、その秀作を刊行するというのが成功したのは、前述の如く百年も後の、焉馬の時代に至ってのことであった。元禄は民衆文化といっても、江戸の民衆の間にまだそれだけの文学的趣味や能力は不十分であり、時期尚早というべきであった。

 |軽口露≪かるくちつゆ≫がはなし 本書は、鹿の巻筆とほぼ同じ頃に京都で刊行されたものだが、時代的な共通性を有しながら作者の個性を反映し、いろいろな点で対照的な相違を示している。まず作者の|露≪つゆ≫の|五郎兵衛≪ごろべえ≫自身が、武左衛門のごとくやや高漫とも思われるような文学者意識を有さない、気さくで庶民的な芸人だったことである。武左衛門が座敷芸なのに対し、こちらはいわゆる辻咄と称されるもので、大道芸人として野天で気軽に話をし、講談などの聴講料と同じく、わずか一人十二文のはした銭を取るものであったようである。従って、軽口露がはなしも、武左衛門のごとき創作意識がないから、気軽に先行の話を利用し、時にはそのまま、或いは筋や語り口を現代風にした程度のものが多い。たとえば五巻九十話のうち、醒睡笑からとった話が三分の一に及ぶ三十話もあり、その他、昨日は今日の物語や寒川入道筆記などの話をとったものもある。これは剽窃などというしち面倒くさい考え方をすべきものではなく、現在の落語家が既成の話を語るごとく、芸人として気軽に題材を先行の諸書から利用したと解すべきであろう。創作などということより、結局、聴衆に面白く聞かせて楽しませるその語り口が主眼であり、それが芸であり、彼の身上であったと思われる。従って、話も鹿の巻筆と違っていずれも短かく、巧みな落ちがついている。「軽口」と称するのも、この語り口が主眼であったからであり、そういう点、彼は無意識的に落ちを主とする話、即ち小咄、落し咄の道を開いたわけである。彼の話のこういう気さくで庶民的な性格は、かえってしち面倒くさい武左衛門などの話よりも全国的に流行し、拾椎雑話に、貞享.元禄の頃、京都の軽口咄の名人で、「田舎までも露が斯様の咄などともてはやし」たと伝えている。大道芸として武左衛門の話よりも、より広い享受層を得ることとなったのである。そういうわけで、本書の体裁も、鹿の巻筆とやはり対照的である。即ち書名に「露がはなし」とはあるが、著者名はない。序跋もなければ插絵も比較的貧弱である。著者名を誇示するような意識はなかったのであろう。それのみか、武左衛門と異なり、本書の編集にさえ、あまり積極的でなかったのではないか。誰かが五郎兵衛の同意のもとに、彼の話を筆録編集し刊行したという程度ではないかとさえ思われる。
 五郎兵衛の伝は、これだけ全国的に名を知られた辻咄の名人であるにかかわらず、元禄十六年に六十一で没したとか、晩年に剃髪して露休といったことぐらいしか知られない。だがその名は長く記憶され、辻咄といえば露の五郎兵衛とされ、関西落語の祖、軽口咄の祖と称されている。

 軽口御前男《かるくちこぜんおとこ》 露の五郎兵衛とほぼ同時だが、やや遅れて大阪に出、辻咄をし、軽口咄の名手と称されたのが米沢彦八《よねざわひこはち》である。その点、彦八はやはり露の五郎兵衛の徒である。従って、その著、軽口御前男も、軽口露がはなしに近いが、両者を比較すれば、やや鹿の巻筆的な要素があるといえようか。即ち、話は短いし、語り口も落ちを主とした、いわゆる軽口咄であるが、露がはなしほど先行の話の焼直しが多くない。五巻九十話のうち、醒睡笑に類話が見られるのはわずか二話にすぎないし、昨日は今日の物語や寒川入道筆記の話を用いたと思われるものもない。恐らく醒睡笑の話も千いくつの咄から二話をぬいたのではなく、無意識的に作者の頭にあって利用されたに過ぎないのであろう。恐らく九十話すべて、彼の思いついた創作的な笑話であろう。その点は、露がはなしとはやや趣を異にする。本書には著者名や跋文はないが、著者を明らかにする序文はあって、その中にも、「何と彦八難波にあたらしい事はないか」とあるように、同じ落語を何度聞いても面白いように、軽口咄は語り口の巧拙が主眼であるとはいえ、新作の話は一つの魅力である。芭蕉も「新しみは俳諧の花」と言ったが、先行の話の焼直しを廃し、新しい話を集めたところに、彦八の新しい道、賢明な行き方があったのであろう。かくて彦八は軽口咄・落し咄の名人として、単に大阪ばかりでなく、全国的にも名前を知られるようになったらしい。正徳四年には彼の名声を聞いて、名古屋の喜太郎という者が、一儲けしようとして名古屋までよんで落し咄の会を開いた。これは成功し、人が多く集まったが、六月三日、彦八は旅先で急死したという。彦八も一時は全国的に名を知られた辻咄の名人だったが、やはり一種の大道芸人であるから、その伝は右に述べた以外全く不明である。だが、大阪落語の祖として崇められ、何代彦八としてその名を継ぐ者が後々まで続いた。芸人として以て瞑すべきであろう。

