『日本芸能史六講』
昭和十三年二月「短歌研究」第七卷第二號
「雪」を題とした聯想のゆくまゝの文を綴つて見ようとしたものゝ一部である。別に考證態度を採らうとするのではない。ほんの輕いざつくな書き棄てと見て頂きたい。私などは江戸文學を生活體驗から見ようとするやうな形は唾棄してかゝつてゐるので、さうしないことには訣らないと言ふやうな人なら、文學そのものゝ目的が、初めから訣つて居ないのだと思ふ。文學はある生活を實生活と同じ程度に、知識へ持ち來す爲のものなのだから。
だがこんな物を出す氣になつて讀み返して見ると、明治時代の歌謠をあまりに文學扱ひにし過ぎた時代──唄自身の小さな歴史と無關係によがつて居た頃の歌謠論に似てゐるのが恥しい。此は私らの癖で新しい感覺的な文章を綴るに馴れないところから多く來てゐるのである。佐々醒雪先生は、學校でも教へて頂いたし、その著作も相當讀んでゐる。
殊に歌謡に關するものでは、俗曲評釋などは、かう言ふ方面の草わけとも見るぺきものだから、よく讀んでおいた。今になつて、こんなものを書く氣が起つたのも、高野斑山翁や、元氣な藤田徳太郎さんにお目にかゝらぬ前々からの絲が引かれてゐるのだと氣がついた。我流の何の見だてもないものだが、少し地唄本を、めくり返して見ようと思ふ。
上方地唄から江戸に移された唄は隨分多いが、地唄も亦屡江戸唄を調べ直したものである。名高い「黒髮」なども、其一つだといふことは、吾々が知つたかぶりをするまでもない。
近年若くて死んだ成駒屋福助の脂ののりかけに踊つた「黒髮」は見たさうで、其時同行した者が確かに保證するのだが、私には人の噂の様にしか殘つて居ない。まことにたわいもないことだ。
何でも、一人でお姫樣姿て踊つたものゝやうである。だが黒髪自身の文句から見れば、やはり傾城事《ケイセイゴト》として踊るのが、ほんたうらしく思はれる。意味はぼんやりした處を多く局部に含みながら、
全體としてさうした女性の氣持ちらしいものを、よくかたちづくつてゐると言へる。書くのも恥しいほど、ありふれてゐるが、咄には順序がある。
黒髪の結《ムス》ぼほれたる思ひをば、融けて寝た夜の枕こそ、獨り寢る夜はあだ枕(合)。
袖は片敷《カタシ》く(にかざして)つまぢやと言うて(合)愚痴なをなごの心と(又、は)知らず、しんと更けたる鐘の聲(合)ゆふべの夢の今朝さめて、ゆかし懐し。やるせなや。積ると知らで積る白雪。
獨りゐる夜に女が悶えて居るのである。鬱結した思ひを解き放つて心融けあつた夜の枕は、やはり此枕だ。其を今見ると却て怨しい。あの時自分を喜ばして、男は言つた。此袖は此とほり片敷いて寢る。その袖──衣──片敷く衣の褄即おまへを添ひ臥しの妻と思ふと言つて置き乍ら、ああ其語を思ひ起して愚痴な囘想に耽つてゐる女心を考へ知らず。──音もなく、今宥も更け靜る夜半の鐘。
此處の合の手からは、氣分が一轉して寂しい朗らかさが出て來る。其に又、積ると知らで以下に藝謡らしいよさを十分出して居るが、其間の詞章は、しんみりした味ひを逃してしまつて居る。文句を割つて合の手を入れることの外に、合の手から意義の附け足しをすることが往々ある。此もさうした飛躍點を作つた訣で、變化の上からおもしろからうが、折角の短篇が文學的には内容が無駄になつて了ふ。
今朝さめてとある以上、近代の用法では、夜中や、一番鶏の鳴く頃ではない。實はさうとると、夜中の鐘で目がさめると曉で、雪がしと〳〵降り積ることになるのだが。
