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Dembskiの"科学とデザイン"




Science and Design (科学とデザイン)
By: William A. Dembski
First Things October 1, 1998

ガリレオとニュートンの物理学がアリストテレスの物理学を書き換えると、科学者たちはその決定論的な自然法則の発見によって世界について説明しようとした。ボーアとハイゼンベルクの量子物理学がガリレオとニュートンの物理学を次に書き換えると、科学者たちは我々の宇宙の説明に決定論的な自然法則を確率過程で補完しなければならないと認識した。ジャック・モノーの有名な言葉、偶然と必然(Chance and nessesity)[訳注: Jacques Monod 1910~1976 ノーベル生理医学賞受賞(原書,訳本)]が科学的説明の境界条件を定めた。

しかし、今日、あらゆる科学的現象の原因として偶然と必然では不十分であることが証明されている。過去然るべく捨てられた目的論、エンテレケイア[訳注:完全実現態, 形而上学用語]、および生気論[訳注: SkepDic日本語版によれば、生命の機能とプロセスは物理化学的な力とは異なる生命原理によるものであり、生命の機能とプロセスは物理化学の法則だけでは説明できないとする形而上学的教義]を呼び戻さないなら、第3の説明方法が必要となる。すなわち、インテリジェント・デザインである。偶然と必然とデザイン--これら3つの説明方法--が科学的現象全般を説明するために必要だ。

しかし、すべての科学者が、インテリジェント・デザインを除外することが人為的に科学を制限することだとはわかっていない。大ダーウィン論者たるリチャード・ドーキンスは彼の本"盲目の時計職人"で、「生物学とは、目的を持ってデザインされかのような外観を持つ複雑なものを研究するものだ。」と書いている。この表現は生物学の文献で繰り返し現れる。"熱き探究の日々"(原書,訳本)で、DNAの構造の共同発見者でありノーベル賞受賞者のフランシス・クリックは「生物学者は、見ているものがデザインされたものではなく、進化したものだということを、常に心にとどめておかなければならない。」と書いている。

生物学界は見かけのデザインを、ダーウィンのランダムな突然変異と自然淘汰で説明できると考えている。しかし、実際のデザインに反して、自然にあるデザインされたように見えるものの説明において、生物学者たちは科学的議論がうまくいっていると思っていることがわかるということだ。科学的に反証可能なら、真実である可能性があるはずだというの重要な点だ。科学的論破は諸刃の剣だ。科学的に論破された主張は間違っているかもしれないが、しかし必ずしも間違っているわけではなく、単に手に負えなくてそれらを棄却できるわけではない。

これを明らかにするために、顕微鏡で細胞を調べたら、すべての細胞に「ヤーウェ作成」と書かれていたらどうなるか考えてみよう。もちろん、細胞には「ヤーウェ作成」とは書かれていないが、それは問題ではない。問題は我々が実際に顕微鏡で細胞を見てみない限り、わからないということだ。そしてもし、実際にそう書かれていれば、科学者として、細胞が実際にヤーウェによって創られたという考えを受け入れるべきだ。それを信じない者たちでも、暗黙のうちにデザインが棄却されていない選択肢として生物学に常に残されていることを認めている。デザインに対する先験的な禁止は哲学的には洗練されておらず、容易に論破可能だ。しかしながら、いったん議論なしに科学からデザインを排除できないと認めると、さらに重い問題が残る:我々はなぜ科学にデザインを入れようとしたいのか?

この問いに答えるかわりに、方向を変えて問おう。何故、我々は科学にデザインを入れるべきではないのか?あるものがインテリジェント・エージェントによってデザインされたという説明は何が問題なのか?確かに、我々はデザインによって説明する多くの日常の出来事がある。さらに、日々の生活では偶然とデザインの区別は非常に重要だ。我々は次のような問いに答えを求める。「彼女は落ちたのか、突き落とされたのか」「誰かが事故死したのか、自殺したのか」「この歌は独自の作品か、盗作か」「株式市場で幸運に恵まれたのか、インサイダー取引をしたのか」

