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湯沢幸吉郎『増訂江戸言葉の研究』「序説」

 江戸言葉は、江戸の土地に江戸の町と共に発達した言葉である。
 江戸の名ぱすでに鎌倉時代のものに見えるが、広く世に知られるようになったのは、長禄元年(一四五七)太田持資入道道灌がこゝに城を築いてからである。その後大永四年(一五二四)にこれが小田原の北条氏の有に帰し、さらに徳川家康が関八州を領して、天正十八年(一五九〇)八月一日にご丶に移った。当時の江戸は全くの一寒村で、城の付近に.体白余戸の民家があるに過ぎず、西北は武蔵野に接した草原であり、東南は内海に臨んで、一円に潮入の低地にあし・かやが繁茂していたと伝えられる。
 家康は入城後、まず城の修理と町割とに志し、や丶面目を改めたが、やがて慶長五年(一六〇〇)関ガ原戦後、兵、馬の権をにぎり、八年ついに征夷大将軍となって天下の大政を行なうに至り、江戸もいよ/\国家の中心たる大都市となるべき運命をになうようになったことが確実となった。そこで家康は諸大名に命じ、神田駿河台をくずして、その前面の一帯のあし原を埋立て、三十余町の平地をびらいた。これが今の下町である、.
 家康はかくして一方にはまた、地方の商人などの来住を好意をもって迎えたので、京阪・伊勢・近江・三河およびその他の諸国の町人の転居するものが次第に多くなり、江戸は日に月に繁華におもむいた。ところへ明暦三年(一六五七)に大火があり、江戸の大半が焼け失せて大打撃を受けたが、松平伊豆守信綱の市区改正の計画が当を得たので、復興した市内の形勢は一変したという。その後も年と共に発展をつ貸け、寛文二年(一六六二)には町奉行の支配地を、東は今戸橋、南は高輪、北は坂本に及ぼし、次いで兀禄元年(一六八八)には旗木二百四十余家を本所に移し、同十年には更に麻布・赤坂.青山・千駄谷・四ツ谷・小石川・駒込・本郷・浅草・本所に旗本を移した。かくて正徳三年(一七一三)には府下の町数九百三十三町となった。その後ます!丶発展して天保年間には町数千六百七十九町に及び、人口も十五年(一八四四)にはおよそ五十六万人あった。た璽しこの数は武家およびその家来、他支配の町人・能役者・僧尼・盲入・新吉原の遊女等を除外したものであるから、全体を合計すれば、優に百五十万人を数え得たであろうという。
 江戸の町の発達は大体右のごとくであるが、前にも述べた通り、江戸言葉はこの間に成立ったものである。すなわちはじめは、もとから江戸の土地に住みついている人々の語る土語、すなわち関東言葉が専ら行なわれて居たのであろうが、家康が入城して後には、そのほかに諸国から入りこんだ人々の間に、それ〴〵の方言が話されたはずであり、これらが雑然と混在して居たに過ぎなかった。しかるに年がたつに従って、これら諸種の言語が混和しはじめて、たがいに取捨選択を行ない、また自然発生のものも加わって、全体として一つのまとまった形を成すようになった。それかいわゆる江戸言葉であって、大体、宝暦(一七五一,⊥ハ三)からの作物に次第に多く用いられるようになった。
 江戸言葉の成立は大体右のごとく解せられるが、なお細かに見れば、江戸にはいろくの階級のもの、いろ/\の職業のものが住んでいて、それらの用いる言葉け全く同一のものではなかった。しかしその中でのもっとも主なものといえば武士の用いて居たいわゆる武家言葉と、商人を中心として一般町民の間に行なわれたもの、すなわち町人言葉とである。
 なるほど士農工商の階級制度の確立した時代に、社会の最上位にあって、しかも実権の所在地たる江戸に住んで、耀ろ武士のことであるから、武家言葉の軽視すべからざるば言うまでもない。けれども太平が続くと、経済的生活がも吃,…も重要な意義をもつ世の中となり、従ってその富の力においても、またその人数においても、はるかに武士をしの、て居た町人は、社会組織の主要分子となっていたと見るべきである。この見方からわたくしは、江戸に行なわれた言議,つ代表的なもの、すなわち江戸言葉は、主として町入の間に行なわれた言語であって、武家言葉は、武士という一階級に用いられた特殊な言語であると解するのである.、
 つぎにその研究資料としては、前に述べた宝暦ごろからの作物を挙げることができるが、中にもっとも価値あるものは洒落本であり人情本であり、また滑稽本であり落語の本である。黄表紙類にも当時の実際の口語のまゝと思われるところがあるが、しかし口語法の上から見ると、前記四種に現われる以外のものは、ほとんど見えない。これらの弓φレ人情本は、洒落本や滑稽本と同じく、芸娼妓・囲い者・茶屋女や通人・遊蕩児なども取扱うが、また町家の堅気者.番頭・職人や町娘・町女房などを取上げているので、文学上ではあまり高く評価されないようであるが、口語の研究資料としては、もっとも価値あるものである。
 なお江戸の歌舞伎を見ると、作者には寛政期に桜田治助、化政期に鶴屋南北、安政期に河竹黙阿弥などがあり、舞台上に江戸言葉を用いることがあるから、全く資料とならぬとは言えないが、しかし大体上方言葉を話させるのが矧こあったから、前記の小説類ほど大なる期待をかけることはできない。また浄瑠璃も江戸作者の手に成ったものはあろが、その形式・用語とも上方のにならうに過ぎないので、江戸言葉研究の資料としての価値は、ほとんど認めることボ・丸きないようである

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最終更新:2017年05月01日 17:15