やつと寢たと思ふと、すぐ夜明けで、其僅かの眠りの中に見たのは、來ぬ人に逢うた夢であつた。其を反芻するやうに、心の持つて行き所のない樣な戀しさが募つて來る。外では積るとも音もしないで降り積んだ雪が、愈ふり嵩《カサ》んでゐる樣子と言ふのだ。
此なども、芝居唄らしい事は考へられるのだから、「江戸長唄」式の説明すれば、朧ろな點がもつとはつきりする。合の手の間が、舞臺での獨白があつたものと見ると、續きの廻りくどい所も、なる程と思はれる。併しさう考へるのは無理かも知れない。
雪の夜にしんと更けた鐘の音。此と共通した境遇は、地唄に多く見えてゐる。前の黒髪の作者と推定せられた江戸の湖出《コイデ》市十郎とほゞ同時代の、流石菴羽積の作つた「雪」である。此は唄の性質上、芝居唄ではない。
花も雪も、拂へば淨《キヨ》き袂かな。ほんに、昔のむかしのことよ。吾が待つ人も、吾を待ちけむ(合)鴛鴦《ヲシ》の雄鳥に(のイ)もの思ひ羽の、氷る衾《フスマ》に鳴く看もさぞな。さなきだに心も遠き夜半の鐘合聞くも寂しき獨り寢の枕に響く霰の晋も、若しやといつそ堰きかねて。落つる涙のつらゝより、つらき命は惜しからねども、戀しき人に罪《ツミ》深く、思はぬ(むイ)ことの悲しさに、すてたうき、捨てたうき世の山かづら
此は今も彈《ヒ》く唄である。此は「黒髪」よりも境遇がはつきり戲曲的に構へられてゐる。にもかゝはらず、出來はさうでない。捨てたうき世の山かづらと言ふから見れば、遁世したことは訣る。
山かづらは歌の文學語としては何でもないが、連歌俳諧の方へ這入つてむつかしいものになつてしまつた。山の朝雲だとするのと、山への段々だと言ふのとがある。だから山蘰とまじめに説くのは却てわるい。世を捨てた身は山かづらを踏む──或は眺める──朝夕を暮して居る。さう言ふ身になつて昔の事を思うてゐるのだ。煩惱を拂ひ棄てゝ淨らかな生活に入つてゐる。其心から思へば、まるで昔の更に昔の樣な氣がする。別れた人は自分を何時又見ることが出來ようと待ち續けて居たらう。今もさうだらうか。思へば外の池水に鳴く鴛鴦の──番ひ離れた──雄鳥のその思ひ羽ではないが、もの思ひをして、寢つかれぬ凍りの蒲團の中で、泣く聲はさぞと、鴛鴦の聲を聞くにも察せられる。
をりもをり、氣も遠くなる樣な遠寺の鐘が、さらぬだに寂しい夜半を告げてゐる。其を聞く自分も亦、寂しい獨り寢に思ひ出すことのみ多い。此枕上の戸にあたる霰の音も、昔の習慣で、若しや人が來て叩くのではないかと思ふが、其は空頼みだ。非常に胸まで涙のせき上げて來るのを堰ききれない程で、其落ちる涙は寒夜に直に冰つて堪へられない。其つらゝのつらさに絶える命は惜しまぬが、思はれるは、彼の人である。戀しい彼の人は深い咎めを蒙つて、想ひもかけぬ憂き目を見てゐる。其を思へば死ぬるにも死なれぬ。あゝその爲に、此世の憂き生活を棄てた山住ひではないか。
佐々醒雪先生は『辛い命はさて惜しくもないが、變らじと契つた人が今更我を思はぬのは、深い罪業ぞと、それのみが氣にかゝつて、捨て果てた浮世に、なほ繋念が絶えぬ』と譯されたのは名譯である。殊に「罪深く」を世間風にくだいて讀まれて居るのは感服するが、どうもかうとつて、初めてよく通る樣に思ふ。棄てられたから遁世したのでなく、女にのぼせ過ぎて罪を犯した男を思うて、女が罪亡しに尼法師になつたと見るが、正しいであらう。霰が降《サガ》り物としてとりこまれてゐるが、冬の凍る夜、雪の心持ちで見るぺきであらう。題の「雪」は「花も雪も」からとつたのは勿論だ。此外にも雪に關した題をつけ、又雪を正面から詠み入れたものも相當にあるが、情趣は似たものもさうでないものもある。
