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窪田空穂訳「古今和歌集仮名序」

古今和歌集序(仮名序)
一 歌はどういうものか
 日本の歌は、人の心をもととして、かぎりもない様々の言葉となってあらわれたものである。社会に生存している人は、いろいろの事に|出会《であ》い、いろいろの行いをするものであるから、心に思うことが多いが、その感ずる事を見るもの聞くものに託して言いあらわしたのが歌である。梅の花に鳴いている鶯、清らかな川の水に住む河|鹿《じか》のたのしげな声を聞くと、一切の生命をもっているものの、どれといって、歌を|詠《よ》まないものがあろうか。生物はみな歌を詠んでいるのである。
 力を入れることもなく天地の神々を感動させ、眼には見えない亡くなった人の霊魂も感激させ、男女の関係も親しくさせ、めったに感激などしない勇猛な武士の心までなぐさめるものは歌である。

二 歌のおこりと、短歌のなりたち

 このような歌は、天地のはじめて創られた時から生まれたのである。けれども、この世に伝わっている上では、|高天ケ原《たかまがはら》では|下照姫《したてるひめ》の歌にはじまり、地上では|素蓋鳴命《すさのおのみこと》の歌からおこったのである。神代には歌の文字の数もまだ定まっておらず、心のままに、すなおに歌ったので、歌われていることの意味も理解しにくいものであったようである。人間の世の中になってから、三十一文字の定型短歌を詠むようになった。

三 短歌の発達と、近ごろの有様

 このように短歌の形式が定まったので、花の美しさを愛で、鳥の楽しげなのをうらやみ、春の霞や秋の露の趣に深く感動して歌った歌は、多種多様のものができて来た。
 遠方へゆく旅も、出発する第一歩からはじまって、年月を経て目的地に達し、高い山も麓の|塵《ちり》からできて、空の雲のたなびくところまで成長しているように、この歌もまたそれとおなじであろう。
 あの「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」という歌は、天皇の御代のはじめを祝った歌である。「|安積山《あさかやま》影さえ見ゆる山の井の浅きこころをわが思はなくに」という歌は、|陸奥《みちのく》の|采女《うねめ》が戯れのこころから詠んだもので、この二首の歌は、歌の|父母《ちちはは》のように今もなつかしまれ親しまれて、習字をする幼い人が最初に習うものにもしている。
 そもそも、歌の|体《さま》は六つある。|唐《から》の|詩《うた》もこのようであろう。
 その六種類の第一には、「そへ歌」がある。
  |大鷦鷯《おおささき》の帝(仁徳天皇)をなぞらえ奉った歌、
  難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花
  (難波津に咲く木の花よ、フユゴモリ今を咲くべき春として咲く木の花よ。)
 というのが、それであろう。
 第二には、「かぞへ歌」がある。
  咲く花に思ひつくみのあぢきなさ身にいたつきのいるも知らずて
  (うつくしく咲く花に心が寄ってゆく身の〈またはつぐみの〉、つまらなさよ。からだに病いの〈いたつきの矢の〉入りこむのも知らずに。  「思ひつくみ」に小鳥のツグミを詠みこみ、「いたつき」に病気のいたつきと小鳥を射るに用いたいたつきの矢とを掛けてある。)
 というのが、それであろう。
 第三には、「なずらへ歌」がある。
  君にけさ|朝《あした》の霜のおきて去《い》なば恋しきごとに消えや渡らむ
  (君が今朝、朝の霜の置くように、わたしを後に残しておいていってしまったならば、恋しいと思うたびごとに、霜の消えるように、心も消えるような悲しみをしつづけることであろうか。)
 というのが、それであろう。
 第四には、「たとへ歌」がある。
  わが恋はよむともつきじありそ海の浜の|真砂《まさご》はよみ|尽《つく》すとも
  (わが恋の思いのかぎりもないことは、数えても数えつくせないだろう。たとえ、海の浜べの砂の数はかぞえつくそうとも。)
 というのが、それであろう。
 第五には、「ただごと歌」がある。
  偽のなき世なりせばいかばかり人の言の葉うれしからまし
  (巻十四・七一二の歌)
 というのが、それであろう。
 第六には、「いはひ歌」がある。
  この殿はむべも富みけりさき草の三つば四つばに殿造りせり
  (この御殿は、聞いていたように、いかにも富んでいることだ。三棟四棟に殿を造っている。)
 というのが、それであろう。
 けれども、今の世の中は、昔の,真実を重んじた時代とはちがって、人のこころが派手に、華やかになってしまったために、歌もまたそれに応じて、色めいた甘い歌、真実に乏しい感傷的な歌ばかりが生まれてくるので、恋愛をする者どうしの間でひそかに心をかよわすものとなり、地下に埋まった木のように、他人には知られないものとなって、|宮中《きゆうちゆう》などの正式な席では、おもてだっては詠まれぬことになってしまったのである。

