有坂秀世「諷經の唐音に反映した鎌倉時代の音韻状態」

http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/PDF/arisaka/on-insi/12.pdf
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 ここに私が述べて見たいのは、主として唐音資料に反映した所の、鎌倉時代の國語の音韻状態である。
 鎌倉時代の唐音資料としては、當時の文獻に見える唐音語彙は勿論重要には相違無いが、その數が極めて僅少である。それらに比すれば、質の正確さに於ては勿論劣るが、量に於て豐富なものに、禪宗寺院で諷經に用ゐられる唐音がある。言ふまでもなく、それらは久しい間口から口へと傳誦されて來たものであり、文字に書き留められたのは、大部分は江戸時代に入つてからのことである。その音韻状態は既に全く日本化して居り、無論傳誦の間に生じた訛も少からす混じてゐることとは思はれるが、これは陀羅尼なり回向文?なりの全文を唐音で誦するのであるから、單語の場合の如く断片的ではなく、その傳來時代に於けるその支那方言?の音韻組織の全貌を髣髴たらしめるに足るものがある。從つて、一般の經文讀誦の奥書や天台・眞言兩宗所傳の漢音などと等しく、國語及び支那語の音韻史料としては極めて重要なものであるのに、その言語學的研究が今日まで等閑に附せられてゐたのは遺憾なことである。
 今その資料の主要なものに就いて略説しよう。それには先づ清規類の一群がある。その中、臨濟關係のものとしては、諸回向清規式五卷及び小叢林略清規三卷がある。
 諸回向清規式は、明暦三年に刊行されてゐるが、本文の終に永祿(註一)太歳[]三月吉辰永源遶孫現佳天倫比丘楓隱(註二)とあり、これが著者の奥書であらうと思はれる。明暦版(註三)ではなほその後に保寧勇師示看經・義淨三藏誡看經・中峯和taJ座右銘・大惠禪師發願文を附載してゐる。現今書肆で求め得る新刷本も、版木は同一と思はれるが、ただ、目録(註四)の最終の二枚を別筆で書き換へ、且附録全部と明暦三年梓行の奥書とを削除し、その代りに謹彫諸回向清規云々皇都京極街書林友松堂常信謹誌の文字を入れてゐる。
 小叢林略清規は、無着道忠の撰で、貞享元年の自序がある。刊本は、その終に龍華藏版と記す。道忠は、洛西花園妙心寺山内龍華院の第二租で、寶永四年勅旨を以て妙心本山の住持職に補せられた。天資頴敏、博覽強記にして、一代の著書六百六十有一卷に及ぶ。中にも、禪林象器箋の如きは、唐音研究者にとつて歓くべからざる參考書である。
 次に、曹洞關係の資料としては、永//道元禪師清規二卷・瑩山和尚清規二卷・洞上僭堂清規行法鈔五卷がある。
 永平道元禪師清規は、道元の遺著たる六部の書、典座教訓・辨道法・赴粥作法・衆寮清規・對大己法・知事清規を集めたものである。寛文七年、永平寺第三十代の智堂光紹が適之を蠧簡の内に得て刻せしめたが、此の版には唐音の振假名は附せられなかつた。後世流布する所の本は、寛政六年刊行の「饕永/\元禪師清規」である。これは、即中玄透が一二の道友と相詢つて舊版を校訂したもので、その中、赴粥作法所載の諸回向文並に十佛名には、唐音の振假名が附いてゐる。本書は、通常は單に永平清規と略稱せられ、又後に玄透自ら著す所の永平小清規と區別するために永平大清規と呼ばれることもある。
 瑩山和尚清規は、僭堂清規凡例に據れば刊本三種あるとのことであるが、流布する所は延寶九年の版で、大乘寺の卍山道白の校訂したものである。分つて上下二卷となし、別に坐禪用心記をも附載してゐる。かつて大乘寺の住持月舟が之を古篋の中に得て一堂の中に行はしめてゐたものを、卍山が膽寫して梓行した。併し、それには誤が少くなかつたので、その後更に好本を得て對校し、略至當に歸するを得て、再び發刊せしめたものであることは、卍山の延寶六年序によつて知られる。
 洞上僭堂清規行法鈔は、瑞方面山の著す所でe寶暦元年の自序あり、同三年に刊行されてゐる。外題には「塑僣堂清規」とある。 その後、寶暦五年、新に考訂三卷を添へて再刊された。面山は若狹z印寺の前住で、著書は甚だ多い。
 禪家の清規類としては、これらの刊本の外に、なほ寫本として傳へられた有名無名の書が多數に存することは jhJ堂清規の凡例や駒澤大學圖書館編「禪籍目録」などを見ても知られる所である。私の所持する寫本の一つに、「大乘維那口傳」と題するものがある。卷頭に椙樹林大乘護國禪寺維那謹誌と記し、同寺の諸儀式の作法を説明したものである。又、瑞鹿山圓覺寺で行はれてゐる諸回向の文を集めた本がある。書名は明かでない。..一に鹿山中松嶺院周超主と記入してあるのは1多分所持者の名であらう。これらは唐音資料として有益なものである。
 その他、個々の儀式に關する軌範を記したものとしては、 H懺法・施餓鬼・洞上唱禮法等の書がある。
 觀音懺法(註五)の諸本を擧げるについては、勤行用の譜本と註釋書とを區別しなければならない。註釋書とは、例へば寛文三年村上平樂寺開版の本の如きがそれである。この本は、まつ懺法之起と題して觀音懺法の由來を漢文で述べ、次に本文を出して、同じく漢文で註釋を施してある。併し、唐音資料として役立つのは、左に擧げるやうな勤行用の譜本の.,r類である。
 觀音懺法の譜本は、相當に古くから現れてゐる。古寫本としては、かつて弘文莊待賈古書目第九號に寫眞の出た室町時代の寫本「觀音懺儀」一卷(未見)あり、私は南嶺和尚(註六)眞跡と傳へる「懺摩法」一研を藏してゐる。これらには、いつれも本文に譜を附け、且唐音の假名を振つてある。現今書肆で新刷本を求め得るものとしては、臨濟關係のものに花園校本あり、曹洞關係のものに大乘寺讀點本及び秋葉寺藏版本がある。囓葉觀音懺法」は、妙心寺塔頭春光院の性堂智適が寛保三年に妙心寺所傅の譜に據つて上梓し世に行はしめたものが、未だ久しからずして寝に漫滅し所在の患ふる所となつたので、天明三年改めて一本を繕寫し刊行したものである。大乘寺讀點本「觀音懺法」には、享保十五年(註七)の序と明和八年の跋とがある。前者に據れば、本書は洛師の剞生林氏嘗て刊する所の大悲懺を刪補翻刻したものであるが、私が別に所持する所の京洛(註八)桃花街書林林氏の序ある刊本はその原版かと思はれる。
 さて、享保翻刻(註九)の版は、その後寶暦五年に重刻されたが、歳月を歴て蠧損したので、京都の書賈好文軒が越前禪林精舍寓佳の香外石蘭に就いて校正を求めた。そこで石蘭は先師傳來の正本を與へ、重刊流通せしめたのが、即ち明和九年版である。その後寛政八年及び文政十三年に改刻せられ、明治以後にも版を重ねて、現今もその宗門に廣く行はれてゐる。本書は、序や跋から見ると、最初から大乘寺と直接關係を持つてゐたものとも思はれないが、江戸時代及び明治時代に於ける此の系統の刊本の題簽を見るに、「大乘寺讀點付」(註一〇)と記したものがあり、現に書肆でも大乘寺版と稱してゐる。秋葉寺藏版本(註一一)は、「黷觀音懺法」と題し、天保十四年秋葉山叟泰礎の序文は有るが、唐音の振假名は明治十七年白鳥鼎三の附する所である。右の外、私の所持するものに、文久二年刊行の南禪寺藏版本あり、これは寶永三年の版を翻刻したものである。これらの外に、なほ面山の校訂した本の存することは、..堂清規の中に著者自ら言つて居り、又駒澤大學圖書館編「禪籍目録」にも「瀦觀音懺法、__..、瑞方(面山)」(未藏書)として出てゐるが、私は未だ見る機會を得てゐない。觀音懺法の譜本には、多くは陳白の本が附いてゐる。もつともその内容は本によつて多少相違してゐる。
  花園校本  所薦陳白・所蒔d・回向・uj忌陳白・檀忌小回向
  大乘寺讀點本  所薦陳白・所蒋小回向・亡者陳白・亡者小回向・亡者回向・所薦回向
  秋葉寺藏版本  所疇陳白・所疇小回向・亡者陳白・亡者小回向
