「DIFFERENCE-DANCE:2006年秋イタリアツアー報告」 2006,10/23 脇川海里
主催者より与えられた問題点は、1)振付家より見た都市空間での上演の限界と潜在性、2)文化交流は作品にいかに作用するのか、3)今回のツアーは作品の振付にいかに作用したかの三つである。 まず簡単に一般的に答える。
1)都市空間での上演の限界については、強いていえばそれは経済的な条件、あるいは機材やオペレーション周辺の技術的問題がある。だが、これは解決できる問題である。 この問いかけが劇場上演と屋外上演との差異についての問いということであれば、前者の観客は舞台芸術に比較的強く関心を持つものが大部分を占めるのに対して、後者は舞台芸術に関心のないより特定されない多数の観客も含まれることになる。だがいずれも「上演」ということでは変わりはない。私はそもそも「劇場」への「芸術」の閉じこもりに対しては元来批判的であるので、屋外での上演の方が圧倒的に好ましいと考える。
それゆえ反復になるが、潜在性は非常に豊かにあると思う。「アーバンスペース」つまり「屋外」という場所は、豊かな「場所性」を持っており、それはいわゆるプロセニアム劇場にはないものである。 「場所性」については後述する。 2)一般的な意味での「文化交流」は存在しない。「交流」の場においては、あくまで複数の個人(「個人」もまた恣意的な概念ではあるが)がいて、そこに発生する関係とコミュニケーションがある。この「文化交流」という言葉を、国民国家を単位として切り取った「国民文化」の交換ということで考えるとすれば、それはいわば「外交」の問題であり、国家間の次元の問題である。このようにいうのは、この違いが重要であるからである。ちなみに私は「日本人」である前に「九州人」であるし、「九州人」である前に「ダンサー」であり「市民」である。つまりひとがどのような主体化を選択するかによって、話は大きく変わる。
これらの事柄を前提としたうえで、この問いをツアー体験に引き寄せていえば、大きくは「言語」の問題があった。互いに母語を使えず、英語による交渉は時に問題を増やすこととなったが、そもそも言語が異なることで様々な問題が発生するのは当然のことである。 もっとも、同言語内での「交流」においても同様の折衝があるわけで、こうしたひとびととの交わり=交流が作品に対して及ぼす作用については、一般的に答えることはできない。私は普段の思考や創作において「異言語あるいは異文化」との「交流」をつねに行っており、それゆえあまりに自明な事柄なので、なにをいえばいいのか分からない。ダンスは社会でどのような機能を果たすのかとかいうふうに、問題を個別の次元において考えていかないと、話が展開しようがない。私にできることといえば、なにを経験したかを、私の観点から報告することである。これについては後述する。
3)この問いに対しては、以下にイタリアツアーでの上演体験を報告することでもって応答する。作品と経験との作用関係についてはそのなかで具体的に述べる。
3-1)イタリアツアー 経験より
今回の経験は上演体験とイタリア滞在全体の体験のふたつの次元があるが、上演体験に限定すると、今回の企画主体のひとつである<ダンツァウルバナ>は屋外の都市空間と人々との関係をダンスを通じて実践的に考えていくという主旨のもので、それに合わせたのか、ボローニャ以外の都市でもほとんど劇場外での屋外であった。カリアリでは劇場も選択できたのだが、「場所性」との関係を優先するという私の演出より、屋外を選んだ。
例外はペザロで、劇場と準劇場といっていいギャラリーであった。屋外の空間がその固有の「場所性」を持つのに対して、劇場はいわば中立的なものである。その意味ではペザロでの上演は日本での上演と変わるところはない。強いていえば、たまたま照明を現地スタッフに頼むことになり、英語も通じず、交渉とプランの説明は大変だったが、楽しい経験となった。
他の都市は屋外で、ボローニャではステファノ教会前広場とマッジョーレ大広場、トレヴィソでは川縁、ラヴェンナでは駅に隣接する5世紀の柱の並ぶ回廊風の空間、カリアリでは旧館の敷地内の「溝」を大きくしたような(?)空間、イグレシアスではトンネルと井戸前広場で私は踊った。これらの屋外空間はいずれも豊かな「場所性」を持ち、非常に刺激的であった。
