アラン・バディウ 芸術の主体 試訳 kw
私の父はよくこういってました。「はじまりからはじめなくてはならない」
それゆえ、私はこの芸術の主体についての講演をはじまりからはじめなくてはなりません。
しかし、このはじまりとは何でしょうか?
古い問いかけよりはじめなくてはならないとおもいます。
あるということ(存在)への問いです。存在とは何か?
わたしたちがなにかがあるというとき、なにか芸術が…であるというとき、なにを話しているのでしょうか?
たとえば、芸術なるものとは永遠の喜びであるというとき、なにを話しているのでしょうか?
私は存在の意味の三つのレベルにある原理的な区別からはじめたいと思います。
1。being
私がなにかがあるというとき、
私はただそのなにかを純粋な多様性であるとして話しています。
「なにかがある」と「なにかが多様性である」とは同じ文です。
つまりこれは、存在としての存在(being qua being)というレベルのものです。
こうしたものとしての存在とは、純粋な多様性です。
そして純粋多様性についての思考とはつまりは数学なのです。
2。existence
ふたつめのレベルは、なにかが実存するというものです。これは実存の問いです。
つまりこうしたものとしてあるということへの問いに対する弁別的な問いです。
私たちがなにかが実存するというとき、それは純粋な多様性のことではありません。
なにかここにあるもの、世界のなかにあるもののことを話しているのです。
つまり実存とは、世界のなかにあるということ、ここにあるということ、
あるいは具体的な状況のなかに実際に現れるもののことなのです。
これがなにかが実存するということです。
3。happening/event
三つ目のレベルは、なにかが起こるというものです。
わたしたちがなにかが起こるというとき、それはたんに多様性のことをいうのでありません。
また、世界のなかにあるとか、ここに、いまなにかが実存するということをいうのでもありません。
「なにかが起こる」とは、世界の連続性を断ち切るようなもののことであり、
なにか新しいもの、なにかが消え、なにか現れるまた消えるようなもののことです。
なぜなら出来事とは、現れることが、消えることと同じであるようなもののことだからです。
さてこれらの、存在の存在(純粋な多様性)、実存(世界、いまここの多様性)、出来事という三つのレベルがどのように関係しているかを理解する必要があります。
また、ある具体的な状況において二つの述語があることも理解する必要があります。
一つ目の述語とは、
世界、世界状況ーすなわちすべてのものが実存するところのもの、
です。
二つ目は、出来事です。
出来事とは、なにか世界のために起こるもの、
この世界において(in)ではなく、この世界のために(for)起こるもののことです。
そしてまた私は、
主体というものを、出来事と世界との関係と呼んでいます。
主体とはまさに、世界における出来事の連なりがあるとき、
創造や、新しい過程、なにかの出来事があるときに、起こるものです。
そのようななにかなのです。なにか抗議するようなもの…
ポイントは、関係です。
出来事と世界の間にある主体的関係は、直接的な関係ではない。
なぜか?
それは、出来事は一方で消え去り、他方で世界の全体性との関係をわたしたちが持つことはないからです。
わたしが主体を出来事と世界との関係であるというとき、理解してほしいことは、
出来事のようなものと世界のようなもとの間接的な関係のことです。
関係とはつまるところ、痕跡と身体の間でのことです。
わたしは痕跡のことを、
「出来事が消え去るとき、世界に残ったなにか」
と呼んでいます。
それはなにか出来事のようなものであるが、出来事ではありません。
それは痕跡、マーク、症候です。
また他方で、
主体を支えるものー世界のなかの主体の実在性のことを、「新しい身体」と私は呼んでいます。
こうしてわたしたちは主体のことをつねに痕跡と身体との新しい関係であるということができるのです。
主体とは、世界のなかで、新しい身体を構成するものであり、痕跡の司法権やコミットメント(委託)を構成するものです。
痕跡と身体との関係性の過程は、当然、新しい主題subjectです。
そう、あなたたちが芸術の主体について話さなくてはならないとき、多くのことについても話さなくてはなりません。
まず、芸術の世界とはなにか?
芸術的な創造にとって世界とはなにか?