但し、檀忌陳白は亡者陳白と同一物であり、檀忌小回向は亡者小回向と同一物である。:右の中、秋葉寺藏版本の「陳白」は、白鳥鼎三の校正する所であるが、全部訓讀するやうになつてゐるので、唐音資料にはならない。花園校本の「陳白」は、寛政元年に翻刻した本が、年を歴て殆ど漫滅に至らんとしたので、安政六年、花園の某箪師に校正を請ひ、更に梓行したものである。大乘寺讀點本の「陳白」は、寛攻八年版の奥附に據れば、(註一二)明和九壬辰初春吉旦洛之洞院古稀翕永田右京謹書並畫とある故、遲くとも明和九年に觀音懺法の改版された際には既にそれに附いてゐたものであり、且本文と同筆で上梓されたものと見える。既述の傳南嶺眞跡本「懺摩法」も、後傘は右諸本の陳白に相當する部分で、修正陳白・修正小回向・所禳陳白・新疇小回向・尊宿陳白・尊宿小回向・亡者陳白・亡者小回向・逆修陳白・逆修小回向を含んでゐる。なほi面山の校訂した觀音懺法にも陳白の本が附いてゐることは、僭堂清規の記載によつて知られる。諸回向清規式卷第五にも、懺法陳白小回向之部がある。
 次にr施餓鬼の念誦を記した折本類としては、花園校本「施餓鬼」一帖、永平寺藏版「施食法」J帖、平井文永堂藏版「大施食」一帖等あり、私の見たものは何れも新刷本である。その中、花園校本は、かの b懺法と同じく春光院の智適の傳ふる听に據り、それから三傳目の曉敬が文化八年に上梓したものである。なほ、諦忍著「盆供施餓鬼問辨」(明和二年自序、同六年刊)の申にも、禪宗大施餓鬼作法を載せ、唐音の振假名を附けてゐるが、著者は眞言宗の僭であつて、禪僧ではない。
 墜懿洞上唱禮法」一帖は、面山のi撰で、寛延三年の自序あり、翌年梓行されてゐる。單に部分的に唐音資料を含む經本類としては、その他にもなほ折に觸れて管見に入るものが少くない。
 次には陀羅尼類であるが、禪宗寺院で最も頻繁に誦せられる首楞嚴紳呪・大悲圓滿無礙神呪・{{陀羅尼の三つを收めて一帖の折本としたものが有る。私の所持するもの三種。その_Jつは新刷本で0外題は囓楞嚴咒大悲咒消災陀羅尼」となつてゐる。(註一三)その他の二本もこれと略同じ内容と體裁とを持つものであるが、内一本は相當に古い。並べて對照して見るに、版木は三者各相違してゐる。同一系統の本が家々に幾度か改刻されたものであらう。
 宋の長水の子珞が著す所の首楞嚴義疏注經(十卷)は、夙に暦應二年高師直によつて上梓され、室町時代にも所謂五山版として幾度か出版された。江戸時代に入つては、寛永九年中野道俘によつて發刊されて以來、正保五年・明暦元年・延寶八年・天和三年・貞享五年と版を重ねてゐる。所謂首楞嚴神咒はその第七卷に含まれてゐるものであるが、寛永版以來之に唐音の振假名を附してゐる。その振假名にはi現今禪宗諸派に行はれてゐる誦法とは異なるもの少からず、又ホの假名として尸の字體を混用するなど、その傳來の古いことを思はしめるものがある。なほ・寛文六年版「首楞嚴經合轍」(十卷、明僣通潤。編)、明暦四年版「首楞嚴義海」(三十卷、宋僣咸輝編)、天和三年版囃衾首楞嚴義疏注經」(十__..)、刊年不詳「首楞嚴義疏集註」(二十卷、浪華沙門天龍編)等に於て首楞嚴紳呪に附した唐音の振假名も、寛永版系統のものを踏襲してゐるものらしく見受けられたが、未だ正確に封照して見たわけではない。
 「異譯心經」は、般若心經の七種の譯を集めたものである。私の所持するものは寶暦十四年の再刻本で、終に水戸沙門探盈による寶暦十二年の重彫梵漢心經後序が附いてゐる。七譯の第二、玄裝譯般若波羅蜜多心經の後に、此本雖v有2宋音1傳寫久而韻聲不v明故今除v之と記し、本來存したらしい宋音の記載を削除してしまつてあるのは、學術上遺憾なことである。但し、七譯の後に、般若心經梵本二種、及び宋蘭溪大覺禪師將來梵語心經を附載してゐる。その中、(註一四)大覺禪師將來梵語心經は、漢字を以て梵語を音譯したものであり、その全文に唐音の振假名が附いてゐて、有益な唐音資料となるものである。
 虎關禪師の聚分韻略(後には改編されて三重韻とも稱せられた)は、前記の首楞嚴義疏注經と同樣室町時代から版を重ねてゐるものであるが、東京帝國大學國語學研究室所藏の慶長十七年版や、私の所持する江戸時代初期刊本(奥に於洛陽二條通二王門町開版焉と記す)に於ては、漢字の左又は上に唐音を記載してゐる。この二つの本の唐音は、別人によつて各獨立に記入されたものと思しく、一方が他方を踏襲したものではない。併し、いつれにしても、鎌倉時代以來の(註一五)古臨濟曹洞系唐音に屬することは疑無い。
 之に對して、後の天和三年版rR三重韻」(中村五兵衞・西村七郎兵衞開版)・元祿四年版「響聚分韻略」・元碌十一年版「三重韻」(林正五郎梓行)等は互に同一系統に屬する本で、(註一六)舊來の唐音の外にti江戸時代に入つた新しい唐音をも多量に混じてゐる。(註一七)享保四年版「廣益三重韻」(栗山宇兵衞壽梓)等は、また別の一系統をなす、それらに記された唐音は、全くの國産品であり、文雄の所謂(註一八)「我が呉漢の音に本づき更に唐音を作る」ものである。
 我が國の臨濟宗及び曹洞宗(心越派を除く)の諸寺院に傳へられた(註一九)唐音は、大體いつれも大同小異のものであり、從つて、餘り相遠からぬ時代に餘り相遠からぬ地方から借入されたものらしく見える。禪宗b侶の中には室町時代に入つてから渡支した人もあるが、有名な租師がたの往來は大部分は鎌倉時代に行はれたもので、各派禪院の傳統も大體は鎌倉時代の間に確立してゐたものと思はれる。故に、古臨濟曹洞系唐音の起原は鎌倉時代に在り、宋末元初の頃支那の浙江地方の寺々で行はれてゐた諷經の音を傳へたものと考へておいて、大過は有るまいと思ふ。
 もつとも、詳細に觀察すれば、その中にも自ら多少の方言的(又は年代的)差異と認めらるべきものが無いでもない。例へば、同じ觀音懺法を誦するに
          カカウキ  イシイアネ  ソジアネ
しても、妙心寺では「各各胡跪」「一切惡鬼」「作十惡業」と言ふのに封し、
      ココウキ  インノヲキ  ソジヲネ
秋葉寺では「各各胡跪」r一切惡鬼」「作十惡業」と言ふのである。
 現今、浙江地方の多くの都邑の言語では、多數の文字には文言音と白話音とが區別されてゐる。斷ち、一字に二つの音が有つて、讀書にはすべて文言音を用ゐ、白話音は專ら談話にのみ用ゐられる。但し、談話の中でも、幾分文語めいた高尚な用語には、やはり文言音が用ゐられるのである。而して、文言音は概して官話に近い特色を持つてゐる。例へば、音節の頭音について見ると、(註二〇)白話音が微母に〔rn〕を用ゐ日母に〔Ji〕等の鼻音を用ゐるのに封して、文言音は(註ニー)微母に〔v〕を用ゐ日母に〔zdz3d3〕類の音を用ゐる。これらの點について、我が古臨濟曹洞系唐音はどうかと言ふと、まつ、微母は一般にバ行音で現れ、マ行音の形を持つ例は稀である。例を小叢林略清規にとれば
  バンブバンブンブノビブくム バウくマウロモウラミ ミ
  萬・物・晩・文・聞・尾・無・望 ・味・微
日母は一般にザ行の形で現れ、ナ行の形を持つ例は稀である。
  ジヤジジンジンシ ジ ジジンゼンジ ゼジヤウゼンシンネウ
  若・日・仁・仍・如・而・入・人・然・二・熱・禳・染・稔・遶
即ち、我が古臨濟曹洞系唐音は、音節の頭音に現れた特色に於ては、現代浙江方言の文言音の方と一致してゐるわけである。
 併しながら、古臨濟曹洞系唐音は、韻形の方から言ふと、寧ろ、現代浙江方言の白話音の方に近い特色を示してゐる場合が多い。例へば、江・蟹・山・效・假・咸諸攝の開口二:等は、文言音では官話と同樣に拗音化してゐるのであるが、古臨濟曹洞系唐音は、原則としては、白話音と同樣に直音を現してゐる。
      カ カ カイ カン アイ ア カン カン カウ カくキヤラ
 アン ア
  咸・遐・覺・學・界・鑑・解・下・監・間・交・家
又、梗攝一等に於て
  カンアンアンワンサンカヤサワハハカ
  更・行・衡・宏・生・革・厄・澤・獲・伯・百・格
のやうにアン(入聲ア)韻が現れ、曾攝の一等
   レン テンテンテンネンズンスンゴウコウテデテリク