我々はそのような問いの答えを求めるだけでなく、産業全体が事故とデザインの境界線を引くことに専心している。我々は名前を挙げるなら、科学捜査、知的所有権法、保険金請求調査、暗号、および乱数発生などもこれに加えられるだろう。科学自体が、自らの誠実さを保つためにこの区別を必要とする。この1月にサイエンス誌の報告によれば、Medlineウェブサーチは1991年に Zentralblatt fuer Gynaekologieに発表された論文が、1979年にJournal of Maxillofacial Surgeryに発表された論文とそっくりの文章を含んでいることを明らかにしている。盗作とデータ改竄は我々が容認可能な範囲を大きく超えているのが科学では一般的だ。これらの乱用を抑えるのは我々のこれらを検出する能力だ。

もしデザインが科学以外ではとても容易に検出可能であり、検出可能であることが科学者の誠実さを保つ鍵となる要素であるなら、何故、デザインを科学の内容に対して除外すべきなのか。何故、ドーキンスとクリックが、生物学が、デザインされたように見えて、実際にはデザインされていないものを研究するものだと、常に思い起こすべきだと感じるのか。何故、生物学はデザインされたものを研究できないのか。

これらの問いに対する生物学界の答えはデザインに対する絶対的抵抗することだった。懸念は自然物が、人間の作ったものと違って、デザインされたものとデザインされていないものの区別がつけられないことだ。ダーウィンが種の起源の最終章に書いた一節をちょっと考えてみよう。「数人の著名な自然主義者が最近、各類概念における評判の種の多数が本当の種でないという彼らの信念を発表した。しかし、その他の種は、本当であり、すなわち、独自に創造された。. . . しかしながら、彼らはどれが創造された生物で、どれが二次的な法則によって生み出されたものか、定義することも、推測することもできるとは言っていない。 2つの例を区別する方法なく、ある例では進化を真の原因と認め、別の例ではそれを拒否する。」生物学者は、あるものがデザインによるもの(ここでは創造されたもの)としても、あとでそれがひっくり返るとかもしれないという懸念を持っている。この広く知られた正統的な懸念のために、インテリジェント・デザインを科学的に有効な説明として使えないでいる。

かつてはおそらくそれでよかったのだが、この懸念はもはや終わりだ。いまや、インテリジェントな原因によるものとそうでないものを区別する厳格な評価基準、複雑さと指定、がある。多くの特殊な科学が、理論になる前の形で、既にこの評価基準を使っている。たとえば、科学捜査、人工知能、暗号化、考古学および地球外知性の探索など。科学哲学における偉大な発展と近年の確率理論はこの評価基準を分離し正確なものとした。Michael Beheによる生化学系におけいるデザインの確立に対する還元不可能な複雑さの基準は、デザインを検出する"複雑さと指定"の評価基準の特殊な例だ (Beheの本「ダーウィンのブラックボックス」参照)[訳注:原書,訳本]

この評価基準は何に似ているだろうか?詳細な説明と正当化はかなり技術的であるが(完全な説明はケンブリッジ大学出版から出ている私の本"The Design Inference"参照)[訳注:原書]、基本的な考え方は簡単であり、容易に説明できる。映画「コンタクト」で電波天文学者がどのようにして地球外知性を検出したか考えてみよう。カール・セーガンの小説を原作とする昨年公開されたこの映画[訳注:原文は1998年10月1日付けであり、"昨年"とは1997年のこと]は、SETI(Search for Extra-Terrestrial intelligence=地球外知性探索)探査計画の楽しい宣伝作品だ。この映画では、SETI研究者たちが地球外知性を発見する(実際のSETI研究者はまだ成功していない)。

では、映画コンタクトのSETI研究者はどのようにして地球外知性を見つけたのだろうか?SETI研究者は数百万の外宇宙からの電波信号をモニターしている。宇宙の多くの自然物(たとえばパルサー)が電波を発生させる。その他のすべての自然に発生している電場信号からデザインされた信号を見つけ出すのは、干草の山で針を探すようなものだ。干草の山を調べるために、SETI研究者はモニターした信号をパターンマッチのコンピュータプログラムで走らせる。あらかじめ設定したパターンに信号がマッチしなければ、パターンマッチのふるいを通り抜ける(たとえインテリジェントな発生源からのものであったとしても)。一方、これらのパターンにマッチすれば、マッチしたパターンによっては、SETI研究者は祝杯を挙げる名目を手にするだろう。