「場所性」とは、その場所が固有に持つ特性のことであるが、それには形状やその場所の持つ雰囲気や周囲の空気や大気や気候、また歴史的な背景、その場所がその街に住みひとにとって持つ意味や価値などが含まれる。「場所性」の体験について個別に記述していと膨大になるので、経験の痕跡つまりイメージを記す。ボローニャのステファノ教会の黒人神父、彼らの賛美歌の歌声、本番一時間ほど前から体を動かしていたら好奇の視線が集まりだし、結果そのひとたちも踊りにつきあわせることになったこと、マッジョーレ広場の「広場性」(やはり「広場」は西洋に特有のものである)やレジスタンス闘士の肖像写真、泣き出したこども、トレヴィソの放課後の高校生たち、川と橋と緑地と壁、ラヴェンナの柱とごみ箱と結婚式と終演後微笑みかけてきた黒人青年、ペザロでの異様に天井の高いギャラリー、ハンガートの楽屋、カリアリの猫とミストラル、イグレシアスのトンネルと少年たちのひやかしとノリのよさと井戸と外灯。 これらが「場所性」であり、それらすべては私に、ダンスというメディア(媒体形式)の持つ可能性を、あらためて確信させるに十分であった。
私は今回、「作品」を上演するというよりも、できるだけその場所性と共に関係をつくっていきたいと思った。そのように思う背景には、とりわけ「イタリア」という「場所」に対するある個人的な思いが切実なものとしてあったからだった。その思いの内容については、モチーフを説明するときに触れようと思う。
ツアー中にはこうした私の選択が周囲に理解されずいろいろ折衝もあったのだったが、結果を振り返ると私は自分の選択が間違っていたとは思っていない。これは上演あるいはダンスの成功や失敗といったことは、直接には関係のない次元のことでもあるからかもしれない。 それはいえば「出会い」なのであり、ダンスを通じて出会えるひともいれば出会えないひともいる。この不確定性を現在私は、あらかじめ確定化することで減らすよりも、むしろそれを受容したいと考えている。このことは私のダンスヴィジョンあるいは理論にも関することである。
3-2)DIFFERENCE-DANCE:「SOGNO DI UNA COZA あることの夢」について
3-2-1)上演の概要
今回私がイタリアで上演したダンスは、2005年に上演されたイマージュオペラ>>コントラ-アタック<<「油田」および「油田II」などのパゾリーニシリーズに連なるソロヴァージョンである。ちなみにこのシリーズは、来年韓国で上演予定のソロダンス「YOU TAUGHT ME LANGUAGE AND PROFIT ON'T IS I KNOW HOW TO CURSE」に引き継がれる。
3-2-2)上演の形式について
基本的にはあとでのべるモチーフを基礎的なフォーマットとしながら、この一連のパゾリーニの仕事に触発された作業にとっていわば神話的とすらいえるほどに重要なボローニャおよびイタリアという「場所=空間」との関わりを優先したいという考えから、開放形式をとった。
開放形式というのは、ダンスを、事前にある「作品」という枠のなかに固定することよりも、むしろそのダンスが行われるその場所とそこに居合わせるひとびととの関係におけるさまざまな微細な次元のものも含めた「力」の流れのただなかに置くことを優先させる形式のことである。
それはまた、理念的な意味での「インプロヴィゼーション」ともいっていい。「インプロヴィゼーション」は、例えば古くはバッハの作曲理論やジャズなどの音楽においてもまたダンスの歴史においても重要な技法ないし作業であり、またすべてのダンスあるいはコレオグラフィーの基礎となる作業でもあるが、今日、それは必ずしも認識されているとは思われない。たとえばインプロヴィゼーションが「作品」ではないとして下位に置かれ、それゆえ価値のないものとされることがしばしばある。しかしながら「作品」とはある一連の「作業」のことであり、それを切り取ったものである。それゆえ、このようなインプロヴィゼーションと「作品」との分割はたんに制度的な神話によるものである。このような分割は、「芸術」という社会的行為が、マックス・ヴェーバーのいう「合理化」を経て、いいかえると「近代化」されるに従い、固定化されてきたものである。舞踊史は音楽史や絵画史などとくらべてまだ掘り下げられておらず、こうした歴史的説明をするためにはもろもろの前提を説明していかなくてはならないが、それはここでは時間の制約上、できない。だが、私が踊り、そしてそれへの批判があるとき、それへの応答としてはこうした基礎的な問題に関わることでもある。
私の考えるインプロヴィゼーションとは、その語の原義にあるように、予見不可能性つまりあらかじめ「見る」ことができないという事態に対して、その事態をそれ自体として受け入れる態度ないしは方法論のことである。
その含意は、なんらかの「構成」なり「作品化」といういわば決定論的な処理をほどこすことで、「世界」そのものやその差異を飼いならすような「箱庭」としての「芸術作品」の在り方に私は疑問を持つからである。ちなみに「作品性」とは、芸術産業の市場における「商品性」のことともいえる。そのような「芸術」の経済学的な側面に対して、私は経済行為であるがゆえに否定したいのでない(そもそも経済行為は人間にとって必要な社会的な営みである)。だが「芸術」と呼ばれるものが、そうした経済的な側面を隠蔽し、「美」という超越的な理念にのみ関わる、と想定されている仕方に対して、私は欺瞞を感じるし、実際この問題は、芸術アカデミズムなどにおいては、制度の本質的な構造問題として存在し、その弊害たるや、もはや目もあてられないほどであるからだ。 「芸術」はいまだ制度として閉域をつくりつづけており、そのことの矛盾と破綻は明らかなのだが、制度の利害にしがみついている方々は目をつぶり続けている。