  楞・等・燈・登・能・増・僣・恒・亘・徳・特・得・勒・刻
と區別されてゐることも、白話音の方と似てゐる。文言音では、官話と同樣梗攝の開口二等は一般には曾攝の開ロー等(牙喉音では時として梗曾攝の開口三四等)と同音になつてゐるのである。次に、古臨濟曹洞系唐音に於ては、蟹攝の合ロー等は
  ウイ グイ ウイ ヌイ ツイ モイ モイ
  回・外・會・内・退・昧・埋
の如くウイ・オイ韻を現し、止攝の合口音
  イジイヒイジニキイイキイキイシイごスイラルイ
  惟・隨・位・輝・爲・垂・巍・歸・威・韋・鬼・違・規・彙・水・類
及び蟹攝の合口四等
  イ キイ スイ
  慧・桂・歳
と區別されてゐる。これ亦白話音の特色と一致するものである。文言音では、官話の場合と同樣、止攝の合口音及び蟹攝の合口四等は、蟹攝の合ロー等と同音になつてゐる。又、古臨濟曹洞系唐音では、果假攝の開口三四等は
  ヤ ギヤ シヤ シヤ シヤ キヤ
  野・伽・者・捨・謝・迦
の如くヤ韻になつてゐる。現代の浙江諸方言に於ては、文言音は一般に官話と同樣なie韻を現し、之に對して、白話音は一般にia韻を現してゐる。それ故、古臨濟曹洞系唐音は、この點に於ても白話音の方に近いわけである。
 かやうに觀察し來れば、我が古臨濟曹洞系唐音と、現代浙江諸方言の文言音・白話音との關係は、なかなかむつかしい問題である。禪宗が我が國に傳へられた頃の浙江地方は、宋室の南渡に俘ひ新しい支配階級の一群が北方から移つて來て以來未だ久しからざる時代のことである故、方言的階級的に見てかなり複雜な言語状態に在つたことは、想像するに難くない所である。それらの事情をも考慮に入れて、なほ愼重に研究しなければならない。但し、全體として、古臨濟曹洞系唐音の支那原音が現代浙江諸方言(呉方言の一部)と全然別系統のものに非ることは、認めてよいと思ふ。
 我が古臨濟曹洞系唐音は、傳來以後數百年の久しきに亘つて傳誦され來つたものであるから、その間には轉訛も少からず生じてゐることと思はれる。例へば後・后・厚の類がヨウと呼ばれることの如きは、普通の漢音・呉音と鯨りに相違してゐるので、誰しも不思議な音と思ふであらうが、これらの文字の現代浙江音が、寧波〔ficey〕温州〔fiAU〕金華〔fieu〕永康〔Reu〕であり、
これらの明代の官音が西儒耳目資にheuと寫されてゐることを知る者にとつては、何ら驚くに足ることではない。古來呉方言に於て匣母の頭音〔fi,〕が
              ウロン   ヲシヤウ  ア コ
極めて微弱に發音されること(胡亂・和尚・下火等の如く)は、人のよく知る所である。それ故、鎌倉時代に我が國に傳へられた當時の形は恐らくエーウ(支那原音は恐らく〔fieu〕又は〔fiou))であつたのが、ちやうど「受ケウ」が「受キョウ」に變じたのと同樣に、いつしか訛つてヨウとなつたものであらう。これは・決して後・后・厚の場合だけに限つたことではない。侯韻がヨウの韻形で現れることは、古臨濟曹洞系唐音に於ては一般に通ずる原則である。例へば、垢・口・斗・頭(註二二)は各キ、ウ・キ.ウ・チ,ウ・チ。ウの形になつてゐる。これらも傳來當初にはケ-ウ・テ-ウの形であつたに相違無い、(因みに、黄檗唐音はへ-ウ・ケ-ウ・テ-ウである。)
 併しながら、古臨濟曹洞系唐音の特色の中には、よくその傳來時代に於ける國語の音韻状態を反映してゐるものが少くない。例へば、禪宗語彙の中に
  シカ シツベイ
は、知客・竹箆のやうに、支那原音の舌上音をサ行の形で傳へてゐるものが
   ワンシ
ある。宏智正覺禪師のシも同樣である。これらは普通の漢音・呉音ではタ行の形(チ・チク等)になつてゐる場合であるから、事倩に通じない人は單なる偶發的な轉訛のやうに輕く考へるかも知れない。ところが、禪宗寺院で行はれてゐる諷經の唐音を見ると、舌上音に於ては
  知頓.看・敕・竃・韆・鏐・轉・漂・秦・奮・経・遂・騒難钁鏨
  (小叢林略清規)
のやうに、寧ろサ行の形の方が原則的である。稀にタ行の形になつてゐる例は偶漢呉音の影響を受けた場合に過ぎないのではないかと思はれる。(右の四つの例外の中、逐日は、小叢林略清規ではチジとなつてゐるが、既述の圓覺寺の諸回向集(註二三)ではシユンジとなつてゐる。又、頓超は、小叢林略清規ではツンチヤウと振假名してあるが、諸回向清規式や圓覺寺の諸回向集ではツンヂヤウと連濁(註二四)してゐるので、小叢林略清規の場合にも、或は濁點が略してあるのかも知れない。)濁音の場合には、江戸時代にはジ・ズとヂ・ヅとの音韻上の區別が既に失はれてゐたので、その時代に記録された諷經の唐音は、資料としては大して役立たない。
                  ヅ
  ジ  ジ(ヂ)ゼン  ジ(チ)ジヨウシン(ヂン)ジヤウ ヂ
                    ヂヤウ
  住・持・傳・値・仗・塵・丈・除・厨・長狸(同)
併し、傳がゼンとなつてゐる點には注意すべきである。又、室町時代の辭書
    コジ   ジツスイ
類では、火箸や直歳は、すべてシの濁(チの濁でなく)を以て表されてゐる。
 故に、濁音の場合にも、恐らく、本來は清音の場合と同樣な状態だつたのではないかと想像される。
 か丶る現象の起つた理由については、かつて音聲學協會會報第四十七號所載拙稿「唐音に反映したチ・ツの音價」の中に説明しておいた。即ち、知・徹・澄諸母は、古くは〔ttcd〕類の單純な破裂音であり、その端・透・定母と異なる所は、ただその調音位置が稍後方に存する點に在つた。併し、宋代の間に、知・徹・澄母はアフリカータ化して〔t∫t∫cd3〕となり、その結果、正齒音系の照・穿・牀母と同音になつた。從つて、宋末元初頃の支那語では、知・徹・澄母はアフリカータ〔t∫律d3〕の状態に在つたわけである。然るに、日本語のチ・ヂ・ツ・ヅの音は、當時は未だ後世のやうな〔t∫id3itsu dzu〕にはなつて居らず、〔tiditudu〕に近い状態に在つた。それ故、鎌倉時代の日本人の耳には、〔t∫i〕(知)〔t∫ug〕(中)〔d3y〕(箸)のやうな支那音は、チ〔ti〕チaン〔tjun〕ヂ〔di〕よりは、寧ろシ〔∫i〕シュン〔∫un〕ジ〔3i〕の方に近く聞えたものと考へられるのである。
        シユウシン フシン イス モウス
 齒音系統に屬する靦聖・普請・椅子・帽子の祀〔t∫u?)請〔tscip〕子〔ts}〕の類が、チュウ・チン・ツとならずしてシュウ・シン・スとなつてゐるのも、やはり同じ理由によるものである。禪宗寺院の諷經の音でも、齒音系統の音は、その支那原音が單純摩擦音たるとアフリカータたるとを問はず、すぺてサ(ザ)行の形で傳へられてゐる。
          ツチ ツウブン ツウス チンケウ
 之に封して、例へば土地堂・都聞・都寺・聽叫などの如く、支那語のti tu類の音には、常にチ・ツが充てられてゐる。その結果、諷經の唐音にも、左のやうな面白い野立が現れてゐる。
      帝(チ) ti   知(シ) tli
      頂(チン)tio   證(シン)t∫ig
      都(ツ) tu     租(ス)  tSU
      東(ツン)tug  總(スン)tSUO
      頓(ツン'ltugn  尊(スン)tsuen
 古臨濟曹洞系唐音の輸入された時代、即ち大體鎌倉時代の頃、國語のチ・ツの音價が、未だ〔t∫i〕〔tsu〕には遠く、寧ろ〔ti〕〔tu〕に近いものであつたといふことを、よく立證してゐる。
   シカ シツペイ ジツフイ コジ シユウシン フシン イス モウス ツチ ツウプン
 右の知客・竹箆・直歳・火箸・祀聖・普諸・椅子・帽子・土地堂・都聞・
ツウス チンケウ
都寺・聽叫等の語の唐音讀みは、何れも室町時代の辭書類に既に見えるものである。さて、次には鎌倉時代の文獻から材料を拾つて見よう。