 |鹿≪か≫の|子餅≪こもち≫ 江戸における小咄の流行は、文運の東遷後間もなく川柳や天明調狂歌と同じ頃から始まるが、いわゆる江戸好みの小咄の嚆矢とされるのが、この鹿の子餅である。それまでの小咄に比べて、短かく落ちに一直線に進み、さらりと終る。文体もまた歯切れがよく、江戸言葉も随所にはさまれ、いかにも軽妙洒脱、江戸人の好みに合った小咄となっている。そのためか、本書は甚だ好評で、以後小咄は面目を一新する。その点、小咄史上一つのエポックメーキングな作品といえよう。本の体裁も、前述のごとく元禄の半紙本乃至は大本五冊というごたごたしたものでなく、軽快な小本で、しかも一冊本である。気楽な遊びにふさわしい小本になったところも、いかにも江戸小咄らしい。
 本書の刊行は、刊記通り明和九年(安永元年)としてよいが、成立については多少問題がある。まず書名は、道化方第一の名人と称せられた初代|嵐音八≪あらしおとはち≫がぜんまい仕掛の人形を飾って売出し、江戸名物の一となった鹿の子餅を用いているし、その序文も一見、音八が書いたように見せかけている。当時の江戸の御家人らしく、芝居好きで音八びいきであったからであろうが、実は、初代音八は本書刊行の三年ほど前に死んでいる。すれば作者が本書を刊行する意図は少くとも数年前の明和の中頃のことであって、それが何かの事情で延引し、安永元年に出版されたのではないか。事実、中の話を見ても、明和の中頃からの世上の事件や噂話を種にしたものが多いから、短期間に書上げたものではなく、明和の中頃に一応初稿を作ったが、何かの事情で刊行出来ず、その後ぽつぽつ書き加えたり訂正などして、明和九年に刊行したのではないか。そう考えると、初代音八の没年とのずれも納得がゆく。だが、本書は刊行されてみると、その江戸趣味に合った軽妙な語り口が好評を博し、以後の咄本に大きい影響を与えるとともに、また本屋の慫慂もあってか、譚嚢なる後篇を刊行している。これもなかなか秀作である。
 著者|木室卯雲≪きむろぼううん≫は、天正十年以来家康の時から御家人となった家に生まれ、元文二年二十四歳で家を継ぎ、御徒目付、小普請方をつとめ、明和五年御広敷の頭にうつり、同八年勤を辞して小普請となり、天明三年七十で没した。だが、稟米百俵、月俸四口という微禄で、生活は楽でなかったらしい。しかも出世の望みもなく、そうかといって豪遊する金もない、微温的で退屈な日々を送っていたのが当時の御家人たちの生活であった。加えて、この頃の御家人は町人化し、武士ながら一応娑婆気、洒落気もあり、芝居などに夢中になったりする。殊に多少才気のある者はこの生活の倦怠をのがれるため、狂歌やかかる戯作に筆を染める者が多かった。卯雲も白鯉館卯雲の号で狂歌をよくし、その撰者などもしている。なお、卯雲には、奇異珍事録(五巻、安永七年自序)、見た京物語(一巻、天明元年自序)の二種の随筆があり、比較的筆まめで、内容よりすると戯作などをする御家人にしては篤実な性格だったらしい。
 |聞上手≪ききじようず≫鹿の子餅の好評の影響があったか否か、その刊行の翌年、即ち安永二年に出版された。これも鹿の子餅同様、軽妙洒脱な語り口で気のきいた小咄集である。著者は薬屋であり、また浮世絵などにも巧みな器用な才人で、いかにも江戸っ子風な町人であった。そのためか、鹿の子餅よりもどこか柔らかく親しみやすい味もあり、語り口・文体も軽快至極であったためか、鹿の子餅以上の好評を得、同年に二篇二二篇の続編が刊行されたほどであった。鹿の子餅にすでに見られた際物のあてこみは、この頃の小咄の一特色をなしているが、本書では更に巧みになっており、いろいろの点で好評を博したのももっともと思われる。
 成立年代は、次の諸本の所で述べるが、安永元年刊とする説が行われているが、安永二年とすべきであろう。
 なお、作者|小松屋百亀≪こまつやひやつき≫は、絵も描けぽ(春画さえ描いている)咄本も書く才人で、また蜀山人など文壇的交友も広かったらしいが、やはり町人だけあって、その伝は飯田町中坂に住む薬種商であったことがわかる程度で、不詳。

 |鯛≪たい≫の|味噌津≪みそず≫ 卯雲と同じく出世の望みもなく生活も楽でない御家人に生まれた|蜀山人≪しよくさんじん≫は、その稀有な才能をもてあました。十九歳で|寝惚≪ねぼけ≫先生文集を著すほどの才気と学力を有しながら、せっかくの才能とエネルギーを、狂歌や戯作に浪費した。そういう彼だから、小咄の流行をみれぽ、早速自らも筆をとり、いくつかの笑話本を作っているが、中でも代表的なのが、この鯛の味噌津である。その作は、才気を反映して、軽妙洒脱、時に気取りすぎてペダンティックなところがあるにしろ、甚だ気のきいた作品で、いわゆる江戸小咄の代表作といってよかろう。彼の才気を以てすれば、かかる咄本一冊をまとめるのはごく簡単な手すさびにすぎなかったらしく、話は本書刊行の前年の事件や噂が殆どである。恐らく春の出版を目標に、秋から冬の短期間に、一気呵成にまとめあげたのであろう。しかも版下まで自分で書いている。成立年代にも疑問はない。
 著者蜀山人の伝については、簡単に補注でも述べたから、ここで今更改めて説くまでもあるまい。ただ、よく出来ていても、笑話本はやはり笑話本にすぎない。私はその稀有の才気とエネルギーを、笑話や商売の引札などに浪費したその志の高からざりしことを惜しむ。

