小高敏郎『日本古典文学大系100江戸笑話集』補注(途中まで)

きのふはけふの物語

一 きのふはけふの物語(四七頁) 「昨日は今日の昔」の諺は、松江重頼の「毛吹草」の「世話付古語」の部に見えているし、「慶長見聞録」にも「昨日は今日の昔、今日は明日の昔」などとあるから、近世初期には広く行われていたらしい。もと、「明日もあらぽ今日をもかくや思ひ出ん昨日の暮ぞ昔なりける」(新勅撰集、十七、源光行)のごとく、わずか昨日の事でも、今日から見ればすでに昔であるの意。この諺をふまえて、昔話、説話の話し始めの形式、「むかし…」「今は昔…」や、さらにはこれを題名にした「今昔物語」という代表的説話集を連想させて、説話集たることを示したもの。なかなか気の利いた題名のつけ方である。

二 むかし天下を治め給ふ人の(四七頁)  天皇を知らないなど、江戸時代の武士とちがって、いかにも、無智・無頼な武士、足軽連中の話で、応仁の乱以降、戦国時代の雰囲気をよく反映している。また、本書の読者は数百年の王城の地に住む京都の知識人が主であったから(殊に古活字本時代には)、天皇を知らない人がいることだけでも、天明期以降の笑話に見られる江戸っ子自慢に似た京都人の一種の優越意識を刺戟し、滑稽を感じたことであろう。その点、笑話の時代性、地域性をあらわしてもいる。なお、この話、及び次の話は、戯言養気集や醒睡笑など他の説話集にはないが、昨日は今日の物語では、古活字、整版、写本等すべての諸本の巻頭におかれている。昨日は今日の物語の代表的な話となっていたのであろう。

三 織田の信長公…(四七頁)  この話、下に信長を上様といい、一渓道三が登城する(刈本等)とあるから、その成立は、信長が足利将軍義昭を逐って名実共に天下の実権を握った天正元年(一五七三)七月以降、本能寺の変で斃れる同十年六月までのことであろう。

四 一渓道三(四七頁)  一渓は字。名は正盛(一説正慶)。雖知苦斎・盍静翁と称した。永正四年(一五〇七)、堀部左門親真の子として京都柳原に誕生。幼にして父母に死別し、十歳で禅宗の僧となり、のち関東に下って足利学校で漢籍を学ぶ。この間、田代三喜より李・朱の医学を学び、十余年の研究ののち、天文十四年京都に帰り、翌年還俗して医者となった。京都で二十余年医療を行い、名医の誉が高く、将軍足利義輝・細川勝元・毛利元就・三好長慶・松永久秀及び、織田・豊臣・徳川三氏などから、常に厚遇された。また啓迪院という塾をひらいて門下に俊才を輩出した。文禄三年(一五九四)正月四日没。享年八十八。のち正二位法印を贈られる。子孫累世道三を称し、医学界に勢力があり、またその号、享徳院・翠竹院も、女婿正純・嫡孫守伯に授けられた(今大路系譜・曲直瀬家譜・本朝医考)。一渓道三はかかる当代一の名医であり、また信長とも親しかったから、恐らくこの話は創作でなく、実話なのであろう。従って、滑稽味が少なく、教訓色が濃い。いわゆる当時のお咄衆、話しの者の「咄」の型や味わいを最もよく反映していると思われる。

五 おりふし御前にありて(四七頁)  この箇所、「一けい道三御道しやうあり、御尤の儀にては候へとも」(山本)、「一けい道三御登城あり、御尤の儀にては候へとも」(刈本)、「一けい道三御とうしやうあり、御尤の儀にては候へ共」(金本)、「一けい道三御とうしやうあり、御ふくりう御尤にては候へとも」(学本)、「一けい道三御まへに有相、御尤の儀にて候へ共」(多本)、「一けい道三、御とうじやうあり。御尤の儀にては候へとも」(整版八行本・九行本)と、他本いずれも「御登城」とある。「おりふし」がなく、「御前にありて」が「御登城あり」となったり、更に学習院本には「御ふくりう」の語が補われていたりする。以下も、諸本により、こ
の程度の字句、乃至は文章の異同、変改はしばしばある。しかし、話の進め方、構造など、本質的な異同、改変がない時、或いは本文解釈上の疑義を解くのに役立つ場合以外は、あまりに専門的な本文校合の問題になるから、煩をさけて一々注記しない。

六 瓢簟から駒の出でたる絵(四八頁)  中世末から近世初期には既にかなり広く行われた諺だったらしく、画題にもしばしば用いられたのであろう。「毛吹草」(寛永十年刊)にも「瓢箪の駒も出べき春野かな 良伝」以下数句見え、高瀬梅盛の「狂歌鼻笛集」(寛文三年刊)にも一項を設けて、石田未得以下の五首を載せている。或は水戸の初代の儒官で林羅山の弟子、人見卜幽も、「東見記」に「張果自2瓢中1出v駒事、在2印目江録1」などと、わざわざ出典を抜書している。

七 天火・地火(四八頁) 天火日は、運歩色葉集にも「天火日、…造作種蒔忌v之」とあり、広く行われていた忌日の迷信であった。陰陽家の言い出したもので、この日は天上に火気甚だしく、かつ五行の気相互に妬殺する凶日として、棟上・家根葺・竃造り・種蒔き等に忌むべき日とされる。天火日は正・五・九月の子の日、二・六・十月の卯の日、三・七・十一月の午の日、四・八・十二月の酉の日で、つまり、天火、地火は、五行説でいう火の一種で、火を陰火、陽火にわけ、これを、天火、地火、人火とし、さらに、天之火四、地之火五、人之火三にわけるのである。また、地火日は、天火日ほど、問題にされないが、右の五行説によって、地上に燃える一切の火をいうから、天火に準じ、種蒔や、礎をすえ柱を建てたりするのを忌むべしとされた。「本綱云、火者五行之一、有v気而無v質、造化両間生2殺万物1。蓋五行皆一、惟火有v二、二者陰火・陽火也、其綱凡三、三者天火・地火・人火也、其目凡十有二、所謂十二者、天之火四、地之火五、人之火三也」(和漢三才図会、火類、陽火、陰火)。

八 薄殿、松の木殿、竹の内殿、藪殿、葉室殿、柳原殿、菊亭殿、竹屋殿(四九頁)
薄殿 本姓橘氏。その先は敏達天皇の皇子難波王より出る。系譜は、難波王…以長・以政・以経・以良・以隆・以材・以季・以基・以盛・以量・以緒、以継と辿れるが、その伝はほとんど不明。だが、以量は応仁二年、父以盛出家の後、従三位刑部卿に進み、橘氏の氏長者となっている(明応五年五月五日没、五十二歳)。また、唐橋在数の男で、以量の養子となって薄家をついだ以緒も、橘氏の氏長者となっている(弘治元年
五月二十八日没、六十二歳)。かく、橘氏の唯一の後崙ではあったが、代々六位の蔵人として、家格、勢力に乏しかった。ただ、「鹿苑日録」やこの頃の公家の日記記録にはその名が見える。だが、山科言継の次男諸光(以継)が同家をついだが、天正十三年十一月、牛公事の件により豊臣秀吉に生害させられ、薄家は絶えた。従って、徳川時代の「国花万葉記」「人倫訓蒙図彙」のごとき、公家名を載せた一般啓蒙書にはこの家は見えない。なお、薄家が秀吉の怒りにより断絶させられた事件についで、細川幽斎は、「薄といへる公家、牛のいひことにより、誅せられければ
 かりことの外に出つゝも小車のうしにくはるゝすゝき殿かな」と詠じている。それで、家格も低く、家も絶えたが、この事件により、当時人の噂に上ったりなどして、比較的知られていたのであろう。なお、以量・以緒共に、「慶安手鑑」にその手蹟が載るから、やはり橘逸勢を出した家柄でもあり、事実能筆でもあって、徳川初期には能筆の公家として、多少声名があったと思われる。
松の木殿 藤原氏の支流。松木氏。中御門家の一流。藤原北家、関白道長二男、従一位右大臣頼宗が祖。のち、持明院・園家の別流が出る。五摂家・清華につぐ、羽林家二十五家の一。嘉応二年に没した宗能以後は官は権大納言・権中納言程度で、大臣に進んだ者はないが、伝統ある名家で、室町末期から徳川初期にかけ、宗房(満)・宗通・宗則・宗信とつづき、歌会や連歌会に名を列ねている。なお、この家は、筆道及び楽道を掌り、明治になり伯爵となる。
竹内殿 清和源氏の一支流。新羅三郎義光の男、竹内盛義が祖。もと村上源氏の嫡流久我家の諸大夫で、家格は悪かったが、永禄三年正月、竹内季治の代足利将軍の執奏により、始めて堂上に加えられ、大膳大夫、正三位に進む。元亀二年江州で没。五十四歳。のちも、長治・孝治と近世初期に続く。明治には子爵となる。
藪殿 姓藤原。古く天文二年、高倉範久(前権大納言正二位四辻季経四男)が、中絶していた元少納言範音の家を再興したが、同十五年、参議伊予権守の時、五月五日、五十四歳で没。またまた再絶。それを、権大納言四辻公遠の末子(一説二、三、八男とも)嗣良(承応二年四月十七日没、六十一歳)が嗣ぎ中興した。寛永五年、従三位の非参議に進んだ。はじめは高倉を名乗っていたが、寛永十四年十二月二十七日、高倉を改めて藪と号し、閑院家に属したというが、公卿補任では、寛永五年公卿になった時から藪の名があるから、元和から寛永初年のころ藪家を名乗ったか。子、嗣孝以下徳川初期にも続く。家格は羽林家、明治以後子爵となる。だが、右よりすれば、藪の名は寛永初期ごろから始まり、この話もそのころ成立か。
葉室殿 藤原北家の流である勧修寺家から古く分れた一流。葉室顕隆が祖。顕隆は同じ勧修寺家の一流甘露寺為房の二男。権中納言正三位、参議に進む。大治四年没、五十八歳。以降代々続く。「人倫訓蒙図彙」には名家十二家の一とする。
柳原殿 藤原北家の一流日野家より出る。祖は権大納言俊光四男の権大納言資明。文和二年七月二十七日没、五十七歳。以降代々続き、天正六年に八十四歳で没した資定、その子淳光(慶長二年、五十七歳で没)など能書で、「慶安手鑑」に見える。明治に伯爵となる。
菊亭殿 姓は藤原。閑院家の分流。師輔の十一男公季から出、公季五代公実の次男通季の時、西園寺を称し、その五代の孫実兼の四男兼季が今出川に住み氏とした。また、菊花を愛し多く庭に植え、家を菊亭と称した。右大臣に進み菊亭右大臣といわれる。暦応二年正月十六日没、五十九歳。これを家祖とし明治まで存続、侯爵となる。清華七家の一で、大臣・大将を極官とする。ことに菊亭晴季(一六〇五−一六八三)は豊臣秀吉と親交があり、娘は秀次の妻であったため、豊臣時代一時栄えたが、秀次の事件に連座して配流されたり、いろいろ人の噂に上った人物であった。
竹屋殿 藤原氏の一支流。日野家の一門。権大納言広橋仲光の子、従四位兼俊が家祖。四代目の光継後、六十三年の間中絶、慶長十年広橋総光の次男光長(万治二年二月二十一日没、六十四歳)が再興。以後明治まで続き子爵となる。「人倫訓蒙図彙」にも名家十二家の一として掲げる。慶長以降中興の家だが、光長が活躍したので有名になった。
 以上により、天正十三年に断絶した薄家はとにかく、寛永初年に称された「藪殿」、慶長十年以降再興された「竹屋殿」があるよりすれば、この話の成立は寛永初年ごろか。
 なお、醒睡笑(広)に次の類話がある。話は大むね同じで、菊亭・竹屋の二家がないだけだが、話の進め方は異るし、わざと文章、語り口を変えたようにも思われないから、当時一般に行われていた話をそれぞれ別に採録したか、或いは異る原拠によるものであろう。なお、以下醒睡笑の引用はすべて東大国語研究室本により、甚だしい誤脱だけを()で補った。また醒睡笑の各話冒頭には「一」が記してあるが、これはすべて省略した。
 名字の讚歎する時、ある者のいふ、「昔より今に公家には草や木の名をつき給ふ事也」「なにと」「すゝき殿、松の木殿、竹の内殿、藪殿、葉室殿、柳原殿など」「いや、まだある」「誰ぞ」ととへば、「とうざ(さ)んせう殿」とて(巻二、名つけ親方)。

九 とうさんせう(四九頁)  藤宰相を、無学なので、文字を知らず、山椒と耳から聞き誤まったのである。鈴木棠三氏は、「醒睡笑」の補注で、「「武者物語」(明暦三年刊)に、侍の子も町人百姓の中で育つと、ことばもいやしくなる。たとえば「さいしやう殿をば、さんしやう殿といひ、みんぶ殿を、にんぶ殿といひ」うんぬんとあるから、当時のなまりとして普通だったことが分る」という。なお、整版本には、続いて、「これは、とうさいしやうを、さんせうとおぼえられて」の付加がある。なお、唐山椒をかけたとする説もあるが、唐山椒の語は当時の書に見かけないから、ただ山椒をかけたとした方が穏当であろう。

一〇 草履取をおかうとて…(四九頁) 醒睡笑に、同じ筋の話があるが、文辞に異同があって、直接の書承関係は認め難い。
 京にて傍輩の中間行(合ひ)、「そちは今誰のもとに奉公をするぞ」「三条のお奈良屋にゐるは」、おの字をつけていふをにくみ、「おならやはの、くさい事をいふ」「それならば、そちはなにとて我ゐどころをばとふたそよ」(巻八、秀句)。

一一 六角堂(四九頁) 何故、下人を雇うのに六角堂まで行ったのか不詳。六角堂は今日では花道の家元池の坊で有名だが、古く今昔物語、巻十六に「隠形男、依六角堂観音助顕身語第卅二」なる六角堂観音の利生譚も見え、有名だったらしい。そんな関係で、この頃もここに参詣人が多く集まったり、露店なども出たりして、人が多く集まる場所であったのであろう。後のように、一季半季の奉公人の雇傭時期は勿論、これを周旋する口入屋などがない時代だから、かかる群衆の集まる場所へ行き、下人を雇ったりする風があったのであろう。とにかく、六角堂が群衆が集まる場所でなければ、この話に六角堂を設定した意味がないし、当時の読者も変に思ったはずである。