 我が國に最初に禪宗を傳へた榮西禪師の歸朝は、建久二年のことであつた。而して、知客の唐音讀みは、仙覺の萬葉集註釋卷一(註二五)(文永六年)に既にその證を見出し得るものである。又、大體蒙古襲來頃の作と推定される塵袋(註二六)には、畜生の宋音をシクサンと記してゐるので、第十三世紀末にはチは未だ〔ti〕に近い音であつたことが證明される。又、その第十二卷に建治元年北條實時の奧書ある保坂潤治氏所藏名語記(註二七)には、當時支那で紙錢を會子と言ひ之をウイスと讀んでゐたといふ、歸朝者の談を載せてゐる。鎌倉時代の頃日本語のツが未だ〔tu〕に近い音であつたことを證するに足る。
 次に、興味ある問題は、古臨濟曹洞系唐音に日本語のハ行音が如何に反映してゐる力丶といふことである。
 試みに、妙心寺派の小叢林略清規に就いて、諷經の唐音に曉母(支那原音〔hDの頭音が如何に反映してゐるかを觀察して見ると、
 キ キ ク カイ コン ケン コ コ クワ クワ クワ カウ ギヤウキヤウくキヤン キン
  希・虚・虎・海・昏・獻・訶・火・化・花・華・航・向・香・興
のやうに、大部分は力行の形で傳へられてゐる。然るに、一方には少數ながら
  ヒヨウ ヒヤウ ヒ ヒ
                ヒヨウ
         ヒン   ヒン
             ヒン
  凶・輝・虚・熏・勳(助聾)・既
のやうに、ハ行の形で傳へられてゐる例の存することには注意すべきである。
(盧は、場所によつて、キともヒとも讀まれてゐる。)然らば、支那原音の〔h〕は、如何なる條件の下に於て、ハ行の形を古臨濟曹洞系唐音の上に現すのであらうか。
 そこで、Gilesの字書により、右の各文字の現代北京音及び寧波音・温州音を調べて見ると、
   勳
凶輝虚熏既
北京
hsiung
hui
hsu
hsiin
huang
寧波
hsuung
i1Wel
hu
hsiiing
hwong
温州
hs廿oa
hu
hu
hsiung
hsiioa
59
右の中、北京音のhsiungに於て、uに於ける脣の圓みがiの方にまで影響し、hsiiungに近く發音されることは、自然のなり行きである。故に、Karlgren氏は之をhungと轉寫してゐる。又、同樣の事情は温州晋のhsiungの場合にも存在するものと見え、趙元任氏は之を〔一YUη〕と轉寫してゐる。
 さて、かやうに見て來ると、古臨濟曹洞系唐音にハ行の形を現してゐる字は、温州音に於て、すべてその頭音の直後に〔y〕類の母音を持つてゐるわけである。そこでti假に宋末元初頃の浙江音にも既に同樣な事情が存在したものとせば、問題は容易に解決されるわけである。
 ところで、北京・寧波・温州の三方言が共に〔y〕類の母音を含んでゐる凶・虚・熏・勳の場合には、その〔y〕が相當に古い時代から既に存在したものであらうといふことはe想像するに難くない。併し、〔y〕がただ温州音にのみ有つて北京音や寧波音に無い輝・鯢の場合には、温州音の〔y〕は比較的近い時代に發生したものかも知れない、といふ疑も起らう。けれども、鯢は本來合轉の三等字(從つて拗音にして同時に合口音)である。且、假に宋末元初頃浙江地方で行はれてゐた諷經の音に於て鯢がhuang, hwongのやうな形であつたものとせば、それが日本人によつてヒヨウのやうな拗音で模倣される筈は無い。古臨濟曹洞系唐音の支那原晋は、恐らく〔hyag〕又は〔hyっ9〕に近いものであつたと想像されるのである。
 次に問題となるのは、輝の場合である。然るに、古臨濟曹洞系唐書に反映した支那原音が、止攝の合口の場合a即ち現代北京音の〔ui, uei〕韻に對應する場合に、まさしく〔y〕韻を持つてゐたといふ事實は、面白い方法によつて證明される。
 第 ti古臨濟曹洞系唐音に於ては、魚韻三四等の字は、原則としてイ韻になつてゐる。
  シシイイミンキキシキヂジキジキキヒくキラニ
  諸・書・預・於如・去・炬・處・踞・除・序・居・舒・擧・遽・虚・御
これらが近代官話の初期に於てすべて〔y〕韻であつたことは、中原音韻・洪武正韻の反切や西儒耳目資の羅馬字綴の示す所である。 その〔y〕は、cerebra1の頭音の後では〔u〕に變化したが、牙音・喉音・齒頭音・孚舌音に於ては、現代北京音もなほ〔y〕韻を保存してゐる。さて、趙元任氏の「現代呉語的研究」に據ると、温州・寧波・紹興・上海・蘇州その他現代呉方言の大部分も、(少くとも牙喉音の場合)ここに〔y〕類の韻を現してゐる。それ故、古臨濟曹洞系唐音のイ韻も、やはり支那原音の〔y〕韻を反映するものであつたといふことは、可能なことである。
 第二、古臨濟曹洞系唐音に於ては、止攝の合口音(脣音を除く)も亦原則としてイ韻である。
  イ ジ イ ヒ イ ジ ニ キ イ イ キ イ キ イ シイくスつルイ
  惟・隨・位・輝・爲・垂・巍・歸・威・韋・鬼・違・規・彙・水・類
これらは、近代官話では〔ui, uei〕韻であるが、(註二八)温州・寧波・紹興・上海・蘇州その他現代奨方言の大部分(白話音)は、(少くとも牙喉音の場合)ここに〔y〕類の韻形を現してゐる。前條の魚韻の場合のことをも思ひ合せるならば、古臨濟曹洞系唐音のイ韻も、此の場合支那原音の韻〔y〕を、反映するものであつたといふことは、可能なことと思はれる。
                            イ ヒ キ
 第三、かく言つても、一・部の入々はなほ、古臨濟曹洞系唐音の惟・輝・歸等は支那原音〔ui〕〔hui〕〔kui〕等の不完全な模倣に過ぎないのではないか、と疑ふかも知れない。併し、その然らざることは、古臨濟曹洞系唐音が、蟹攝一等の合口音を
  ウイ グイ ウイ ヌイ ツイ モイ モイ
  回・外・會・内・退(・昧・埋)
の如くウイ(オイ)韻で傅へ、止攝の合口音のイ韻と明瞭に區別してゐることによつても知られるのである。現代呉語系諸方言の白話音でも、蟹攝一等の合口音はすべて〔Uei, Uei, Ue, Ui, Vai, ai,〕類の韻形であり、〔y〕類の韻形を有する止攝の合口書とは區別されてゐる。この兩資料の一致は、決して偶然のこととは考へられない。從つて、宋末元初頃浙江地方で行はれてゐた諷經の音に於ても、止攝の合口音は.蟹攝一等の合口音(〔uoi, ui〕類の韻形)とは區別された〔y〕韻であつたものと考ふべきである。
 第四、古臨濟曹洞系唐音に於ては、疑母(頭音は本來〔g〕)の音は、或はガ行の形で現れ、或は頭音消失してア行の形になつてゐる。
    ガイ ゴ ゴ ガン ゲン ゲ ウ
    礙・我・餓・眼・願・月・五
 然るに、その一部がナ行の形で傳:へられてゐることには、注意すべきである。
    ネン ニヤン ネン ニ ニ ニ ニ ニ ニ ネ ネ ニウ ニ
    言・仰・嚴・儀・詣・隅・遇・虞・巍・華・業・牛・御
 これは、言ふまでもなく、その支那原音に於て、本來の頭音〔D〕が、〔i〕〔ie〕{ien〕〔iag〕〔iu〕〔y〕の如き韻へ接續して行く場合、口蓋化されて〔∫し〕に變じてゐたことを示すものである。〔i〕〔y〕要素の直前に於ける疑母頭音の口蓋化は、(註三〇)近代呉方言の顯著な特色の一である。陶宗儀(浙江省黄巖の人)も、書史會要(洪武九年自序)に於て、宜の字を日本語の「に」の音に充ててゐる。
 然るに、古臨濟曹洞系唐音では、巍までが二の音になつてゐる。その支那原音に於て、もし止攝の合口音が、〔ui, uei〕類の韻形であつたものとせば、巍の音は當然〔gui,卯gi〕の類なるべく、これでは頭音〔D〕が直ちに口蓋化される筈が無い。止攝の合口音が既に〔y〕韻になつてゐたればこそ、巍〔gy〕の頭音は、魚韻の御〔gy〕等の場合と同樣に口蓋化されて、ぴy〕師ち二の音になり得たのである。
                   ヒ
 然らば、古臨濟曹洞系唐音に於ける輝の支那原音も、〔h ui, hugijの類ではなくて、當然〔hy〕であつたものと考へられる。