此二つは雪といふよりは、「こほり」と謂った趣きが適切に出てゐるので、待つ夜、逢はぬ夜、骨に沁むやうな世間の掟・男のつらさに對する女心が出てゐる。さうして、其が詞章の形としてよりも、味が完全に人に受けとられるのは、作者の努力と言ふより、かうした情趣をせりあげて來た小唄の世界に漂ふ氣分──具體化せられることを待ち焦れた──に考へなければならぬものがあるのだ。
よるべのない魂魄が寓《ヤド》るむくろを求めて居る、と昔びとは信じてゐた。ちようど其である。小唄の魂が、詞章をきつかけに、融けこんで來るのである。作者が詞を驅使して行くのである。
宇都谷峠の文彌殺しは、小團次が初演だと聞いてゐるが、其を文彌の靈の憑くお菊になつて見てゐた五代目菊五郎が本役とするやうになつてから、大分變つて來たことも察せられる。何時の興行から插んだのか。十兵衞に連れられての山道の出に「花も雪も」をうたふことにした。此も、大阪の齋入・今の菊五郎で見たに繋らず、はつきり覺えて居ない。何でも、座頭の花道の出に謡ふと言ふ考へから、慶政殺しにも、又「壺阪」にも、妥當性が感じられる。記憶ほど、自由過ぎて厄介なものもない。
此唄の事は、羽積自身作の「歌系圖」にはなくて、却て唄本「歌曲|時習考《サラヘカウ》」の方に、羽積作と言ふことになつて居る。つまり歌系圖以後に出來たものなのであらう。其上、「南妓ソセキの事をつくる」と添へ書きがある。
南妓の用例は歌系圖にもある。「南妓明石調」と註した類である。妓と言ふのは、今の人が考へるよりは、昔は廣く感じられて居るのだが、安永頃になると、江戸の洒落本に先だつ大阪の「月華餘情」・「色八卦」の類が績出したらしく、此類の遊び本では、妓の字にもう特殊な使ひ方をもしてゐる。げいこに當る使用が多い。
「島《シマ》」と言ふ語が、江戸の岡場所を意味するやうになつた語原と思はれるのは、島の内の遊所であつた。こゝが盛んになつて西廓《セイクワク》と稱した新町には及ぼぬが、北州と言つた曾根崎に對して、南州などゝも稱へられるやうになつた。こゝには歌妓の優れた者が多く出た。道頓堀の茶屋町を川向うに控へ、西照庵、惠日庵等の宴席、福屋・浮懶《ウカムセ》の料亭の參會に招かれるのは多くこゝからであつた。「月花餘情」は、此島の事を書いた古酒落本と謂ふべきものである。
其には、しめのと言ふ妓が出て、唄を謠ひ、頻りに又、唄の事を語る。色八卦にも、「この中、西照庵で、歌を仕たら、砂原の五さいじやうさんが襃めてゞあつた」など言ふのも、島の内の歌妓のかたぎを書いて居るのである。
ソセキと言ふ名は、隨分むつかしい名である。島の内界隈の女の名とも思はれぬ。醒雪先生は、リセキと讀んで居られるが、一暦見識ばつた名に見える。粹がつた人たちの間で通つた稱へか、でなければ、尼になつた後の法號などであらうか。
自分等と顏を合はすことの多く、又自ら端唄類を謠ひ又、作りもした女の爲に、流石菴が唄を作つてうたひはやらした訣であらう。
唄の題材になつて居る歌妓の生活自體は、咄にもならぬものであつたらうが、かうして纒められて見ると、作者の豫期しないあはれが出て來てゐるのである。