映画コンタクトのSETI研究者は次のような信号を見つけた:

11011101111101111111011111111111011111111111110111111111111111
11011111111111111111110111111111111111111111110111111111111111
11111111111111011111111111111111111111111111110111111111111111
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11011111111111111111111111111111111111111111110111111111111111
11111111111111111111111111111111011111111111111111111111111111
11111111111111111111111101111111111111111111111111111111111111
11111111111111111111111101111111111111111111111111111111111111
11111111111111111111111111111101111111111111111111111111111111
11111111111111111111111111111111111111110111111111111111111111
11111111111111111111111111111111111111111111111111110111111111
11111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111
11111111011111111111111111111111111111111111111111111111111111
11111111111111111111111111111101111111111111111111111111111111
11111111111111111111111111111111111111111111111111111111110111
11111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111
11111111111111111111111111111111011111111111111111111111111111
11111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111
1111111111

1126ビットのこの系列では、1はビートに、0はポーズに相当している。、この系列は2から101までの素数に対応しており、与えられた素数はビート(すなわち1)の数に対応し、個々の素数はポーズ(すなわち0)で区切られている。

映画コンタクトのSETI研究者はこの信号を地球外知性の決定的証拠と判断した。この信号の何が決定的にデザインを示すのだろうか?我々がデザインについて推論するなら、いつでも、複雑さと指定という2点を備えているか確かめなければならない。複雑さは、問われているものが偶然という理由で説明できてしまうような単純なものでないことを保証する。"指定"はこのものがインテリジェンスの特徴であるパターンの型を示していることを保証する。

デザインであると推論するにあたり、複雑さが何故重要かをわかるために、次のビット系列を考えてみよう:

110111011111

これらはそれぞれ素数2、3、および5を表すさきほどの系列の最初の12ビットだ。この12ビットの系列をたてに、ニューヨーク・タイムズの科学担当編集者に接触して、記者会見を開いて、地球外知性が発見されたと広報するSETI研究者は絶対にいない。「異星人は素数の最初の3つをマスターした」などという見出しがおどることもない。

問題はこの系列が素数に関する知識がある地球外知性がそれを発信したと証明することができないくらい短いという(すなわち、あまりに複雑でない)ことだ。ランダムに脈動する電波源が偶然に「110111011111」という系列を作り出したかもしれない。しかし、1126ビットの2~101の素数の系列であれば、話は違ってくる。今度は地球外知性が作ったと確認できるくらいに系列が十分に長くて(すなわち十分に複雑)。

であるとしても、この複雑さ自体は、偶然を排してデザインを示すには十分ではない。私がコインを1000回はじけば、かなり複雑な(あるいは同じ意味で、ありえそうにない)現象に遭遇するだろう。実際、はじき終わった系列は1兆の1兆倍の1兆倍の...1兆倍が22回続くくらいに1回の出来事なのだ。しかし、このコイントスの系列はデザインであるという推論にはつながらない。複雑ではあるが、適切なパターンを示していないからだ。これを2~101の素数の系列と対比してみよう。この系列は複雑でありとともに、適切なパターンを含んでいる。映画コンタクトでこの系列を発見した SETI研究者はこう言った。「これはノイズではない。これは構造を持っている。」

デザインであると推論するための適切なパターンはどんなものだろうか?どんなパターンでもいいわけではない。あるパターンは正統的にデザインを推論するに使えるが、他はそうではない。基本的な直感は容易に理解できる。手に弓矢を持って、大きな壁から50メートル離れたところに射手が立っているとしよう。この壁は十分に大きくて、射手が矢を放てば必ず当たる。射手は矢を壁に放つたびに、矢のささったところのまわりをペイントして標的の中心に矢が当たっているようにするとしよう。このシナリオから何がわかるだろうか?その射手の射手としての腕は絶対にわからない。パターンはマッチしている。しかし、パターンは矢が放たれた後で決められている。パターンはまったくのその場限りのものだ。