一二 有人、寺へ参る。長老御らんじて…(五〇頁) 醒睡笑(狭)に次の類話がある。
  東の奥より都にのぼりたる人あり。さる古寺に立寄、院主に参会し、物語など時過けるまゝ、菓子持出て小性をよび、「いかにもお茶をもみぢにたてよ」とありしを、客、「なにたる子細にや」ととふ。「たゞこうようにといふ事也」と。あな、おもしろのことの葉やとおぼえつゝ、本国に帰り、態ちかづきの友をよびふるまい、かねてより小性にいひおしへ、「お茶をもみぢにたて申せ」とあり。人々、さすがに此度上洛のしるしありとかんじ、事のおもむきをうかゞひたれば、「こくよくたて申せといふ事だよ」と。あながちのその人のとがにはあらず。物毎たゞ国の風による(巻五、人はそだち)。
 こちらは東国の話になっているが、関東では上方のように、ウ音便を盛んに使うことはないので、「濃う能う」を「濃く能く」と誤ったという失敗が自然である。もと、やはり東国の話であろう。また、末尾に注釈的な文句がついている点も、昨日は今日の物語より古体を存している。

一三 風呂屋に、孝行風呂といふがあり(五〇頁)  醒睡笑に次の類話がある。これも直接の書承関係は認められない。以下も殆んど然りだから、今後は一々言及しない。
  下京にかう<風呂とてありし。「此名はなにの子細によぶぞや」と不審しけり。「さる事有。ふかうにおよばぬといふ事なり」とかたれば、おもしろき事におもひゐたりしが、さる処にて、「この風呂のいはれいかゞ」などいふを聞て、「それこそしりたる者がない。ふくにおよばぬ」と申されし(巻五、人はそだち)。

一四 山寺法師、さる御ちごにほれて(五一頁) 醒睡笑に類話。
  貧々と世をふる僧の、思ひに堪かね、児を請じ、大唐米の飯を出せり。「是はめづらしき物や」などゝほむる人もありけり。亭坊のいはるゝやう、「せめての御馳走に米をそめさせたる」とあれば、彼児、箸をもちなをし、「さうかして、大唐めしのやうな」と(巻六、児の噂)。

一五 三位まかりいで(五一頁)  この「三位」は、この本文からすれば、貧僧をさす方が自然だが、「三位」は多く稚児の後見役を呼ぶ場合が多い。しかも、刈本・山本などの本文によれば、「三位」は貧僧ととるより、稚児について来た僧で、二人の仲をとりなすつもりで、「まかりいでて」こう言ったとした方が自然な感じがする。なお、醒睡笑の次の話によれば、真言・天台などの大寺の僧ばかりでなく、これと縁の深い修験道で、田舎の山伏の弟子などにさえも、治部卿などと名乗った者がいたらしい。
  佐渡に本覚坊といふ山伏あり。治部卿とて弟子をもちしが、ある年名代と号し嶺入させけり。雲に臥岩を枕の難行事をはり、本国に帰りぬ。師の本覚対面の時、治部卿申けるやう、「今度は先達憐愍をくはへられ、名を替、大夫になされて候」とかたりければ、「なにと、大夫となつた。曲事なり。われさへさやうに大なる名をばつかぬに、中<のことや。さりながら本山にてつきたる名をよばぬも又いかゞなる条、たゞ中夫になれ」とそなをしける(巻二、名つけ親方)。

一六 物ごとに心をつくる人(五一頁〉  この話、戯言養気集・醒睡笑に類話があるが、話は筋の進め方も文体も前者に近い。これは本書が、醒睡笑より戯言養気集に近い例証の一となろう。なお、戯言養気集の原本は上巻は佚亡して伝わらないが、下巻は天理図書館にあるので、以下引用はこれによる。これにも甚だしい誤りは()で補正した。
    まつだけ年をへて松になる故事
  よく物に心得たる人云やうは、「竹のこなど、むざとくはう事では御座なひ。なぜになれば二とせの内には用木になり候程に」と云たれば、かたへの人聞て、「尤なる被v仰やうぢや。あの松だけをも、いたづらにたべんもおしき事にてある。十五六年もしたらば大木にならんほどに」と云た(上巻)。
  振舞の汁に、大に見事なる笋出たり。人みな「大竹にならんものを、むさとくひすてんはおしいひ」など沙汰しければ、さるうつけ、「いや竹は大事もない。大木になり、ひき物につかふべき松茸をさへくふほどに」。
    落行河の末もしられず
    笋は本よりふしのあらはれて           (巻二、腔)

一七 ゐ中よりはじめて京へ上りたる人(五二頁)  醒睡笑に類話がある。
  田舎より主従二人始て上洛し、京の町に逗留せし。休息の後、見物に出る。下人にむかひ、「都はいつれも同様なる家作なり。よく<目じるしをせよ」とをしゆる。「心得たり」と領状せしが、晩にのぞみ宿をしらず。主、腹をたてしかる。返事に、「いや門の柱に唾にて書付を、たしかに仕しが、消て見え候はず。其上に猶念を入れ、屋ねの上に鳶の二つありしを目付にしたりしが、それもいな事で見えぬ」と  (巻一、鈍副子)。
また、関敬吾氏の「日本昔話集成」第三部笑話1に、「三〇九B 唾の目標」として、長野県北安曇郡美麻村での採集、分布が報告されている。かかる愚人譚は民話化し、各地に広く流布していたのであろう。

一八 不断光院(五二頁)  清誉は和歌・連歌にすぐれ、既に「弘治三年千句」に大覚寺義俊・三条西公条・元理・宗養・紹巴・松永貞徳の父永種等と一座しており、また永禄七年の石山千句にも紹巴・元理・心前等と一座している。この時の巻頭の発句は近衛稙家が詠んでいる。連歌師でない連歌作者としては一流の力量をもち、近衛・三条西など公卿との雅交も密であった。なお、不断光院は近衛家の桜御所の内にあったので、その院主清誉も近衛家即ち、陽明御所をめぐる活撥な文学サークルの一人となり、しばしば同家の雅会に参加したらしい。山州名跡志、巻二十一「洛陽寺院」には、「上立売南新町西、近衛殿桜御所の内に所v建内道場也。古此辺に有2十二光院1。是則阿弥陀仏十二光明の称号の義なり。所謂安楽光院・無量光院・無怠光院等也」とある。

一九 近衛殿(五二頁) 醒睡笑には、次のごとく信尹とするが、不断光院を清誉とすれぽ、清誉の没した時でさえ数え年十八歳だから、年齢的にやや無理である。信尹は逸話の多い人物だから、これに仮託されたか。狂歌にも大分異同がある。
  不断光院の住持、近衛殿へ参られし時、三方をゆるすとあれば、其後常に三方にて斎非時を給はれり。此由三藐院殿聞召給ひ、
    かり初にゆるすといひし三方を不断くはふは無益なりけり
                          (巻一、鈍副子)

二〇 むかし、近衛殿を…(五三頁)  文禄三年、近衛信尹が豊臣秀吉にその青年客気の言動を咎められて薩摩に流された事件(駒井日記等)。松永貞徳の戴恩記には、これを翌年、関白秀次の事件に連座した時のこととして載せているが、これは貞徳の記憶誤り。なお、末尾の歌は、戴恩記では、雄長老(英甫永雄、細川幽斎の甥で建仁寺の住職などを勤め、同寺の十如院に隠退。狂歌の名手)の詠としており、また文辞も、「道すがら車にはあらで大臣をのするかごしまになふ棒の津」と多少の異同がある。

二一 近衛殿(五三頁)  近衛信尹(一五六五−一六一四)。旧名信基、また信輔、三藐院と号した。前久の子。当時の勢力者織田信長に愛され、また五摂家の嫡子としてわずか十六歳の天正八年十一月内大臣となった。多芸多才かつ覇気にとんだので、秀吉により薩摩に流されたり、父前久と不和だったり、事件や噂が多い人物であった。慶長十九年十一月没、年五十。書道には殊にすぐれ、近衛流を創め、また画事にも巧みであった。

二二 山ほとゝぎすさそひがほなる(五三頁)  世阿弥作の謡曲「采女」(三番目物)の後段に、奈良の帝の寵の衰えたのを悲しみ、猿沢の池に投身した采女の亡霊が、旅の僧の回向により成仏し、舞う場面に出て来る文句をそのままとっている。謡曲は今日の流行歌のごとく、広く一般に行われていたから、すぐ紹巴も気がついて、謡曲そのままだから、いかにも紹巴らしく、わざと「めいよ小鼓に手をうつような」と意地悪くからかったのである。
  「曲水の宴の有りし時、御土器度々廻り、「有明の月更けて」「山時鳥誘ひ顔なるに」、叡慮を受けて遊楽の、月に鳴け、シテワカ謡月に鳴け、同じ雲居の時鳥、地謡天つ空音の万代までに」(謡、采女)。

二三 きやうがく坊(五三頁) 諸本により、教月坊としたり一定しないが、暁月坊とするのが普通である。中世の中頃、既に一種の伝説的人物になっており頓才機智が豊かで狂歌の名手とされ、定家の子といわれていた。中世に既に「蟻虱百首」の詠があったと伝えられており、近世中期には「酒百首」なる狂歌百首が刊行された。最近福田秀一氏の「暁月房為守の経歴と作品」(国語と国文学、昭三四年九月)により、為守が定家の孫であり、その経歴や作品が明かにされ、更に「狂歌師暁月房私見」(文学・語学、二〇号)、「暁月房為守とその「狂歌酒百首」補説」(文学・語学、三六号)の論考も発表された。しかし、「蟻虱百首」は未だ発見されず、「酒百首」も作者の真偽不明。とにかく、定家の孫の為守という実在の人物としては、別にとりたてて云々すべき和歌史的・狂歌史的意義はないが、中世から近世にかけての伝説的な狂歌作者として受取られ、その詠とされる種々の狂歌が人口に膾炙していた点では、狂歌史上注目される。醒睡笑に次の類話がある。
  教月坊、例の狂歌を持せ、定家のもとへ、
    教月がしはすのはてのそら印地年うちこさん石一つたべ
  よねを五斗参らせられし、
    定家がちからの程を見せんとて石ひきわけてなからこそやれ
                          (巻五、姥心)

二四 秀句すきたる人あり(五四頁)  醒睡笑に類話がある。
  医者にむかつて、「白朮(びゃくじゅつ)とはなにを申や」「をけらといふ草なり」と。こびたる事におもひ、客をまうけたる席に、中間かの草をゑんのはしに持出、「白朮をほりて参りた」といはせ、「そこにをけら」といふてくすめり。近比蚊虻(もんもう)なる人感にたへ、帰りて中間にをしへおき、態(わざと)人をよびふるまいけるに、中間が打わすれ、「をけらをほりて参りた」と。亭主よふいふかほにて、「そこに白朮せよ」と(巻三、文字知顔)。

二五 法花宗の一致と勝劣と…(五四頁)  醒睡笑に類話がある。醒睡笑では、次のごとく場所も具体的に「伊勢の桑名」とあり、描写も詳しくなっている。
  伊勢の桑名にて、法花宗門の中、一致・勝劣の諍論出来、所をさし日を定、双方対談の上に、とやありけん、頭をくはせ、くんづころんづ臈次なかりつるが、勝劣方の僧、一致方の坊主のふぐりをしたゝかにしめければ、その痛堪がたきなど沙汰する刻、
    法門のその勝劣はしらねどもきんをしむるはいつちめいわく
                           (巻一、落書)
 一般に、醒睡笑の話と戯言養気集や昨日は今日の物語の話などと共通するとき、醒睡笑では、場所・人名などの固有名詞が、「ある所」「ある人」という具合にぼかされる場合が多いが、これはその点珍らしい例外の一である。

二六 一致と勝劣と(五四頁)  一致派は、法華経後半の十四品(本門)は前半の十四品(迹門)と理が一致すると説く。これが主流派で勢力が強かった。勝劣派は、本門は迹門の理に劣ると、両者の優劣を説くもので、日蓮の高弟日興が唱えはじめ、京都にも日朗の門人日像が伝導した。「当宗宗派は一致勝劣の義あり。当国中一致は多く勝劣は少し。…夫、此名目ある事其大旨を云ふに、法華経中二十八品に、本門迹門と云事あり。始十四品を迹とし、後十四品を本とす。今一致と云は、本迹異なりといへども、理旦一にして実相円融の妙と談ずる故に、本迹一致と称す。勝劣とは出世の仏に迹化本化二仏あり。経にも亦権実あり。所謂四十余年の経は、権教後八箇年法華は実経、仏も亦本仏久遠古仏也。爾前経には釈尊久遠実成の古仏なる事を不v顕。故如何となれば、説教たゞ方便にして未実地を不v顕。然るを今法華に至て過去の本地を顕し、開三顕一とて、五十年の説経三乗の法只今の一乗妙なりと教るを以て、衆生成仏直因と訣せり。其久遠実成は第十六寿量品を見す故に、此品を採て一派を興じ、此品を以て本門とし、迹は劣り、本は勝れたりと、一部中にして勝劣を立るを以て勝劣と云なり」(山州名跡志、巻四)。

二七 ある人にわかに数寄に行とて(五四頁) 戯言養気集に類話がある。この方は日時や人名も入って、具体的になっている。またお伽衆のした話の形をそのまま残して、末尾に、「評して云」云々と、教訓が付け加えられている。昨日は今日の物語や醒睡笑は、その成立の時期は戯言養気集と年代的にはさして隔りがないが、この両書では既にかかる古体を脱して、教訓が省かれ、純粋の笑話になっている。
    しんぽちいの故事
  ある人、正月七日の事なるに、すきやにかまをしかけ、りん<とたぎるを聞て、福田助十郎と云人のかたへ、一ぷく申さうと、文をやりければ、助十かみをそりて参らではとて、たれかれをよべども、「今日は遊び日にて有とて、皆く出て候」と言ひしかばハいかゞせんと思ひいたる所へ、だんな坊主、年玉なんどさゝげまいられければ、福田悦て、「さてもよき所へ御出有物かな。即頼申」とて、かみをあらひ、一しきこねてかゝる。此僧坊主あたま計そりつけたるゆへにや有けん、かたこびんよりめき<とそりおとしければ、「これは<」ときもをつぶし、以外腹を立、「是非もなき御さいばんにて侍る」と、のゝしりしかば、「いな事を承る。何とも御このみもおはさぬ間、とんせいなされ候かと存、仕て候」とて腹を立、そりさしていなんと云しを引とめ、「此上はそり度やうに御そり候へ」と申しければ、則新しほつけになしけり。正月なるにより、是を新発意のはじめとす。評して云、人をふかう思ひ入し事有時は、たれもかくあらんとおもひ、くはしく云ことはらで、度々あやまちに至る事有。此助十郎も、いそぎかみをそり、はんなりとすきにあはん事をのみ思ひ、「さかやきを」と、このまざりしゆへ、存じもよらぬとんせい者になりにけり(上巻)。