 無事志有意《ぶじしゆうい》 文化の一般化大衆化は、一面、否応なく卑俗通俗化を招かざるを得ない。寛政の改革がなかったにせよ、狂歌・川柳・滑稽本が化政期では甚だしく低俗化しているのは致し方ないところであった。作者層も天明期の狂歌や洒落本以下の戯作の筆をとった者には、教養ある御家人、武士層の作者が多かったが、寛政の改革以後はこれらの人々が多く戯作の筆を絶ち、乃至は控えると共に、文化の一般層への浸透により、町人層の作者が急激にふえてくる。そういう気運の中で、前章で述べたように、咄の会なるものをしばしば催して広く民衆の間に笑話を流行させるのに大きい功のあったのが、本書の著者|烏亭焉馬≪うていえんば≫である。焉馬自身大工の棟梁であり、店では足袋・木綿類を売っているような、いかにも大衆的な人物で、御家人や武士などとちがって当時の基礎教養であった漢学の初歩的知識にも乏しい程度であった。そういう人物が中心となっているところにも、この期における笑話の一般化・通俗化が窺われる。これらの話が、文体は冗長で、内容も先行の話の焼直しが多く、天明期の笑話に比して低俗なことは、既に第一章で述べたから再説を省こう。
 本書の刊行についてはやや疑問がある。即ち、現存いずれの本を見ても、序文もあり跋文も備え、体裁のよく整った本なのに、出版書肆名がないのである。これは、本書刊行の前年十月に、咄の会取締りの禁令が出たためであろう。だが本書は、既に来春早々発売のため、版木の制作にまでかかっていた筈である。禁令にふれれば、著者も咎をうけるが、それよりも出版元は版木を没収されるばかりか、営業を停止されたり、時には実刑を言いわたされる。被害は出版元が一番大きいのである。そうかといって、せっかく準備も出来、売行きもよさそうに思える本を断念するのも残念である。窮余の策として、出版書肆名だけを削ったのではないか。現存本のいずれも、出版書肆名はない。なお、のち天保十年には、開巻百笑と改題した同一版木改修の本が出ている。これは禁令がゆるんだ頃を見はからって、改題再発行したものであろう。
 かく、無事志有意は、咄本自体としては、安永期のものに劣るが、焉馬がかかる咄の会を盛行させ、落語の流行を招く気運を作った点は、落語史上高く評価しなければならない。江戸落語の中興の祖と称されるのも、もっともだといえよう。
 なお、焉馬は、五代目団十郎と親しく、義兄弟の交りを結んだり、自ら芝居や浄瑠璃の脚本を書いたりもしている。芝居好きであり芝居通であり、また、団十郎後援会の|三升連≪みますれん≫の中心人物でもあった。そのため、この咄の会のメンバー、殊に無事志有意の作者のうちには、三升連の人々が甚だ多い。そのため全体に芝居種が多いという特色を有している。これは一面江戸時代、時代が下るに従って、芝居が、民衆の間に浸透して行った風潮のためでもあろう。とにかく芝居種の多い点では、本書所収の笑話本中、鹿の巻筆と共に、一つの特色をなしている。

三 諸本について

 江戸の笑話本については、従来まとまった研究が行われていないばかりか、個々の作品についても、殆ど取上げられていない。まして、その諸本研究をはじめ、本文校訂・著者・成立年代や事情・刊行年代・出版元など、文学研究以前の基礎的な問題は、殆ど顧られていない。従って、本稿においては、本書に所収した作品について、これらの問題につき、ごく簡単な検討を行い、それぞれの底本を定めた理由を明らかにしておきたい。