今度は、射手が固定した標的を壁にペイントしてから、矢を放つとしよう。射手は100本の矢を放ち、毎回かならず標的に命中したとしよう。この2つめのシナリオから何が言えるだろうか?2つめのシナリオからは、ここにワールドクラスの射手がいて、この射的を偶然で正統的に説明はできず、むしろ射手の技能と熟達によって説明しなければならないと推論するほかない。技能と熟達はもちろんデザインの例だ。

最初に標的を固定してから矢を放つ射手のように、統計学者はまず実験の前にいわゆる棄却域を設定する。実験結果が棄却域に落ちたら、統計学者はそれを偶然によるものとして仮説を棄却する。パターンは、デザインを意味する現象の前に与えられる必要はない。次の暗号文字列を考えてみよう。

nfuijolt ju jt mjlf b xfbtfm

はじめは、これはランダムな文字と空白の系列のように見える。はじめは、偶然を棄却してデザインであると推論できるようなパターンを欠いている。

しかし、誰かが来て、この系列をシーザー暗号として、各文字をアルファベットの1文字分ずらしてみるように言ったとしよう。よく見ると、系列は次のように読める。

methinks it is like a weasel

パターンは事実の後から出てくるが、それでもなお、偶然を排して、デザインを推論できるだけの正しい種類のパターンだ。実験が行われる前にパターンを特定しようとする統計と違って、暗号解読では事実の後にパターンが見つかる。しかし、両方の例ともに、パターンはデザインであると推論するに適切だ。

パターンは、デザインであると推論できることが保証される複雑さのあるパターンと、複雑さにもかかわらずデザインであると推論できないパターンの2つのタイプに分類できる。第1のタイプのパターンは"指定(specification)"と呼ばれ、第2のは"合成物(fabrication)"と呼ばれる。"指定"は偶然を棄却しデザインであるという推論を保証するのに正統的に使えるその場限りでないパターンだ。これに対して、"合成物"はデザインであるという水路を保証するのに正統的に使えないその場限りのパターンである。この指定と合成物は、まったくの統計的議論で区別できる(The Desing Inference参照)。

"複雑さ指定"という評価基準はなぜデザインを確かに検出できるのか?これに答えるために、我々は第一にインテリジェント・エージェントを検出可能としているものが何か理解する必要がある。インテリジェント・エージェンシーの第一の特徴は選択だ。インテリジェント・エージェントが行動するときはいつも、競合する可能性の範囲内から選択する。[訳注:論拠は提示されていない。]

これは人間と地球外知性だけについて本当であるのではなく、動物についても本当だ。迷路を進むネズミは、迷路のいろんな場所で右へ行くか、左へ行くか選ばなければならない。
SETI 研究者がモニターしている電波から地球外知性を見つけようするとき、彼らは地球外知性が任意の可能なパターンを選択したと仮定し、さがしているパターンと通信をマッチさせようとする。人が意味のある話をするとき、人は発生可能な音の食い合わせから選択する。インテリジェント・エージェントは常に、特定のものを選択し、それ以外を排除するという区別を伴う。

このインテリジェント・エージェントなる特徴のもとに、我々はインテリジェント・エージェントが選択をしたことをどう認識するだろうか?一瓶のインクが偶然に紙の上にこぼれたとしよう。また、誰かが万年筆をとって、紙にメッセージを記したとしよう。どちらの例でもインクは紙についている。両方の例でほぼ無限の可能性のひとつが実現される。両方の例でひとつの偶発性が実現し、他の偶発性は排除される。それでもなお、一つの例をエージェントのせいにし、もうひとつを偶然のせいにする。

妥当な違いは何だろうか?偶発性が顕在化されたことを観測するのが必要なだけでなく、偶発性を定式化できる必要がある。偶発性は独自に与えられたパターンに従うはずだ。そして、そのパターンを独立に定式化できなければならない。ランダムなインクのしみは指定できない(unspecifianble)。紙にインクで書かれたメッセージは指定できる。ヴィトゲンシュタインは「文化と価値」[訳注:訳本]において、同じ点を指摘している。「我々には、中国人がしゃべっているのを、不明瞭なゴボゴボした音にしか聞こえない。中国語がわかる人なら、聞いたものが言語であることがわかるだろう。」