とはいえ、私はインプロヴィゼーションのみが唯一絶対の上演形式であるとは毛頭考えていない。インプロヴィゼーションという技法の持つ限界あるいは「弱さ」については把握しているつもりだし、特に群舞を振付るときにはむしろインプロヴィゼーションの持つ不確定性に依存するにはあまりにリスクが大きいと考えるがゆえ、むしろそれを排する傾向にすらある。 だが、インプロヴィゼーション形式の持つ限界が、その潜在性を打ち消すことにはならない。
3-2-3) ダンスのヴィジョンについて
開放形式を採用した理由のひとつとして場所性ということを挙げたが、他に大きな理由となる考え方としては、「芸術」の行う作業をもっと原型にまで下ろしたい、というものがある。「芸術」は専門化された文化として今日社会的に流通しているが、しかしそれはある歴史的な展開のうえでのことであり、「合理化」の結果である。しかし芸術の原型、あるいは「芸術」が「芸術」になる前の作業、あるいはまた創造行為のただなかにおいては、それはまずは世界を知覚するひとつの仕方なのである。そしてまた、他者と経験的に共有していく点でコミュニケーションのひとつの形式=メディアなのである。
「ダンス」は「芸術作品」である以前に、ダンスである。「ダンスそれ自体」といっていいのかもしれない。ダンスを「芸術」というフレームに収める前に、私はダンスを、世界に関係する差異の運動、とわたしは一般的に定義できると考えている。 あらかじめ閉域を作ることで差異を同一性に回収することではなく、「世界」の偶発性contingencyや多様性、複雑性、あるいは「世界」の差異に対して、身体と場所そして「自己」を開いていくことを私は志向している。 こうした作業が、ダンスの使命であると私は考える。
3-2-4) モチーフについて
ピエル・パオロ・パゾリーニの仕事をこのシリーズでは参照しているが、私はそれを現代の資本主義社会批判としてくくった。それは当然、わたしたちが生きている今日の社会がいかなるものであるのか、どうような歴史や来歴のもとに今日のような姿になったのか、われわれとは何者なのか、いかなる存在なのかという一般的な問いを探求することになる。
「現在性」=モダニティを問うという点においては、私はモダニズムの立場にあり、「近代」が終わったとするいわゆる「ポストモダン」というカテゴリーに対しては、「近代」は終わっていないどころか、いまもなお続いていると批判したい。現在のグローバリゼーションは、帝国主義が再編成されているものにすぎないし、植民地主義も再編成されながら続いている。とりわけ「近代社会」は、植民地交易および奴隷制によって形成されてきた。
パゾリーニの仕事より採用された重要なモチーフに「アフリカ」というモチーフがあるが、「アフリカ」と「近代社会」との関係はしばしば忘却されたりあるいは隠蔽されたりネグレクトされている。だがそこには現在の社会体制の姿に対して批判的な亀裂をいれるほどの出来事が歴史的には実在している。たとえば1685年マルティニャック島に住んでいたカリブ人絶滅、1947年フランス政府によるマダガスカル人9万人虐殺などを指示しておく。もっともこれらをダンスで再現するのではないし、それらを表象することの難しさもある。だが私はそうした出来事と関係を作りたい。今回のダンスのなかに忍び込ませていたいくつかのフォルムや運動のフォーマットがあるが、それらはすべてこのモチーフのなかで探求され見いだされたものである。
ボローニャではそれらすべてをすべてガラスの破片のように砕いたが、批判されたように、たしかに楽曲との関係性がいまいち効果的ではなかったことが問題点としてあった。しかしながら「complicated」という特性はカオス理論における「パイこね変換」をモデルにしたものであり、演出的に意図され選択されたものであった。
批判があったからといって別にこの演出を撤回する必要はなかったのだが、しかしひとつの手法に拘るまでもないとも思われ、次のラヴェンナからでは、より「アフリカ」に限定したものに変更した。
具体的なテキストとしては詩編「ギニア」、パゾリーニに影響を与えたエメ・セゼールの「帰郷ノートCahier d'un retour au pays natal」をメインに、エリック・ウィリアムズの「コロンブスからカストロまで」などを参照した。
