夜に降る雨の音が好きだ。
地面にぶつかって、ザアザアとなり続ける主旋律に、時折ポツリポツリと水滴が家屋にあったて鳴る副旋律が自然のオーケストラを奏でる。
布団にはいっている時にこの音を聞くと、僕はどこか心が落ち着いた。止むこともなく、雨の降る夜は、その勢いが変わるたびに変化する旋律を子守唄にして眠りに落ちた。
そう、僕は夜の雨の音が好きだった。
その日、雨は昼過ぎから降り始めた。
当たらない天気予報を信じて雨具を持ってきていなかった子たちは、準備を怠った自分たちを棚に上げ、天気予報に文句を言いながら友達の傘に入れてもらったり、濡れるのを覚悟で走りながら家路についているし。日頃から折り畳み傘を持っていた子たちは、何事の無いように、普通にさして帰ったり、その中に友達を入れたりしている。
僕は前者だった。傘に入れてくれる友達もいなかったから、仕方なく濡れながら帰った。
昼に降る雨は嫌いだった。雨音も日常の音にかき消されてしまうし、鼠色の空も嫌いだった。
びしょ濡れになりながら、玄関のドアを開ける。
マンションの一室の自宅には電気はともっていない。
今日もいないのか
両親は共働きだった、二人とも結構忙しい役職らしくて家にいることの方が珍しかった。
今じゃ、そう言う人をワーカーホリックって言うのかな?
僕が生まれてすぐの頃はそうでもなかったみたいだけど、その頃にはもう、互いに干渉し合わずに、仕事だけに精を出して、家のことなんかほったらかし。
もちろん、僕に対しても殆ど興味を示してくれなかった。
そんな環境で育ったせいか、幼い頃から僕は自分で家事をしていた。もちろんお手伝いさんも来ていたけど、週に2度しか来なかったから、結局、自分でする機会の方が多かった。
だから、この頃には、それなりの料理も作れたし、掃除・洗濯とかもかなりの腕前になっていた。
ちょっとそれたみたいだけど話を戻そう。
鞄を自分の部屋に投げ入れて、洗面所に向かう、濡れた服を脱ぎ、そばにある引き出しからバスタオルを出して濡れた身体を拭く。雑巾を出して濡れた廊下を拭きながら自分の部屋に戻って服を着る。
そのまま雑巾を洗面所に放り込んで、リビングに向かう。明かりのないリビングのテーブルの上を見と、母親からのメモが置いてある。そこには走り書きで
今日は帰らない
というたった一行だけのメモが残されていた。
いつものことだ、どうせ父親も今日は帰ってこないだろうと思った。
仕事が忙しいのは知っていたけど、僕はそれ以外のことも知っていた。両親はお互いに不倫をしていた。帰ってこない日は基本的にはその相手とどこかに泊まっているのだ。
しかも、偶然かいつもその日は重なっていた。つまり、今日、母親が帰ってこないというメモを残したということは、父親も帰ってこないということだった。
その日はお手伝いさんも来ない日だったから、とにかくまずはキッチンにある冷蔵庫の中を見る。
思わずため息が出そうになる、冷蔵庫の中には調味料以外殆ど何も残っていなかった。
今からスーパーにでも買いにいこうか?