それは一般的な世界ではありません。
それは芸術的な創造のための特定の世界、共同体=ポリスなのです。
これが最初の問題です。
つぎに、芸術的な出来事とはなにか?という問題があります。
芸術世界の発展における新しい特異性とはなにか?
三つ目は、痕跡とはなにか?です。
芸術領域における出来事の痕跡とは?
そして、新しい芸術身体の構想とはどのようなものか?
しかしこうした問題の前に、私はいくつかの例を出して、主体という問題を明らかにしたいと思います。
出来事の痕跡と、具体的な世界のなかにおける身体構成との関係としての主体、という問題です。
そしてわたしはまたわたしたちの今日の状況、今日の世界についても言及したい。
それは、今日、二つの主体的なパラダイムがあると思われるからです。
わたしは今日の世界の具体的な状況を、二つの主体的なパラダイム、
主体なるものの二つの名前の間での戦争のようなものだと想定しています。
ひとつめのパラダイムは、厳格なマテリアリストと主体の一元論です。
主体の一元論とは何でしょうか?
それは主体と身体の間に差異がない、リアルな差異がないという断言です。
ここに図があります※1。
最初のパラダイム。
主体はこのように身体と最終的には同一化するなにかです。
一種のパラダイムとしての主体的創造とは、たんに身体の限界における実験なのです。
主体とは、それ固有の限界における実験のようなものであり、有限性の実験、
身体の具象的統一性の限界における実験のことなのです。
だが結局、身体の限界とは、生ける身体の限界とは何でしょう?
生ける身体の最大の限界とは死です。
それゆえ、わたしたちは主体的パラダイムの形式において、
主体を、身体の最終的限界としての死の実験であるということができます。
そしてそれはたとえば、身体芸術の最先端の形式にあるなにかです。
身体芸術(Body art)とは、実験です。
それ自身を晒す身体の限界へのダイレクトな実験なのです。
だが実際、身体芸術なるものの絶対的な限界とは、死の実験なのです。
身体芸術の領域においてリアルかつ決定的な実験は、
公共の場での自殺にコミットすることであるでしょう。
そしてこれは哲学的な限定なのです。
かつてハイデガーは、現存在あるいは主体は、死に至る主体であるといいました。
私は一般に、身体の限界への実験である主体的パラダイムのことを、
なにか享楽のようなものとして名付けたい。
というのも享楽とは生における死の体験のことを意味しますし、
生それ自体における死としての大いなる“もの”(das Ding)の体験のことだからです。
こうして今日の世界における主体のパラダイムとは、
享楽としての主体というパラダイムです。
しかし享楽enjoymentにおいて私たちはフランス語のjouissanceを聞き取らなくてはなりません。
それは同じ語です。
享楽の定義は、身体の限界の実験にともなう生における死の実験というものです。
自然な享楽は快楽を超えるものです。
快楽とは生における生の実験のようなものです。
だが享楽は、死としての身体の限界の実験であるので、快楽を超えるのです。
だからわたしたちはある種の主体性、
主体性のパラダイムを享楽の主体であるということができるのです。
わたしはまたこれは現代の西洋のパラダイムであると考えます。
つまり、享楽のための主体と身体の限界の実験、
これらはわたしたちのパラダイムなのです。
ふたつめのパラダイムは、観念論的、神学的、形而上学的な主体の哲学です。
主体は完全にその身体から分離することができる。
最初のパラダイムだと、主体は最終的にその身体です。
ふたつめのパラダイムになると、主体は完全に身体と分離されます。
これは享楽のための主体としての主体に抗うもので、分離という深い欲望の回帰、
身体から分離された主体の実存の欲望なのです。
目的は、身体が新しい分離の道具にすぎないというような地点を、生や行為において見つけることです。
そうして、これは享楽としての生のなかの死の実験ではなく、
死それ自体を用いた新しい主体的な生の仮説なのです。
この主体的なパラダイムは、生のなかの死の実験に対立する、
死のなかの生の実験です。
そして犠牲のことを、死のなかの生の主体的な実験の一種として名指すこともできるのです。
現代世界は、享楽と犠牲との戦争です。
テロリズムに対する戦争とは、つまり享楽と犠牲との戦争のことなのです。
