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インテリジェントデザインは科学ではない by Dudley

インテリジェントデザインとはつまるところ、次のような物である:

Design is simply the purposeful arrangement of parts.
デザインとは部品の目的ある配置である[ Behe 1998 ]

Chance, necessity, and design--these three modes of explanation--are needed to explain the full range of scientific phenomena.
偶然と必然とデザインという3つの説明モードが科学的現象全体を説明するために必要だ[ Dembski 1998 ]

We don't understand how a designer imparts information into the world, but we know that a designer imparts information.
我々はデザイナーが情報を我々の世界にいかにして与えるか"理解"していないが、デザイナーが情報を与えたことを知っている[ Dembski 2000 ]

We could therefore define intelligence as the capacity for rational or purposive or deliberate or premeditated choice.
我々はインテリジェンスを、合理的、あるいは目的を持った、あるいは慎重な、あるいは計画的な選択能力と定義できる[ Dembski 2001 ]


Yale Universityの新聞Yale Daily Newsが2007年2月7日付で掲載したYale School of Medicineの分子腫瘍学研究者であるJonathan Dudleyの記事「 Intelligent Design not so intelligent 」で、このインテリジェントデザイン理論が科学ではないことを、うまく解説している:

So first, is ID “pseudoscientific nonsense”? I'd rather avoid the pejorative label “nonsense,” but I certainly think “pseudoscientific” is apt. Modern science is characterized by what philosophers call “methodological naturalism” -- the pragmatic assumption that every physical phenomenon has a natural, versus a supernatural, explanation. This is to be distinguished from “metaphysical naturalism” -- the ontological assumption that physical reality is all that exists. When IDers use the term “scientific materialism,” they effectively refer to the latter assumption.

まず始めに、インテリジェントデザインは「疑似科学なナンセンスか?」 私は軽蔑的なラベル「ナンセンス」を使いたくないが、私は「疑似科学」と考えるのが妥当だと思う。近代科学は「方法論的自然主義」と呼ばれる哲学によって特徴づけられる。これはあらゆる物理現象は、超自然ではなく自然な説明を持つというプラグマティックな仮定である。これは、物理的存在はそれがすべてであるという存在論的仮定である「形而上学的自然主義」とは別物である。インテリジェントデザイン支持者が「科学的唯物論」という用語を使うときは、実施的には後者の仮定を指す。

Since ID invokes a supernatural being to explain the formation of “irreducibly complex” physical structures, it does not employ methodological naturalism. Thus, by modern standards, it cannot be called “science.”

インテリジェントデザインは、「還元不可能に複雑な」物理構造の形成を説明するのに、方法論的自然主義が使用しない、超自然の存在を呼び出す。従って、現代のスタンダードでは、これは「科学」とは呼べない。

Here IDers rightfully object: Just because modern science is characterized by methodological naturalism, that does not mean that it should be. The above characterization of science is descriptive, not normative. Fair enough. Perhaps “science” should be re-defined, allowing the explanation of natural phenomena by both natural and supernatural means. Indeed, if God exists and created the universe, why shouldn’t we look for God’s supernatural intervention in natural affairs?

ここで、当然、インテリジェントデザイン支持派は反対する:「現代の科学が方法論的自然主義によって特徴づけられるからといって、そうしなければならないことを意味しない。上記の科学の特徴は説明的であって、規範的ではない。それはその通りだ。おそらく、自然および超自然の両方の手段で自然現象を説明することを許容するように、「科学」の再定義が必要だ。実際、神が存在して宇宙を創造したとするなら、自然現象への神の超自然的介入を探求すべきだろう。」
Two responses can be given to this argument. First, defining science by methodological naturalism does not mean we shouldn’t look for supernatural intervention. It just prevents science from relying on that possibility to explain physical events.

この論には2つの反論が可能だ。第1は、方法論的自然主義は超自然の介入の探求してはいけないとは意味しない。物理現象の説明のために、科学が超自然の介入に頼ることを抑止するだけだ。

Second, methodological naturalism is a good thing for science. Imagine what would happen if it were abandoned. If the problem is difficult or the mechanism “irreducibly complex,” divine intervention could be invoked, allowing the scientist to effectively give up and move on. If this approach were taken, even if God did occasionally intervene, many problems with naturalistic solutions would never be solved, being mistakenly categorized as cases of ID.

第2に、方法論的自然主義は科学にとってよいものだ。方法論的自然主義を捨てた場合を考えてみよう。問題がむかしかったり、「還元不可能に複雑」なメカニズムだったりしたら、神の介入を呼び出すことができて、実質的に科学者が探求を断念できてしまう。このアプローチをとるなら、たとえ神がときどき介入しているとしても、自然主義的答えのある多くの問題が、誤ってインテリジェントデザインだとカテゴライズされて、に答えが出なくなってしまう。


これにもう一言、加えておくと、超自然というより神の介入の機械論的証明方法は、機械論誕生のときからひとつしかないことがわかっている。すなわち「機械論で説明できなければ、それは神の介入あるいは神による奇跡である」という"God of the gaps"論である。

"God of the gaps"論(科学で説明できないことは神様のせいなのさ)の問題点は、そのGap(隙間)の正当なる所有者を機械論(科学)で決定できないことにある。機械論で説明できないことが根拠であるため、隙間の所有権争いに機械論は使えない。

すなわち、機械論の外側で隙間の所有者を決定するほかない。つまり、隙間を論じることは科学ではない。あえていうなら神学か形而上学か哲学の問題。しかも、さらに問題なのは、神学論争で隙間の所有権を確定できても、科学が隙間そのものを埋めてしまうと、所有権も消滅してしまうこと。