そう思ったが外はまだ雨が降っている。さっきまで弱かった勢いは時間が経つにつれて、だんだんと強くなっていることが雨音からわかる。
だから昼間に降る雨はいやだ。外に出る気さえ失わせてしまう。
けど、冷蔵庫に何もないと夕食が作れないから、仕方なく傘立てに刺さっていたビニール傘をさしてマンションを出た。
雨の中を傘をさして進む、下を見て辺りにできた水たまりをよけながら歩くのはめんどくさい、と思っていたら誰かにぶつかった。しまったと思いながら、恐る恐る上を見上げると、そこには黒いレインコートに身を包んだ人が立っている。顔は見えなかったけど、男の人だけということはわかった。
「す、すみません」
とにかく、ぶつかったのは自分の不注意からだったし、得体の知れない男への恐怖も覚えた。
すると、その男は僕の恐怖心を無視して問いかけてきた。
「君は雨が好きかな?」
どこか、暖かみのある声が男のものだと気づくのに少し時間を取った後、何を言っているのかと思った。
けど、その言葉のせいで、得体の知れなさが増した男に逆らうのが怖かった僕は、反射的に答えていた。
「夜に降る雨の音が好きです」
すると男は首を傾げた。
「夜に降る雨の音が、か。じゃあ、今降ってる雨は嫌いなのかな?」
得体の知れない人とはいえ、嘘をつくのはいやだったから、とりあえず首を縦に振った。
「そうか、嫌いか。残念だな。まぁとにかく、初めて出会ったのだから親交を深めようじゃないか? 君はどこに行くつもりなんだい」
こんな得体の知れない人と親交を深めるのは正直いやだった。けど、いつの間にか僕はこの人が持つ不思議な雰囲気に引かれていた。もうちょっと一緒にいてもいいかもしれない、そう思ったときには既に口は、
「今から、夕食の材料を買いにいきにスーパーに行くんです」
と言っていた。
「ほほぅ、夕食の材料を買いにか、おつかいかな?」
「違います、自分で作るんです」
それを聞いた男は少し大げさに驚いた。
「おぉ! まだそんなに幼いのにもう自分で夕食を作っているなんて。ご両親は何をしているんだい?」
「母さんも父さんも両方とも仕事だよ、家にいることなんて滅多にないね」
投げ捨てるように答える。
すると男はとんでもないことを言い出した。
「可哀想に、まだ親の愛情が必要な時期なのに。よし! 決めた、私が今日一日だけ君の家族になろう! 私はこう見えても料理はうまいし、きっと君のいい話し相手になれる」
一瞬耳を疑ったとはまさにこのことだった。
「だ、ダメですよ。見ず知らずの人を家に上げちゃダメですし、それに・・・」
「私が得体の知れない人だからかな?」
正直にうなずく。
「まぁ、そうだろうな。仕方がない。さて、どうしようか。今日は泊まるところもないし、食事を買うお金もない。このまま野たれ死ぬしかないのかな?」
同情をさせようという作戦なのか、今の僕なら引っかかる分けがないような方法だが、悲壮な声でそんな言葉を聞かされた当時の僕は、簡単に引っかかってしまった。
「わ、わかりました。で、でも今日だけですよ」
それを聞くと男は、さっきまでの悲壮感はどこへ行ったのか、一転陽気になった。
「おぉ! ありがとう。君は本当に優しい、きっとそのうち良いことがあるよ。そのうちにね。それでは、早速夕食材料を買いにスーパーに行こうではないか」
そう言って、僕の手をつかむとすたすたとスーパーの方に歩き出す。僕はただそれに従うがままについてゆくしかなかった。
「ふぅ、疲れた。まさかこんなに買うはめになるとは思わなかったな」
男はそう言うと近所のスーパーの名前が入った袋を床におろした。ちなみに、まだレインコートを着たままだ、フードも外していない。
「こんな量になったのは、あなたがこれも作りたい、あれも作りたいって言って材料をかごに量も考えずに入れるからでしょ」
そう言い返すと、
「まぁ、良いじゃないか。たまには豪勢な食事も良いだろ?」
と笑いながら返してきた。
まったく、スーパーで買い物している間、どれほど恥ずかしかったことか。結局レインコートもフードも脱がないまま、子供のようにはしゃぎながら籠にあれこれ入れていく(正直お金が足りるか不安になったくらいだ)。もちろん、周りからも変な目で見られていたから、一緒にいた僕としては、その場を去りたかったくらいだ。
「それからだ、あなたというのはどうも親しみにかけて困る。ここはお互いに名を名のろうじゃないか。私たちは今日一日とはいえ家族だろ?」
