亀井勝一郎「言葉の微妙について」

 恋愛は言葉の機能を、はじめてわれわれに教えてくれるであろう。という意味は、言葉がどれほど微妙で神秘的なものであるかを、恋愛によって自覚せしめられるからである。愛することによって、人はまず言葉を失う。換言すれば、言うに言われぬ思いにとざされて、表現の異常困難に直面するのである。言いあらわされた言葉は、心の中で思っていることの何十分の一にすぎないことを知らされる。言葉は不自由なものだということを。
 何ゆえに愛するかと問われて、言葉に窮しないものはあるまい。もし理路整然と説明し解釈しうるものならば、それはすでに愛ではない。いかように言ってみても、言いきれず、語りつくされぬところに愛がある。このもどかしさを恋愛は教えてくれるのだ。人間は恋愛によって言葉を失い、失うことによってはじめて言葉の価値を知る。
 饒舌《じようぜつ》は愛情の死だ。恋人たちが二人ならんで腰かけたまま、いつまでも沈黙している、あの沈黙のうちに万感の思いと、語られざる対話のうちに、健全な言葉の胎動があるはずだ。言葉は沈黙という胎内で、姙娠の状態をつづけているのだ。健全な言葉は健全な沈黙に宿る。表現の異常困難だけが表現を育ててくれる。言語|障礙《しようがい》が言語を開拓するのだ。現代人はこうした沈黙の時聞
に堪えない。恋愛は饒舌となり、併《あわ》せて露骨となった。恋愛が一の美学であるかぎり、言葉においては、恋人は詩人でなければならない。私は詩人のためにかいた言葉のいのちと題するフラグメントをここに掲げておきたい。
  言葉のいのち(Fragment)
「生命は力なり。力は声なり。声は言葉なり。新しき言葉はすなはち新しき生涯なり」
  (島崎藤村 明治三十七年刊「藤村詩集」序文より)

 言葉の生まれいずるとき、あるいは言葉の改革さるるときの根本の相がここに示されている。新しい言葉とは新しい生涯《しようがい》なのだ。再生の祈念なきところに言葉の浄化はおそらくあるまい。現代語の混乱していることは事実だが、それは技術的にいって現代日本語が複雑化しているゆえのみではない。根本的には精神そのものが混乱しているのだ。言葉は精神の脈搏である。肉体が病むとまず脈が乱れるように、精神の病むときは言葉が乱れる。今日において詩人は何よりもまずこの点において卓越する医学者でなければならない。そういう意味で批評家でなければならない。精神の昏迷《こんめい》に無知なるままに言語改革だけを技術的に行なおうとする者は、言葉を殺すとともに精神を殺してしまうであろう。それは生命を殺すことに通じる。すべての言語改革者に警戒せよ。詩人は言葉の殺戮者《さつりくしや》に対して、誰よりも敏感でなければならぬ。
       *
 かかる時代に、私のいつも考えることは、言葉の生まれいつる日の、その始原のすがたである。言葉自身の神話である。古事記をひらいてみよう。天のみ柱のもとで、いざなみのみことは、「あが身は、成り成りて、成りあはざるところ、 ひとところ在《あ》り」と宣《のたま》えば、いざなぎのみことは「あが身は、成り成りて、成り余れるところ、ひとところ在り。故《かれ》、このあが身の成り余れるところを、汝が身の成りあはざるところに、刺しふたぎて、国生み成さむと思ふはいかに」と申さるる。実に鷹揚《おうよう》で美しいエロスの世界ではないか。神々の最初の言葉が、いのちの、また陸の、根源にふれて発せられたことを私は懐《なつか》しく回想する。そしてこんな一句を思いついた。「はじめに言葉ありき。その言葉は愛の言葉なりき」
 生命とはおそらく愛だ。言葉は愛とともに生まれたに相違ない。すぺてのいのちあるものがそうであるように、言葉そのものがすでにいのちなのだ。男女の二神は、みずから発した言葉によって抱擁を知り、性の悦《よろこ》びを味わったのであろう。その一語一語がいかなる興奮と愉悦とにあふれつつ語られ加か。おそらくその一語一語が、翼をもつ小天使のように、二柱の神々の周囲を飛翔《ひしよう》したにちがいない。
       *