中国の発声を聞いて、中国語がよく分かる人なら、あらゆる可能な発声の範囲からの1つが発声されたとわかるだけでなく、その発声が論理的な中国のスピーチであると認識できる。これを中国語がわからない人と比べてみよう。その人も、あらゆる可能な発声の範囲からの1つが発声されたとはわかるが、こんどは中国語を理解できないので、その発声が論理的なスピーチであったかどうかわからない。

中国語がわからない人にとっては、発声はわけのわかならないおしゃべり(gibberish)だろう。このわけのわからないおしゃべりは、意味のない音節の発声で自然言語ではわからないものだが、これはいつもあらゆる可能な発声の範囲からの1つが発声である。しかしながら、我々が理解できるどの言語にも対応しない、わけのわからあにおしゃべりは、指定できない。結果として、わけのわからないおしゃべりは、インテリジェントなコミュニケーションにはなりえず、つねにヴィトゲンシュタイン言うところの「不明瞭なゴボゴボした音」でしかない。

動物の学習と行動を研究する実験心理学者が同様の方法を使う。ひとつのタスクを学ぶのに、動物はそのタスクに適した行動を実現する能力を習得するとともに、そのタスクに不適な行動を排除する能力を習得する必要がある。さらに、心理学者は動物がタスクを学んだかどうかを確認するために、動物が適切に見分けているかどうか観察するだけでなく、見分けたかどうかを"指定"する必要がある。

従って、ネズミが迷路を脱出する方法をうまく学んだかどうかを認識するには、心理学者はまず右折と左折のどの系列がネズミを迷路の出口へ導くのか指定しなければならない。もちろん、ランダムに迷路を迷うネズミは右折と左折の系列を見分けなければならない。しかし、ランダムに迷っていると、ネズミは迷路を脱出するための適切な右折と左折の系列を見分けてはいない。従って、ネズミを研究する心理学者はネズミが迷路を脱出する方法を学んだと考える理由がない。心理学者が指定した右折と左折の系列をネズミがたどった場合のみ、心理学者はネズミが迷路の脱出方法を学んだと認識する。

ここで注意すべきは複雑さが暗に示されていることだ。これをはっきりするために、2回右折すれば脱出できる非常に簡単な迷路を使った場合の、迷路を脱出するネズミについて考えてみよう。この場合、ネズミを研究する心理学者はどうやって、ネズミが迷路からの脱出方法を学んだかどうかを識別するだろうか?迷路にネズミを置いただけではだめだ。迷路は単純すぎるので、ネズミは偶然に2回右折して、迷路を脱出してしまう。従って、心理学者はネズミが迷路の脱出方法を学んだのか、ラッキーで脱出したのかわからない。

しかし、これに対して、正しく右折と左折の系列をたどらないと脱出できない複雑な迷路を考えてみよう。ネズミは 100回の正しい右折と左折をし、失敗すると迷路から脱出できなくなるとしよう。心理学者は、ネズミが間違った右左折をしないで最短で迷路を脱出したら、そのネズミは実際に迷路の脱出方法を学んだのであり、ただの幸運ではなかったと確信できる。

インテリジェント・エージェンシーを認識する、この一般的な方法は、複雑さ-指定の評価基準を軽くしたものにすぎない。一般的に、インテリジェント・エージェンシーを認識するには、競合する可能性の中から何を選択し、何を選択しなかったかを観察しなければならない。さらに、排除された可能性が選ばれうるものであり、指定された可能性が偶然によって選択されえないくらいに十分に多くの(すなわち複雑な)可能性があること。

インテリジェント・エージェントシーを認識する、この一般的な方法(すなわち選択、排除、指定)の全ての要素に対応するものが、複雑さ-指定評価基準にある。当然の結果として、この評価基準はインテリジェント・エージェンシーを認識するとき我々が従うべきものを形にする。複雑さ-指定評価基準はデザインを検出しようとするとき、何をさがさなければならないか正確に指摘する。