 ところで、〔y〕の直前の〔h〕は、略〔y〕と同じ口形を以て發音され、結局は無聲の〔y〕音である。然るに、無聲の〔y〕音に於ては、前舌部の隆起によって口腔の中央線に集中された息が、圓く突き出された脣の縁へ吹きつけられることとなるので、動もすれば口笛に似た響を兩脣の聞に生じ易い。
 この響は、兩脣の間に生ずる摩擦に基くものたる點に於て、また幾分〔F〕に似た性質を持つてゐる。そこで、明代の支那人は、ヒル(晝)に虚露・虚路を充て、ヒガシ(東)に熏加・薫加を充て、ヒゲ(鬚)に薫計を充てるなど、日本語のヒ(當時〔Fi〕の音價を有した)の音を表すのに、〔hy〕〔hy一〕の原音を有する漢字を以てすることがあつた。陶宗儀が書史會要に於て「へ」に靴の字を充てたのも、やはり同じ理由によるものと考へられる。(「へ」に充てられた靴の支那原音は、恐らく〔hye〕に近いものであつたらう。)然らば、鎌倉時代の日本人が、〔hy〕〔hy一〕の如き支那音を聽いて、それを母國語のヒ〔Fi〕と同一覗したといふことも、やはり同じ事情によるものとして説明されるわけである。
 もつとも、支那原暑の〔hy〕〔hy一)が古臨濟曹洞系唐音に「ヒ」「ヒ  」の形で反映することは,常に絶對規則的に行くものとは限らない。(註三一〕凶・熏・勳(助)・既などは大多數の資料を通じて皆ヒヨウ・ビン・ピン・ヒヨウの形になつてゐるし、輝も大體はヒであるが瑩山清規等にはキとなつてゐる。虚は、小叢林略清規では偶ヒの音が出てゐるけれども、これは實は妙心寺關係の資料の中でさへも稀な例であつて、普通はキの音である。虚堂智愚禪師の名も、キダウと言ふのが讀み癖になつてゐる。之を全體として見れば、(註三二)古臨濟曹洞系唐音に於ては、曉母は力行の形で現れるの原則とし、それが稀にハ行の形で現れるのは、支那原音が頭音の直後に〔y〕類の要素を含んでゐた場合に殆ど限られてゐる、といふことが言ひ得るのみである。
 之を江戸時代に輸入された唐音の場合と比較する,に、江戸時代には支那語の曉母は殆どすべてハ行の形で借入されてゐる。之に對して、鎌倉時代に借入された唐音に於ては、曉母は原則としては力行の形になつてゐる。
 (註三三)
  ピくピイラハイ ヒン フシ ヘン ホ ホ フワ フワ フワ ヒヤン ヒヤン ヒン
  虚・海・勳・昏・獻・訶・火・化・花・華・向・香・興(黄檗清規)
  キくヒ カイ ヒン コン ケン コ コ クワ クワ クワ キヤン モヤン キン
  盧・海・勳・昏・獻・訶・火・化・花・華・向・香・興(小叢林略清規)
鎌倉時代に於て、國語のハ行の頭音が、未だ〔h〕には遠く、明瞭な脣音であつたことを知るべきである。
 因みに、黄檗唐音に於ては、支那語の重脣音は
  パツ パイ パのウ ピ   ピン ピヤのウ ブ  プン  ポ  ポン
  八・拜・保・祕・品・表・普6邊・波・本・.._.
 のやうに半濁音バ行を以て代表され、支那語の輕脣音は
  フワツ フワン フワン フ フツ フン フワン
  法・返・範・敷・稲・風・方・_...
のやうに清音フ。行を以て代表され、兩者は截然と區別されてゐる。之に劉して、古臨濟曹洞系唐音では
  ハ ハイ ホウ ヒ ヒン ヒヤウ フ ヘン ホ ホン
  入・拜・保・祕・品・表・普・邊・波・本・'._..(重脣音)
  ハ  ハン ハン フ フ フン ハウ
  法・返・範・敷・編・風・方・__(輕脣音)
のやうに、支那原音に於ける脣音の輕重を區別せず、兩者を共に清音ハ行の形で傳へてゐる。而して、その發音は國語の普通のハ行音と變り無く、ただ
  ツンパウヂ クテンヤウ ナンパウズンヂヤウテンヤウ シイハウクワウモテンヤウ  ホハウ トブンテンヤウ  テンカイレイイ
  東方持國天王 南方増長天王 西方廣目天王 北方多聞天王 天界列位
   ウ ハ シテンサンカイバンリンジ ハウシシン   ジゲリヤウキウテンス   ナンポ  ジテウシンキン  ナンパウコ テ
   護法諸天三界萬靈十方至聖 日月兩宮天子 南北二斗星君 南方火徳
   シンキンコブシンシウ
   星君火部聖衆 (花園校本觀音懺法陳白)
に於ける北(重脣音)・方(輕脣音)の發音の示す如く、撥音(註三四)の直後では半濁音に發音されることが多い。
 鎌倉時代に於ける國語のハ行の頭音(主として語頭に存した)は、確かになほ明瞭な脣音であつた。併しながら、それがなほ上代の〔P〕の音價を保存してゐたとは考へられない。何故なら、慈覺大師(註三五)が梵音Paを日本語のハと同一覗せず、特に加二脣音_(在唐記)と註してゐることにより、語頭のハの頭音が平安朝初期に於て既に〔F〕の状態に逹してゐたことを知り得るのみならず、檜安覺のフデ(筆)の發音を羅大經が分直(鶴林玉露)と寫してゐることにより、語頭のフの頭音も亦鎌倉初期には既に〔F〕になつてゐたことを知り得るからである。更に、古臨濟曹洞系唐音が凶・輝・虚・熏・勳・鯢等の曉母の字の音を「ヒ」「ヒ  」の形で傳へてゐる事實を思ふならば、當時ヒが未だ〔Pi〕の状態に在つたものとは到底考へられない。即ち、既に〔Fi〕の状態に
逹してゐたものと考へるより外は無い。而して、閉母音たる〔i〕〔u〕の前に於てすら〔P〕が既に〔F〕に變化してゐたものとすれば、一層開いた母音〔e〕〔o〕の前に於てはなほ更のことである。(もつとも、撥音や促音の直後など、特定の位置に於て當時〔P〕が發音されたといふことは、有り得べきことであって、それまでを否定するのではない。)
 最後に一言しておきたいのは、字音尾の鼻音のことである。古代支那語は、韻尾の鼻音として〔m〕〔n〕〔9〕の三種を區別してゐた。古臨濟曹洞系唐音は、その〔m〕〔n〕に相當する所には、區別無く常にンを現してゐる。併し、古代支那語の〔0〕韻尾に相當する所には、或はンを現し、或はウを現してゐる。今、試みに實例を小叢林略清規に求めて見ると
   ヅン スン ヅン ウン クン ムン スン ツン クン ウン クン ツン ツン クン
(通攝一等)動・總・同・鴻・功・蒙・聰・通・室・洪・貢・東・董・工・
  ヅン スン ム
  幢・迭・夢
        フン  スン  シユン ルン  フン  ジユン ブン  スン  ルン  ユンブンくホウ ユンくキの
(通攝二三四等)諷・崇・中・龍・風・重・豐・松・隆・容・奉・供 ・
 シユン(シウ・シユ)ズ シウ(シユ)キウ  キウ ユウ(イワ)ヒヨウ(ヒヤウ)ギヤウ イウ  ユウ  ヂウ  キウ  シウ
  衆 ・誦・種・恭・宮・融・凶・鞏・用・熊・充・共・終
    サウ ヲウ
(江攝)雙・降
              バウくマウロモウラハウくホウラサウくソウラシヤウ
         リヤウくリヨウラワウ
               カウ チヤウ
        キヤウ
                   ヂヤウ
    ジヤウ カウ
(宕攝)祚・剛・向・量:・皇・康・長鏨・長婁・望・方・莊・相・
  シヤウ ヤウてイヨウ)ヤゥ(ヨウ)シ却ウ ジヤゥ  レウ  ヒョウ  タウ  シヤウ  ジヤウ(ジヨウ)クワウ サウ  ラウ  ヤウ
  章・王・養・掌・丈・兩・鯢・當・昌・常 ・光・滄・朗・陽・
  ダウ シヤウ(シヨウ) ジヤウ  バウ  ヨウ シヤウ  ヤウ(ヨウ)クワウジヤウ ザウ  タウ シヤウ ヤウ ジヤウ
  堂・賞 ・象・坊・旺・將・往・廣・禳・藏・宕・想・揚・仗・
  ヂヤウくデのシヤウくシヨの リヤウ カウ  タウ キヤウくキヤの  ニヤン
  場・障 ・良・航.・蕩・香 ・仰
    キン  チン  ミン  シン  イン  ニン  ジン  カン  ジン  アン  キン  ジン  リン  リン  シン
(梗攝)經・頂・明・聖・永・寧・成・更・静・行・慶・情・靈・令・正・
  ビン  ビン  シン  キン  シン  サン  チン ジンくヂンラアン  ミン  シン  ワン  ジン  シン  キン  ジン
  平・病・星・興・井・生・定・淨・衡・命・昇・宏・盛・請・輕・城・
  ミン  シン  キン  シン  ホンくキヤウラシンくシイり