だがこの戦争には共通するものがあります。
ふたつのパラダイムに共通するなにかがあります。
享楽と犠牲とに共通するなにかとは、死の力のことです。
一方で身体の限界の実験として、
他方で新しい生のための手段であるような死の実験としての、
死の力です。
享楽と犠牲との間の戦争によって、わたしたちは死の力に直面している。
この種の戦争にあって、芸術的創造のための現実の場所はありません。
享楽としての死の力という面でも犠牲としての死の力という面でも。
新しい芸術的創造のための現実的な開かれはないのです。
それゆえ、第三の可能性、第三のパラダイムを探す必要があるのです。
死の力の外側にあるような新しい主体的パラダイムとでもいえばよいでしょう。
それは享楽(つまり快楽と身体の限界を超える快楽)でも、犠牲における贖罪=満足(別の世界での、苦しみを超えた快楽という享楽)でもない。
より神学的な枠組みでそのようにいうことができます。
わたしたちは主体と身体の関係について三つの可能性を考えることができます。
主体的なパラダイムのための三つの可能性です。
ひとつめは、還元可能性です。
主体は、身体に還元することができる。
この場合、主体の内在的同一性というものがあります。
内在的同一性とは、つまり分離というものはなく、
主体の過程と身体の生成との完全な同一化があるということです。
この場合、決定的な規範は享楽であり、生における死の実験です。
ふたつめは、分離可能性です。
主体は身体と完全に分離できるというものです。
この場合は、超越的な差異があります。
超越的な差異とは、主体はそれ自身を超越的な世界において体験するのであって、
その固有の世界の犠牲においてではないということです。
第三の可能性は、内在的差異とでもいうべきものです。
内在的同一性でも、超越的な差異でもない、内在的差異。
この場合、主体は身体に還元されません。
ここには、独立した主体的な過程とでもいうべきものがあります。
ここには現実に、身体の限界への実験に還元されないような創造がある。
だが主体と身体との分離は不可能です。
これは分離でも還元可能性でもない。
そしてこれはわたしたちが主体を、創造の過程や生産の過程として、
また、出来事の痕跡と世界における新しい身体の構成との関係を現実に
組織するような過程として理解できるような状況です。
それゆえ、わたしたちは享楽と犠牲との今日における戦争という領域でなにかしらを探す必要はないのです。
芸術の主体という問題とは、今日、このような問題なのです。
つまり、新しい主体的パラダイムなるものを、享楽と犠牲との間の同時代的戦争の外側で探すこと。
この新しいパラダイムを組織するにあたってたくさんの問題があります。
いかにして新しい身体が、分離や同一化なしに主体のプロセスを通って方向づけられるのか。
この問いは外せません。
そして、出来事の痕跡と身体の構成との距離を維持しなくてはなりません。
あらためて私の返還請求を、新しい主体的パラダイムの返還請求を示します。
新しい主体的パラダイムの図を見てください。
もし、主体が完全に身体と同一化するものならば、そこには痕跡と身体との現実的な差異はありません。
そうして、結局は、主体とは完全に世界になかにあります。
もし主体と身体とを完全に分離するならば、主体は完全に痕跡の面にあります。
そして主体は完全に、出来事に従属しています。
絶対的な出来事、世界の外にある出来事に。
この場合、主体は完全に世界のなかにあり、それは世界の限界への実験です。
それはまた世界の完全な外側にあり、絶対的な出来事なるもの、
神なるもの、神のようなものの側にあるのです。
分かりますでしょうか?
つまり同時代的な戦争のふたつの主体的なパラダイムにおいて、
完全な内在的な状況としての主体的な過程があるのです。
世界と区別されるもの、ないし完全な分離、根源的な絶対的な出来事と区別されるものとして。
わたしたちはふたつのパラダイムのなかに、限界への実験、
世界の生のなかの死の実験なしに、現実的な生産過程といったようなものを見いだすことはできません。
あるいは超越的・宗教的な限定を見いだすのでしょう。
それゆえ芸術の主体という問題とは現実には、一方の身体、
他方の出来事の痕跡との区別を維持することに向けられています。
そうして、わたしたちは五つの問題のようなものを解決しなくてはならない。
これらは五つの問題を解決する基準です。
1.