 人は愛することによって言葉の価値を知る。いままで何げなく使っていた言葉は、もう言葉とは思われないであろう。今はじめて言葉を発する人のように、一語一語に思いをこめ、その一語一語が火花のように花びらのように舞うのを自覚しながら、人は恋を語るであろう。いざなぎいざなみのみことはどこにでもいるのだ。人は愛することによって神話の創世紀に入る。彼みずからが神となる。言葉がいのちであり、肉体や性や霊と一なるものであることを知るのはかかる時だ。そこに新生がある。自然はふたたびよみがえり、心はふたたび新鮮な輝きにみちわたる。言葉の改革を叫ぶものは、老若をとわず、まず恋愛をしてから改革を言うべきではなかろうか。
 生ある者は必ず滅びる。人間、これは死すぺきものだ。そしていかなる人間も自己の全願望をとげることなく死ぬ。いわば中途にして倒れるのが人間の運命であってうこの意味で人はみな何ものかの殉教者であるといってよい。人は死を凝視することによって言葉の価値を知る。ただ今臨終と覚悟してみよ。いままで何げなく使っていた言葉はもう言葉と思われないであろう。今はじめて言葉を発する人のように、一語一語無量の思いをこめて発するであろう。自己の衷心の願いを、果たさ凶として果たしえなかった無念の情を、すなわちその人のいのちである一念を、語るであろう。人は自己の死によって言葉に生命を与える。一詩人は言葉を生んで死ぬ。作品の完成とは作家の死だ。言葉を新しくしようと思うものは、つねに臨終の覚悟に生きなければならない。死を凝視して発する言葉に真の価値がある。
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 人間の発する言葉の中で、最も美しいのは相聞と辞世であると、私は幾たびもくりかえし書いてきた。すなわち愛の歌と死の歌と。歌という形式のみを指《さ》すのではない。精神存続の健全な形態をいうのである。相聞《そうもん》と辞世《じせい》。人がまじめに語り表現するところは、詮《せん》じつめればこの二つの形態しかない。それが何ものへの愛であろうとも。何もののための死であろうとも。そして愛の窮極の言葉は死の言葉、辞世につながる。ゆえに、無学な女人のかいた恋文すら、なお大文学の基礎とするに足りる。愛する人の死後、何がわれわれを最も悲しませるのか。何をわれわれは大切に思い出すのか。死せるその人の愛の声であの、言葉ではないか。伝統の中に古人の言葉が生き永らえるのはこうしてである。かりそめの言葉すら、こうして代々の祖先によって暖められてきたものである。それは無量の亡霊の遺産である。
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 言葉を言霊《ことだま》とした上古人の真実さを私はなつかしく思う。言霊の説は決して日本独自のものではない。ヨハネ伝の冒頭に、「はじめに言葉あり、言葉は神とともにあり、言葉は神なりき。この言葉ははじめ神とともにあり、よろずの物これによりて成り、成りたる物一つとしてこれによらで成りたるはなし」とある。さきに引いた古事記の一節と照合して興ふかいものが感ぜられる。太古の深いいのちに根源を有し、いのちの不思議そのものとして、かつ「成る」すなわち「生む」ものとして観ぜられていたことが明らかである。言霊の信仰はおそらく産霊《むすび》の信仰と一つであったのであろう。
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 古典を読むことは、私にとっては招魂の祝祭である。この祝祭において私は言い継ぎ語り継ぐその血脈の裡《うち》へ入る。そして表現することは、私にとっては鎮魂の祝祭となる。
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 言葉の始原の生態を念頭におくならば、われわれは一の混沌《こんとん》、あるいは一の虚無の裡にあることを知るであろう。漢語の制限、仮名つかい改正、すぺて枝葉の問題にすぎない。第一義的なるものは創造だ。これが絶対なのだ。詩人は言葉の魔術師である。普通の人が用いると生硬難解そうにみえる詩句も、詩人が運用すればたちまちそこに軽やかな翼がそなわるはずである。詩人は死語俗語をさえよみがえらして、新鮮ないのちを与えるであろう。あたかも恋愛が、障礙《しようがい》が大きければ大きいほど新しい技巧を発明するように。