四 古代の歌と、歌われた内容
 しかし、歌のはじめを思うと,このように堕落した状態ではなかった。昔の|代々《よよ》の天皇は、春の花のうつくしい朝、秋の月の清らかな夜ごとに、|侍臣《じしん》たちを召して、その場合のしかるべきことに関係させて歌を詠ませ、奉らさせた。侍臣たちが、ある時は花をたずねようとして不案内なところに迷い、ある時は月を思うとて案内者もない闇の路にたどって行っためいめいの人の心を、天皇はごらんになって、賢いか愚かかを|試《ため》されたであろう。歌はこのように宮中の正式な場合に詠まれたけれど、それだけではなく、めいめいが自由に詠むさまざまの歌があった。さざれ石にたとえて君の長寿を祝い(三四三の歌参照。以下おなじ。)、筑波山にたとえて君のめぐみを願い(一○九五)、よろこびが自分の身に過ぎ、楽しみが心一つにありあまる気持を詠み(八六五)、富士山の噴煙に胸の炎をたとえて人を恋い(五三四)、松虫の|音《ね》に友をしのび(二〇○)、|高砂《たかさご》や|住吉《すみのえ》の松も自分ともろともに|生《お》い立っているように長生きなのを思ったり(九〇九・九〇五)、男山の昔を思い出して自分の盛りのころをなつかしみ(八八九)、|女郎花《おみなえし》の盛りの短かさをくよくよとなげくのなどにも(一〇一六)、みな歌を詠んで心のなぐさめとしたのである。
 また、春の朝に花の散るのを見、秋の夕暮に木の葉の落ちるのを聞き、ある時は年の加わるごとに鏡にうつる白髪の雪と、皴の波とを悲しみ、草の葉におく露、水にうかぶ泡をみて自分もそのようにもろいものかと驚き、ある時は、昨日は栄えおごっていた者が今日はおちぶれ(八八八・九三三)、世の中にくらすのがわびしくなり、親しかった人も聞が遠くなり、あるいは松山の波をたとえて恋する人に誓いをかけ(一〇九三)、野中の清水を汲んでは昔を恋い(八八七)、秋の萩の下葉が紅葉しはじめる夜ねむれずに人を恋い(二三○)、暁の|鴫《しぎ》の羽がきの音を数えて久しく訪ねて来ない人を恋い(七六一)、人生のつらいことを人に言い(九五八)、吉野川をたとえにして夫婦の愛情をうらむ心を歌って来たのであるが(八二八)、今は、昔立ちのぼっていた富士の噴煙も立たなくなり、昔の|長柄《ながら》の橋もふたたび造る時になったのだと聞く人は(八九〇)、それらのことの詠まれている歌によってのみ、昔をしのんで、心をなぐさめるのである。

五 歌の歴史の批評、万葉時代

 昔からこのように伝わっているなかでも、平城天皇の御代から歌はひろまったのである。この御代には、歌の本質をよく理解していられたようである。この御代に、正三位柿本人麿は歌聖であった。これは、歌の上で君と臣下とが合体したといえるであろう。秋の夕暮龍田川に流れる紅葉を、天皇の御目には錦と見られたが、春の朝吉野山の桜は、人麿の心には雲かとばかり思われた。また、山部赤人という人がいた。歌にかけては、この世のものと思われぬまでたくみであった。この二人をくらべると、人麿は赤人の上に立つであろうことはむずかしく、また赤人は人麿の下に立つであろうことがむずかしい状態であった。
 この人々のほかに、またすぐれた歌人も御代御代に名が聞え、その時その時絶えずあらわれた。平城天皇より以前の歌を、人麿・赤人にあつめさせて、万葉集と名づけられた。