  名・性・傾・程・境・清
    シン  ズン  テン  レン  テン  ジン  ヒン  テン  シン  ジン  ジン  ネン  ワン スン シンこシヤの
(曾攝)勝・増・燈・楞・登・乘・憑・等・稱・仍・拯ρ能・弘・僭・證・
  ゴウ コウ
  恒・亘
翻ち、通攝一・等及び梗・曾兩攝は原則としてンを現し、江・宕兩攝は原則としてウを現し、通攝二三四等に於てはンとウと殆ど相牛してゐる。これについて思ひ合せられるのは、現代杭州方言の状態である。ここでは、本來の〔m〕〔n〕系統の韻尾は、山・咸兩攝に於てはその直前の母音を鼻音化して自らは消失して居り、臻・深兩攝に於ては〔n〕の形で保存されてゐる。之に對して、本來の〔p〕系統の韻尾は、〔ag〕〔OO〕〔on〕〔in〕のやうに、直前の母音の性質に應じて、或は〔η〕の形で或は〔n〕の形で、保存されてゐる。その結果として、本來の〔P〕系統の韻尾は、大體に於て、通・江・宕諸攝に於ては〔P〕の形で保存され、梗・曾兩攝に於ては[. nコの形で保存されてゐることとなつてゐる。宋末元初頃、浙江地方に於ける諷經の音に、もし何か之に類似した事情が存在したものとすれば、古臨濟曹洞系唐音に現れたウとンとの使ひ分けも、都合よく説明されるわけである。即ち、古臨濟曹洞系唐音の韻尾ウは、その支那原音の韻尾〔D〕を反映し、古臨濟曹洞系唐音の韻尾ンは、その支那原音の韻尾〔n〕(或は〔r)f ?)を反映してゐるものとして説明されることとなる.もつとも樋攝の場合の事情など、詳しいことは未だ分らないけれども。
 古臨濟曹洞系唐音に於ける韻尾のウとンとの使ひ分けを、右の假定によつて説明せんがためには、鎌倉時代に於ける國語の撥音の本體が、〔0〕よりは寧ろ〔n〕の方に近いものであつたことを前提としなければならない。然るに、ここに一つ、その可能性を多からしめる事實が存在する。即ち、諷經の唐音に於ては、字音尾のンの直後にア・ワ・ヤ三行の音が來る場合には、謠曲等に於けると同樣な連聲を生ずるのであるが、その際、ンの後に來るア・ワ・ヤ三行音は、そのンが本來喉内・舌内・脣内いつれの系統に屬するものであるかを問はず、すべて無差別にナ行音となる。(更に詳しく言へば、ア行音・ワ行音はナ行音に變じ、ヤ行音はニャ行音に變ずる。)左に花園校本「觀音懺法」の中から若干の例を引かう。
    キユンイヤウ   シユサンイン     フネンイ ガイ
(喉内)供養  畜生形  不能爲害
     ニヨウ       ニン        ニ
    シテンインガ     シテンアウセン    クイキンア ジン    リンウイ    リンワン
(舌内)諸天音樂  諸天肴繕  外近惡人  輪廻  輪還
      ニン ノウ ナヌイナン
    ゴキンイキウ    ハ ブ ヂシンアンブ サタウ    サンア ダウ
(脣内) 我今巳具  發菩提心行菩薩道  三惡道
      ニ                 ナン             ナ
この種の連聲は、支那語に存在するわけではなく、無論日本の寺院で傳誦される間に生じて來たものである。その状態は、上に來るンの起原の如何を問はず、下に來るア・ワ・ヤ行の音をナ行・ニャ行の音に變ずる點など、すべて謠曲等の場合と同一であつて、格別珍しいところは存在しない。併し、それにしても、謠曲の連聲などと共に、かつてンの音韻論的本體が舌尖音〔n〕であつた時代の存在することを暗示するものとして、注意すべき事實と言はなければならない。
 以上、古臨濟曹洞系唐音に關する考察は、主として妙心寺派の諸文獻についてなしたものであるが、事情は他派の資料についても大差は無いいやうである。禪宗諸寺院に於ける諷經の唐音を組織的に研究することは極めて大切なことで、その光に照してこそ個々の唐音語の性質も始めて明かになるのである。例へば、火箸コジ(註三六)のジ(箸)などは、事情を知らない人にとつては全く不可解な音で、甚だしい轉訛のやうに思ふであらうが、古臨濟曹洞系唐音に於て、
(一)知・徹・澄母はサ行・ザ行の形となり、(⇒魚韻三四等はイ列音となる。」といふ原則を知る者にとつては、これ全く「音韻法則」的な形であつて、理論的に演繹し得るものである。又、請客《シンカ》侍者の請(現代北京音chcing)はシンと撥ねるのに、湯藥《タウヤ》侍者の湯(現代北京音tCang)は何故タンと撥ねないのか。唐音とし言へば何時でも撥ねるもののやうに心得てゐる人々にとつては、全く解しかねる所であらうが、「古臨濟曹洞系唐音に於て、梗攝は撥ね、宕攝は撥ねない。」といふ原則を知る我々にとつては、日常茶飯事に屬する。和尚《ヲシヤウ》をヲシャンと撥ねないのは、省(現代北京音shang)が宕攝の字だからであり、行脚《アンギヤ》をアンギャと撥ねるのは、行(現代北京音hsing)が梗攝の字だからである。
 但し、これらの法則の適用範圍は、無論、鎌倉時代に輸入された古臨濟曹洞系唐音に限られてゐる。室町以後、殊に江戸時代(註三七)に輸入された新しい唐音には適用されない。
 私は、本稿を端緒として、一層廣く一層詳しい研究を此の方面に進めたい所存である。ついては、何なりとも有益な資料を御存知の方は、もし御教示下さるならば幸の至である。
 私が唐音の研究に志して以來、橋本進吉先生並に中山久四郎先生からは常常懇ろな御教をいただいてゐる。又、駒澤大學圖書館の藏書を借覽することを得たのは、大久保堅瑞先生の御厚意によるものである。此の稿を終ふるに當り、諸先生に厚く御禮申し上げる次第である。(終)


(一)丙刀は、昭和新修大藏經には丙丑と改めてゐるが、丙丑といふ干支は有るべからざるものであるから、いつれ何かの誤に相違無い。楓隱自身が間違へたのかも知れない。もし乙丑ならば永祿八年、丙寅ならば永碌九年である。
(二)楓隱の傳は明かでない。毳瑞石山永源寺宗派圖(大正十四年刊)にも、ただ未詳師承者追考(自應永元年甲戌至元祿十六年癸未)の中に天倫寺楓隱と記してゐるのみである。
(三)明暦版は、龜井孝氏の藏せられるものを拜借することが出來た。深く感謝する次第である。
(四)附録を削除したので、それに相應するやうに目録をも書き改め斥のである。なほ、明暦版では、附録の最後に諸回向清規式卷第五.一と記し、その後に明暦三年梓行の奥書がある。然るに、友松堂版では、その諸回向清規式卷第五終の文字をも一緒に削つてしまつたので、卷第一乃至卷第四の場合に比べると、形式が不備になつてゐる。何れ○點から見ても、明暦版の方が原形であつて、友松堂版はそ
  の一一部を變改したものであること明かである。
(五)謠曲朝長は、世阿彌元清の作として大永四年吉田兼持在到の能本作者註文の中にも翫に見える古い曲である。その中に引かれた觀音懺法の文は、現今の觀世流に據れば
   ぬ ヰムもハゴトハギもる ムみほザけ ヘハもらる
   融くh川蠡§鰹縫煢詈蠶渥鐸
                    イ キウ
  となつてゐる。(喜多流や金剛流では吾今已具となつてゐるが、これは觀世流等の方が正しい。)今、懺法の本文及び唐音を花園校本に據つて引けば、
   、 音・,te ぜIPt・ぐキ心潟λハr〈ヤv 、ハ執ヤ.コ F、 N一 A.N;1 ,λ心    丶 やハ事ヤ与,丶v}心.湧ハハ"ヤヤ黙ハ"〉,丶ヤハ叡ヤム,丶潮,; b
   鋸く剛3瞭奪蝉貶煢碧懸→〈嶺榔墾藁螺  鋸くh偉毒葺§軽艇煢貍懸騒細翼総職駆
   ㌔ 癖λ本A昏卆ヤ亭らあ㌻λハKヤヤ 臥,丶事 .・. 振ヤよ八4」 ,ふ心
   駕く司1廡輩拏龜曇貍懸遐興悩墾曝甑
  秋葉寺藏版本に據れば、唐音が少し違ふ。
   M "賦ヤ 砦心ヤ )・{令,〉㌻冫、nC.,/ \丶N悩丶ヤ」」 卜、ヤムx鋤 りM>    h ←や(本ヤ与杖ヤ}心,瀦、×心ヤヤへ珂鼠へ〉妖ヤ賦転Aム悩釦 A, b
   駕く配〕蝋肇鱆飽煢钁鹽→〈纈榔輩藁蝋  鋸く广偉毒i舉鄭艶煢挈懸黶瑁肛憾総緊甑
