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Benjamin Wikerは言った「進化論はNOMAを侵犯し続ける」と


インテリジェントデザインの本山たる Discovery Institute のサイトに掲載された記事で、 Benjamin Wiker は、神の不在を示唆すような記述をすることを侵犯行為と定義し、そのような侵犯行為をする者を唯物論者=進化論者と定義する。

Whatever Gould’s intentions might have been, one thing should be quite clear from the history of evolutionary theory: Darwinism has always meant to cross the borders into the moral domain, treaties to the contrary, and will continue to do so until only one truth is left--Darwinism.

Gouldの意図が何であれ、進化論の歴史から明白なことがある。ダーウィニズムは条約に反して道徳の領域へと国境侵犯し、leftなダーウィニズムだけが真理となるときまで侵犯を続ける。

Such has been true from the very beginning. For Epicurus, the founder of evolutionary theory, and Lucretius, the greatest Roman proponent of Epicureanism, materialist explanations were universal in scope. They not only explained how chance (and not an intelligent deity) produced everything in the cosmos but also provided a new materialist foundation for morality. A materialist view of nature necessarily yielded a materialist view of human nature, wherein human beings have no immortal, immaterial soul but are entirely bodily. Since we have no immaterial soul, there’s no afterlife to fear or hope for, and all questions of good and evil may safely and scientifically be reduced to a continual balancing of bodily pleasures and pains. On this account, then, there’s no good and evil, justice and injustice by nature. Because nature, including human nature, is itself the result of the random jostling of brute atoms, then nature is itself amoral. Morality, then, is purely human-made, defined only by pleasures and pains, and entirely relative to time and place.

そもそも始めからそれは真実だった。進化論の創始者エピクロスと、エピクロス哲学のローマにおける偉大な支持者ルクレチウスにとって、唯物論的説明はユニバーサルなものであった。彼らは、インテリジェントな神ではなく偶然によって宇宙のすべてが生み出されたと説明しただけではなく、道徳に唯物論的基盤を与えた。自然に対する唯物論的な見方は、必然的に人間には不死かつ非物質的魂はなく、肉体だけという人間性に対する唯物論的見方を与える。人間に不死の魂がないから、死後の恐怖も希望もなく、善と悪の問題は、確実に科学的に肉体的快楽と苦痛の継続的均衡に帰着する。このような説明においては、善と悪あるいは正義と不正は本質的には存在しない。人間性を含む自然そのものが、知性なき原子のランダムな衝突の結果であるなら、自然そのものに道徳はない。道徳は純粋に人間によって創られ、快楽と苦痛によってのみ定義され、時代と場所によってまったく相対的である。

[ Benjamin Wiker: "Does science point to god? Part II -- The christian critics, 2003 ]

エピクロスが進化論の創始者だというのは、おそらく「進化論=唯物論」で、エピクロスが「神に言及すことなく道徳を語ろうとしたこと=無神論=唯物論」という意味だと思われる。神の存在を否定することはもちろんのこと、神を無視することもWikerにとっては「容認しがたいもの=進化論=唯物論」というところか。

こうなるとWiker定義の「進化論」は敵に対する呼称以上のものではない。

そして、Wikerが「道徳への侵犯」と表現するものは「神に言及しないで、道徳を語ろうとすること」らしい。あるいは「神に言及しない=唯物論=科学」が「道徳」を語ることはNOMAを科学の側から侵犯したことになるらしい。この「科学」もWiker定義の「科学」であって、普通「科学」と呼ばれるものとは別物。

ただし、Wiker定義の「進化論」や「科学」は、Religious Right的には奇異な定義ではない。古い地球の創造論の老舗"Reasons to Believe"の主宰者Dr. Hugh Rossなども、
the word "evolutionist" has generally been applied to someone who asserts that all the changes observed in the recored of nature (including te origin and history of the universe, Earth, and all life) can be attributed to strictly natural cause.

進化論者という言葉は、「宇宙と地球と全生命の起源を含む、自然界の記録で観察されるすべての変化は厳密の自然の原因のせいであるはずだ」という主張をする人々に対して使われる。[Hugh Ross: Creation as Science, p.21]
という意味で使っている。

続いて、Wikerは道徳の起源について、神に言及することなく、自然な説明を行おうとすることを侵犯行為と定義する。

Leap ahead about 2,000 years, and we find the same thing in Darwin himself, a fact all too often covered up by Darwinists. Read only Darwin’s Origin, and it seems as if he’s keeping within NOMA-esque bounds. Read Darwin’s Descent of Man (1871), and it’s startlingly clear that, in regard to the extent evolutionary explanations reach, Darwin knew no such bounds. In the Descent, Darwin offered an evolutionary account of the rise of morality and religious belief, solely in terms of natural selection.