二八 ある人、寺へまいり(五六頁) 戯言養気集に次の類話がある。「嵯峨辺」としたところ、わずかながらもやはり具体的になっている。殊に嵯峨あたりは、竹林、大竹藪が多いので、自然な感じが出ている。
    悪をなせば自然にあらはるゝ部
  ある人、五月のころ、寺へ参候て、「長老さまは」とゝへば、「嵯峨辺へ」とまぎらかしつゝ、「まづおちやをまいつて御かへりあれ」と、新発意つねよりは事かはりして茶を立申ける間、二三ぷく物し、「さぞ竹の子はへ申つらう」とて、やぶをさして行を、「なふ<、これめづらしく侍る。物申さう」とよび帰せ共、少しも聞入ずして猶のぞきまはりければ、藪の中に長老さま、雁のけをむしつて御座有。此人見ぬふりをして「御見まひ申候」といへば、長老きもをつぶし、「さても<やぶの中まで、きどくなる御尋ね、さらば<や」とおほせられ、よそ目して御座ある。だんな殿も、よきころのくせものにて、「何事をあそばし候」と申せば、「此鳥のけを枕の中へ入れ候へば、頭痛の薬ぢやとて、たのもしきかたより給はり候間、かくのごとくいたせども、終にしつけぬ事にて、何共手間が入申」と仰せければ、「其は安き程の事にて候。こなたへ下され候へ」と申に任せ、即「よきやうにしたゝめられ給ひ候へ」とて、御渡しあれば、ちやく<とひんむしり、けをば和尚さまへしんじ候て、「けのあとは定て御用にも有まじく候あひだ、はいりやう申候。又頓て参らん」とて帰ける。よびもどし、「なふ、其鳥のなをば何と云ぞ」と仰ければ、「羽ある時は雁、かくむしられてはをしどり。さらば<」とてかへりけり。これらほど気の薬な、うまひ事はおりなひ(上巻)。

二九 又、さる寺へ参りければ(五六頁)  戯言養気集に次の類話が載る。
  福人のだんな寺へ参、かね打ならし、ざしきになほり、「たれもをりなひか<」と、高声に申しかば、長老さま、いそぎ御出あるとて、ころもすそにはやしたるからさけが付た。み給ふて、ちんぜらるゝやうは、「我々が用ゐ申と、おぼしめし候はん事、返々も口おしう存ずる。仏祖も御せうらんあれ、これは女どもが薬つかひに」と云もはてず、かほをあかうしてうろたへられた。評して云、何事もありのまゝにあらまほし。ことをたくみにかざるときは、何様きずが出来候て、そしりともなり、又心の中にて、いやしまるゝ事ともなるほどに(上巻)。
また、醒睡笑にも次のごとく載るが、ここでは主人公を老比丘とし、落ちも、あわてた老比丘が干鮭を池に放せと、昨日は今日の物語より、大分話がこまかくなり、技巧が加えられている。
  つねに人みな、「干鮭は身をあたゝめてよき薬」などいふを聞て、「われも養生にくひたき事や」とおもひ、老比丘、うつけたる中間にむかひ、「薬にちといる事あり。からざけといふ物をかふてきたれ」とて、代を三百わたしけり.すなはちかいもとめて来りぬ。折節あしく、客のある座敷へ、くだんのうつけ、によつとさし出しけるに、老比丘せき面し、「其からざけを、すぐに泉水へはなせ」と申されたり(巻三、自堕落)。

三〇 ある比丘尼御所、御知行所へ…(五七頁) 戯言養気集に類話が載る。
    知ざるをとはずしてめんぼくをうしなふ事
  寺りやうたんと有びくに寺にて、春半の事なるに、百しやうどもに、「ふろをたひて入参らせよ」と仰せられしかば、地下中のわかき者ども寄つどひ、右(石)ふろをたき入申。老人のおぽほさまよろこび出て、「てうづのこをお三方にすへて参らせよ」とおほせしかば、善門「かしこまつて御座ある。やがて調申候はん」と云て、まかりたち、其事知さうなる人を集め、とひ候へども、覚へ忘れたるなんど云、はかのゆかぬを、こざかしきものさし出、「とかうせば御上りなされ候べし」と腹立して、「そふじやを以、先に仰出され候物どもは、三好家の乱に取れ候てより終にもとめ申候はぬ」と云しかば、「あゝきやうこつや。こもじの事にて侍る物を」とて引こみ給ひき。評して云、義をおもふ人と利のみ思ひぬ人のきやうがいと、右のおぼゝさま、百しやうとのあいさつと、少似た気味がある。なぜになれば、そりが合ぬ所有をみるにつけても(上巻)。
醒睡笑にも類話が載るが、「知らざるをとはずして云々」の小題が省かれ、戯言養気集よりはすっきりしたかたちになっているし、主人公も田舎武士にかえられていて、話が面白くなっている。
 山中に殿あり。国なかにてさもとらしき武家より嫂をよぶに、おつぼねの、中居の、おはしたのなど、あり<とともし、祝言の事すめり。二日三日たてども、終に行水とも風呂とも沙汰せず。物まかなへる形(刑)部(げうぶ)左衛門といふをよび出し、御つぼね、「ちと、御洗足をお出しあれ」と申されしかば、形部、「かしこまり候、其由申きけん」とて座を立、年寄衆に、「皆よられよ。つぼねよりおほせられ分候」とふれたり。「何事ぞ」とあつまりたる座にて、「別の事になし。お洗足といふ物を出せとなり。此返事いかゞせん」と、談合さま%\なりしあげくに、一のおとないひけるやう、「一乱にうせたと申されよ」「此義天下一の思案」といって、つぼねへ、「御洗足を出せと候へども、一乱にうせて御座ない」と。つぼねきゝもあへず、「あゝけうこつや」と申されけり。形部けつ(う)こつといふも聞しらねば、又むつかしき事やと思ひ、「いや、けうこつもおせんそくと一度にうせておりない」と(巻五、人はそだち)。

三一 光源院殿の御時…(五七頁)  光源院は、我が儘な将軍で、新刀を試すために、刀に黒い紙をまいて辻斬りをしたりするような人物で、悪将軍の名があった。だから、この僧の還俗のごとき、我が儘をおし通すことが、実際に多かったのであろう。なお光源院は、将軍義晴の子。初名義藤。天文十五年将軍となったが、実権を管領や三好長慶に奪われて苦しんだ。長慶死後永禄七年、三好義継及びその被官松永久秀の手から政権奪還を企てたが、そのため翌年五月十九日、久秀らに襲われて自殺。年三十(一五三六−一五六五)。
  戯言養気集に類話が載るが、側近の名も入り、具体的である。この話を実際に見聞した人、乃至はそれに近い人が語ったかたちそのままに近いのであろう。これがやがて、人名もさしさわりがあって省かれたり、また時代が下るに従って耳遠い人名ともなったりするので、やがて個人名が省かれ、一般的な咄となる。既に昨日は今日の物語では、かかる一般化が進み、普通の笑話に近づいている。
  こゝにしゆせう第一なる上人とさたありし出家有。光源院殿、御意に入参らせ、つね%丶御ときに参けるが、朝夕の御相伴もむつかしくおぼしめし、「らくだ申されよかし」と、上野中務大輔義信をもつて仰られし時、「御諚尤忝事に御座候といへども、八つ九つのころより、出家のすがたに身をやつし、なんぎやうくぎやういたし、いま六十にあまり、上人がうまで思ひのまゝにたつし、今さら何のゐんぐはに落候はんや、けんよも御座なひ。返く御めんなされ候やうに御とりなし頼申」との事なれば、上下をしなべて、かんじ給ひけり。将軍かさねて、「ねがはくは、くるしうもなひ事ぢや程に、分別あれかし」と被回仰しかば、「とかく立仏を居ぼとけにも、だんなはからいと、むかしよりのことはざにも申伝へ候へば、力及ばざる義也」とて、ちやくとおちられけり。折ふし七月の事なりけるに、大なるさばをすへければ、上人かんじつゝ、「扨くこれは遠来の名物、忝」とのじぎなり。「智者は我道ならぬ事をも知とは云ども、あまりこうしや過たる事ぢや」とて、目引はな引笑ひ申処に、剰、「とてもの御ねんごろに、愚僧が子にてあるものをもめし出され候やうにたのみ奉り存ずる」と申さるゝによつて、御礼を請させられ候へば、四十に近きひげ男なり。将軍さまも又御前の人<もけうさめがほに成て、「いやはや<」とて大わらひになった。評して云、かなしひかな、人を知事の不明なる事。なかなひかな、実をてらふ事(上巻)。
 醒睡笑に載る話は、ある大名と落堕した者との話になって、昨日は今日の物語より更に一般化した形になっている。
  大名の家に奉公の望をかけたるが、漸調ひぬれば、奏者について出仕をとげし次而に、せがれを御目にかけたきむねを申ふくむる。即つれて礼義すみけり。時に主たる人、「そちはちかき比の落堕といふが、成人の子はなにと、養子か」ととはれて、「いや、喝食でのせがれ」と申あぐる(巻三、自堕落)。

三二 お乳(五八頁) お乳の人を「おちい」と呼ぶことについては、「片言」にも見える。「御乳の人といふべきを、ちい、おちいなどいふこと如何。されどもみどり子のいひよきまゝに云なれ来りたること成べければ、改むるに及ばざるか」(巻三)。

三三 さる寺の蓮池にて…(五八頁) 戯言養気集・醒睡笑に類話が見えるが、ここでも戯言養気集では、場所を加賀国伝灯寺とするなど、原話のかたちに近いようである。
    久蔵主が故事
  加賀国伝灯寺の門前にして、いとあきらかなる月の夜に、あみがさをきて、どぢやうをふむ有。其所の奉行めひたる人見付つゝ、「此せつしやうきんだんの所にをひて、月夜にどぢやうをふむぞ」ととがむれば、「正真の俗人で御座有。少も御かまひなされそ」とて、かひうつぶひて物しける間、「名をなのれ。もしなのらずんぼ一矢もつてまひらふ」といひて、つるをとをしたれば、是におどろき、「俗人の名、久蔵主」とこたへた(下巻)。
 醒睡笑では、次のように一般的な話に変化している。
  いもほり僧のありつるが、秋も最中の月澄に、百性出て田をもりゐたり。夜ふけ物をとせぬみぎり、笠をき、しろき帷子をはしをりたる男、さうけと小桶とをもちて来りぬ。百性ふしんなる物におもひとがめければ、彼男いふ、「俗人の鰌(どぢやう)すくふに、なにのくせごとがあらふぞ」と(巻三、自堕落)。

三四 関白秀次公の御時…(五九頁)  戯言養気集に類話が載るが、夜食の話の後に、更に盛阿弥の話を付加してある。ぬしやの盛阿弥所へ、駒井中務少輔・吉田益庵なんどふるまひに参られし所に、昼のころ、自ぢうばこを持出、「夜食を一つ申さう」とて、ひらひたを見ればもちなり。又ある時、関白秀次公、尾張の国はいりやうなされ、清す城におはしまし候を、京よりをのく見まひ申、一礼事おはつて、みな物かげに引へたり。やゝ有て、たれかれとめし出され、あとに盛阿弥計のこりしを、「それなるはたれぞ己と仰られしかば、「貴老で御座有」とて出た。中々大笑になり、かへつてしほらしう物あつた。或日、此ぬし屋は秀吉将軍御なんぎの御ちんを度々みまひ申たりし時、「天下大平に治めなば、なんぢに京中のぬしのとうりゃうをおほせ付られ候はん」との御やくそくにより、事外とみさかへしかば、「貴老次第御茶申さうと」文にしありしを、盛阿弥のから名とおもひ侍りしなり(下巻)。
 醒睡笑では、足利時代の盛阿弥のことは既に一般の人に、耳遠くなったためか、彼の話ではなくなっている。
  小豆餅のあたたかなるを、夜咄のもてなしにいだす。其席に、おく山の老ありし。中老ほどの人餅を見るく、「とかく夜食はおほくくふが毒にてある」よしいふをきゝ、「さては餅の事ぞ」とおもひ、彼山賤在所にて、昼の雑掌に大豆の粉をそへ餅をいだす時、「かまへてみなおきゝあれ。さる人のいはれしが、此夜食はおほくくふが毒にて候」と(巻三、不文字)。

三五 盛阿弥(五九頁)  姓氏不詳。名は紹甫。秀吉より天下一の称を賜わる。子孫三世みな盛阿弥と称する(工芸鏡、塗師伝)。将軍や大名衆の所に出入していたのだから、かなり腕のよい塗師(この頃から漆蒔絵の技術が発達して漆塗が流行)だったようである。しかし、技芸にはすぐれていても奇行が多く、間がぬけていて、憎めない愛すべき人柄(戯言養気集)で、当時の人々の間に、よくその奇行、逸話が話柄とされていたらしい。

三六 物事にこばしだてなる人…(五九頁)  戯言養気集では、次の29話と一緒になっている。戯言養気集の話を昨日は今日の物語の筆者が二話に分けたとも考えられるが、醒睡笑には28話のみ、寒川入道筆記には29話のみが載ることよりすれぽ、やはり戯言養気集が、当時行われていた二話を一話にまとめたと考えてよかろう。
  なりふりにも似ずして、こびたがるものあり。れき<夜ばなしのざしきにて、夜半のかねを聞て、「いざ<皆<御かへりあれ。はや遠寺の晩鐘がなる」と云た。右の人の方へ薩摩へ下る人、いとまごひに参りたれば、「さて<遠国へ御大義にて物ある。自筆に御下か、又あなたよりのまかなひか」と被申候間、「御心安かれ、むかひ舟が、ふしみまで上りゐたる」と申時、「車力」と云、「かた%\能御仕合ぢゃ。頓て帰朝あれ」と也。評して云、よき人をば小人いやがり讒しけるを、君主用ゐて打きり、其職を小人に云つけられ、大なる損をなされ候は、五六石もなりししぶ柿をきつて、即その木のほをつぎたるにおなじ。噫、こびたがる者は、内に智恵ともしきによるか(下巻)。
 醒睡笑には、
  「八景のうちに遠寺の晩鐘とは、村里とをき山寺に、入あひの鐘のこゑ、つく%・きくもおもしろや」などいふを、こびたる事と思ひゐしが、ある時客に寺へ行、夕陽西にかたぶく比より碁をうち始、火をともせどもたつ事をわすれたるに、「初夜の鐘もはやとくなりぬる」とはいはいで、「もはやみなおたちあれかし。遠寺の晩鐘もとくなつた」と(巻三、不文字)。
 なお、片言にも似た話が載るが、これは遠寺の晩鐘を題材にしているだけで、趣向は全く異っている。
  一、ことふりたる物語なれど、むかし<有所に、八景をゑがきし屏風のありしを、人<見て誉侍ける中に、ある人、遠寺の晩鐘といふべきを、げんじのぼんしやうといはれければ、そばより又こざかしき人のさし出て、「こなたに侍るは平家の落雁なり」と、口とく対句にかたことしければ、人<興じけりといふ物語を又ぎきに聞て、評判しけるは、「かのこざかしかりし人の後に云るは、平砂の落雁にてこそ有べけれ。平家のといへるこそ猶かたことにて侍れ。いかでこざかしき人とはいふべきぞ」といへりしこそ、笑止におかしかりけれ(第五)。