よくよく考えたらまだ自己紹介すらしていない。それに、このどこか不思議な雰囲気の男の名前も気になっていた。
先に僕の名前を言うと、男は
「良い名前だな。君にふさわしい」
と言った後に自分の名前をいう。
「実はね、私には名前がないんだ。無いと言うよりは、忘れたという方が正しいのかな? とにかく自分の名前は覚えていない、とにかく最近はレインと名のってる」
名前を忘れてということは、なぜか、その時には怪訝にも不安にも思わなかかった。だだ僕はその名前に引かれた。
レイン、雨、何故そう名のっていたのかは今になってもわからない。ただ、その時僕は、その名前が奇麗で純粋なものに感じた。まるで、すんでいる水の様に。
「それじゃあ、自己紹介もすんだことだし、早速調理開始と行こうじゃないか」
レインはそういと、初めてコートを脱いだ。その下は薄い水色のシャツに包まれた細めのからだと、少し濃いめの紺のジーンズに包まれたこれまた細めの足。そしてフードの下の顔は、声からは想像できないような清楚な顔立ち、まるで水で濡らした後のように潤った、首までかかる髪。その、かっこいいというよりも、むしろ女性的な美しさを秘めた容姿に、思わず見とれてしまう。
「何をぼーっとしているんだ? 君も早くこっちに来て手伝ってくれ」
レインに言われて、我にかえると既に彼は、キッチンで袋から材料を出して仕込みをはじめている。子供とはいえ、結構料理をこなしている僕から見てもかなり手際はいい。
「何をすればいい?」
黙々と作業をしているレインに近づくと、彼は笑顔で僕にして欲しい調理を指示してきた。
「それじゃ君は、それを混ぜてくれるかな?」
その笑顔が僕にはなぜか、望んでいる物のように感じた。
しばらくして、テーブルに並んだのは普段の僕が食べる量の何倍もの豪勢な料理たちだった。しかも、そのどれもが作り込まれていて、いつもは質素なテーブルの上は、まるで高級レストランのようになっている。もしかしたらレインは、以前どこかの高級レストランとかで働いていたのかもしれない。そんなことさえ考えさせてしまうほどその料理は見事な物だった。
「それじゃあ、料理もできたことだし。早速食べようじゃないか」
そう言うと、レインは「いただきます」を言うと同時に、美しく盛りつけられた料理を、その美しさが意味をなさない、というくらいに一気に口に含みだした。
「ふぁんだ? きふぃはたふぇないのふぁ?」
ほおが膨れるくらいに、口に食べ物を入れながら喋っているから、聞き取りにくかったが、多分「なんだ? 君は食べないのか?」と言っているのだろう。行儀が悪いと言えば悪いが、どこかおかしな光景だ。
「じゃあ、いただきます」
胸の前で手のひらをあわせてそう言うと、料理に手を付ける。目の前にあった魚のムニエルを一口、口に入れる。おいしい。それ以外思いつかないくらいおいしかった。
「どうだい? 私の料理の味は?」
食べるのが人心地ついたのか、口の周りを紙ナプキンで拭きながらレインが聞いてきた。
「おいしいです。ほんと、どうやったらこんな料理が作れるのか感心するくらい、おいしいです」
「それはよかった。私も作ったかいという物があるよ」
そう言うと、レインはまた目の前にある料理を口に詰め込み始めた。
もっと彼と話がしたいと思ったけど。僕も目の前の料理を堪能しよう。そう思い直し、側に置いていたフォークを手に取った。
僕が料理を一通り食べ終えた頃には、食べきれないと思っていた量の料理は殆どレインの胃の中に消えていた。しかも、それだけの量を食べているにもかかわらず、まだレインは近くにある皿を引き寄せて料理を口につめこんでいる。
レインが料理をただ眺めているうちに残りの料理も全部なくなってしまった。
「ふぅ、ごちそうさま」
「ごちそうさまでした」
レインに続いてそう言うと、彼は何かを思い出したように、
「そうだ、忘れるところだった」
と、言うとキッチンの方に行くと。手に小さなケーキ皿を持って戻ってきた。
「これは君のために作ったんだ」
そう言って、レインが僕の前に置いたケーキ皿の上には、一人分の丸いショートケーキが乗っていた。その上には小さなチョコレートの板が乗っていて、そこにホワイトチョコで「Happy Birthday!!」と書かれている。