おそらく生物学におけるデザインの最大の証拠は生化学だ。最近の"Cell"誌(1998年2月8日)に、米国科学アカデミー(NAS)のBruce Alberts会長は「細胞全体は、大きいタンパク質マシンで構成される連動している流れ作業の精巧なネットワークを含む工場とみなせる。....何故、
細胞機能マシンの基礎となる大きなタンパク質部品と呼ぶのか?正確には、巨視的世界においてうまく機能するように人間が発明したマシンのように、これらのタンパク質部品は高度に長背された稼動部品だからだ。」と書いている。

たとえそうだとしても、Bruce Albertsは細胞の驚くべき複雑さを見かけのデザインだとみなしている生物学者の多数派と同調している。リハイ大学の生物化学者Michaerl Beheはこれに同意していない。"Darwin's Black Box(1996)"[訳注: 原書,訳本]で、 Beheは細胞の中の実際のデザインについて強力な議論を提示している。彼の論点は彼の言うところの還元不可能な複雑さだ。もし、あるシステムが複数の連携した部品で構成され、そのひとつでも取り去れば、機能を失うのであれば、そのシステムは還元不可能な複雑さを持つ。還元不可能な複雑さの例として、 Beheは標準的なネズミ捕りを挙げている。ネズミ捕りはプラットホーム、ハンマー、スプリング、キャッチ、および把持バーから成るい。これらの5つの部品のどれかひとつを取り除いてみよう。そうすると、機能するネズミ捕りを組み立てられなくなる。

還元不可能な複雑さは、累積的複雑さと対照すべきだろう。あるシステムの部品を逐次に配置することで、機能をまったく失わずに部品を順次取り外せるなら、そのシステムは累積的複雑さを持つ。累積的複雑さの例は都市だ。都市から人とサービスを順次取り去って、コミュニティとの意味で都市機能を失うことなく小さな村落にスケールダウンできる。

この累積的複雑さの特徴から、自然淘汰とランダムな突然変異というダーウィンのメカニズムは累積的複雑さをただちに説明できることは明らかだ。環境への適応の積み重ねで生物が次第に複雑になっていったというダーウィンの説明は、人とサービスを除去していく我々の都市の例とコインの裏表の関係にある。どちらの例でも、より単純なバージョンもより複雑なバージョンも、効率がよいか悪いかが違うだけで、正しく機能する。

しかし、ダーウィンのメカニズムは還元不可能な複雑さを実現できるだろうか?確かに、淘汰が目標に向かって機能すれば、還元不可能な複雑さを創れるだろう。 Beheのネズミ捕りを考えてみよう。ネズミ捕りを組み立てるという目標のもとでは、目標を目指した選択過程たる、プラットホーム、ハンマー、スプリング、キャッチ、および把持バーを選択して最後にこれらの部品をひとつに組み上げて、機能するネズミ捕りを創れるだろう。予め指定された目標が与えられていれば、淘汰によって還元不可能な複雑さを創ることに困難な点はない。

しかし、生物学で作用する選択はダーウィンの自然淘汰だ。そして、この方式の淘汰は定義に依れば目標や計画あるいは目的を持たず、まったく指導されていない。ダーウィンの淘汰メカニズムが訴えたのは、結局のところ、生物学から目的論を排除だ。淘汰を指導されない過程とすることでなおも、ダーウィンはドラスティックに生物学的システムが扱える複雑さの種類を削減した。従って、生物学的システムが扱えるのは還元不可能な複雑さではなく、累積的複雑さでしかない。

Beheが"Darwin's Black Bod"で説明したように、「還元不可能な複雑さを持つシステムは、先行するシステムの小さな連続した変形によっては創りえない。それは定義上、還元不可能なシステムの先行者には部品が欠けていて、機能しないからだ。自然淘汰は既存の既往するシステムから選択するだけなので、従って、段階的に生物学的システムを作れないなら、自然淘汰が作用するためには、機能する統合ユニットが一撃で出現しなければならないはずだ。