 弱い精神にとっては何だって重荷となる。漢字を制限すれば文章の意味がわかりやすくなると思うのもはなはだしい迷妄《めいもう》だ。たとえば漢字のほとんどない親鸞《しんらん》の『歎異鈔《たんにしよう》』や宣長《のりなが》の文章が、果たしてわかりやすいか。ほとんどひらがなのみで書かれた歎異鈔に接して、その意味の無限の深さに驚かぬものはないであろう。私は故意に、すなわち虚栄と威厳のためにむずかしげな文字を用いることには反対だ。しかし深い思索と情感によって貫かれた文章は、たとえ一語の漢字なくともことごとく難解なものと知るぺきである。精神の限りなき労苦を前提とするものなのだ。
 私の惧《おそ》れるのは漢字制限や新仮名づかいが、わかりやすくという功利的な啓蒙《けいもう》意識によって、精神の労苦を省略し精神を衰弱せしむるような結果をもたらしはせぬかということである。精神の貴族と精神の奴隷と。詩人はこの階級闘争における闘士でなければならない。
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 言葉にはさまざまの連想が伴う。たとえば新仮名つかいでは蝶々を「ちょうちょう」とかく。従来のでは「てふてふ」とかく。私は「てふてふ」という文字によってのみ、あの可憐《かれん》な虫が菜の花の辺《あた》りをひらひらと飛ぶ姿を連想してきた。それは幼年の日から現在まで、四十年の間私の心のうちに刻印されてきた美の姿だ。「てふてふ」はもはや単なる文字ではない。私の思い出であり私のいのちである。それを捨て去るこどは私のいのち1私の蝶々を捨て去ることだ。どうしてそれが易々《やすやす》とできるだろうか。もし恋の思い出を伴うならばなおさらだ。醜い連想ならば捨ててもよい。しかしこれは美の刻印である。 「ちょうちょう」という言葉からは、魚の醜い腸を私は連想しがちである。だがわれわれの子供たちは、新仮名づかいによってあの蝶を連想するように仕向けられるであろう。「ちょうちょう」に何の疑惑も抱かぬ日が来るのであろう。そうしてみれば「てふてふ」階級である私は没落階級である。だが私は喜んで私の心の裡にある「てふてふ」を追って滅びて行くであろう。
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 すぺて言葉は韻律と語感と陰翳《いんえい》と余情をもつ。それは長い間に、さまざまの人の悦びや悲しみを宿し、またさまざまの人によって愛撫《あいぶ》された証拠であろう。詩人とは、極度にこれに敏感なるものである。そして現代人とは、極度にこれに鈍感なるものである。現代人とは饒舌家《じようぜつか》のことだ。饒舌家とは、言葉がまだ言葉に成りきらないうちに吐き出してしまう慢性の流産姙婦のことだ。一人前の形をした健康そうな言葉が現在どこにあるか。みな流産児であり奇型児ではないか。現代語はすべてスローガン風になる傾向をもつ。流行語ほどそうだ。スローガンの特色は主として思考の省略という点にある。言葉の大衆化とはその平均化である。平均化されるにつれて思考は省略される。どのような尊い言葉も現代ではこの意味でスローガン化される危険な状態におかれている。「恋愛」もまた然り。言葉の恐るぺき受難時代だ。
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 深く考え深く思いを傾けた言葉は、砂金のように泥土《どろつち》の底ふかく沈澱《ちんでん》している。多くの瓦石《がぜき》にまじって鉱脈のはるか奥底に隠れている。詩人は鉱夫でなければならぬ。つるはしをもって無駄《むだ》な石塊《いしくれ》を掘りさげ掘り下げ、金を発見しなければならない。それは饒舌でなく、静寂な沈黙の涯にひそんでいるであろう。詩人という鉱夫のもつつるはしの作用、それは推敲である。無限の推敲である。完成とはあくまで、一つの夢に似ている。恋文をかくとき人はこれを経験するはずである。恋愛をする人は多い。しかし恋愛を推敲《すいこう》する人は少ない。

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最終更新:2017年01月18日 14:26