そう、今日は僕の誕生日だった。誰も祝ってくれない、誰も覚えてくれないと思っていたのに。僕ですら忘れかけていたのに。彼は、レインは知っていた。そして、それを祝ってくれた。何故知っているかなんてその時は深く考えなかった。いや考えられなかった。あまりにも突然なそれが、たまらなくうれしかったせいで。
「さぁ、せっかく精を込めて作ったんだ。食べてみてくれ」
レインにせかされて、ケーキにフォークを入れようとするが、もったいなくて躊躇してしまうけど、意を決してフォークを入れる。柔らかいスポンジを分断してそれを口に運ぶ。甘いはずの味がなぜか少し水っぽくてしょっぱい。
「何か悲しいことでもあったのかな?」
突然レインが心配そうな顔で聞いてきた。「い、いえ。全然悲しくないです。む、むしろ、うれしいくらいで」
「じゃあ、なんで君は涙を流しているんだい?」
涙? 空いている手を頬にやると一筋の涙が、口元まで続いている。はは、だから、ケーキがしょっぱかったのか。まるでマンガみたいな話だ。
「こ、これはうれし涙です」
そう言うと、レインは不思議そうな顔をする。
「これくらいのことで、泣くくらいうれしいのかい?」
「うれしい、のかな? 僕は誕生日に祝ってもらったことがないんだ。いや、もらってたかもしれないけど、覚えてないだけかもしれない。それでも、昔は両親は仕事が忙しくても仲が良くて、まだ家の中が明るかった。誕生日に両親がいなくても、メッセージとかが残ってて、それだけでうれしかった。けど、ここ数年間、父さんも母さんも自分の仕事でいっぱいで。しかもお互いに他の人と付き合って。僕のことなんか忘れられた感じだった。今日だって帰らないってメモ一枚だけ。寂しかった。つらかった。友達はいるけど、親友と呼べる友達もいないし、誕生日を祝ってくれる友達だっていなかった。初めてだったんだ、ささやかでもこんなにうれしい誕生日は」
ずっと、心のうちに秘めていた思いを吐き出す。一筋だったはずの涙は、いつの間にか大粒となって行く筋も流れ落ちていた。
「それに、誰かと一緒に料理を作ったり、こんなに楽しんで食べるのも初めてだったんだ」
言いながら涙を拭う。レインはそんな僕の独白をただ、静かに聞いていたけど、僕が一通り言い終えたのを待って、
「大丈夫、きっとそのうち君と一緒にいてくれる人が現れる。けど、それは私ではない。それは、君の両親かもしれない。これからできる友達かもしれない。だから覚えててくれ、君は決して一人じゃない。だけどもし、君が一人だと思った時は、私たちが君を見守ってる。それを忘れないでくれないか」
と静かに、けどどこか優しい響きを持たせて言った。
だけど、レインの言ってることの意味を考える間もなく、泣きつかれたせいか、心のうちを打明けたせいか、僕はテーブルに突っ伏して眠りに落ちた。
外は、ただ雨の音だけが、静かに子守唄として奏で続けていた。
目に朝日が差し込む、自分が椅子の上にいることに気づいて、眠っていいたことに気がついた。
レインは!?
眠る前までレインがいた方向を見る。けど、軽く椅子が湿っているだけで、そこには彼の姿はなかった。僕は家中を彼の姿を探したがその姿はどこにもなかった。しかも、それだけじゃなかった。昨日、大量に出ていた料理皿も全部キッチンのもとの場所に片付けられていた。
家の中は彼が存在しなかったかのように静まり返っている。
けど、冷蔵庫の中をのぞいた時、唯一彼の痕跡を見つけることができた。一口分だけかけた丸いショートケーキ。初めてもらった誕生日プレゼント。
それだけが、彼が存在した、僕にとっての唯一の証拠。
あれ以来、彼が僕の前に現れることはない。けど、雨が降るたびに、彼に会えるのではないかと思う。彼は、レインは、雨の日に僕と出会って、雨が上がると同時に僕の前から消えた。
そして、僕が最後に聞いた彼の言葉
「私たちが君を見守っている」
私たち、彼は一人じゃなかった。彼はきっと雨粒だった。そしてきっと彼は今でも僕を見守ってくれている。僕が悲しい思いをしたときに、雨粒として僕を励ましてくれる。そう思ってるし、これからもそう思いたい。
だから、あの日以来、僕は夜の雨の音だけじゃなく、雨の日が好きになった。それは、レインに出会ったあの雨の日が、僕が一人じゃなくなった日だったから。
レインが消えた朝、彼が残したショートケーキを少し湿っていた彼の座った椅子に座って食べた。昨日は、少ししょっぱかったはずのその味は、ほのかに甘かった。
最終更新:2007年06月05日 11:40