2000年の後に、我々は、Darwin自身にある同じもの、そしてダーウィニストたちによってあまりも繰り返しカバーアップされる事実を見出す。Darwinの種の起源だけを読めば、NOMAの領分にとどまっているように見える。 Darwinの"Descent of man(1871)"を読めば、進化論の説明が到達する範囲について、Darwinがそのような境界の存在を知らなかったことは、おどろくほど明らかである。"Descent of man"において、Darwinは、自然選択のみによる、道徳と宗教の起こりについての進化論的説明を提示した。

ところが、一方でインテリジェントデザイン理論家Dr. William Dembskiは進化論は道徳を説明できないから、間違いだと主張する。

Evolution cannot explain moral behavior, especially altruism. Evolutionary fitness is selfish; individuals win only by benefitting themselves and their offspring.

進化論は道徳的行動、特に利他的行動を説明できない。進化論の適応とは利己的である。自らとその子孫のみを利するものが勝者となる。

[ Dembski, William A., 2004. Reflections on human origins. ]

あわせると、「進化論が道徳の起源を説明できなから間違いなのだが、進化論が道徳の起源を説明しようとするのはNOMA侵犯である」ということになる。

このあとは、お定まりの優生学とのリンク。

He also drew out the obvious moral implications. Since human nature is the product of evolution, as with any product of natural selection, it can be improved on by artificial selection. Just as a pigeon fancier takes what nature gives him and selectively breeds for traits he desires, so also human beings should take their own evolution into their own hands. It’s no accident, then, that Descent’s finale is a call to eugenics, a science to which Darwin’s cousin, Francis Galton, gave the name but to which Darwin gave the foundation.

Nor is it an accident, at present and for the foreseeable future, that evolution provides the support for genetic manipulation and the removal--via the combination of screening and abortion--of the genetically unfit. Once human nature is understood to be an accident of chance, it can no longer be the inviolable locus of moral claims. We, the clay, now lay claim to be the potters as well. To repeat, Darwinism inevitably leads to moral Darwinism.

彼は、明らかな道徳的な含意を引き出した。人間性が進化の産物なので、他のいかなる自然選択の産物と同じく人為選択よって改善可能である。まさに、ハト飼育家がハトに持たせたいと思う性質を持たせるために選択的に繁殖させるように、人間は自らの手で進化をさせるべきなのだと。"Descent of Man"のフィナーレが、Darwinが基礎を与えたもに、Darwinの従兄弟であるFrancis Galtonが名づけた科学である優生学の呼び出しであることは偶然ではない。

遺伝子操作およびスクリーニングと中絶による不良遺伝子の除去に対して、現在および予見しうる将来において、進化論が指示を与えることもまた偶然ではない。ひとたび、人間性が偶然の産物であると理解されるなら、もはや道徳的主張は不可侵ではなくなる。我々は、陶芸家にとっての粘土にすぎなくなる。繰り返すが、ダーウィニズムは必然的に道徳的ダーウィニズムに至る。

[ Benjamin Wiker:"Does science point to god? Part II -- The christian critics, 2003 ]

おさだまりな優生学ネタを無視するとして、この部分のポイントは「ひとたび、人間性が偶然の産物であると理解されるなら、もはや道徳的主張は不可侵ではなくなる。」である。

Wikerはこれが、進化論から引きだれる主張すなわち「道徳的ダーウィニズム」であり、「それこそが科学の側からのNOMA侵犯」だと言っている。が、これはそもそも、Wikerが勝手に引き出したものである。すなわち

  1. 神に与えられたものであるから不可侵である
  2. 人間性すなわち道徳は神に与えられたものである
  3. 道徳は不可侵である

という三段論法の2段めの変更によって生じたもの。

以上、Wikerの主張そのものは、まったくの間違いでしかない。しかし、インテリジェントデザイン運動が「科学の側からのNOMA侵犯」とみなすものが何なのかについては、明白にしてくれている

  • 神の不在を示唆すること(方法論的自然主義に基づいて神に言及しないことを含む)
  • 道徳について自然な説明をつけようとすること

すなわち、普通に生物学やってれば、NOMA侵犯とみなされてしまう。