六 歌の歴史の批評、六歌仙時代

 あの平城天皇の御代からこのかた、年で数えると百年あまり、天皇の代で数えると十代になった。このあいだ、昔の歌がどうであったか、歌の本質がどうであるかのわかる歌人は、わずかに一人二人にすぎなかった。そうであるけれど、それぞれ一長一短という有様で、人麿・赤人には及ばなかった。
 今このことをいうのに、高位高官の人については、軽率のようであるから言わない。それらを別として、近い世に歌人としての名のきこえている人は、僧正遍昭は、歌の風体は自分のものとしているけれど、真実な歌の心の足りないところがある。たとえていえば、絵にかいてあるうつくしい女を見て、それに空しく心をうこかすようなものである。
 在原業平は、歌の心のほうが有り余っていて、それをあらわす言葉のほうが不足している。たとえば、しぼんでいる花の、色つやはなくなって、においの残っているようなものである。
 文屋康秀は、あらわす、言葉のほうはたくみであって、歌の風体はそのために不調和となり、ぴったりと自分のものになっていない。たとえていえば、商人がよい着物をきているようなものである。
 宇治山の僧喜撰は、いいあらわす言葉づかいが幽かで深く、一首の歌のはじめおわりがたしかでない。たとえば、秋の月をながめているとき、暁の雲にあって隠れたようなものである。この人の詠んだ歌は世間に多く知られていないから、それやこれやの歌によって、まとめては理解ができない。
 小野小町は、昔の|衣通姫《そとおりひめ》の系統の人である。歌の心はやさしく、身にしみるようで、歌の姿はつよくない。たとえば、うつくしい女が病気になやんでいるところのあるのに似ている。強くないのは、女の歌だからなのであろう。
 大伴黒主は、歌の心はおもしろいが、歌の風体はいやしいところがある。たとえば、薪を背負った山働きの人が、うつくしい花の蔭でやすんでいるようで、不調和だ。
 このほかの人々で、歌人としての名のきこえているのは、野に生えている|蔦《くず》の這いひろがるように、世の中にひろがっており、林にしげっている木の葉のように多くあるけれど、それらの人々は、歌とばかり自分自身は思っていて、ほんとうは歌の本質は理解しないのだろう。

七 古今和歌集のできた事情
 ところが、今天皇が国をおさめられることは、九年になった。ゆきわたらぬところもない御いつくしみの波は、日本の島々のそとまで流れてゆき、ひろい御めぐみの蔭は、筑波山の麓よりも繁くいらっしゃって、万政をおとりになられる暇に、文化の方面をもお忘れにならぬあまりに、昔のことも忘れまい、古くあったことも再興なさろうとして、今もごらんになり、後世にも伝われとお思いになられれて、勅撰集の菓業を思い立たれ、延喜五年四月十八日に、|大内記《だいないき》紀友則・御書の所の預紀貫之・前の甲斐の少目凡河内躬恒・右衛門の|府生壬生《ふそうみぶ》の|忠岑《ただみね》らに仰せられて、万葉集にはいっていない古歌、また自身の歌をもたてまつるようにさせられた。
 これらの歌の中にも、梅を折ってかざしとする春の歌よりはじまり、|郭公《ほととぎす》を聞く夏の歌、紅葉を|愛《め》でて折る秋の歌、雪を見る冬の歌にいたるまでの四季の歌、また命の長い鶴亀にたとえて君の年齢を思い、人をも祝う賀の歌、また秋萩夏草を見て妻を恋う恋の歌、逢坂山に来て|手向《たむけ》の神に祈る|覊旅《きりよ》の歌、離別の歌、あるいは春夏秋冬の部類にもはいらないさまざまの歌を撰ばせられた。全部で千首、二十巻、名づけて古今和歌集という。


八 古今和歌集を祝う言葉
 このように、このたび集め撰ばれて、歌は山の下を流れる水のように絶えぬものとなり、浜の砂のように数多くつもったので、今は|飛鳥川《あすかがわ》の瀬のようにかわりやすく、人に知られないものに変ってしまう恨みも聞えることなく、小石が岩に成長するよづに永遠にさかえてゆくよろこびばかりが存在することとなろう。
 さて、われは、歌の言葉は、春の花のようなうつくしい匂いはすくなく、実際のともなわない名声ばかりが高いのをなげいて来ているので、このたびの歌集の撰者として重任にあたるについては, 一方では世の人に聞かれるのをはばかり怖れ、一方では歌そのものに対して恥かしく思っているけれど、起ち居や起き臥しにつけて、貫之らがこの世におなじく生まれあわせ、勅撰和歌集の撰ばれる時に会ったことをよろこびとしている。
 人麿はすでに世を去ったけれど、その生きていた時、事にあたった勅撰和歌集編纂は、この世にとどまっている。たとえ将来、時は移り事は去って、楽しみがゆき悲しみがきて、世の中の移りかわりがあろうとも、もしこの歌集が、青柳の糸のように長く絶えることなく、松の葉のように散ってなくなることなくて、まさきの|葛《かずら》のように長く後世につたわり、鳥の足跡のように久しくとどまっていったならば、歌の風体を知り、勅撰和歌集の本質を知るであろう人は、大空の月を見るごとくに、この歌集におさめられた古い歌を仰いで見、今の歌を恋いせずにはいられないであろう。

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最終更新:2021年07月02日 10:33