三七 ある人の所へ、西国へ下とて(五九頁) 戯言養気集の話は前注参照。寒川入道筆記は、これが更に二話に分かれている。文盲なくせに気取ったことをいいたがる人は、いつの時代にもいたらしい。
  一、われら九州へ下りさまに、去人のもとへいとま請にゆきて、しか%\といふたれば、亭主出合て、「扨々遠国、殊海上御太儀じや」と云、「自筆に御くだりか」ととふ程に、「心安思召候へ、迎舟が伏見までまいつて候」と云へば、「扨は心安存候。総別あの舟の車力が造作な物じやによき御事や」。
  一、右同前の様成人の方へ、筑紫へ下りがけにいとまごひにゆきたれば、文盲者出合て、「いつ比迄の御逗留ぞ」ととふ程に、「一両月の間」と申候へば、「随分いそぎ御帰朝候へ」と申された。をかしさはかぎりなし。

三八 有夜、秀吉公、夜食に…(六〇頁)  学本は「ある人四方はいを見物に参り」として、「うすゞみにかくまゆしろきそばかほをよく<みれば御門なりけり」とある。
  戯言養気集には、狂歌の次に蜂屋頼隆が秀吉に検地を取止めるよう進言した長い話が載り、更にその検地帳まで長々と載せている。いかにもお伽衆の作った話らしい。もちろん、この検地帳は、笑話としては無意味冗長な蛇足だから、本書では、諸本すべてこれを省いている。
    検地わびことの事
  有夜秀吉公御前にして、御とぎ衆へ、そばがきのれうりをおほせつけられしかば、長岡玄旨
    うすゞみにつくれるまゆのそばかほをよく<みればみかどなりけり
  と侍られければ、事の外御きげんよろしくなりぬ。蜂屋出羽守よきしほあひと思ひ、けんち御ゆるし候やうにとの事を一つ書にして、
  一、今度御検地、上下共に痛申事大かたならず候。万のいたみ連々に積りもて行、発しては本へ帰るやうに覚へ申候事。
  一、士民にかぎらず、はいとくの地をかゝへ持候へば、老後のたのしみ、其中に有て、人心清らかに、へつらふ心もうすくあるべき事候。
   御ゆるしなく候はゞ人の気味、年々にいやしくなり、至誠の者御座有まじき事。
  一、是非ともにけんちなされ候はんならば、せめてやしき分をば御ゆるし候てよろしく御座候はん事。
  右の一書を以て諫申ければ、秀吉公
    蜂屋出羽検地ゆるせとさしていへどそらうそぶひて聞ぬ関白
  との給ひて、いかゞあらんとの御だんかうありしが、終には好方のつよきにひかれてやまず。
    前関白秀吉公御検地帳
  〇五畿内
   二十二万五千三百石       山城
   四十四万九千石         大和
   二十四万二千百石       河内
   十四万千五百十石        和泉
   三十五万六千百石        摂津
   (以下、東海道十五力国・東山道八力国・北陸道七ヵ国・山陰道八カ国・山陽道八ヵ国・南海道六ヵ国・西海道十一ヵ国の厖大な検地帳が載り、更に検地についての評言まで加えられている。)
 かかる厖大な検地帳や検地についての評言が加わっているところ、戯言養気集がお伽衆の手に成ったかという推定を強める。
  なお、池辺義象氏の「細川幽斎」には、次のごとく、内裏での話となっている。狂歌の意味よりすればこの方が自然だが、何に拠ったか。
 「ある時、内裏にて、そばねりを賜はりければ、
  うすゞみをつくりし人のそのかたちよくく見ればみかどなりけり」。

三九 小ちご、里より御帰りありて…(六〇頁)  戯言養気集では、続いて消化剤など飲まないようにとある。
  世中おもてうらなる事有。ざとうの坊の心よきと、大ちこの利はつなるがある。ひゑの山にての事なるに、小児をりんばうへしやうだいし、もちを出し候へば、事外物かずを遊ばしかへり給ふて、なんぎなされ候声、いとおびたゝし。則大児参られ、「なふ<何と御座有」と申されければ、「無理な事にあひ、もちを過し、胸がやくるやうに御座ある」と仰候へば、「あこも参、類火にあひなん物を」とくやまれ、「かまひてく消食丸などきこしめし給ふな。頓てけんに御つきあらんほどに」(上巻)。
 醒睡笑では反対に大児が餅を食べ過ぎたことになっている。
  今朝とくから北谷へ大児のよばれておはしたるが、春の日のながきも、あそぶ時にはみじかくおぼゆるはつねのならひ、夢ばかりに事さり、夕陽西に入あひのなる比、わがすむ坊にかへり、おきてみつねてみつ、くるしさうにいたはられけるを、小児みかね、「そなたの煩はこゝちいかゞある」ととはれし。「たゞけふのもてなしの餅をくひ過して、むねのやくるがくるしい」といはれしを、「われもちとそのるいくわにあふて見たいよ」と。余義もないのぞみですよ(巻六、児の噂)。

四〇 一見卒塔婆、永離三悪道…(六〇頁)  卒都婆小町などにも引かれているので、古くからよく唱えられた四句偈らしいが、出典不詳。卒塔婆建立の功徳を説いた「造塔功徳経」「造塔延命経」にも見えぬし、「浄土三部経」にも見当らない。織田得能の仏教大辞典にいうごとく、かかる経文はなく、後の人が作って、経文同様に唱えられるようになったらしい。

四一 情がこわうて(六一頁) 日蓮宗徒の強情なことは、「情強宗門」(じょうごわしゅうもん)などと言われ(狂、宗論)るほど有名であった。「ほつけ衆門に衣をほし置て 法(のり)のこはさよじやうのこはさよ」(犬筑波集)、「じやうごはになるな鶯ほう法花経」(犬子集)、「それほどじやうがこわくては、はやほつけであらふといふた」(私可多咄、三)。

四二 秉払に、西国の僧、東国僧に問うて云…(六一頁) 戯言養気集には、問答の後に、その説明も載っている。
  西国よりひんぽつに上りぬる僧、心のまゝに万相調、下り用意せし処に、関東の僧問、「筑前・筑後あつてちく中なきはいな事ぢや」と、ほんしやりととひ侍る時、「されば候。上野・下野のごとし。昔日本三十三ケ国なりしを、六十六にわりなほしぬる時、其国長く候へば中の字をくはへたる事ありとみえたり。備中・越中のごとし」と答へた。評して曰、これはがくもん上をばはなれ、そさうなる事を以てつまんで見たか(下巻)。

四三 五百八十年(六三頁)  結婚など末長くつれ添う時に、縁起の数として用いられたらしく、室町末期の文献にしばしば見える。「五百八十年も連れ添ひませう」(狂、かくすい聟)、「五百八十年・万万年も、御福貴・御繁昌の御座敷でござるよ」(狂、居杭)。また、室町末古写本の「石原流口伝献立の事」の祝儀の飾りにも、三方の上に餅を五百八十飾って盛るとし、その図まで載っている。なお、これは江戸にも行われたらしく、御当代記、貞享二年二月二十二日の、将軍の娘鶴姫が、紀州家へ輿入する時の記事に、二、廿三日、紀の国御三ッ目の御祝行、五百八十の餅、大さ八寸四方、こうもり高のぞなへ四十八づつ入たる箱十二、内へ大豆の粉を奉書の紙にて砂金づつみにして水引にてゆふ」と見える。なおまた、けいせい反魂香にも「今日は五日め、五百八十の餅をついて、里帰りと言ふこと、縁辺の式法なれども」とある。女が嫁入してのち、三日或いは五日目に、末長きを祝って五百八十箇の餅を作る風習が、少くとも徳川中期ごろまで行われていたことがわかる。

四四 三井寺の法印…(六四頁)  戯言養気集には武士と児たちの歌とし、終りに武士の歌と、更に例によって評言を付している。
    うたの事
  ある山寺の児たちにあはんとて、武士衆登山有けるに、二たび物おもふといふだいにて歌あり。
    春は花秋はもみぢを散さじととしに二たび物思ふなり  大ちご
    朝めしと又夕食にはづれじと日々に二たび物をこそおもへ
                             小ちご
  かくて武士衆へも所望ありけれぽ、取あへず、
    国を望み国を取ては乱さじとさらに二たび物おもふかな
  評して云、かなしひかな、二たび物を思はざりしゆへに、うき事をのみ万人につたふ(上巻)。
 醒睡笑では、最初の一首のみ同じで、更に二首を付す。しかし笑話一般の読者には、和歌は既にあまり興味がなくなってきているので、本書では省いたのであろう。この点「醒睡笑の方が編者策伝の古典的教養や趣味を反映し、古典的な古体を示しているわけである。
  山の一院に児三人あり。一人は公家にておはせし。坊主、「年に二度物思ふ」といふ題を出せり。
    はるは花あきは紅葉のちるをみて年に二度物おもふかな
  一人の小児は侍にてありし。「よるは二度物思」といふ題なり。
    宵は待あかつき人のかへるさに夜は二度物思ふかな
  いまひとりの児は中方の子也。「月に二度物思」といふ題にて、
    大師講地蔵講にもよばれねば月に二たび物思ふかな
                        (巻五、人はそだち)

四五 ちご、法師よりあひ…(六四頁) 戯言養気集では、「横川の中将」なる固有名詞が見えるが、本書と醒睡笑ではこれが省かれて、一般的な話になっている。
  ちご、法師よりあひ、寒夜をなぐさまんとにや、でんがくをさんせうからにして、あぶりけるが、「いざみつはねたる事を云くはん」とて、うんりんゐんの、こんげんたんの、なんばんじんの、せんさんびんのとて、めき<としやうぐはんすれど、小児計一も得いはず。やう<のこりすくなになれば、思ひ出したる事有とて、きほひかゝりつゝ、「でんがんくん」と云もあへず、五くし六くし引たくり、くはれたれば、横川の中将殿けうさめがほに成て、「一段たつしやに御座ある」といはれた(上巻)。
  豆腐二、三で(て)うを田楽にせしが、人おほなり。「いざむつかしき三字はねたる事をいひてくはん」と義せり。雲林院、根元丹、せんさんびん、さま%\いひつゝとりて、みなになるまゝ、小児たへかねて、「茶うすん」といひさまに、二つ三つとり事は(巻六、若道不知)。

四六 又、ある夜、田楽をして…(六四頁)  戯言養気集に類話があるが、話もやや異ると共に、侍従殿云々とした部分が加わる。しかし、この場合、かえって話にリアリティが加わって、本書より面白くなっている。
  又ある時でんがくあり。今度はしゆうくにて物せんとて、
   清盛ひさうの長刀     大ちこ
  なぞ<  しつくしまでたまはつた
 仏のあたま        侍従
  何ぞ<  みくし
 いしやの本尊        小児
  なぞ<  八くし

  侍従殿少腹立して、 とか<小ちごさまは、物かずをすかせらるゝ」と申された(上巻)。
  また醒睡笑では、比叡山北谷持法坊と、特定の場所における老僧と児の話となり、本書や戯言養気集に見えない後話がついて、話としてはまとまりもよく、完成した形になっている。
  比叡山北谷持法坊に、児あまたあり。冬の夜、豆腐一二てうをもとめ、田楽にする。老僧いひ出されけるは、「をの<しうくをいふてくふべし」と。大児やがて、「われは仏のつぶりと申さむ」、みくしとりてのく。又ひとりは「八日の仏」とてやくしとりたり。後に小児屏風のかげより出るをみれぽ、髪をはつとみだし、たすきをかけ、左右の手にて目口をひろげ、「われは鬼也。みなくわふ」と、ありたけとりたれば、詮方なさに坊主はふるきてぬぐひを頭にかぶり、手を指出し、「乞食に参りた。一つあておもらしかしあれ」と。老僧のはたらき三国一(巻六、児の噂)。

四七 清盛の長刀 なんぞ(六四頁)  清盛があまり横暴無道なので、今まで庇護してくれていた厳島大明神からさえ見放され、やがて平家が没落することを暗示した插話だが、普通の平家物語の本文には見えない。しかし、その異本(本大系、平家物語上、校異補記、巻五、九参照)には、「巻五 物怪之沙汰」の所に次のごとくある。「それにふしきなりし事には清盛公いまた安芸守たりし時しんはいのつゐてにれいむをかうふて厳島の大明神よりうつゝにたまはれたりし銀のひるまきしたる小長刀つねの枕をはなたすたてられたりしかある夜俄にうせにけるこそふしぎなれ」。なお、この話によれば、平家物語のこの一異本は織豊期から近世初期には、かなり一般に語られていた一証となる。
 なお、厳島神社と平清盛とは縁が深い。即ち、厳島神社は、広島県佐伯郡宮島町にあり、市杵島姫命一座を祀る。延喜式に伊都伎島神社とみえる。創立年代未詳であるが、推古天皇の御宇、宗像大神を勧請したという。結局、宗像神社と同じく、海上交通の守り神だったので、瀬戸内海方面を勢力権としていた平家一門が、これに深く帰依することとなったらしい。平家物語によれば、平清盛の一族が殊に本社を崇め、治承二年六月中宮御懐妊の時には清盛はわざわざ奉幣して、皇子が生まれるようにと祈願し、月ごとに厳島に参詣した。治承四年九月には後白河法皇も清盛のために本社に行幸されている。これは、清盛がまだ安芸守の時厳島明神夢に長刀を授けて、「汝これを以て朝廷を護り奉れ、もし不徳の行為ある時には子孫が絶えよう」と教えられた因縁による。だが、清盛は勢力を得るに及んで非行が多く、ついに一族悉く滅亡し、まことに神のお告げのごとくであったという(平家物語)。