還元不可能な複雑さを持つシステムは、システムの全部品が同時に適所にあるときだけ、機能する。従って、還元不可能な複雑さを持つシステムを創ろうとするなら、自然淘汰はすべてを一気に創るか、なにも創らないかのどちらかでしかありえない。問われているシステムが単純ならそれは問題にはならない。しかし、それらはそうではない。 Beheが考えた還元不可能な複雑さを持つ生化学システムは、ないと機能しなくなる、多くそれぞれ異なるタンパク質から構成されるタンパク質マシンだ。それらには、自然淘汰が一世代で集められる以上のものがあつまっている。

Beheが考えたような還元不可能な複雑な生化学システムのひとつがバクテリアのべん毛だ。べん毛は、バクテリアを環境中を運動させるムチのような回転モーターだ。べん毛は酸で駆動される回転エンジンと固定子と0-リングと軸受とドライブシャフトから構成される。この分子モーターの複雑な機械は、約50個のタンパク質を必要とする。タンパク質が1個でも欠ければ、モーター機能は完全に失われる。

このような生化学システムの還元不可能な複雑さはダーウィンのメカニズムや今日までに提案されたいかなる自然主義的な進化メカニズムでも実際、説明できない。さらに、還元不可能な複雑さが生化学レベルで起きるので、生化学システムの還元不可能な複雑さを説明するためのさらなる生物学分析の基礎レベルが存在しないのに、淘汰と突然変異で説明するダーウィン主義者の分析はなおうまくいくと思っている。生化学を支えるのは、普通の化学と物理学だ。また、生化学システムが還元不可能な複雑さを持つかどうかはまったく経験的な問いだ。生化学システムを構成するここのタンパク質を壊してみて、機能が失われないかどうか見ればよい。そうであるなら、我々は還元不可能な複雑さを持つシステムを扱える。このような実験は生物学のルーチンワークだ。

Beheの言うところの還元不可能な複雑さと、私の複雑さ-指定評価基準との関係は、いまや簡単だ。Beheの考えた還元不可能な複雑さは、機能するために不可欠な、互いに明確につながった多くの部品を要求する。これは複雑さ-指定評価基準が求める意味での複雑さを意味する。

生物学の"指定"はいつも生物の機能への何らかの形で参照する。生物は多くの機能サブシステムからなる機能システムだ。生物の機能性は多くの方法で"指定"できる。Arno Woutersは生物全体の生存性(viability of whole organisms)という言葉で"指定"した。Michael Beheは生化学システムの最小機能という用語を使った。リチャード・ドーキンスでさえも、遺伝子の再生産という用語で、生命が機能的に"指定"されていることを認めている。従って、"Blind Watch Maker"でドーキンスは「複雑なものは、ランダムな偶然だけでは取得できそうにないような高度にあらかじめ"指定されたような"品質を持っている。生物では、あらかじめ"指定された"品質が、再生産によって遺伝子を伝播させる能力を持つ。」と書いている。

従って、世界の観測される特徴から厳密にデザインを検出するための信頼できる評価基準が存在する。この評価基準は形而上学と神学ではなく、確率と複雑さの理論に属する。そして、論理的な証明はできていないが、統計的には正当性が証明されており、要求にはたえうる。この評価基準は生物学にも有効だ。複雑で情報に富んだ生物学構造に適用すれば、デザインを検出できる。特に、科学的な重みを持って、この指定-複雑さ評価基準はMichael Beheの還元不可能な複雑さを持つ生化学システムがデザインされたものだと証明すると言える。

これらの発展により我々は何が作れるだろうか。多くの科学者はまだ納得していない、。我々がデザインを検出できる信頼できる評価基準を持っているにもかかわらず、そしてその評価基準に依れば生物システムがデザインされたものだと判断できるのにもかかわらず、生物学的システムをデザインされたものだと判断するのは、肩をすくめて神のせいと言うのと同じだと思える。説明にデザインを認めることへの怖れは、科学的探究をやめる、すなわち、十分な説明が既にあるので科学者が困難な問題を探求するのをやめてしまうことになる。