   、 吾鼠駆区ホ卆鼠ヤギ{〉,.,恥区,〉ヤ丶一丶H採参 L トヤ5賦潮 ラ》 一D,
   駕く劇籬韓‡き疑鬢撃靨謹羇月境総黷獻
  面白いことには、懺法原文の我今は、謠本でけ、江戸時代に於ても多くは吾今となつてゐる。これは、言ふまでもなく、我今をゴキンと唐音讀みにする所から、誤って吾今の文字を用ゐるに至つたものである。兎に角、唐晋のお經が謠曲の中に引かれてゐるのは珍しい例で、藤戸や項羽に出て來る般若理趣經の漢音と共に、注意せらるべきものである。
(六)近世初期の寫本。表紙に「懺摩法 南嶺和尚眞跡」と記し、終に後人の筆を以て左のやうに記入してある。
   南嶺和尚略傳  曹洞宗
    薩摩輻昌寺禪僭なり、慶舜字は南嶺姓は源氏大寺の族なり、大麟全索に參して分座となり慶長十二年薩摩輻昌寺の虚席するに當り師州守の請に依りて之に住す、元和元年正月十四日寂す、法嗣三了麟達の一人あり
                               日本洞上聯燈i録
(七)
(八)
  跳の本には、勿論、享保十五年序や明和八年跋は附いてゐない。
(九) 享保版・寶暦版及び明和版は、私は未だ見てゐない。今ここに記す所は、明和八年跋及び寛政版卷頭の記載に據つたのである。
(一〇)私の見ることの出來た江戸時代刊本には、題簽の剥落してゐるものが多いので、この「大乘寺讀點付」の文字が何時頃から附せられてゐたものかを知ることが出來ない。明治十一年京都府栗田東平翻刻の本や、明治十九年愛知縣木下獪之助翻刻の本には、此の文字がある。稍古い所では、交政十三年版の陳白に此の文字あるもの、及び'題簽の剥落した寛政八年版の陳白の表紙に肉筆で此の文字を記入したものを見たことがある。
(一一)秋葉寺藏の文字及び明治十七年の白鳥鼎三の跋は最近の刷本では削除されてゐる。
(一二)此の奥書は、陳白の本の終に附いてゐるが、意は懺法の本文の方にまで係るものであること明かである。何故なら、陳白の本には畫は無く、從つて、ここに言ふ所の畫とは、本文の卷頭に在る楊柳觀音像を指すものであること明かだからである。
(一三)もつとも、これらも花園關係の本であつたかどうかは到明しない。
(一四)梵語心經は古くから建長寺に傳へられたものと云ふ。新編鎌倉志(貞享二年刊)卷之三建長寺山門の條に曰く、「又此門下にて、七月十五日に、梶原施餓鬼と云を行ふ。相傳、昔開山在世の時に、武者一騎來て、施餓鬼會の終りたるを見て、後悔の色有て歸る。時に禪師これを見て、呼かへさせて、又施餓鬼會を設て聽しむ。時に彼武者、我は梶原景時が靈なりといひて謝し去る。爾しより以來、此寺には毎年七月、施餓鬼の會終て後、梶原施餓鬼と云を設るなり。心經を梵音にて、二三人にて誦。餘の大衆は無言にて行道するなり。是を此寺にて梵語心經と云なり。」と。
(一五)後に述ぶべき字音尾のウとンとの使ひ分けの點などで、多少人爲的に規則化された所は有るとしても、それは古來禪宗寺院に傳へられた唐音を韻書に合せて多少整理した程度にとどまる。抑、禪宗寺院で用ゐられる所疇や回向の文は、大體の型は古くから定まつてゐるとしても、實際の場合に應じて人名や地名を入れ替へたり、内容に多少の變改を加へたりしなければならない。かの諸回向清規式の如きは、正にその必要から生れたもので、廣く種々なる場合に入用な文例を收載し、室町時代に於ける禪院と俗社會との交渉をよく反映してゐる。然るに、その際には自然その中に新に用ゐる文字の唐音を知らなければならないので、それには唐音字書が必要になる。そこで、取り敢へず、詩作等に使ひ慣れた聚分韻略の所々に、各文字の唐音を記入しておき、咄嗟の場合の用を辨じてゐたのが、甚だ便利である所から、後には之に多少の整理を加へて印刷に附するに至つたものであらうと思ふ。
     シユン シ アン アン サン ワン シン シン シ
(一六) 一方に中・知・行・杏・生・宏・請・稱・七のやうな古い鎌倉時代風の唐音
                ウン ウン ワン ハン チエン チヱン チヱン チヱン ホ ホ ヒヤ
  が存すると同時に、他方にはまた:文・聞・萬・歡・煎・錢・千・前・河・火・下・
  ヒヤ セ セ ハ ヤン チヤン ハン チン ツエン
  霞・舍・蚰・華・楊・張・芳・呈・曾のやうな新しい江戸時代風の唐音も含まれ
      アン ワン チヱン ヘン ヘン コ モ ヲ タ タ
  てゐる。看・貫・扇・卷・堅・家・鷹・華・宅・澤の如きは、多分他の場合に於ける漢呉音と唐音との關係から類推して想像的に作られた形であらうと思ふが、中には何か特殊の支那方音に基いたものも有るのかも知れない。(面山が火の唐音を常にホと記してゐることの如きは、古臨濟曹洞系唐音では他に例の無いことで、或はこの系統の聚分韻略の影響を受けたものかも知れない。)
(一七)享保三年洛東隱士の跋がある。それに據ると、本書は、元祿十一年に同人の跋を附して再訂重梓した本を、この度新に校正し更に舊梓の遺脱を補つたものであるといふ。この元祿十一年版は、前に記した林正五郎梓行の元祿十一年版とは、無論別物に相違無い。

(一八)「辨2唐音1名目一『宇三伊二跳浙跳、拗音入庫惧脚切 .一子之レー五、四‘之レムー、五-之レムニ貞。」(韻鏡易解、盛典著、元祿四年刊)「一は五に、四は二に通ひ、五は三に、二三の時は本坐がへしそ。」(消閑雜記、岡西惟中著)この種の説は、最初は、音韻相通の理に基き、唐音と在來の漢呉音との關係を説明しようとする要求から生れたもので、言はば音韻法則思想の萌芽とも見らるべきものである。古くは韻鏡集解切鈔(寛文八年刊)・韻鏡祕事抄(寛文十年小龜益英述)・韻鏡問答鈔(重慶著、貞享四年自序)等にその説が見える。但し、その法則の適用範園については深い考察がなされなかつたので、之を不當に一般化する傾向があり、殊に、唐音の何たるかをも辨へない人々がその法則を濫用し、漢呉音から機械的に唐音を作り出して得得たるに至つた。右の洛東隱士が跋を書いた廣益三重韻や、文化開刊の華音韻鏡の如きは、その甚だしい例である。活きた當代の支那音に多少なりとも接した人が、かゝる和製唐音に疑を挿んだのは當然のことで、貔韻鏡袖中鈔(元祿入年刊)及び韻鏡袖中祕傳鈔(正徳五年刊)の著者毛利貞齋の如きは、その早い例であらう。文雄が「穏ム景ふ檸1繭ト緬N樽1鞭溢螻忌ム蓬il1耙邏1榊斗」(三音正譌)と言つてゐるのは適評である。
(一九) 私は假り之を古臨濟曹洞系唐音と呼ぶ。
(二〇)以下、呉方言に於ける文言音及び白話音の特色は、いつれも趙元任氏著「現代呉語的研究」に據る。
(二ー)官話の微母の頭音は、現代北京音では非音節的〔U〕になつてゐるけれど、稍古い時代には〔v〕であつた。現に、明末の西儒耳目資にはvと綴られてゐる。
(二二)假名ではケウ・テウ(テフ・チヤウ)などと記された場合もあるが、要するに皆キ.ウ・チ.ウ・の音を表すものである。但し、歴史的帳名遣としてはケウ・テウ
             ダウテウ      テウシユ  セツテウ
  を探るべきものであらう。堂頭和尚・頭首・雪竇(支那地名)等の如く。ところで、
                         シユソ           シ  カ
  禪宗寺院では住持を堂頭和尚と言ふ。寺内の事務は、首座・書記・知藏・知客・知浴・
             ツカンス  イノ フウス  テンゾ ジツスイ        
  知殿・侍者等の頭首方と、都監寺・維那・副寺・典座・直歳等の知事方とによつて
                 む くラ        げ             
  管掌される。その堂頭和尚はダウテウヲシヤウ、頭首はテウシユと言ふのが讀み
                  ヨクヂウ  ジンヂウ  ハンヂウ  キウヂウ