四八 一夜の間に鼠が巣をかけ(六五頁) 平家物語、巻五「物怪之沙汰」のはじめに見える次の話をいう。「福原へ都をうつされて後、平家の人々夢見もあしう、つねは心さはぎのみして、変化の物どもおほかりけり。…其外に、一の厩にたててとねりあまたつけられ、あさゆふひまなくなでかはれける馬の尾に、一夜のうちにねずみ巣をくひ、子をぞうんだりける。「これたゞ事にあらず」とて、七人の陰陽師にうらなはせられければ、「おもき御つゝしみ」とそ申ける。この御馬は、相模国の住人大庭三郎景親が、東八ヶ国一の馬とて、入道相国にまいらせたり。くろき馬の額しろかりけり。名をば望月とぞつけられたる。陰陽頭安倍の泰親給はりけり。昔天智天皇の御時、竜の御馬の尾に鼠すをくひ、子をうんだりけるには、異国の凶賊蜂起したりけるとそ、日本記にはみえたる」。

四九 もの忌みする人、下人をよびよせ(六五頁)  戯言養気集・醒睡笑では、いずれも「なげきをする」話の前に、「餅を焼き申そう」と言って、主人を立腹させたことになっている。話の系統からすれば、戯言養気集−醒睡笑で、本書はこれと異る系統になるわけである。
    物いまひの部
  ある人、下人をめしよせ、「明日は元日にて有ぞ。わか水をむかへよ。式(或)は御いはひのおかゞみふくためよなんど云物ぢやぞ。かまひてぬかるな<」とをしへけり。扨朝とくおきて、「かの事申、だんな殿のきげんよくせん」と思ひ候へ共、打忘て、「坊さま<、もちださしませ。やき申さう」と云たれば、以外腹立して、まくらを取てなげつけ、いきまきてみえしに、あまつさへ、「こゝなお坊主のなげきはやい」といふた(上巻)。
 醒睡笑では、戯言養気集より大分文体が新しくなっている。間のぬけた仲間を、わざわざ奥州者と設定したのも、前者の古拙を脱し、新しい進展が見られる。
  陸奥の者を中間に置たり。亭主大晦日に、「明天早朝には、何事をも祝言計いふべし。あやまつて不吉の儀いはぬやうに」とそをしへける。件の男手水をつかひさし、「餅ぶんだしなされよ。やき申さう」といふ。亭大に腹をたて、いろりのきはにありし木をうちつけたり。中間かさねて、「爰な旦那のなげきしなさるゝはの」(巻一、祝過るもいなもの)。

五〇 若水をむかへよ(六五頁)  元旦に若水を祝う風習は、中古から宮中にあり、のちには一般にもこの行事が行われた。この水で歳神への供え物や家族の食物を炊き、口を清めたり茶をたてたりする。こうすれば年中の邪気を払うという。なお、この話にあるように、若水を汲むにはいろいろの作法・風習があり、井戸水を汲上げる時には、縁起を祝って「福どんぶり、徳どんぶり」「福くむ、徳くむ、さいわいくむ」とか、めでたい言葉を長くつらねたりする風習があった(西角井正慶「年中行事辞典」)。

五一 御ちごさまは大上戸ぢや…(六五頁)  戯言養気集に、殆んど同文で載る。
    ちごの事
  ある人、「お児さまは、むまれつひた大上ごぢや」と申たれば、「いやそれほどにもおりなひ。但しちぶさにも、さけをぬらねば、のみかねたるなど、ちいが申た」(上巻)。

五二 しやうじ一大事、味嚼で御座候(六六頁)  醒睡笑に、前半の話はないが、次のごとく見える。
  弘法大師入唐の時、僧来て問、「如何なるか、是しやうじ一大事」。大師答云、「味噌よく」(巻六、児の噂)。
 しかし、これでは単に話柄となっても、笑話にはならない。その点、本書の方が、笑話としての構成がしっかりして、笑話として完成しているといえよう。

五三 生じのしたて(六六頁)  「精進(しゃじん)といふべきを、しやうじといふはくるしからずと云り。然れども生死(いきしに)の声に紛るゝゆへにしやうじんといひ来れる歟。されども下略なれば、はねずとも苦しかるまじ。その所によるべきこと葉歟」(片言、巻一)。

五四 此貝は、目の薬ぢやと申が(六七頁)  鮑は本草では石決明といい、よく眼疾を癒し千里の光を得るから「決明」という、とある。わが国でも古くから眼の薬とされたらしく、「食v之心目聰了」(和名抄)と見える。下って「類船集」にも、鮑の付合として「目薬」をあげている。

五五 御前なる額を見て(六八頁)  住職にも問合せたが、現在は誓願寺に「南無阿弥陀仏」の額がないというし、その話も聞いたことがないという。しかし本書の頃には、堂内に一遍上人筆といわれる「南無阿弥陀仏」の額が飾られていて、かなり知られていたらしい。「山州名跡志」には次のごとく見えている。「○誓願寺 在2京極三条南六角通東1。…堂同額(当寺再興大施主、大相国北御方、佐々木京極女、為二世安楽也) 大覚寺空性法親王筆 ○堂内額 南無阿弥陀仏一遍上人筆(額由縁在縁起。又在謡曲、所知世也)」(巻之二十、洛陽寺院、誓願寺)。
  即ち、謡曲「誓願寺」に、和泉式部の霊が出て、一遍上人に、誓願寺という額を除け、上人自筆で六字の名号を書いて額とせよといい、その通りにすると、異香薫じ花が降ったという話がある。かかる謡曲があることよりすれば、室町の中期から山州名跡志の出来た江戸初期、つまり本書の出来たころには、誓願寺には、南無阿弥陀仏の額があったはずである。また、空性上人筆の額はこの話の頃まだなかったのであろう。
  「いかに上人に申すべき事の候」「何事にて候ぞ」「誓願寺と打ちたる額を除け、上人の御手跡にて、六字の名号になして給はり候へ」「これは不思議なる事を承り候ものかな。昔より誓願寺と打ちたる額を除け、六字の名号になすべき事、思ひもよらぬ事にて候」「いやこれも御本尊の御告と思し召せ」「そも御本尊の御告とは、御身はいづくに住む人ぞ」「わらはが住家はあの石塔にて候」「不思議やなあの石塔は、和泉式部の御墓とこそ聞きつるに、御住家とは不審なり」…仏説に任せ誓願寺と打ちたる額を除け、六字の名号を書きつけて、仏前に移し奉れば、不思議や異香薫じつゝ、不思議や異香薫じつゝ、花降り下り音楽の声する事のあらたさよ。これにつけても称名の心一つを頼みつゝ、鐘うち鳴らし同音に「南無阿弥陀仏弥陀如来」「あらありがたの額の名号やな。末世の衆生済度のため、仏の御名を現はして、仏前にうつすありがたさよ。われも仮なる夢の世に、和泉式部といはれし身の、仏果を得るや極楽の歌舞の菩薩となりたるなり」(謡、誓願寺)。

五六 子昂が石摺(六八頁)  趙子昂の字は、本書が行われたころから江戸時代にかけて、わが国でも高く評価されていた。また、中国の名筆の石摺は、書道の手本として珍重された。「槐記」にも次のような記事が載る。「筆意ヲ得ント欲シテ、石摺等ノ跡ヲ見テハ、筆意ハ得ラレソモナキモノニ非ズヤト存ズ。板行・石摺ヲ習フハ、形ヲ習フニ非ヤト申シ上グ。仰ニ、イカニモ筆道ヲ知ラズ、筆意ノ合点ナシニ、板行ノモノヤ石摺ヲ習フハ、形ニナル。筆意ヲ得テ、子昂ハコゝノ筆意ヲ得テ書タリ、其昌ハ彼ノ骨子ヲ得テ書タリト合点シテ、板行デモ石摺デモ見レバ、明ニ弁へ知ラルゝ、ソコヲ習ヘバ好シ。正筆也トテモ、ソコナシニナラヘバ、形ヲ似スル外習フベキ様ナシ」(槐記、享保十二年、閏正月二十八日)。

五七 昨日、日吉大夫勧進能に…(六八頁)  戯言養気集・醒睡笑も本書の話と近く、共に日吉太夫の能になっている。ただ、さすがに文体には新旧の差がはっきりしている。
  「昨日、日吉が能に、すみだ川をしたりければ、しばいの心ありし人おほく鳴たるが、取分こしかたなど思ひ出てよとみえ侍りつるも有し」となり。かたへの人聴て、我も今日は見物し、なかんとていそぎ参りけるに、をきなせんざいふ過て、さんばさ(う)出たれば、さめ%\と啼出た。あたりの人の「何事にやなき給ふぞ」と云たれば、「あのすみたがほを見て、たれがなかぬものがおちやらふか」とて、しく<と又鳴た(上巻)。
  「昨日、日吉太夫墨田河をして皆になかせたは」とかたるを聞、つゐに能といふ物を見た事もなき者、あけの日早朝に行しが、翁、せんざいふをしまひ、さんばさうの時さめ%\となく。見る人「是は何事にや」と問に、「あの墨田河があはれさになく」といひしは(巻四、そでない合点)。
 なお、日吉太夫は日吉空庵か。空庵は将軍足利義昭。信長、秀吉時代に活躍。しばしば勧進能をしたという(近代四座役者目録)。

五八 勧進能(六八頁) 雍州府志に、「凡そ勧進能と称するは、中古以来沙門堂塔建立の時、芝居を構へ、必ず観世大夫を請して、猿楽を催ふす。其の始北山鞍馬寺に僧あり。青松院法師善成と号す。云云。鞍馬寺を再興せんが為に、観世大夫を只洲河原に請して之を催ふす。是れ勧進能之始なり。勧進とは人を勧めて善に赴かしむるの謂なり」という。しかし、勧進能の起源は更に古く、「花営三代記」に、これより四十余年前の応永二十八年に勧進田楽のあったことが見えている。また、平家勧進などもあり、もとは社寺の建立や修理の費用を集めるのが目的だったが、やがては入場料をとる興行すべてを勧進ということになったらしい。ここでも特別に社寺のための興行でなく、芝居、即ち見物席の広場を作って入場料をとった演能であろう。もっとも江戸時代になると、諸制度が整備して、勧進能については、種々やかましい規則が出来るようになった。

五九 御ちごさまのお里が不弁さに…(六八頁) 醒睡笑に類話がある。
  まことわびしき親をもちたる児のありつるを、小師の坊あはれみて、「是のお児はおいとしやな。里が無力なれば、ちともはれがましき事といふには、なにかかりめされぬ物はない。おぬしの物とては唯一いろある、しじ計じやの」といひける時、「いや、それも人が見ては、「お児のしじにはころ過た。そなたのではあるまい」といふほどに、あこが物とおもはぬ」と(巻六、児の噂)。

六〇 天竜寺の策彦和尚へ、信長公…(六九頁)  戯言養気集には次のごとく、はじめに当時名僧として名高かった貞安との問答、終りにいかにもお伽衆の話らしい信長の家臣評が加わる。また、年代が天正八年と明記されているところ、この話が信長の近くにいたお伽衆によって作られた原型、乃至はそれに近い型を伝えていることを推測させる。
    大小のちこ利どんの事
  天正八年の春、貞安、あづち山へ出仕申されしかば、信長公おねんごろ有て後、御ふしんなされけるは、「世間おほく小児をば、りこんに、大ちごはおろかに云ならはし候。大ちごも小児の成上りなり。ちいさき時さへりこんならば、大になる程、猶<りはつにこそなるべけれ。いな事ぢや」とのおほせなり。貞安、「御尤の御ふしんにて候。大ちごはぬるし、やうたうにちかうなるゆへにや」との返答なり。又嵯峨の策彦和尚へ御ふしんなされしかば、「愚僧も、さやうに存候。大かたすいりやう申候に、小ちごの間は、いまだ里心御座候故、武家のりはつ、さいかく、身にも心にもつきそふておはしまし候ゆへならんか。ひたもの寺じみてのちには、長袖のぬるきたちふるまひを、みなれ聞なれ、をのづから心おとりし侍るか」とこたへ申されければ、事外御ゑつきにて、「一段尤の返答ぢや。出家にも、それ%\のたちが有」とて、評しておほせけるは、「一、佐久間が家来の者は、大りやく、しとやかに分別も有そう也。一、滝川家来の者は、土(士)風きらよく、丈夫にあるべきやう也。一、柴田家来のものは、どこかも、むたいにおし破りさうなり。とかく人は、かしこきになれずは、中々よきしなは出まじき物なり。又其国の風あり。その時の風あり」とのたまひし(上巻)。
 天竜寺は五山の第一の大寺。天竜寺船を出したり、室町後期には殊に勢力が盛んであった。従って、その住職となった策彦は、禅僧としては最高の地位にあった。
 策彦(一五〇一-一五七九)は、名は周良、丹波の人、鹿苑寺の心翁等安に師事、天文六年大内義興の命で入明、同十六年再び遣明使、明の世宗に優遇される。帰来後天竜寺妙智院に住し、信長のため明の風俗をしばしば説き、その諮問に答えた。また信玄の請により恵林寺にも転住、再び妙智院に帰り、天正七年没、七十九歳。初度集・再度集・謙斎詩集等の著があり、当時第一の詩僧でもあった。

六一 婿入(七一頁)  古く行われた婿入婚の名残りで、中世以来、嫁入婚の流行によって衰えたが、この頃も未だ婿が嫁の里に行く礼式は行われていたようである。「婿入之事、むかしは三つ目の祝ひ過ぎて、婿舅の方へ行きし也。…近代は婚姻より前に婿入りをする事になりぬ」(礼容筆粋、婚礼之次第)。

六二 六斎念仏(七二頁)  和歌・和讚・念仏などを節面白くとなえ、拍子にあわせて熱狂的に躍る躍り念仏。中世初頭以来、京都を中心にして広く行われた。「毎月斎日ごとに、太鼓・鐘をたたき念仏唱へ、衆生を勧め給ひて、往生する人のある時は太鼓・鐘をたたきて念仏を申し、有縁無縁の弔ひをなし給ふなり。是れに依りて俗呼びて六斎念仏といひ伝へたり」(空也上人絵詞伝、下)。

六三 有若衆に貧僧がうちこうで(七二頁) 醒睡笑に類話。他の話よりも、この話では両書かなり近い型になっている。
  貧なる僧の打ほれて知音する若衆に、大名の執心せられ、定家の色紙を出されたれば、坊主もまけじとおもひ、弘法大師の筆といふなる心経をやりぬ。重て大名より、刀脇差を金づくりにして送られしを見て、坊主のよめる、,
    何事も人にまけじと思へども金刀に手をぞつきける(巻六、悋気)

六四 山寺の沙弥が御ちご様へ…(七三頁) 戯言養気集に類話。
  山寺の下ほうし、「お児さまへおそれながら、御無心申たき事御入候」よし云しかば、情をかけよとの事なるべしとおぼしめし、「さても<やさしき事を申物かな。何時なりともやすき程のことなり」と仰ければ、「かたじけなく存候」とて、ほゝゑみけり。有とき院主、里坊へ御下候へば、かの者ぢうばこを持てしかゝり、「御やくそくにまかせ申上候。めんざうにあるみそを、これに一ぱいをしつけて御ぬすみ候てくだされ候へ」申た(上巻)。