廓者の生活は、私どもにはどうも訣らない。夕霧・高尾の心意氣など謂はれるものにも、さして興味を感じることの出來ぬ吾々が、こんな書き物すること自身、無意味なことだけれど、唄に出て來る發想法の問題は、やはり考へて見ねばやはり日本の「ものゝ考へ方」に一點の曇りが出來る訣だ。
歌系圖で見ると、山岡元隣作といふ曲が數種ある。その中、朝妻檢校調とある「戀づくし」も一つである。
猿丸太夫奥山に、もみぢ踏みわけイヨ鳴麁の、妻をたづねてわけ行く戀路(合)かの傾城の遠山が、松の位も四郎二郎ゆゑに、今はやりてと身をなす戀路
短篇だが此で完結してゐるものとも見られるし、も少しあつたものゝ斷篇化したものとも考へられる。元隣は江戸文學では先輩の一人で、此人の爲事などは、まだ隱れて掘り出されないものが隨分あるだらうと想像せられる。ともかく、西鶴も近松も、此人の影響を受けたらうといふことは、單なる想像ではないのだ。
吾々が知つてゐる限りでは、近松の「傾城反魂香」にはじめて、遠山が登場して來るといふ風にしか思はれて居ない。だが近松にしても、あまり遠山太夫の描寫がづぬけてある成熟味を持つてゐる點に疑ひを插んでもよい。
土佐將監の娘おみつが、親の爲越前敦賀に遊女となつて、遠山と言はれてゐる。名所の松を寫しに行つた狩野四郎二郎元信と夫妨約束をして別れ、其に情を立てた爲に、方々に賣り替へられ、元信と再會した島原では、やりてのみやとして大福帳を手に、數々の鍵を腰にさげて、忙しい身に落ちてゐる。此だけ見ても此唄はわかる。だからと言つて、反魂香以後に出來た唄ときめるのは、少しふくらみのない考へ方ではあるまいか。元より元隣作とも斷言は出來ない。だが近松作の反魂香に遠山がある位は知つて居たらうと思はれるのに、尚元隣の作物とした所に、何かゞあるのではないか。だが此とて、人には錯覺もあり、忘却もある。反魂香の遠山を忘れて註をせぬ限りはない。まづ此唄の譯文を綴る。猿丸大夫奥山に……と小倉百人一首に言ふ如く、その奥山に紅葉を踏みわけ鳴き入る鹿の戀もある。妻をたづねて別け行く山路が、即戀路である。其から亦、例の傾城遠山が、高いはりを持つて保つて居た松の位帥太夫職も、今は遣り手にまで身を落すに到つた、其も亦戀路である。此も誰ゆゑ四郎二郎──狩野元信──故である。
私は元隣に、熊野靈驗を読いた遠山・四郎二郎の物語があつたと見たいのは山々だが、歌系圖から、其だけの結果は引き出されない。だが元隣以外にも必、遠山太夫の物語を綴つたものがあるに違ひない。西鶴には多量に、──近松には少分ではあるが、傾城だけは實在人で、其に配した男は自由な室想から出てゐることが多い。四郎二郎も其ではないか。元隣前後に、さうしたものが既にあつたと思はれる。
假りに遠山・四郎二郎の件を近松の純創作と見ても、問題に殘るのは、「反魂香」に出て來る不破伴左衞門・名古屋山三である。此は決して近松の獨創でないことは、江戸狂言の所演年表を見ても訣る。此は江戸の芝居からとり入れられたものと見られてゐる。だが此とて、初代團十郎等が、不破に關するすべての狂言の創始者だとはきめられない。更に其先があるやうなのである。此通り先へ〳〵と、水上は溯られる。一方遠山の事ばかりが、反魂香を最初とするといふ風には考へられるものではない。此處に其推斷は書かないことにする。三味線唄に關係が無さ過ぎるからである。
此唄、反馨を下に持つて居ると見るよりは、其前の形を踏まへて出來てゐると見る方が、讀誦して見てもうぶな感じが充ちて覺える。
最終更新:2017年01月21日 15:19