 きのふはけふの物語 本書は稀覯の本といわれながら、案外諸本が多く、主要なものだけを限っても、古活字に四類七種以上の本があり、整版が四種、かなり古い本を祖本としていると思われる写本が二種、抜萃本が一種現存する。それらについて、本書の排列順序にしたがって、説明を加えておく。
 〔大東急文庫本〕 大本。古活字十一行本。上下二巻二冊。上巻三十丁、六十七話。下巻三十一丁で同じく六十七話。計百三十四話を収める。上下揃った古活字本としては最も古いと思われるし、整版本のもととなった、即ちのちの流布本系統の祖でもあるので、これを底本の第一とした。
 また、刈谷文庫に八行の古活字で上巻のみの零本がある。中本。丁数四十五丁。これも古体の古活字で、古活字本中山岸本と並ぶ古いもので、話数は五十九。しかし、これらの話は、排列順序も大東急本と同一で、ただ八話だけ欠けている。大東急本より古く、大東急本は、この刈谷本乃至はこの同種版を祖本としていると思われる。また、同じ半紙型の八行古活字本が天理図書館にもある。これは下巻一冊のみの零本。丁数は現存本は四十九丁だが、最初の一丁が失われていて、もと五十丁、話数も六十七話あったはずである。内容は、大東急本に排列順序から話数まで全く一致している。これも活字の面では大東急本より古いから大東急本の祖本だったかもしれない。
 〔八行整版本〕 中本。上下二巻二冊。刊記はないが、版式・内容よりして、寛永前半の頃の刊行で、少くとも寛永十三年版九行本より古いとすべきであろう。出版書肆名もない。この本は、大東急本系統をもとにして、これに増補を加えた本のようである。上巻六十五丁、八十話。下巻五十五丁、七十一話。計百五十一話を収める。だが、話の排列順序から個々の話の文体・内容まで、互いに異同の多かった古活字本は、この整版の出現で、話の順序から内容・文体も固定することとなった。この後の整版類は、すべて本書をもとに、わずかの訂正付加をしたものにすぎない。
 〔九行整版本〕 中本。上巻五十二丁、八十一話。下巻四十五丁、七十二話。計百五十三話。末尾に「寛永拾三年 丙子正月吉辰」とあるが、書肆名はない。八行整版本をもとにし、上下各巻の末尾に一話ずつ加えたもの。
 なお、この版に匡郭を加え、一つ書きの「一」の文字を「▲」に改めた改修版も出ている。これも中本で内容は全く同一。出版書肆名もない。また、正保四年刊の十行の整版もある。中本。上巻五十丁、下巻四十二丁とつまっているが、内容は九行整版をもとにして新しく版を起したものらしい。刊記は、「正保四丁亥仲春吉辰」とあるが、出版書肆名は不詳。
 とにかく、寛永前半の八行本から本書に至るまで、四種類の整版が、わずか十五年ほどの間に新しく版を起されている点、いかに本書がもてはやされたかが推定される。
 なお、本書の九行整版本を抜萃、新たに版を起した「わらひくさ」という上下二巻の本がある。わずか十八話中、第八と第十七に同一の話が重複するという、杜撰な草双紙仕立の改題抜萃本である。上下五丁ずつで、一丁半の絵入り本。明暦二年十一月、山本久兵衛版。旧安田文庫蔵、現天理図書館蔵。
 〔山岸文庫本〕 大東急本と同じく古活字十一行本だが、話の排列順序・出入には、きわめて異同が多い。大本。上巻一冊。話数六十一。慶長古活字を交えた寛永頃の古活字本で、現存古活字本中最も古いように思われる。これには大東急本や整版に見えぬ話が、上巻のみで十四話もある。山岸徳平博士蔵。
 〔金地院本〕 天理図書館蔵本で、金地院旧蔵本。古活字十行。大本。上下二巻二冊。上巻三十五丁、七十八話。下巻三十四丁、六十四話。計百四十二話。これも話の排列順序ほか大東急本・山岸本と異同がある。今までに見えなかった話が、上巻に九話、下巻に二話ある。
 なお、同種異植版と称すべきものに、神宮文庫蔵本、及び竜門文庫蔵本がある。
 〔多和文庫本〕 大本。上下二巻合綴一冊。上巻墨付二十七丁、六十八話。下巻墨付二十八丁、六十五話。計百三十三話を収める。筆写は新しいが、文章・表記も古体で、かなり古くすぐれた祖本にもとついたものであろう。しかし、この祖本は現存古活字本諸本や整版などと別系統の本だったらしく、話の排列順序や出入りが一致する他の本を見出せない。内容や表記にも異同が多い上、この本にのみ載る話が上巻に一話、下巻に九話ある注目すべき異本である。
 〔学習院本〕 大本。上巻一冊。話数六十九話。上巻のみの零本。これは筆写は新しいが、文体.表記などよりして、祖本は古活字乃至はそれに準ずる古い本のように思われる。だが、この祖本も現存古活字本中に求め得ない。今まで未知の古活字本乃至は写本が存在し、これが祖本となっているのであろう。以上にあげた諸本に見られぬ話が三十一話もある注目すべき異本である。
 以上の諸本の集成によって、本書では、昨日は今日の物語に、従来知られていた百八十九話に加え、上巻三十五話、下巻九話、合計四十四話の新しい話を加えることが出来た。
 最後に、以上の主要諸本を系統的な一覧表によれば、次のごとくになる。
  刈谷本(上巻)/                    1十行整版本
  天理本(下巻)大東急文庫本-八行整版本-九行整版本--わらひくさ
  山岸文庫本(上巻)
  金地院旧蔵天理本(竜門文庫本・神宮文庫本)
  多和文庫本
  学習院本(上巻)
 なお、諸本については、現存諸本五十四点について一応の検討を行った「「昨日は今日の物語」の諸本」なる拙稿(学習院大学文学部研究年報、第12輯。なお同稿に半紙本とあるのは、すべて中本の誤)を参照されたい。