六五 餅や饅頭に核があらばよからう(七四頁) 醒睡笑に類話。
  大児と小児とひたひをよせあはせ、おかしき物がたりしてあそばれけるついで、大児くちずさびに、「餅はくふ時さねがなふて、おもしろひ物じや」と有しを、「いや、たゞわれは餅にさねがあれかしと思ふよ。うへてをきてならせてくひたい」(巻六、児の噂)。

六六 そこつなる若衆、餅をまいるとて…(七四頁)  戯言養気集に類話。前半がややくどくなっているのが、昨日は今日の物語においては、さすがにすっきりした形に整理されている。
    もちよく身をせむる事
  大ちごさま、三位殿にのたまひける、「今日は一だんなるき日にて有やうなるが、さもあらぬや」とつきなくおほせければ、心へたる人にて、もちたんととりよせ、ひそかに物しければ、あまりふためいて、物かずをめされけるほどに、のどにつまり、きち<とめされけり、一山のしゆう見まひ、せうしがりて、日本一のまじなひてをやとひ、此よしかくと申せば、即まじなふに、りうごのごとくになりしもち、二けん計さきへとんで出しかば、皆<「めでたひ事ぢや。さりとては、じやうず程有」とかんじけるに、大児、心もいまだつくやつかざるほどなりしに、「おなじくは内へまじなひ入たらば、日本をおきぬ、三国一であらふ」とおほせられた(上巻)。
 醒睡笑では、策伝の弄文の癖がついあらわれたのか、全文七五調で綴っている。
  児たまさかの里くだり、ころしも秋のなかばとて、民のかまどはにぎはへる、煙たつ田のもみをひき、米をしろめてつきうすや、誰もしるこの餅のをと、きねの神垣へだてなく、なみゐて是を賞翫す。笑止は児の餅にむせ、目口をはだけ悶ゆれば、父母は歎に沈つゝ、せんかた涙なりつるに、山伏かけでとをりあふ。たのみて祈念するほどに、栗ほど餅が喉よりも、ひよつといづればいろなをり、心安さに児のいふ、「とても行者の寄(奇)特ならば、いのり出せし其餅を、ま一度いのり入給へ」(巻六、児の噂)。

六七 りうこのごとく(七四頁)  竜虎が相争い、くんずほぐれつ勢いよく格闘する様をいうと思うが、或いは戯言養気集に「りうご」とあるから、輪鼓(りうご)のごとくか。輪鼓は、平安朝時代の散楽の曲芸の名称で、後には田楽などにも用いられた。輪鼓とは、普通の鼓の胴の中のくびれた形をいう名称で、独楽の一種にかような形をしたものがあり、その中くびれの箇所に紐を巻きつけて回転させ、或いはこれを空中へ投上げてまた紐で受取り、絶えず中くびれの所を紐で受取るようにしてみせた曲芸。すれば、この曲芸で空中に投げ出される輪鼓のごとくにの意か。

六八 有若衆の念者と寝て、暁方に…(七四頁)  戯言養気集では児と和尚の話になり、また熨斗付でなくて小袖と餅をねだるなど、多少の異同があるが、筋の運び方は全く同じ。
  おちごさま、山上一のとある二和尚とね給ひて、大いきをつゞけさまに十計つき、「いや<」と仰けるを、「なふ<何事ぞ<」とほうゐん申され候へば、「はもじなる夢をみて」と計ありしを、「先御かたり候へかし」と仰せければ、「小袖を二つ三つ御きせ候て、その後もちを事外しゐさせられ候つるを、つよくしんしやく申たるやうに覚えて、ゆめさめたる」とのたまひけるを、「そふじて春のゆめは、あひかぬる物じや。御心やすかれ」と申された(上巻)。
 醒睡笑には、やはり若衆が夢にかこつけて物をねだる話があるが、落ちが異なる。
  若衆あり。念者にむかひて、「今夜の夢に鶏のひよこを一つ、金にてつくり、われにたびたると見た」とぞかたられける。「さて<、われもたゞいまの夢に、其ごとくなる物を参らせたれば、いやといふて、それよりやがてお返しありたと見たことよ」(巻二、吝太郎)。

六九 顔色をとろへ、いかにもらう<としたる人…(七五頁)  戯言養気集では、竹田法印でなくて、当時第一の名医として名高かった一渓道三になっており、更に道三の言葉が付加されている。
    めづらしき所望
  いし道三一渓へ、がん色をとろへたる人来て、「御無心の事に候へども、きこんのおつる薬を、たんと下され候やうに」と申ける時、道三聞給ふて、「これはさてめづらしき所望でおりやる。見かけとは、はらりとちがふた義を承」と仰られしかば、「いや我等の用にては御座なひ。女どもにたべさせたく存候」と申たれば、「何方もさやうにあるや」と大わらひになつた(下巻)。
 醒睡笑では特定の名医の名は出て来ず、京の町であった一般的な話となっている。
  京の町を「気力の毒かはふく」といふてありく男のすがたを見れば、いかにもやせおとろへ、いろせう<と労療気なり。おかしきものにおもひ、ある処へ「薬をうらん」とよび入、「そなたの風情には、ちがふたる望なり」ととふ時、「さる事有。我等はそなたの御覧ずるにまぎれなし。それがしつれたるをんなどもの気力あまりよく候まゝ、一ぷくのませたふてたつぬる」とそ申ける(巻六、恋のみち)。

七〇 竹田法眼(七五頁) 竹田氏は室町時代における医者の名家であった。初代昌慶は、太政大臣西園寺公経の子。兄が采邑竹田に配流されていたのに従い、この地にいたので、竹田氏を称した。京に帰ってから、軍に従い武勇があったが、儒を学び、また医学を修めて、剃髪、実乗僧都と号した。三十二歳で渡明、金翁道士に医を学び、牛黄円等の秘方秘決をうける。名を明室と改め、道士の女と結婚、二子をうく。明の太祖の后の難産を救い、一服の薬で皇子を生ませ、安国王の称を贈られた。帰朝後、後円融院の病を癒し、のち法印に進む。三子、直慶・善慶・昭慶がおり、善慶は後小松天皇、昭慶は将軍足利義政の病を平癒したので、名医の誉高く、共に法印に進む。京都三条御倉町に地を賜り、住す。天授六年五月二十五日没。子孫道を伝え、世に重んぜられた。この子孫の一族であろう(寛永系図伝・竹田系譜等)。

七一 ある人、十二三なる子を寵愛して…(七六頁)  戯言養気集に類話。ここでは、一般の人の話が、やはり特定の上京の扇やの子お福とし、謡も異なっているが、筋の運びなど全く同じ。
  上京の扇やの何とやらん云人、十一、二なる子をひそうして、朝夕うたひををしへけるが、「やがて十月に、寺の百はたごくひにつれてゆかふぞ。よく覚えて、うたへよく」と云ふくめけり。かくて十月にもなりしかば、寺より「十三日には御ちがひなく、いつれも<のこらず御参候へ」との御ゑいかうのふれ有けれぽ、お福をよびつけ、「明日は寺へつれて参り候はん。うたひをよく覚えたるか。かまひてよき時分ににらまふ程に、其時ちやくとうたひ出せ」とくれ%・云ふくめけり。さて十三日に皆<つれだち参ければ、方々のつきあひにて、次第をゝつてなをり候に、先おさなき衆へぜんをすゆれば、かのお福、につことわらふて、「なふとゝ、百はたごとは此事か」と申けり。おや、なんぎして、きつとにらみ候へば、扇をつ取かしこまつて、「いはうなり、心ぞしるき、くもりなき」とうたひ出た(上巻)。

七二 又ある者申やう…(七七頁)  醒睡笑にほとんど同文が載るが、さすがに策伝の文章らしく、「つかせらるる」が「こそつかせ給へ」と、正規の係り結びを使っている。
  傍より申けるは、「お公家衆は、鳥獣の名をこそつかせ給へ。まづ烏丸殿、鷲尾殿、鷹司殿、猪熊殿」といひければ、又そばの者、「まだある」「たれそや」「万里(まで)のこうじ殿の」(巻二、名つけ親方)。

七三 烏丸殿、鷲の尾殿、鷹司殿、猪熊殿、…までのこうち殿(七七頁)
 烏丸殿藤原氏の一流。日野家の一門。日野資康の三男豊光(正長三年没、五十二歳)が創立。家格はさしてよくなかったが、本書の出来た織豊期から近世初期にかけ、光広(寛永十五年没、六十歳)が出て、官は正二位権大納言に昇り、名家に列せられた。光広は中興の祖というべき人物で、多才多芸、筆跡も巧みだが、殊に和歌は細川幽斎に学び、当時屈指の堂上歌人(家集、黄葉和歌集)として喧伝された。性、奔放豪宕、官女との恋愛事件で勅勘をうけ流されたり、公家でありながら、本阿弥光悦と路上で大喧嘩をするなど(言経卿記)、すこぶる逸話にとみ、当時有名な人物であった。更に孫資慶は後水尾天皇から古今伝授を受け、家集に秀和和歌集があり、その曾孫光栄(ひで)(家集、栄葉和歌集)と有力な歌人を出し、歌道の家として栄えた。明治維新にも活躍し、東京府初代の知事を勤め、伯爵となった。
鷲の尾殿 藤原氏。魚名の家で四条家の一門。権大納言四条隆親の子、権中納言隆良(永仁四年没)が家祖。隆良が京都の東山鷲尾の地(今の高台寺のあたり)に邸宅を構えたので称号となる。家格は高くなかったが子孫相継いで明治に至り、伯爵となった。また鷲尾松月堂古流の插花の祖。
 鷹司殿 藤原氏の一家。猪熊関白家実の四男摂政関白兼平(永仁二年没、六十七歳)が家祖。その邸宅が鷹司室町にあったので鷹司を称し今日に至る。五摂家の一として、平安時代以来公卿中に重きをなしていた。
 猪熊殿 本姓卜部。天児屋根命の裔で、景行天皇の朝にト部の姓を賜わる。古代から亀卜神職を家職とし明治に至る。猪熊はこのト部家の一支族。兼国二十六代の裔兼充(享保元年没、五十七歳)の時、藤井と改める。卜部姓四家のうち、吉田・萩原・錦織に次ぎ、家格は低い。なお、猪熊殿を藤原家実、即ち猪熊関白とする説もあるが、これは時代が溯りすぎるし、さして有名でもないので、ここではやはり右の猪熊家をさすと考えてよかろう。
 万里小路殿 藤原氏。勧修寺家の一支流。甘露寺資経の三男、左京大夫吉田資通(嘉元四年没、八十二歳)が家祖。資通の子宣房、孫藤房が後醍醐天皇の忠臣だったのは有名。子孫相続き家格はよくなかったが、徳川時代には名家の一に列せられた。
  なお、公家や京の町の名の訛には、片言に「一、富小路をとびのこうしはくるしかるまじけれど、押小路をうしこうしはわうし」、「浮世鏡第三」に「一、とびのこじ殿 富小路殿」などと見えている。

七四 中むかしの事にや、信濃国にて(七七頁)  醒睡笑に似た話が載る。しかし、昨日は今日の物語の話の方が、山奥の田舎者たる信濃の人とし、魚を尾張の熱田に買いに行かせたところ、リアリティが加わって、面白い話になっている。
  山ふかくすむ者、二人つれだち国中に出けり。振舞の膳部に、にしのつぼいりをすゆる。めづらしき物かなとて、ふたりながら、かのにしがらを懐中してかへりぬ。一人は「へふ(く脱力)りといふ物」と、一人は「まどひきといふ物」とあらそひ、「とうげの若太夫こそ、かゝる物をば見知らんず」とてさし出したれば、よく見しりたるかほに、造作もなく、「へふぐりでもまどひきでもなし。にかはづけといふ物候よ」(巻四、いやな批判)。

七五 地震ゆり候明る日…(八三頁)  醒睡笑に類話があるが、昨日は今日の物語の方は、本願寺の門跡にしたので、最後の揶揄がきいている。
  三人行合て、一人がいふ、「さて<、昨日のなゆは」。又一人いふ、「なゆではない、じゆしんがほんじや」。今一人が、「なゆやらじゆしんやらしらぬが、世はねつするかとおもふた」(巻三、不文字)。

七六 大ちご小ちご、富士の山に雪の有を御覧じ…(八三頁)  醒睡笑では当時の読者(大部分は京都周辺)に身近な三上山とし、また琵琶湖をとろろ汁に見たてている。
  大児のいへるやう、「あの三上山が飯ならば、何とあらふの」とありしに、小児端的の返答に、「水海がとろゝ汁ならばねられもせんや」と(巻六、児の噂)。

七七 童を風の子と申は…(八四頁)  醒睡笑に類話。当時このような謎々が流行していた。謎ばかりを集めた、後奈良院御撰と伝える「何曾」という本もあり、また、寒川入道筆記には、謎ばかり百九条も集めた「謎詰之事」もあり、昨日は今日の物語、醒睡笑をはじめ、当時の諸書にもしばしば載る。
  「「わらんべは風の子」と、しか(知る)しらず世にいふは何事ぞ」「ふうふのあひだのなれば也」(巻一、謂被謂物之由来)。

