選抜大会 14回出場(海草中時代に10回、向陽高時代に4回)
選手権大会 8回出場(海草中時代に8回(全国優勝2回)
近畿大会 10回出場(春4回、秋6回)
向陽高校硬式野球部の沿革
学校は大正4年(1915年)県立海草中学校として創立、野球部の創部は大正10年(1921年)である。昭和4年の選抜大会で西山徳郎―山脇正治のバッテリーで甲子園初出場を果たした。続いて夏の選手権大会にも出場し、いきなり準優勝した。
昭和6年エース森田俊男、サード荒川秀美で出場。7年はエース荒川、ライト森田で出場。8年は森田、荒川でバッテリーを組んで出場し、控え投手には宮本市太郎がいた。
初戦の対桐生中戦で森田投手がノーヒットノーランを達成、ベスト8まで進んだ。昭和10年には宮本がエースとなって春夏連続出場した。
昭和12年夏から伝説の投手嶋清一を擁して5季連続出場。14年にはセンター古角俊郎、サード真田重蔵らが加わり、夏の大会では5試合連続完封で優勝した。この大会で嶋投手は初戦の嘉義中を3安打で完封すると、京都商業も2安打で完封、米子中も完封し、準決勝の島田商業戦は17奪三振のノーヒットノーランを達成、続く決勝戦の下関商業戦も2四球のみで2試合連続ノーヒットノーランを記録した。
2試合連続ノーヒットノーランは大会史上唯一、決勝戦でのノーヒットノーランも、平成10年夏に横浜の松坂が達成するまで史上唯一の記録であった。昭和15年は3年生の真田がエースとなって出場。初戦の対平壌一中戦は大勝したが、準々決勝の京都一商戦は延長戦の末に辛勝。準決勝で松本商を破ったあと決勝では一言投手(セネタース)がエースの島田商と対戦、加納の3塁打で決勝点をあげ、2年連続して優勝した。以後エース真田で3季連続して出場した。
昭和16年春の近畿大会では、真田が滝川中の小林章良(松竹―大洋)と延長25回の大激闘の末、1対0で勝利を収めている。
戦後は22年にエース畔取厚で春夏連続出場したあと、40年の選抜大会にエース野崎恒男(南海―太平洋―近鉄)で18年ぶりに復活した。
昭和44年はエース藪上敏夫(南海)で出場、48年からはエース梶谷紀英で2年連続選抜に出場した。
その後は、昭和58年夏には県大会準決勝まで進出し、平成16年春の近畿大会県予選ではベスト8に進み、準優勝の星林に3対4で惜敗した。
旧制和歌山県立海草中学校以来、夏の甲子園で優勝2回、準優勝1回の成績を残しており、史上4校目となる夏2連覇を達成している。またベスト4・ベスト8もそれぞれ1度経験している。春の甲子園では優勝経験はないが、ベスト8を3回経験している。新制向陽高校となってからは夏の大会への出場はないが、春の大会には4回出場している。甲子園出場回数等は、和歌山県内でも上位に入る。
また、2005年の第87回全国高等学校野球選手権大会(駒大苫小牧高校が57年ぶりの史上6校目の夏2連覇達成、向陽高等学校は4校目の夏2連覇校)では、戦後60年の記念大会であったので、それを記念して入場行進の先導を野球部主将が努めている。
1974年の第46回選抜大会以降甲子園出場はなく、現在では古豪と呼ばれることが多くなっているが2009年の春季近畿地区高校野球大会では48年ぶりの優勝を果たした。しかし新型インフルエンザの流行によって近畿大会に出場することは出来なかった。
(以下抜粋)
向陽となってからは、やや甲子園から遠ざかっていましたが、1965年(昭和40年)春に復活しました。
以降、春は3度出場していますが、夏の出場はありません。
約40人前後の部員は伝統を背負いながら「切磋琢磨」をスローガンに名門復活を目指しています。
01年夏の和歌山大会は1点差の初戦負けでした。
しかし、その相手初芝橋本がそのまま甲子園へ行ったことは、チームとしての自信になったのではないでしょうか。
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最終更新:2009年09月27日 01:02