 鹿の巻筆 半紙本五冊。「江戸/鹿の巻筆一(五)」。内題は「鹿の巻筆」。序文一丁、筆者は浮世絵師古山師重である。巻頭に目次二丁、本文六十六丁、三十九話を収める。插絵は菱川師宣の高弟古山師重筆で、二十図もある。跋文は一丁、恐らく自跋であろう。刊記は、底本にした霞亭文庫本には「貞享三丙寅二月吉日 作者鹿野武左衛門 絵師古山太郎兵衛【江戸道油町南青物町】開板」とある。書肆名が削られているから初刷本ではないだろうが、初刷本もこの霞亭本もその出版社は不詳。なお、霞亭文庫本にある乱丁の訂正に用いた慶大斯道文庫本では、絵師の名と書肆の住所が削られ、「相摸屋太郎兵衛開板」とある。恐らく霞亭文庫本の刊記のみ改修した後刷本であろう。匡郭以下版面は全く一致している。
 なお、本書は元禄七年筆禍をうけ、書店は版木の焼却を命ぜられたというが、正徳六年に再版本が出ている。即ち天理図書館にある一本は、匡郭の寸法も右にあげた版と一致するから、恐らく覆せ版ではないか。題簽も同じく、「江戸/鹿の巻筆 一」を枠で囲んである。末尾に「鹿の巻筆巻五終 作者鹿野武左衛門」とあり、刊記は、「正徳六 月吉日  武州芝神明 山田屋三四郎版行」とある。当時の書店や作者に大きいショックを与えたと思われる元禄七年の筆禍事件も、既に二十余年後の正徳の頃にはほとぼりがさめて、再び同名で堂々と同じ本が再版されたのであろう。

 軽口露がはなし  半紙本五冊。序跋なく、本文六十一丁、九十話を収める。題簽は「ご存知のかるくち/露がはなし 一(五)」とあり、 「露がはなし」の横に、すべて「さしあひなし」と書いてある。内題は「軽口露がはなし巻之一(五)」。各巻に目次があり、插絵は十五図。刊記は、霞亭文庫本に、「元禄四年未七月吉日 書林開板」とあるのみで、出版書肆は不明だし、初版初刷本でないこともわかる。だが、本書は甚だ稀覯で、完本の所在を知らない。東大本・京大潁原本も零本。零本中一番整っているのは、霞亭文庫の巻四を欠く四冊本、学習院本の巻五を欠く四冊本。このうち学習院本が最も鮮明な刷本なので、これを底本とし、欠けた巻五は同一の版と見做されるもののうち、やはり刷のよい霞亭文庫本の巻五を用いた。だが、とにかく、本書の完本を未だ目睹しないし、また初刷本はもちろん、後刷本についても、書肆名のある本を目睹しないし、図書目録などの記載にも見当らない。
 なおまた天理図書館蔵本その他、本書を大幅に改修縮小した本が出ている。刊年は不明だが、版の感じでは宝暦ごろの刷本と思われる。題簽その他学習院本に同じく、序文まで新たにつけられているが、各巻丁数を減らし、従って話数も少くなっている。しかし、目次まで直し、次の話の冒頭を削り取ったりした、まことに手のこんだ改修本で、一見したところでは全くの新版のごとく見えるが、版木は明らかに古いものを使っている。出版書肆が廉価版を作るため丁数を減らしたのであろう。

 軽口御前男 半紙本五冊。序文一丁、著者米沢彦八の自序である。著者名は巻頭にも末尾にも載らないが、序文に「彦八」の名が出てくるので、自ら著者の名がわかるようになっている。題簽、子持枠で「新板絵入/軽口(かるくち)御前男(おとこ)一(五)」。内題はない。管見によれぽ、東大国語研究室本が唯一の完本、他に天理図書館に巻二のみ一冊の零本があるだけである。従って、東大本を底本に用い、巻二のみは天理本を参照した。天理本も東大本と同一の版と思われる。本文五十四丁、各巻に目次があり、九十話を収める。插絵は各巻二図ずつ計十図。刊記は、「元禄十六壬未年六月上旬大坂順慶町心斎橋筋 書林 敦賀屋九兵衛 柏原屋清右衛門」とある。
 だが、一説にこれは後刷本であって、初版は「軽口男」で、貞享元年刊、更に元禄七年「浮世軽口男」と改題し、更にこの「軽口御前男」に改題されたという。しかし「北野の能」(巻一)、「相撲の名乗」(巻一)は、明らかに元禄十五年の観世織部太夫の一世一代の勧進能・大阪最初の勧進相撲をあてこんだ際物の話であり、また、「誰が見ても幽霊」(巻二)の冒頭には、「元禄十五年極月中旬にある人より合」とある。すれば、やはり元禄十六年の刊行と見るべきではないか。それに、彦八は享年は不明だが、「軽口男」の出たという貞享元年から三十年後の正徳四年に死んでいる点からすると、貞享元年はやや早すぎるような気もする。実物を未見だから断言はしないが、この説には従いかねる。なお、更に本書を改題した「軽口笠ゑびす」なる本もあるという。