まず第一の問題。
もし創造の過程としての主体的過程が、
痕跡と身体との距離の領域(分離されていない距離)にあるとしたら、
出来事を、純粋な消失や超越的なものではない、確言的なものとして見なさなくてはならない。
もし出来事の痕跡が、
主体の構成のなかにあり、身体に還元されないものであるとすれば、
出来事を、現実の出来事を、なにか確定的なものとして見ななくてはならない。
これは入り組んだ問題です。
というのも、そこには、出来事の消失といったようなことが想定されており、
出来事が裂け目、世界の法を破るものとされています。
そうなると、否定的な次元(破裂、破壊、割れ目…)と確定的な必然性とのあいだでの現実的な出来事における関係とは、
もし出来事が現実には、絶対的でも現実的な出来事でもないとしたら、
いかなるものなのでしょうか?
だから、私たちは出来事、たとえば、芸術的な出来事を、
なにか確定的な裂け目のようなものとして考えなくてはならない。
これが最初の問題です。
2.
ふたつめの問題は、痕跡の性格に関するものです。
もし出来事が確定的な裂け目のようなものである場合の出来事の痕跡です。
痕跡とはなにか?
これは複雑な区別です。
というのも痕跡は世界にあるべきものだからです。
出来事は厳密には世界のなかにはない。
でも痕跡は世界のなかにあるべきものなのです。
それで、痕跡とはなんでしょうか?
世界のなかにありかつ確定的な裂け目としての出来事と関係する現実の痕跡とは、なんでしょう?
これが第二の問題です。
3.
三つ目の問題は、新しい身体の構成とはどのようなものか?です。
主体的な過程という事例のなかに、新しい身体なるものがあるわけです。
それはたんに新しい身体が、出来事の痕跡と関係する創造にあって、
新しいなにかを見いだすという可能的な傾向にあるということです。
出来事の痕跡とは、身体への還元ではないし、身体が世界に還元されるわけでもない。
もういちど図を見てください。
もし主体的な過程が本当に痕跡と身体の距離のなかにあるとしたら、
わたしたちは身体の構成を新しい身体として解釈しなくてはならない。
なぜなら、もし身体が新しい身体ではないとすれば、
身体は完全に世界のなかにあるのであって、
世界の方向のなかでの確定的な裂け目としての出来事の痕跡
と十分に関係するのではないからです。
だから第三の問題とは、
世界において新しい身体とはなにか?
多様性の新しい構成はどんなものか?
主体的プロセスを支えるもの、痕跡を支えるものとはなにか?
といったものです。
これが三つ目の問題です。
4.
四つ目の問題。コンシーケンス=結果(consequence)の問題です。
新しい身体がある。
わたしたちには出来事の痕跡との関係がある。
唯物論的な創造なるもの、なにか新しいものの唯物論的な創造のプロセスがある。
こうしたものの結果はどのようなものなのでしょうか。
いかにしてコンシーケンスに至る訓練に入れるのか?
なぜなら、もし主体的プロセスに新しいなにかがあるとすれば、
わたしたちは新しい身体の取り入れ(incorporation)と新しい身
体の実践的なコンシーケンスに至る訓練とを受け入れなくてはならないからです。
5.
最後の問題は、内在的無限性なるものを見いだすことです。
もし主体的プロセスが世界において新しい創造であるのなら、
結果の無限をもたらすからです。
正確には、わたしたちは限界の実験を持つことはできないのです。
限界の実験であるような第一のパラダイムにはわたしたちはいないのです。
実際、限界はないのです。
潜在性が、仮想的に(ドゥルーズがいうように)あるのであり、
結果の無限を仮想的にわたしたちはもつのです。
しかしこの無限性は、超越的なものではない。
これは内在的無限性なのです。
痕跡に関する身体それ自体の無限性なのです。
こうしてわたしたちは
なにが内在的無限性であり、なにが超越的な無限性でないのか
を理解する必要があるのです。
それゆえ第五の問題とは、確定的な裂け目としての出来事であり、
なにが厳密に出来事の痕跡であるのかということです。
新しい身体世界の構成とはなにを意味するのか?
いかにして結果に至る訓練を受け入ればよいのか?
内在的無限性とはなにか?