こうした歴史的あるいは社会学的な作業をなぜダンスおよびダンス化するのか、書籍の研究とダンスを混同しているなどという愚かな批判を受けることもあるが、そのひとにとっては私の作業がダンスではないというだけのことである。私はダンスが他の文化領域や社会、そして世界の歴史から隔離され、単独でこの世界に存在しているとは思わない。 私はこのような作業をダンスに練り込み、ダンスというある身体の運動および場所やひとびととの経験的な共有を通じて、より直接的な感覚の次元において共に考えていきたいと考えるのである。ダンスとは享楽の手段であるだけでなく、また思考の形式のひとつであるのだ。
ダンスは一般的な言語に対して身振り言語とされ、それは明示というよりむしろ暗示するものである。それはまた「記号」つまり「徴(しるし)」の運動であり、ある感覚のなかに経験的な痕跡として共有されるものである。感性の領域における探求でありコミュニケーションであるといっていい。それゆえ私の作業は「翻訳」作業であるともいえる。もっとも、これはたんに一般言語をダンス言語に翻訳するという意味にとどまらず、私が世界と関係を持つその仕方あるいはその過程そのものが「翻訳」である。もっともこれは私固有の話ではないが、自分の行為をこのように認識する場合と、しない場合とではまったく結果の方向性が異なってくるだろう。
植民地主義の問題や帝国主義の問題については専門家がより正確に考究している。私はダンスの閉域を破るためにそのような知識を「利用」しているというより、そのもっと手前の話として、ダンスを通じて私が世界と関係を切り結ぶがゆえに、このような作業を選んでいる。
このような私の概念拡張作業に対して抵抗も行われるのだが、それに対して私は、さまざまな多様なアプローチがダンスにはあっていいのであって、ある画一的なフレームに収めることは、ダンスと芸術にとって、悪しき見方ではないかと考える。
4)状況について
ちなみに現在、西洋では「Non Dance」というラベルあるいはカテゴリーのもとに、ある一連のダンスに対する批判的な作業が展開され、支持されていると聞くが、私はそのような批判的な捉えかえしあるいは脱構築的な作業に対しては、基本的には賛同できるとしても、それがある「モード」としてダンス産業のマーケットのなかでの市場価値基準として作用するような事態に対しては、批判したい。個別の作家の作業をある「商標」として統括していくようなモードのラベルとしての「Non Dance」は、その個別の作家の作業を超えて、市場において抑圧的に作用することがまずは問題であり、また、またそのようなフィルターとしての「商標」によって、その作家たちの作業が見えなくなること、そしてそれがモードとして成立することで、ある「趣味共同体」のなかに所属することを集合的に確認していくことをもたらし、それはたんにスノビズムとすらいえるからである。スノビズムはいわば「純粋美学」であり、私は「俗情」と結託することなく、それを「通俗的」あるいは「民衆的」に批判したいと考えている。
私の立場は、そうしたスノビズムには陥らないようにし、私なりにダンスを脱構築し、ダンスそのものへと向かい、あるいはダンスと自分とをともに織り込みあるいは広げて行く作業を続けようとするものである。もっといえばダンスの原型あるいはその原形式としてダンスを捉え直すことで、専門分化された「芸術」から、ダンスを、「未来の民衆」のために取り戻したいのである。
5)最後に
戻ると、ダンスは、なにに影響されるのか、なにと関係するのか。人間の経験的な過程に関わるダンスは、人間に、社会に、世界に、生物に、記号に、およそあらゆる事象に関わる。ダンスの基本的な素材は身体であるが、もともと身体というメディア自体が、そのように世界に開かれてあるものだから、これは必然だろう。
ダンスは人生にも関わる。ある踊りがあり、それを受けとるひとがいて、そのひとたちのもたらすフィードッバックである反応や批評をおりこんで、また主体は踊るのである。それゆえこうした経験の次元に一般的な物差しをもって量ることはできない。ひとが経験するとき、それはその主体にとっては特異な所与をもたらすものである。
この所与についていうと、今回のイタリア経験は、私を強く動かすものであり、それはおそらく今後の私のダンス活動のみならず人生における方向性を規定するほどのものであった。今後、私がダンスの新機軸を出せるかどうかは、これからの努力次第であるだろうから、私と私のダンスがこれからなにをなしうるのか予測はできないけれど、ひとつの強い作用原因となるだろうことはたしかだろうと思われる。
私にこのようなすばらしい経験を与えてくれた制作関係者、同行した参加者、上演を共有したすべての観客、そしてそもそも私にイタリアへの関心を教えてくれた亡き父とパゾリーニの霊に深く感謝を申し上げます。
最終更新:2006年10月24日 20:21