 鹿の子餅  底本に用いた東大国語研究室本は、小本一冊。序二丁、本文五十九丁(四十五丁のみ一丁落丁。明治大学蔵本でこれを補った)。薄水色表紙であるが、洒落本風仕立の本である。題簽は「話稿/鹿の子餅 全」。原題簽と思われる。序は「山風」の署名があり、下に嵐音八の紋の印がある。従来この山風を著者木室卯雲の別号とするが、卯雲が山風を名乗った徴証は他に見られない。山風は嵐の字を二字に分けたもの、下の印も嵐音八の紋をかたどる点よりすれば、当時の道化方の名人、初代嵐音八に擬すべきであろう。これは実は著者木室卯雲が筆をとり、贔屓の役者嵐音八らしく見せかけ、書名の「話稿鹿の子餅」に照応させたのではないか。即ち、話稿は嵐音八の俳号和考の音をきかせ、また鹿の子餅は音八が売出した当時の江戸名物であったからである。著者卯雲は、御家人として、狂歌ならとにかく、かかる話本ごときに名を出すのを憚ったのであろう。そういえば、本書には著者名は見えない。わざと伏せたのではないか。
 刊年は、序文の終りに、[明和壬辰の太郎月」とあるから、明和九年正月の刊行と見なしてよいであろう。本文は六十三話を収め、時の流行浮世絵師勝川春章の插絵四図を収める。跋文は、大字で「|下司咄屎果以2古語≪ゲスノハナシハクソデハツルノモツテコゴヲ≫1|先此巻是≪マヅコノマキハコレキリ≫
 か    もち切」とあるが、署名はない。しかし後篇の譚嚢の跋には、「先歳|見《あら》はしたる鹿の子餅も軸《ぢく》は屎《くそ》にておさめたり。其吉例《そのきちれい》をもて又|尻≪しり≫に屎を|以≪もつて≫す。一|帖≪でう≫見る人屎のごとくわらはむ。笑はゞわらへ、此方|屁≪へ≫とも存ぜぬ。馬場氏雲壷」とあるから、馬場雲壷の跋であろう。内容から見て自跋なることは明らかだから、馬場は「ばば」、屎・不潔物、雲壷は糞、跋文に合せた下品な悪洒落で、木室卯雲の匿名であろう。末尾に刊記、出版書肆名は見当らない。すればこの本も初刷ではなく、初版の版木を譲りうけた他の書肆が刊行した再刷本ではないか。だが、書肆名の入った初版初刷の本はまだ目睹しないし、他書による紹介も知らない。
 なお、京大潁原文庫本その他、上中下三冊に分冊した改修本がある。鼠色に青の雲形模様の厚紙表紙で、「話稿/鹿子餅初編上(中・下)」とある。人情本風の表紙で、一見してずっと時代が下って天保以降の改修本なることが知られる。この本の刊記は、堀野屋仁兵衛以下の相版となっている。これによって、鹿の子餅の明和九年の版元を、江戸堀野屋仁兵衛らの版とするのは如何であろうか。本書は、右に述べた東大本と全く同一の版木で刷られており、版心まで同一である。
 なおまた、朝倉無声の日本小説年表以来、時に元禄三年刊の三冊本をあげ、これに従った目録、書目もあるが、これは何かの間違いで、著者の生没や話の題材の年代、文体・内容のいずれからしても、元禄三年に出された筈がない。

 聞上手 底本として用いた日比谷図書館加賀文庫本は、小本一冊。題簽は「聞上手」とある。序二丁、署名はないが、内容からして著者小松屋百亀の自序であろう。本文五十五丁半、六十四話を収める。插絵五図。跋文もなく、著者名は最初にもどこにも載っていない。刊記は、「元飯田町中坂 遠州屋弥七板」とだけあり、刊年はない。ただこの前に、「話稿 聞上手後篇 嗣出 続て板行仕候間御求め御覧可被下候」とあるから、第二篇が出版される以前の刷本か。
 刊年は、序文の末尾に「安永のめでたい春」とあるから、安永二年。即ち明和九年は十一月に改元して安永元年となっているからである。もっとも、この作品を安永元年の刊とする説が一般に行われているが、明和九年の改元をあてこんだ「暦」の話により、やはり、安永二年とすべきである。また、東大本の序文を見るに、「安永のめでたい春」の部分は前の序文と明らかに同筆だし、版もよく整っていて、入木の跡は認められない。

 鯛の味噌津 小本一冊。題簽「鯛の味噌津」。本文五十二丁、四十五話を収める。插絵は二図。版下は著者蜀山人の筆。序文は二丁、蜀山人の自序で、「新場老漁」の署名になっており、下に「焚鹽」の壷印がある。刊記は「安永亥八年正月改 元飯田町中坂 遠州屋板」。
 なお、底本は東大国語研究室本を用い、大東急文庫本を参照した。


 無事志有意 小本一冊。底本にした霞亭文庫本は題簽は子持枠で、「無事志有意 全」。原題簽か。内題「落噺/無事志有意≪ぶじしうい≫」。五代目団十郎の俳句入りの序文、一丁半、紫園春潮画の肖像半丁。本文四十二丁。その巻頭に、「立川談洲楼焉馬撰」とある。六十四話を収める。末尾に花咲の翁の跋文がある。刊記は、「寛政十歳 午の初春」とあるだけで、出版書肆名はない。他の諸本を見ても、いずれも刊記がないのは、他の書肆から再刷本を出したので刊記を削ったのではなく、前述のごとく、前年十月に出た咄の会の禁令を憚ったのであろう。
 だが、同じ焉馬の咄の会の佳作集たる寛政八年の喜美談語は、上総屋利兵衛の版(今福屋祐助らの相版は改修後刷本)、第二作で同九年の詞葉の花も同じく上総屋利兵衛であるから、或いは上総屋から出版したものか。
 なお、本書は後、天保十年「開巻百笑」と改題して改修再刷されている。これは何故か一丁足りず(別にさし障りがない咄だから、憚って削除したとは思われない)、二話が欠けて六十二話となっている。京都河内屋藤四郎等の相版。