七八 むかし、嵯峨の天皇の時、「無悪善」といふ落書をたてた(八四頁)
 この話、次にあげるように、江談抄以下諸書に載り、それぞれの書によって、話の進め方、文体が異なるが、宇治拾遺物語が最も本書の形に近いようである。やや長文で煩わしいが、諸書の話を年代順にならべ、話の変化してゆく過程を追ってみよう。
   嵯峨天皇御時、無悪善ト云落書、世間ニ多々也。篁読云、无悪【サガナクハ】善【ヨカリナマシ】ト読云々。天皇聞v之給テ、篁所為也ト被v仰テ蒙v罪トスル之処、篁申云、更不v可v作事也。才学之道、然者自今以後可2絶申1云々。天皇尤以道理也。然者此文可v続ト被v仰令v書給。
  十廿卅五十海岸香。〈有v怨落書也。〉
  二冂口月ハ三中トホス。〈市中用2小斗1。〉
  唐ノケサウ文谷傍有欠。〈欲2日本返事1。〉
  木頭切月中破。〈不用。〉
  一伏三仰不来待書暗降雨慕漏寝(ツキヨニハコヌヒトマタルカキクモリアメモフラナソコヒツゝモネン)。〈如v此読云々。〉
  粟天八一沼。〈加坂都。〉
  或令為市ニハ有砂々々。
  又左繩足出。〈志女砥与布。〉 (江談抄、三、嵯峨天皇御時落書多々事)
 今は昔、小野篁といふ人おはしけり。嵯峨の帝の御時に、内裏にふだをたてたりけるに、無悪善と書きたりけり。帝、篁に、「よめ」とおほせられたりければ、「よみはよみ候ひなん。されど恐にて候へば、え申さぶらはじ」と奏しければ、「たゞ申せ」と、たびたび仰られければ、「さがなくてよからんと申て候ぞ。されば、君をのろひ参らせて候なり」と申ければ、「おのれはなちては、たれか書かん」と仰られければ、「さればこそ、申さぶらはじとは申て候つれ」と申に、御門「さて、なにも書きたらん物は、よみてんや」と、おほせられければ、「何にても、よみさぶらひなん」と申ければ、かた仮名のねもじを十二書かせて、給て、「よめ」とおほせられければ、「ねこの子のこねこ、しゝの子のこじゝ」とよみたりければ、御門ほゝゑませ給て、ことなくてやみにけり(宇治拾遺物語、三、小野篁広才事)。
 嵯峨帝御とき、無悪善と書ける落書有けり。野相公に見せらるゝに、「さがなくてよし」とよめり。悪は、さがと云よみの有故に、御かどの御気色あしくて、「扨は臣が所為か」と仰られければ、「か様の御うたがひ侍には、智臣朝にすゝみ難や」と申ければ、御かど、二伏三仰不来待、書暗降雨恋筒寝」とかゝせ給て、「是をよめ」と給はせけり。「月夜には来ぬ人またるかきくらし雨もふらなむこひつゝもねむ」とよめりければ、御気色直りにけりとなむ。「落し文は、読ところに咎有」と云こと、是より始るとかや。童部のうつむきさいと云物に、一つふして、三仰けるを、月夜と云也。抑、此歌古今集に、よみ人しらずとて入り。嵯峨帝より後人よみたらば、此儀にかなはず。若御かど始て作出給へるを、彼集に入たるにや。又前代より人のよみおける古歌歟、不審なり(十訓抄、七、無悪善の落書、一伏三仰の詩歌)。
 嵯峨帝御時、無悪善とかける落書有けり。野相公に見せらるゝに、さがなくてよけむとよめり。悪はさがとよむゆへ也。御門御気色あしくて、扨は臣が所為かと仰られければ、か様の御疑侍らむには、智臣朝にすゝみがたくやと申ければ、一伏三仰不来人待書暗雨降恋筒寝とかゝせ給て、是をよめとて給はせけり。「月夜には来ぬ人またる掻曇り雨もふらなん恋つゝもねん」とよめりければ、御気色直りにけりとなん。落ぶみはよむ所にとがありと云事はこれより初るとかや。わらべのうつむきさいと云物、一ふして三あふげるを月夜といふ也。此歌は古今集に読人不知の歌也(東斎随筆、人事類)。

七九 ある人、いかにもうつけたる若党を…(八四頁)  寒川入道筆記に類話が載るが、文体はいかにも古拙で、語り口も不器用である。
  一、高知行とる人の内の者に一段と文盲ナル人あり。乍去無油断奉公人たるに依て、人が馳走する□間、よき数寄しやの所に茶にようだ。 会過て主のもとへゆく。則会席の体を主のとはれたれば、「其にわかう様やかみ様の御座候程に申スまひ」ト斟酌せらる。「くるしからぬ、はや申され候へ」とせつかれた。「さらば申さう。汁は一段と見事なか、わらび」と申さるゝ。「さて其わらびが爰のさし合か」「中々」「なぜに」ととはるれば、「先づわらびのわは、わかう様のわの字。らはとの様のらの字。びはかみさまの彼びのちジヤ」ト。いらぬ事に気をつけたの。

八〇 曾呂利と申者(八五頁)  曾呂利新左衛門の伝は殆んどわからない。
 頭注に若干補えば、のち剃髪して坂内宗拾といったとか、香道を志野宗心に、かつ茶事を武野紹鴎に学び、豊臣秀吉に眤近して、その寵を受けたという。当時、茶道や香道が流行し、ことに堺では、千利休・津田宗及らを輩出し、その流行が甚しかったから、曾呂利にもかかる事実があったかもしれぬ。また、なぜ曾呂利という名がついたかについては、物類称呼に、次の話が載る。「天正文禄の頃曾呂利新左衛門と云者有。泉務境の住にて鞘師也。細工の名誉を得たり。刀の鞘口にそろりと納るをもつて異名とす。太閤秀吉公朝鮮征伐のをりから、一首の落首をぞたてける 太閤が一石米を買ひかねてけふもごとかいあすも御渡海」(巻五)。
 とにかく実在の人物だが、沼の藤六・暁月坊・一休などと同様、早くからその伝が不詳となり、頓智の名手として諸種の話が仮託されたらしい。これは、ほぼ同じ頃の雄長老などもまた然りで、建仁寺の住職をつとめ、当代屈指の学僧として名高かったにかかわらず、死後半世紀もたたぬうちに、次第に、その伝は勿論、英甫永雄の諱や道号さえ忘れられてゆき、単に狂歌の名手、雄長老、幽長老として記憶され、逸話や奇行、狂歌などが仮託、付会されるようになった。
 そんなわけで、この話なども、次頁(八六頁)頭注に言ったごとく、雄長老百首狂歌の「夢」と全く同趣である。或いはこの狂歌から本書の笑話が作られ、曾呂利新左衛門に仮託されたのかもしれぬ。寛文十二年刊の浅井了意作の「狂歌咄」なども、のちに曾呂利の一篇を冒頭に加えて、「曾呂利狂歌咄」と改題して刊行されている。その一篇は曾呂利の話としては最もよくまとまっているので、やや長文だが、次に掲げる。
 往古より一芸にすぐれし者は、用ひられずといふ事なし。昔太閤秀吉公の御時、御側さらずの御伽に、曾呂利といふ者あり。此者の本名は新左衛門というて、泉州堺南の庄目口町の内に、浄土宗の寺内を借りて居住せし刀の鞘師なり。細工に名誉を得て、小口より刀をさし入るに、そろりと鞘口よくあふゆゑに、異名を曾呂利といひけるが、秀吉公へ召出され、細工を承るに、おどけ者にて軽口を申せし故、御機嫌にあづかり出頭せしなり。然るに、秀吉公の御秘蔵の松枯れければ、尊慮にかけられ、御機嫌すぐれざるところへ、曾呂利まかりいで、「御秘蔵の松枯るゝとは、限もなき目出度御事、御小姓衆御硯、御祝儀に一首仕らん」と、さら<と書きて照覧に入奉りける、
   御秘蔵のとこよの松は枯れにけり己がよはひを君にゆづりて
 秀吉公御感ありて、「よくこそ祝うたり。曾呂利に金とらせよ」とありければ、曾呂利承り、「あり難き仕合、然し只今御金を拝領仕るよりは、日毎に君の御耳を嗅がせて下され候はゞ、御金に勝り有難からん」と申上ぐれば、太閤をかしく思召して、「それこそ安き事、毎日嗅げよ」と仰下されけれぽ、曾呂利よろこび、諸大名御登城御目見を見かけては、其まゝ太閤の御耳を嗅ぎければ、大名衆、我身の事を囁き申上ぐるやと、心もとなく思召して、曾呂利に我も<と諂ひ、内証より金銀を送られければ、俄に有徳になれり。或時御茶事有りて、御茶菓子に黒胡麻のあんをおきたるお餅出でければ、「此餅にて、曾呂利狂歌」と御上意ありければ、餅飲みこむや否や、
   黒ごまのかけて出たる餅なれば食ふ人ごとにあらむまといふ
 秀吉公をはじめ、一座の歴々興ぜさせ給ひけり。またある御夜食に蕎麦がきを御好みなされ、御相伴衆へも下さりける。曾呂利も末座にありけるが、蓋をあけてとりあへず、
   うす墨につくりしまゆのそば顔をよく<見れば三角なりけり
 名月の夜、御近習のともがら御勝手に居て、曾呂利が御前より下りけるを招かれ、「其方に今宵、例の狂歌を望みなば、さだめて名にしおふ月なれば、よき狂歌ども兼てよりこしらへおきぬらん、それは何程秀逸にても、はらみ句なればのぞみになし。はらみ句といふ題にて、名月の発句せよ」と、難題を言ひかけられしかば、曾呂利やがて、
   はらみ句やさんご夜中の子望月
  其外、紙袋を米蔵にきぜての狂歌、木釜のはなしにて、流石の秀吉公に手をとらせ奉りしなどの古き咄、皆人知れる事なれば、いふに及ばず。名誉なる狂歌咄の上手なり。かくて心地わづらひて、今はの時、太閤よりかたじけなくも上使をたまはり、「何事にても望はなきか」との御上意あれば、「別に望も御座なく候。冥途に御座ある御一門様方へ、若御書にても遣され候はゞ、片便宜にては候へども、届け申上ぐべし」と、事きれるまで、おどけ申しけるとなん。咄のみにあらず、詩歌にも携り、優しかりし男にて、今に名誉を残せり。
 これらの話が、いずれも曾呂利についての事実談とはかぎらないようである。例えば、「うすゞみ」の狂歌の話は、上30話(六〇頁)では、細川幽斎の狂歌としている。他にもかかる仮託の記事が多いことであろう。

八一 変成男子の法(八八頁) 法華経第十二、提婆品に、竜女が文殊菩薩の大乗の教を聞き、垢穢多く、かつ五障をもつので成仏出来ぬ女の身ながら、三千大千世界の価値のある一宝珠を仏にささげ、仏はこれを納受して、竜女は忽ち「変成男子」つまり男となって正覚成仏したことをいう。
 「又聞成2菩提1、唯仏当2証知1、我闡2大乗教1、度2脱苦衆生1、爾時舎利弗、語2竜女1言、汝謂3不v久得2無上道1、是事難レ信、所以者何、女身垢穢、非2是法器1、云何能得2無上菩提1、仏道懸膿、経2無量劫1、勤苦積v行、具修2諸度1、然後乃成。又女人身、猶有2五障刈一者不v得v作2梵天王1、二者席釈、三者魔王、四者転輪聖王、五者仏身。云何女身速得2成仏1、爾時竜女、有2一宝珠1、価直三千大千世界。持以上v仏、仏即受v之。竜女謂2智積菩薩尊者舎利弗1言、我献2宝珠1、世尊納受。是事疾不。答曰、甚疾。女言、以2汝神力1、観2我成仏1、復速2於此1。幻当時衆会、皆見下竜女忽然之間、変成2男子1、具2菩薩行1、即往2南方無垢世界1、坐2宝蓮華1、成2等正覚1、三十二相、八十種好、普為2十方一切衆生1、演中説妙法上」。

八二 ある人、わづらひさん%・なりければ…(八九頁)  新撰狂歌集に、次のごとく、仮名と漢字が異るだけで、一字一句同文の詞書と狂歌が載る。昨日は今日の物語の九行整版本を作る時、新撰狂歌集からこの咄を書き抜いたものか。或いは、共通の出典があって、それぞれ忠実に転載したのか。
  有人わづらひさん%\なりければ、くすし来り一脈とりてくすりをあたへ、色々のどくだちをかきつけけるに、一儀の事は親類もみる事ありとて書付ざれば、くるしからずとてつゝしぎざるゆへ、以の外さいほつす。くすし来りて、さたのかぎりとしかりければ、
    どくだちのうちならばこそあしからめそゝは何かはくるしかるべき                        (上巻)
八三 有人、石山寺ゑ参詣して…(九一頁)  醒睡笑に類話。この方がやや詳しく丁寧な叙述である。
  京より、いたらぬ者どもつれだち、石山でらに参り、縁起を所望してよませきゝ、「抑此石山寺は、前に湖水あり、うしろに山あり、峰に塔あり、谷に塔あり、二王門あり」。既によみはてぬる時、一人が申けるは、「誰人の建立とこそ存つるに、扨は飛鳥井殿のたてさせ給ひて候よのう」「其願主は、なにの合点よりいふそや」「其事よ。縁起の次第が、いづれのことばにも、なにあり、かあり、ありくとよまれたほどに、さうかとおもふて」(巻三、不文字)。
  なお、石山寺は、古くからもっとも尊崇された観音の霊所で、王朝の物語などにもしばしば出てくる。一時は寺領一万二千石を有するほど勢力が盛んであったが、天正のころ荒廃していた。それを秀吉の妻淀君が寺領を寄付し堂宇を再建、徳川氏も慶長十八年寺領を寄付したりして、本書の出来るころ目ざましく復興した。この話もかかる石山寺の再興を背景としているのであろう。この石山寺の話が戯言養気集に載らず、醒睡笑と昨日は今日の物語にあるのも、そのためであろうか。

八四 飛鳥井(九一頁)  藤原氏の一系。鎌倉時代のはじめ、難波頼経の子雅経が飛鳥井氏を称した。雅経は新古今時代の代表的な歌人の一人であった。子孫も代々和歌・書道・蹴鞠にすぐれ、これを家の業とし、しばしば天皇の師範ともなった。その書は飛鳥井流として有名。明治には子爵に列せられた。蹴鞠は、難波家と共に師範家として勢力を振ったが、飛鳥井家の方が代々和歌や書道などにすぐれた人物をしていたので、蹴鞠の面でも難波家を圧倒して有名であった。「飛鳥井、難波ハ兄弟同宗之家ニテ、元来、飛鳥井ハ難波之別流ニ候。蹴鞠之事、難波刑部卿頼輔卿ト申人ヨリ、其孫刑部卿宗長卿、参議雅経卿ト申両人江相伝有v之。宗長卿ハ難波家ヲ相続シ、雅経卿ハ則飛鳥井家之元祖ニテ、是ヨリ飛鳥井家起リ候。右宗長雅経両卿ヨリ、両家共、代代相承家業ト相成、勿論、両家ヨリ御師範ニモ被v参候事ニ候」(諸家家業記)。

八五 わたましの連歌に…(九一責) 醒睡笑(狭)によく似た形で見える。
  移徙の連歌に、
    春の日は軒端につきてまはるらむ
  といふ句を出せり。宗匠、「けせ<」といはるゝ。執筆、「墨がくろふてけされぬ」といふ時、右の作者、「なにとやうにもけせ。又つけう程に」(巻七、いひ損はなをらぬ)。

八六 うつけたる物のより相…(九二頁)  醒睡笑(狭)に同趣の話が見える。
  一天に雲尽て、星まんくとかゞやく夜、あたりの友をさそひ、端居してなぐさむ。口すさびに、「明星ほど大なるほしは、はてしもなふあるは」といふ。「しても、われが屋ねの上のはちいさい」と(巻六、詮ない秘密)。