これが芸術的主体についてなにかを言うために解決しなくてはならない問題なのです。
私はこの第五の問題を解決しなくてはならない。
あるいは私はこの問題を解決するための可能性についてなにかを言わなくてはならない。
しかも芸術という領域においてであって、一般的にではなく。
それは問題が絶対的であるからです…
これは主体的なプロセスのすべてのタイプに関するものです。
だが、芸術領域においてなにが問題なのか?(図を書きながら)…
まず、なにが芸術世界であるのかを言わなくてはなりません。
芸術の世界とはなにか?
これはわたしたちの最初の問いかけであり、一次的な問いです。
わたしは世界が芸術的世界であること、芸術の状況であるということを提案してみます。
感覚のカオティックな傾向と形式として受容されるものとの関係という芸術の世界。
芸術的な状況とは、一般的には、つねに、感覚のカオティックな一般的傾向(物理学において、よく耳にするような意味での)と、形式であるものとの関係のことです。
つまり、感覚と形式との関係(芸術的世界)のことです。
そしてそれは結局は、
感覚の裂け目にある命題proposition、
フォルマリズムであるものーなにが感覚を形式化するのかー
とそうはなりえないものとの間の事柄propositionなのです。
そう、これはこういうものです(図を書く)。
「S」とはsensibility感覚、「F」とはform形式、
つまり芸術世界の一般的公式とは、
形式であるものと形式でないものとの関係傾向disposition of relationにおける感覚のことなのです。
これはとても単純ですね。
感覚と形式との間にあるタイプの関係の実験のようなものを考えるとき、
そこに一般的な芸術的状況なるものがあるのです。
これは完全に抽象的な定義です。
でも定義の本質を考えてみてください。
芸術世界における事柄の状勢とはつねに、
カオティックな感覚の実験であるものと、
形式と非形式との可変的区別との間にあるもの、
そのようなものなのです。
それゆえ、わたしたちは芸術的状況を体験するとき、
感覚と形式、非形式との関係におけるなにかを体験するのです。
しかしこれが真実であるとして、芸術的出来事とは何でしょうか?
芸樹的出来事の一般的公式とは何でしょう?
わたしたちは一般的には、
芸術的出来事、現実の芸術的出来事が、
世界の公式における変換であるということができます。
これは公式の一種の原理的な転換です。
これはなにかそうでないものの生成する形式のようなものなのです。
それは形式化の新しい可能性の発生であり、
非形式であったものの形式を受容することなのです。
これは形式ではなかったものの形式の生成なのです。
これはまたカオティックな感覚においての新しい流通なのです。
これはカオティックな感覚と形式化との内在的な関係の新しい傾向なのです。
そうして、わたしたちは、
出来事ー確定的な裂け目としての芸術的出来事のようなものを
持つことができるのです。(図を書く)
今回は、「S」はつねに感覚で、「F」は形式、「F1」は形式化の新しいdisponibite待機性です。
芸術的出来事が起こったときのようですね。
感覚は新しい仕方を組織します。
なぜなら非形式であったものーつまり、否定の象徴、否定はこうですね(書く)、いいですか?
非形式であったもの、あるいはどんな形式化も新しい形式として受け入れられない。
こうして、フォルマリズムであるようなものにおける非形式の生成が得られます。
裂け目は、F1の否定であるところの、形式の新しい否定です。
つまり、これが確定的な裂け目としての芸術的出来事の一般的な形式なのです。
なぜ確定的な裂け目なのか?
それは裂け目がつねに、確定的な形式と否定的な形式との関係であるからです。
フォルマリストとはなにか、
形式として受け入れられているものとは、受け入れられていないものとはなにか。
それが形式と非形式との間にあるカオティックな感覚のなかの裂け目なのです。
しかしこれは裂け目の新しい限定となります。
裂け目、確定的な裂け目、それは否定されていたものが確言のなかにあるということなのです。
形式であるなにかに生成する形式ではないなにか。
つまりわたしたちは芸術的な出来事のなかに現実にいるのです。
なにか(図を書く)…
これで、裂け目の確定的な理念を見ることができます。
否定されていたもの、形式的不可能性の一部が、
確定的な可能性になったわけです。
つまりこうして、芸術的創造の領域において確定的な裂け目は、
最終的には、形式であるところのものとそうでないものとの間にある新しい傾向のようなもののことなのです。
形式ではなかったなにかの肯定的な形式の生成が、芸術的出来事の確定的な次元なのです。
身体とはなにか?新しい身体の構成とはなにか?