 なお、本書所収の笑話本については、いずれも未だ注釈がない。ただ、三田村鳶魚氏らの「江戸前期輪講」(青蛙房)に「鹿の巻筆」の一部、同じく「江戸文学輪講」(青蛙房)に「鹿の子餅」の一部が取上げられているにすぎない。もっとも、最近出版された武藤幀夫氏の「江戸小咄辞典」(東京堂)には、本書所収笑話本中の話で取上げられているものがかなりある。また、箇々の作品や江戸笑話を論じた論文はあるが、まとまった笑話本研究書は、右の武藤氏のものの他はない。これは、辞典形式にはなっているが、巻頭に長文の「噺本概説」もついていて、最初の江戸笑話の総合的研究書と言ってよい。その巻尾に、「所収書目解題」「研究資料・参考文献」の二項があるので、参考文献目録はこれに譲る。


凡例

一 底本は、「きのふはけふの物語」においては、まず、代表的な古活字本であり、かつ流布本系統の祖本たる大東急文庫本を掲げ、次いで、上下各巻それぞれに、これに載らぬ話を「拾遺」として、八行整版本・九行整版本・山岸文庫本・金地院旧蔵天理本・多和文庫本・学習院本の順序で排列し、各項の末尾に底本を注記した。かくて、現在までに知り得た「きのふはけふの物語」の話はすべて網羅、あらたに四十四話を所収出来たことになる。なお、誤字や脱字と思われる箇所は、なるべく同系統本を参照した。
  「鹿の巻筆」以下は、いずれも整版であるから、本文が一応固定してはいるが、初版本乃至は現存本中なるべく古い版のうち、最も鮮明な本を底本とした。

一 本文は出来るかぎり底本を忠実に復刻し、底本の形そのままを伝えるように努力した。従って、誤字・宛字・仮名遣の誤・振仮名の誤・誤脱・衍入、或いは「憎い」を「憎ひ」などとするような、広い意味での訛というか、当時の発音に従った表音的な表記なども、なるべく底本のままにした。ただ、特に読みにくかったり誤解を生ずるようなもののみ、頭注に注記した。

一 本大系の方針に従い、次の諸点では底本を改め、読み易いようにした。
 1 会話・引用文・諺・成句の類には、「」「」を施した。
 2 底本の句読は、「きのふはけふの物語」の古活字本や写本、「軽口露がはなし」「軽口御前男」「鹿の子餅」「鯛の味噌津」のごとく全然ないものもあり、また、「きのふはけふの物語」の整版本や、「聞上手」のごとくすべて・のものや、「鹿の巻筆」のごとく・のもの、「無事志有意」のごとく、。併用のものなど種々雑多であるが、これを文意により、ないものには、。を加え、.や。だけのものは、。に区別し、また適宜補正を試みた。
 3 古体・変体・略体の仮名、及び漢字の俗字・略字・古字の類は、惣↓總、艸↓草、〓↓樣、鞁・皷↓鼓、嶋・嶌↓島など、おおむね通行の正字体に改めた。なお、|計≪(ばかり)≫は斗とした。
 4 濁点は私意を以て施したが、問題のあるものは、一々頭注に注記した。
 5 平仮名・片仮名の別は、底本のままであるが、小さい「ニ」などはそのままに残すなど、小字の片仮名の扱いは作品によって異なり、必ずしも一様ではない。
 6 「きのふはけふの物語」のみは、話に題がついていないし、話数も多いので、参照の便宜を考えて、底本は「一……」になっているのを、「一」を省いて、各話に上下巻、拾遺それぞれに洋数字で一連番号を付した。
 7 插絵はすべて本書に収めた。底本ではかなり恣意的な入れ方がしてあるが、本書ではなるべくその插絵のあたる話の所に插入した。
 8 目次は、「鹿の巻筆」「軽口露がはなし」「軽口御前男」にのみある。「鹿の巻筆」は五巻分すべて巻一の冒頭にあるが、他の二者は各巻のはじめにそれぞれの巻の目次が分載されている。今この二者を「鹿の巻筆」と同じく最初に一括して掲げ、検索の便を計り、かつ体裁を統一して形を整えた。

一 以上が本文の一般的な校訂方針だが、収める所の八篇、編者・著者がそれぞれ違って、それらの独自の個性というか、癖のある用字法や表記法があって、まことに不統一である。加えて、最初の「きのふはけふの物語」から最後の「無事志有意」まで、成立に約百七十年余りの隔りがある。従って、用字法や表記の慣例も自ら時代の変遷があり、更に本の体裁、読者層の拡大変化などに応じて、用字・表記法はますます多種多様の異同、不統一を来している。これを形式的に画一の統一をはかることは、とうてい無理であるし、かえって本文を読みにくくし煩わしさを増すのみである。だが、各作品ごとに校訂方針が異なっては、これも煩に耐えない。従って、「きのふはけふの物語」と「鹿の巻筆」の二作品、並びに「軽口露がはなし」以下六作品の二群に分けて、それぞれの群において統一することにした。