八七 気の短き者のよりあひて…(九三頁)  戯言養気集に類話があるが、さらに、要件のみを最小限の短い文章でいう書簡を付している。
    みじかき部
  有人わきざしをかうて、知音のものにいふやうは、「これくのほりだしをして物ある。中々うちのまねは、おなりやるまひ」と云時、「ねすんは何程の物ぢや」と問しかば、「三百八寸で侍る」と答へた。摂津有岡の城をとりまきし在番衆のかたより、国本への文に、
    態一筆火之用心お松やさすな馬こやせかしく     (下巻)
 これは、のちの「一筆啓上、火の用心、おせん泣かすな、馬肥やせ」などの原型としてよかろう。
  醒睡笑では、今までの行き方と異なり、戯言養気集や昨日は今日の物語で一般的な話を、特定の人物、即ち、当時名医として名高かった曲直瀬道三の話としている。
  翠竹院道三のもとへ、脇指を持来りて、うらんといふ時、「此ねすんはいかほどぞ」とありしに、売主、「三百八寸」と返答せしも(巻八、頓作)。

八八 脇差(九三頁)  大刀に対する小刀をいうのは江戸時代になってからで、古くはあいくちのような懐中刀であった。本書の場合においては、すでに小刀をいうか。貞丈雑記によれば、「古の脇差は長さ、柄とともに八、九寸ばかり。鍔なく、柄まかず、今あひくちといふ物也。鞘のこじりを丸くし、懐中して衣服にかゝらぬ様」にした刀で、懐の中で脇へ差すので、この名があるという。「今は寸尺を長くし、鍔を入れ、柄を巻て、打刀と同じ拵、懐の外へ出す」。こうなったのは足利末、戦国時代からという(武家名目抄)。

八九 南禅寺(九三頁) 臨済宗本山、京都市左京区南禅寺町。五山の第一。弘安年中亀山上皇が普門無関に下宮を下賜されて創建、義満の時に五山の首班となる。戦国時代に荒廃したが、天正・文禄のころ玄圃霊三が出て復興、更に崇伝が家康に近づき僧録司となり、勢力を得、慶長十六年皇居造営の時には、清涼殿を下賜され、幕府よりも伏見・桃山の別殿を寄付された。寛永五年には藤堂高虎も山門を寄付している。即ち本書成立のころ、戦国の荒廃から目ざましく復興したので、この話も「ある禅寺」などとせずにわざわざ南禅寺に設定したのであろう。なお、学習院本では「むらさきのゝ大徳寺」となっているが、これも室町末から茶道と結びついて有名だった禅寺。

九〇 両きん山寺(九三頁) 径山寺と金山寺をいう。径山寺は中国五山の一。中国浙江省余杭県の西北にある径山の山麓にあり、臨済宗の専門道場。正しくは能仁興聖万寿寺という。唐の代宗の時、道欽(国一禅師)がここに入り、名高くなり、その後、圜悟の弟子大慧禅師が入寺するに及んで、寺勢大いに興り、来る者千七百に上ったという。その後何度か火災にあったが、無準が不撓不屈の努力によって再興し、堂室数百を数え、名僧が多くここに集まった。径山というのは、天目山頂に到る小径があるための俗称。
  金山寺は中国江蘇省丹徒県にある江天寺の通称。堂塔伽藍が揚子江岸に聳え、名勝の一となり、詩歌にもしばしば歌われる。古く沢山寺、また竜遊寺などとよばれ、金山寺は元代以後の通名。南朝梁以来の古刹で、わが国五山の僧なども修行のためこの寺に遊んだという。とにかく、共に、わが国においても中国の禅宗の寺として広く知られていたので、両者を区別して、前者をこみちきんざん、後者をかねきんざんといい、両者を合せて、両きんざんという。「これは唐土金山(かねきんざん)の麓、楊子の里に高風と申す民にて候」(謡、猩々)。

九一 金蔵主、茶巾、布巾、浄巾の、つきむの、頭巾(九三頁)  「蔵主」は、もと禅宗で経蔵を司る重い僧役だが、一般に禅宗の僧の称に用いる。「茶巾」は、茶器を拭う布、茶布巾。「茶巾算」(下学集)。なお、禅宗と茶道とは関係が深いが、点茶の時、茶碗を拭うに用いる布巾を特にいうこともある。これは曲尺で長さ一尺、巾五寸が通常。朝鮮の照布が最上で、近江上布がこれに次ぎ、一般には奈良晒を用いる。「布巾(ふいきん)」は、ふきんの訛。食器用の布。なお、この訛は、方言として現在も山梨県・三重県阿山郡・山口県・大分県・熊本県の一部・延岡市・天草島などで行われているという(分類方言辞典)。「浄巾」は、手巾と同じ。「旧説曰、浄巾、即手巾也。日用軌範ノ抽脱ニ云、以2浄巾1搭2左手1」(禅林象器箋)。「手巾」は、てぬぐい、てふきの類。「漢王莽之斥2逐王閥1也、闕伏泣、元后親以2手巾1拭v之、於v是始見2手巾之目1」(事物紀元)。なお、頭巾は、禅宗の僧が、よく用いた。

九二 上京小川に、いがらし日蓮宗の信者あり(九三頁)  醒睡笑に話は同じような筋だが、反対に、日蓮宗の寺へ来た強情な念仏宗の信者の話が載る。当宗の寺へ、檀那のもとより、「此者を目代にして庫裏に置つかはれ候へ」と、年五十計なる男をあてがへり。理知幾に重宝なるが、朝暮高声に念仏す。坊主心うき事に思ひ、教化すれども更に同心せず。しいていふ、「汝経をいたゞきたらば、信心ふかき者と披露し、給分の外に合力を得させん」とすゝむる時、あらかじめ領状しけり。かくて十月十三日、御影供に諸檀那みなあつまれる座敷へかれをよび出し、件の趣をひろめ、受法さするに、彼男、「其事なり。いろ〳〵いやといへども、種々教訓のゆへ、経を頂て候。さりながら、いたゞきたる経をへちまともおもふにこそ」と。ありがたいといふておらゐで。情のこはさはどちらもまけまい(巻七、思の色を外にいふ)。

九三 三玄院の国師(九三頁)  現在、三玄院は、大徳寺法堂の西方にある塔頭であるが、もとはさらに西方で、総見院の南方に当る。天正十四年(一五八六)、石田三成・浅野幸長・森可成などの施財を以て創建し、春屋和尚を開祖とする。表門はもと石田三成邸宅の門で明治の初年まであったという。なお、三玄院には、利休の弟子剣仲(紹智)が寓居しており、またその境内の墓地には、春屋和尚・石田三成・古田織部などの墓がある(佐藤虎雄「紫野大徳寺」)。春屋宗園は、大徳寺百十一世、朗源天真禅師と呼ぽれ、朝廷から大宝円鑑国師の国師号を下賜された高僧。国師は、禅宗の高僧に朝廷から下される称号。慶長十六年三月九日寂、八十三歳(大徳寺住持歴代)。三玄院も春屋も天正から慶長末年にかけて有名だったわけである。

九四 又ある人、下人をよび…(九四頁) 戯言養気集に類話があるが、昨日は今日の物語に比べると、いかにも古体を存している。
清水寺に住老僧、下小ぽうしに、「あすは元日に有ほどに、茶は大ぶく、もちのにたるをばかんといへ。かまひて万意得申候へ」とをしへければ、「畏て物ある。御心安かれ」と申せし時、「さてもわどのは物によく心得たるものちや。あづきもちをたべよ」と有ければ、十計にやいた。かくて夜も明ければ、ちやのゆの所に、わか水しかけ、りん〳〵とたぎれば、「法印さま〳〵、おちやたうもよく御座ある。いそぎおひるなれ。申〳〵、まだお枕は上らぬか」と云てをこひた。評して云、しゐて福をもとむる者は、色こそかわれ、此なげきにあひぬる事あり。あゝ天理に合する福有ものを(上巻)。

九五 野宮の森のこがらし秋ふけぬ(九五頁)  世阿弥作の謡曲「野の宮」(三番目物)に、旅の僧が野の宮に行くと、源氏物語の六条御息所の亡霊が現われ、葵の上との加茂の車争いの恨みを語るが、その亡霊が現われるところにある文句を、そのまま用いている。「花に馴れ来し野の宮の、〳〵、秋よりのちは如何ならん。をりしもあれ物の寂しき秋暮れて、猶しをりゆく袖の露、身を砕くなる夕まぐれ、心の色はおのづから、千草の花に移ろひて、衰ふる身のならひかな。人こそ知らね今日ごとに、昔の跡に立ち帰り、野の宮の、森の木枯秋ふけて、〳〵、身にしむ色の消えかへり、思へば古を、何と忍ぶの草衣、きてしもあらぬ仮の世に、行き帰るこそ恨みなれ、〳〵」(謡、野宮)。かくて、亡霊は、娘の斎宮と共に伊勢へ下る。ここでは、謡曲の文句をそのまま取ったことを気づいた紹巴が、皮肉に、斎宮が伊勢神宮へ行ったのち、野の宮のあとが留守になるから、「ついでに錠をさせ」と言ったのであろう。

九六 連歌師のあたりに…(九五頁)  醒睡笑に類話。こちらの話の方が大分手がこんでいるが、それだけに、完成したかたちになっている。
連歌に身をやつし、心をそめ、臥にもおくるにも、此事のみなりつる人の栖なる軒の下に、夜小便する音しけり。彼亭主とがめていへるやう、「夜分に居所へきたつて水辺をくだすは、人倫か生類か。植(へ)物をもつて打擲せよ」(巻七、思の色を外にいふ)。

九七 ある人、子を寺へあげ…(九五頁)  醒睡笑に類話があり、少年は久松という、いかにも里の少年らしい名となっている。また末尾に狂歌二首がついている。これは古体を存するとすべきか、策伝の和歌・狂歌に対する強い愛好癖が然らしめたのか。
久松といふ子を、山寺にのぼせをきたり。親見舞とて寺にいたり、一夜のほどとまりたるに、久松によりそふ老僧もわかきも、「すばり〳〵」といふもあり、「あかすばり」といふ人もあり。彼親父、 一円此道にうとし。不審はれぬまゝ、そとむすこにたづねけり。久松さかしく、「此寺の習に、下戸をばすばりといふてせゝる」とかたる。親聞、「げにも〳〵。下戸は酒にあふてから、くちがすばるほどに」とて、大に同心したり。ある時、夫婦つれだち寺に来る。ふるまいあり。酒のみぎり後見の法師出、「久松殿母義は、一つまいらぬや」ととひければ、男のいふ、「私は御存知のごとくすばりでは御座ない。をんなどもは、一ゑんのあかすぼりにて候」と申た。
  よしくもれくもれ(衍力)くもらば月の名やたゝんわが身ひとりの秋ならばこそ
  よしすばれすばらば若衆なやたゝんわが身ひとりのすきならばこそ(巻六、若道不知)
なお、醒睡笑には、同じく右の話に似た次の話も載る。幸菊といふひとり子を寺にのぼせ、物ならはせけるが、久しくあはぬなつかしさに、親、雑賞をかまへ師のもとに行。わかき坊主の幸菊にむかひ、「小穴〳〵」といふ。又よの人も、「小穴」とよぶ。「そも奇異のこと葉や」と思ひ、ちかづけてとひければ、これも、「此寺に下戸のからなを小穴といふ」とこたふ。「さもあらん」とがてんし、かさねて夫婦つれだち、寺に参しとき、女房に酒をしいぬれば、よくしりたるかほに、親いふ、「我らは一ゑんの小穴にて候。子もちはちと広穴なり、しいたまへ」と申た(巻六、若道不知)。

九八 連歌すきたる医者の所へ、薬取りにゆく…(九六頁)  犬筑波集に、殆んど同じ話が、詞書つきの句として載っている。「いみじき連歌すきなる薬師有けり。昨日の御薬とて取にまふできたりけれど、聞いれざりければ、内より包て書付て遣はすべきよし申ければ、せめられて 生姜三へぎにかへる鴈がね とかきてつかはしけり」(潁原本)。「又、連歌数寄なる薬師ありけり。昨日の御薬たまはり候へども、みちにてあまりに申ける程に、もどりて包に書付に申けるは 生姜三へぎに帰る雁がね」(松羅館旧蔵本)。

九九 帰るかりがね(九七頁)  崑山集、春の部に、「しやうが三へぎといふ文字か帰る雁 貞徳」とあり、これを崑山集の難書、馬鹿集で、次のように難じている。「しやうが三へぎといふ文字の帰雁 まへがき、くすし玄冶法印にてとあり。一句の仕立、きのふはけふの物語とかやいへる物に、連歌すきたる医者の所へくすり取に行、折ふし一順をみゐられけるが、心得たるとて薬を合、銘をかくとて、一つゝみに水てんもくに一はい乍入、しやうが三へぎにかへるかりがね、とかゝれたといへり。もし此心をもちゐられける歟。しからばかく亡却千万なる故事を位立て、玄冶のためには、おかしくめいぼくなき事歟。右三句は長頭丸作也」(二巻)。結局、貞徳が昨日は今日の物語の句を盗んで自作したと攻撃しているわけである。なお、右の記事について、既に潁原退蔵博士は気がついていたが、「たゞし昨日は今日の物語の流布本・古活字本等にこの話見えず」(「校本犬筑波集」頭注)という。この話の載る金・神・竜本や多本を目睹されてなかったからであろう。

一〇〇 連歌にては、人を殺すまい(九七頁)  戯言養気集に、結末は異るが、同じく紹巴と名医曲直瀬道三との相似た話が見えるが、これは笑話というより、いかにもお伽衆の話らしく、不器用ながら、実際の見聞談らしい実感がある。
古道三一渓、いしよかうしやく、聴聞の人、毎朝百人計有。其中にとしごろ十五、六、七、八なる人おほかりしを、ぜうは法橋見給ひて、涙ぐませ給ふ事しばしありてやみぬ。その後道三にあひ給ふて、「扨くそなたの門弟しうの内、二十にもたらざるしう多く、ぶんかうをひつさげ〳〵出入し侍るを見れば、なみだ計ぢや」と申され候へば、「さればその事にて物ある。今のわかき衆は、りこんさいかくに御座ある」と答へられし時、「いや、さうではなく候。あのおさなきものどもが、いくらの人をくすしころさうと痛入啼るゝ」と也。翠竹院けうをさまひて、「其方の芸をうら山しく存ずる。なぜなれば、そもじ程のれんがにてさへ、人をしころひたと云さたはないほどに」(上巻)。



(以下、準備中)

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最終更新:2017年01月08日 14:44