  癖である。然るに、雜務の諸役たる浴頭・淨頭・飯頭・供頭等の頭は、何れもヂウと讀む例になつてゐる。さて、支那原晋に於ては、頭には唯一つの音(度侯切)しか無い。然るに我が古臨濟曹洞系唐音に於て右のやうにテウとヂウとの兩音を生じてゐることは、思ふに支那語に於ける發音の輕重を反映してゐるものではなからうか。郎ち、堂頭や頭首の頭が明瞭なカシラと》}ふ意味を表すのに對し、浴頭(風呂番)・淨頭(雪:隱係)・飯頭(炊事役)・供頭(給仕役)等の頭はただその役を務める人を意味するだけである。堂頭・頭首に於ては頭は一語の主要部分であるが、浴頭・淨頭・飯頭・供頭等に於ては頭は寧ろ接尾辭的要素たるに過ぎない。
  タツチウ
  塔頭はもと租師の塔のある所を表す語で、その頭はボトリと言ふ程の輕い意味で
       マンヂウ
  ある。又、饅頭の頭が接尾辭たることは、言ふまでもない。かやうに意味上に輕重の差が有るのに應じて、發音上にも亦自ら輕重の差を生じ、重く讀まれる時にはテウに近く響き、輕く讀まれる時にはヂウ(チウ)に近く響いたものではなからうか。
(二三)獨耀をヅンエウ、盛禮をシンリンと言ふ風な工合に、口調の加減でンを挿むことは、諷經の唐音では珍しからぬことである。逐日をシユンジと讀むのも、その一例に過ぎない。(逐の現代官音はchu)
(二四)古くからかやうに連濁してゐたものとすれば、その室町以前に於ける原形は、ツンデウであつたかツンゼウであつたか到明しないこととなる。
    レ ほ あ か                    ヘ  へ   くゐ                へ   ホタへ      ふ あタゐ
(二五) く匪景刊静K紳融。…・・…・景妨1賦霊翠。曄皐黒ト制皿昏景怖駆』N監団
  (髓蘇蘇糂騨紳1)
(二六)宋朝ニハサハヲハ出生食卜云フ是ニヨリテ入宋ノ僣トモハ生飯卜書テサハトヨ
                               チクシヤウ
  ム宋朝ニハ生ノ字'サントヨムユへ也人ヲノルニモシクサント云フハ畜生ト書ナシカヨム也(塵袋七)
(二七) 史學雜誌第四十八編第八號所載森克己氏「日宋交通と日宋相互認識の進展」に據る。
(二八)Gilesの字書に記された輝の寧波音hweiは、系統から言へば文言音系に屬する。
    ゲン   ゲ                   ゆ タ リ ド
(二九)願・月のやうな本來の非音節的〔ylの前では、疑母頭音〔P〕の口蓋化は起つてゐない。古臨濟曹洞系唐音の基礎となつた支那方言では、本來の非音節的〔y〕は、現代衢縣(浙江省西菊部)方言に於ける如く、大部分消失してゐたのではなからうか。現代衢縣方言では、元先仙韻の開口牙音が㈹韻であるのに封して、その合口音は〔5〕韻であり、又、月屑薛韻の開口牙音が〔ie〕韻であるのに對して、その合口晋は〔O〕韻である。
(三〇)趙元任氏著「現代昊語的研究」聲母表參照。
(三一)單純な〔hy〕よりも〔hyi〕の方が一暦〔Fi〕に近く聞えることは言ふまでもない。熏・勳(勣)などが大多數の場合ピンの形になつてゐるのは、その支那原音が、現代杭州音・無錫音〔yin〕又は衢縣音・常州音〔yip〕に近い韻形を有したためで
             スヒン  ヒンデイ
   はなからうか。兄も、師兄・兄弟などのやうに、古臨濟曹洞系唐音では常にヒンの音である。現代衢縣音はやはり〔yip〕韻を有する。虚が大多數の場合キの音であるのに對し、輝が多くはヒの音になつてゐるのは何故か。ことによると、兩者は當時は未だ完全に同音にはなりきつて居らず、虚〔hy〕輝〔hyi〕(<〔huiDのやうな區別でも有つたものかも知れない。假に然りとせば、古臨濟曹洞系唐音の支那原音に於ける止攝の合口音を〔yユ韻となした上の推定は、修正を要するわけである。
(三二)經行は、臨濟・曹洞の諸寺院に於て、現今キンヒンとして知られてゐる。併し、古臨濟曹洞系唐音としては、ピンは腑に落ちない音である。行は梗攝二等の
                アンギヤ  アしジヤ  ヅンナン
  匣母の字で、古い唐音語では行脚・行者・童行の如くすべてアンの音になつて居り、諷經の音も亦さうである。而して、このアンこそ、理論上期待せらるべき規則的な音なのである。ヒンは、どう見ても、江戸時代に入つた新しい唐音(例へば黄檗唐音では行の音はヒン又はヘン)としか思はれない。元來、經行は佛經の語で、禪宗以外ではキヤウギヤウと讀まれてゐる。禪堂に於て坐禪の間に行はれる綏歩の意に於ても、夙に道元禪師の寶慶記に、その師天童如淨の言として「起從坐禪、欲經行者、不得遶歩、直須直歩」と見えてゐる。併し、我が國の禪家の諸清規や古代の辭書類等には、經行の唐音讀みを記したものが見當らず.從つて、キンヒンといふ音が一體いつ頃から存在したものかを明かにすることが出來ない。その上、もしこれが六七百年も前に借入された語であるとすれば、その音韻的形態は既に全く日本化してゐる筈であるのに、何故かキンピンと言はずキンヒンと言つ
                       ケンピン  ハツピン
  てゐる點が、甚だ熟しきらない感を與へる。(卷餅・法兄など參照。)それ故、私は、このキンヒンといふ形が,果して古くから傳はつた音であるかどうかを疑ふのである。
(三三)黄檗文獻では、例へばイ(於・子・語)キ(去・居・懼)イン(云・雲・運)等の如く、イ列の假名の右肩に小圈を附することによつて〔y〕母音を表すことがある。「慈悲水懺法」(寛文十年)卷末の國字旁音例の中に「喫状恥樽商…、1ぐ蟹護紬髀→巛馬ヤ皆鮎騒ト數陰佃匙冊健謄恥N挈」と言つてゐる通りである。然るにまた一方では、「忌,スb灘拙宗迅陰誕湟麟調コ」と言つてゐる如く、同じ右肩の小圈が半濁點としても用ゐられてゐるので、ピのやうな字形は、pi, pri又はhti
の何れとも解せられることとなる。黄檗清規が盧にピ又はピイと振假名してゐるのは、無論、piやP)iではなくて、 hif類の音を意味するものである。
                                ヂ  クテンヤウ
(三四)古臨濟曹洞系唐音の範園では、諷經の唐音には促音が無い。右の持國天王・
 クワウモ テンヤウ  ホハウ  レイィ   ウ ハ シテン  ジハウ  ジ ザリヤウキウ ナンポ ジテウ  コ テシンキン
  廣目天王・北方・列位・護法諸天・十方・日月兩宮・南北二斗・火徳星君などが示してゐるやうに、入聲韻尾は原則と・して脱落してゐるからである。併し、現代呉方言の状態から察するに、古臨濟曹洞系唐音の支那原音に於ける入聲の消失は、未だ完全なものではなく、本來の入聲字は、少くとも平上去聲字に比すれば、短
                         タツチウ  ホツス   ジツスイ
  促に發音されたものと思はれる。故に、唐音語彙に於ては、塔頭・拂子・直歳等のやうに、その短促な發音は屡促音の形で表されてゐる。而して、その場合、促
                               シツペイ  ハツピン
  音の直下に來るハ行音は、牛濁に發音されるのが例である。例へば竹箆・法兄など。(兄の唐音については註三一參照。)
(三五)橋本進吉先生「波行子音の變遷につ吟て」(岡倉先生記念論文集)の御説に據る。
                                コジ
(三六)火箸の箸の假名遣について、大言海は、下學集(下、器財門)の「火箸」を引
                           チヨ
  きながらもそれに從はず、却つて「正韻『箸、治據切、音宇』ナレバ、こちナリ」と主張してゐるが、この論據は不適當である。何故なら、正韻は近代支那音に基いたもので、その切字には澄母と牀母との區別が無いからである。火箸の假名遣は、宜しく下學集・温故知新書・運歩色葉集等室町時代の辭書類の記載の一致する所に從つてコジとなすべきである。
(三七)黄檗宗や心越派(曹洞宗)の諷經の唐音、その他江戸時代に輸入された唐音の資料については、拙稿「江戸時代中頃に於けるハの頭音について」(國語と國文學 昭和十三年十月號所載)の中で説明しておいた。