芸術の領域における新しい身体とは、
現実に具体的な創造ー芸術やパフォーマンスの仕事ーのことですが、
それらは出来事の痕跡に関わっています。
出来事の痕跡とは、つねに現実に形式であるところのものの宣言であり、
芸術という仕事の尊厳の新しいなにか、それが痕跡なのです。
痕跡とは、マニフェストのようなものであり、新しい宣言のようなもの、
「これは形式ではなかった、そしてこれがいまや形式なのである」
と言うところのものなのです。
それは宣言であり、つまりは出来事の痕跡なのです。
そして新しい身体とは、芸術の仕事なのであり、
それは痕跡の種類に関するものです。
それはしばしば芸術的創造において新しい潮流、新しい素質となります。
一般的にいって、いくつかの名前がある。
学派の名前、素質の名前、芸術的創造の次元としての新しい流行の名前、
それが新しい身体です。
世界における、芸術的な世界における新しい芸術世界における新しい身体。
痕跡との相互関係における芸術世界のなかの新しい何かの創造。
そしてわたしたちは芸術領域における結果にいたる訓練がなんであるかを理解します。
結果にいたる訓練とは、新しい主体的プロセスなのであり、
それは現実に新しい体験であるなにか、
形式の新しい体験、形式とカオティックな感覚との関係の新しい体験なのです。
これは新しい学派、新しい素質、創造の新しい形式、芸術的創造も同様のことです。
とても面白い問題が最後の問題です。
内在的無限性とは何か?
芸術的主体の領域において、無限の新しい実存の創造とはなにか?
芸術的領域においての内在的無限性とは結局、形式それ自体の無限性のようなものです。
形式それ自体の無限性とはなにか?
それは新しい形式ー形式の新しい可能性ーが、
カオティックな感覚と直接に関係することの可能性です。
新しい形式とはつねに新しいアクセス、新しい作法、
新しい登場、カオティックな感覚のなかへの新しいアクセスです。
それゆえ、芸術的領域においての形式の創造とは内在的無限性の運動なのであり、このような世界の無限性へのアクセスなのです。
わたしたちは新しい素質の発展のなかにいる。
芸術領域における新しい身体のなかにいる。
内在的無限性の新しい発展のなかにいる。
これはたんなるサムシングエルスではありません。
これは無限それ自体を思考する新しいやり方なのです。
これが、今日の政治的問いかけが非常に不明瞭であると私が考えるゆえに、
今日なぜ新しい芸術的体験が非常に重要であるかの理由なのです。
わたしたちの問題とは、
享楽と犠牲との戦争ではないところでなにかを見いだすこと、
第三の主体的なパラダイムを現実に見つけることであると私はいいました。
それは芸術的創造ーこの探求も含みますーの個別的な責任であり、
なぜならしばしば政治的限定は不明瞭なものですが、
芸術的限定は状況を明瞭にするからです。
それゆえ、私は哲学者としても、あなたがたのような芸術的世界、芸術の領域に携わっている方々に、芸術的創造の特別の責任が現実にあるのであり、それは人間が新しい主体のパラダイムを見つけることに役立つだろうと言うことができるのです。
つまり、
芸術の主体とは、
たんにそれ固有の領域における新しい過程の創造だけではなく、
同時にまた戦争と平和への問いかけなのであり、
それはなぜかといえば、
もしわたしたちが新しいパラダイム、新しい主体的パラダイム
を見つけることがないとしたら、
戦争はエンドレスになるであろうからです。
そしてもしわたしたちが現実の平和を求めるのであれば、
わたしたちは主体が現実に無限の創造、無限の発展のなかにある
ということを探求しなくてはならないのです。
主体を、死の力のひとつの形式(快楽の限界という実験)と別の死の力の形式(理念、絶対的理念のために犠牲になるような)との恐ろしい選択のなかにあると考えてはならないのです。
これが、私の考えるところ、芸術的創造の同時代的な責任です。
最終更新:2006年11月22日 19:38