  「きのふはけふの物語」「鹿の巻筆」は、
 1 仮名が多いので、読みやすいように、適宜漢字をあて、仮名は振仮名として残した。
 2 底本にある振仮名は、これを区別するため、〈〉で囲んだ。
 3 読みにくい漢字で校訂者が付した振仮名は、()で囲んだ。

  「軽口露がはなし」以下六作品は、
 1 底本に漢字が多く、振仮名も殆どつけられているから、そのまま復刻することにした。
 2 底本が仮名で読みにくく校注者が漢字をあてた場合は、底本の仮名を、〔〕で囲んだ。
 3 底本にはないが、読みにくい漢字に校訂者が加えた振仮名は、()で囲んだ。

一 頭注は、本文中の語句や人名に、簡単な説明を加えた。だが、「きのふはけふの物語」にある古い話にも、世相をそのまま反映したり時の話題を題材にしているものが多いし、まして時代が下るに従って、特異な事件や世上の噂を意
識的にあてこんだ際物の話が多くなるので、これらについても簡単な説明を加えた。またこれによって、それぞれの話の成立年代がほぼ推定出来るという便もあるのである。
 1 頭注には、スペースの節約のため、掛言葉には↓の略号を用いた。
 2 同一書名が頻出するので、次の略号を用いた。
 戯言養気集=「戯」、寒川入道筆記=「寒」、きのふはけふの物語=「きのふ」、醒睡笑=「醒」(広本たる写本と、狭本の刊本とがあるので、狭本にもある場合には特に、(広・狭)と注記した)、日葡辞書=葡、パジェスの日仏辞書=パ、
 謡曲=謡、狂言=狂。
 3 「きのふはけふの物語」の諸本については、次の略号を用いた。
   大東急文庫本=底本、山岸文庫本=山本、刈谷文庫本=刈本、天理本(八行古活字本)=天本、金地院旧蔵天理本=金本、神宮文庫本=神本、竜門文庫本=竜本、八行整版本=(八行)整版、九行整版本=九行整版(十行整版本は、話が同一で文字に多少異同があるのみだから省く)、多和文庫本=多本、学習院本=学本。

 補注には、頭注に書ききれない説明や、やや専門的な考証を記したほか、次の事項を載せた。
 1 「きのふはけふの物語」は、ほぼ同時代の「戯言養気集」「醒睡笑」をはじめ、他の笑話群と類似が多いので、これらを出来るだけ挙げておいた。即ち、「きのふはけふの物語」は、成立も未詳だし、他の笑話群との影響関係、先後関係なども不明なので、これらと比較対照する必要があると思うので、煩をいとわず類話を挙げたのである。
 2 「鹿の巻筆」「軽口露がはなし」「軽口御前男」については、先行の笑話集にある類話のうち、それぞれの書の性格を考える上に意味があると思うもののみを挙げた。
 3 「鹿の子餅」以下の作品については、古い話を焼直し新しい形の話に直すなど、趣向が主になったり、あるいは語り口の巧みさが主眼となってきているので、先行書から類話を求めたら煩に耐えないばかりか、さして意味もないと思うので、一、二代表的なものについてふれただけで、他はすべて省いた。たとえば、「無事志有意」の「辻八卦」など、「友達ばなし」(明和四年)の「うらなひ」、「聞童子」(安永四年)の「占い」、「鳥の町」(安永五年)の「占」、「今歳笑」(安永七年)の「うらなひ」、「乗合舟」(安永七年)の「占」、「笑上戸」(天明四年)の「占」、「猫に小判」(天明五年)の「占」と、同じ話がごく年代的に近い先行笑話集に載っているのに、平気でこれを焼直しているほどである。
 4 笑話は、他の文学よりも時代相をいきいきと反映している。従って、登場人物・社寺・事件・噂など、当時の人々の話柄に上っていたものが多い。しかし、作者はこれを世間周知のこととし、語らないが、これがわからないと作者得意の趣向がわからず、話の面白味がよく理解出来ないので、それらについてはなるべく言及しておいた。
 5 なお、引用書目のうち、「戯言養気集」は、下巻のみ天理図書館にあるのでこれを用い、上巻は現存しないようなので復刻本によった。また「醒睡笑」は、まだ諸本研究が十分なされていないが、管見に入った諸本のうち、東大国語研究室本が最も善本と思われるので、これを用いた。

一 本書の底本のため、蔵書の公刊を許可せられた、大東急記念文庫・天理図書館・多和文庫・東京大学霞亭文庫・同国語研究室・日比谷図書館・学習院大学附属図書館ほか、及び山岸徳平博士の御好意を感謝申上げる。また、校合などで、静嘉堂文庫・明治大学図書館・慶応大学斯道文庫・国立国会図書館以下多くの図書館・文庫の方々を煩わせた。謹んで深謝申上げる。

一 また、本書執筆の後半、三年の間は殆ど病臥を続けているので、図書館などに一々調査に行くことが殆ど出来なかった。ために補注については、多くの方々の御教示・助力を忝くした。御教示を得たことは一々注記したつもりだが、殊に延広真治氏には、「無事志有意」について、三升連をはじめ甚だ多くの御教示を得た。また大東急文庫本などの写真撮影について国領不二男氏、原稿浄書には及部実恵さんの助力を得た。いずれも深謝申上げる。

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最終更新:2017年01月03日 15:45