しかし、デザインは科学の停止装置(Science Stopper)ではない。実際、デザインは伝統的な進化論のアプローチでは進めようとしない分野の探求を進められる。ジャンクDNAという用語を考えてみよう。この用語は、生物のゲノムは、指導されない進化過程により、不良品の集まりであり、生物にとって不可欠なのはほんの限られた部分だけというパッチワークだという意味を内在させている。このように進化論の見解では、我々は多くの使われないDNAを予想する。他方、生物がデザインされたものなら、 DNAはできる限り、機能を持っていると考える。そして、実際、ごく最近の研究結果は、「ジャンク」だと思われていたDNAが、機能についての知識を現在、欠いていることを隠蔽しているだけだったことを示唆している。たとえば、"Journal of Theoretical Biology"誌の最近の号で、John Bodnarは、いかに真核生物ゲノムの中の非コーディングDNAは、生物の成長と発達をプログラムした言語をコード化したかを書いている。発展をプログラムする言語をコード化します。」、Designは科学者が進化がそれを落胆させる機能を探すのを奨励する。進化論が奨めようとしない機能の探求をDesignは科学者に奨める。


あるいは、結局は機能を持っていることがわかった痕跡器官を考えてみよう。進化生物学の教科書では、尻尾を持つ先祖の痕跡構造の例として人間の尾骨を挙げる。しかし、Grayの"Anatomy"の最新版を見れば、尾骨が骨盤底部に付く筋肉がある重要な接続先であることがわかる。「痕跡構造」という言葉は、機能について知識を現在、欠いていることを隠蔽していることが多い。以前なごりであると考えられた人間の虫垂は今や、免疫システムの機能部品であることが知られている。

デザインを科学に入れることは、科学界を豊かにするだけだ。科学の全ての試験済みで本当のツールは、無傷のままだ。そして、デザインは科学者の説明用の道具箱に新たな道具を加える。さらに、で剤はあらたな研究の問いのセットを提唱する。ひとたび我々が何かがデザインされたと知れば、我々はそれがいかに創られ、デザインがどの範囲で最適か、そして目的は何かを知りたがるだろう。スミソニアンには明らかにデザインされているが、その指定された目的を人類学者が理解していないものであふれている部屋がある。

デザインはまた、制限を意味する。デザインされるものは、指定された制限の範囲内で機能する。その制限を超えれば、それは十分に機能しなくなるか壊れる。さらに、何が働き、何が働かないかを見ることでそれらの制限を経験的に発見できる。この単純な洞察には、科学だけではなく、倫理についてもとても大きな意味がある。人間が実際、デザインされたのであれば、我々の内にハード的に組み込まれた心理的な制限があると期待できる。それの制限を超えれば、我々もまた社会と同様に苦しむことになる。我々の社会が進める態度とふるまいの多くが活躍している人間を徐々にむしばむことを示唆する多くの経験的な証拠がある。デザインは、自然法として知られているアリストテレスからアキナスへと続く倫理の流れを甦らせるだろう。

科学をデザインを認めることにより、単に科学的還元主義を批判するより、はるかに多くを為せる。科学的還元主義は、すべてが科学的カテゴリに還元可能だと考える。科学的還元主義は、自己反駁であり、そこことは容易にわかる。世界の存在と、世界を作動させる法則、世界が理解できること、そして世界を理解するための数学の不当な有効性は、科学が提起した疑問であり、科学はこれらの疑問に答えられない。

しかし、単に科学的還元主義を批判するだけでは十分ではない。還元主義を批判しても科学は変わらない。科学こそが変わらなければならない。デザインを避けて、科学は、概念的カテゴリの不適切なセットで長く動きすぎた。これは現実の締めつけられた展望に至り、科学がまさに世界だけでなく、人間を理解する方法をもゆがめた。

マーチン・ハイデッガーは"Being and Time"(存在と時間)[訳注:英語版,日本語版]で、「科学の発展レベルは基本概念にある危機を扱える範囲によって決まる。」と書いた。過去数百年にわたって科学ととともに機能してきた基本概念はもはや適切ではない。特に情報時代において、そして特にデザインが経験的に検出できる時代においては。科学は基本概念の危機に直面している。この危機から脱出する方法は科学を拡張してデザインを取り入れることだ。科学にデザインを取り込むことを認めることが科学を自由にし、もはや正当ではない制約から解放することになるのだ。



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