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ジャン=リュック・ナンシー@東京2006

2006,4・12 日仏学院

質疑応答メモ

問い:意味と翻訳についてお聞きしたいのですが、(…)あなたは意味sense方向を、「…へと向かう運動」としてとらえ、行先(アドレス)がないまま、意味の果てしない運動に開かれてあることについて語っています。(…)それがナンシー哲学の難しさにもなっていると思われますが…

応え:あなたはすでに問いに答えています。
 まず、難しさについてですが、哲学上の難しさとは、私固有の難しさではありません。…
 テキストやジェスト(身振り)は、意味作用の限界やその可能性を追求します。そこに複雑さはない。
 テキストはいろいろな人の手の中に落ちる。
 事柄は単純で、どんな意味にも、最終的な意味作用はないのです。
 「人間」「神」「自然」…(それらの語の意味はたえず議論され、動いている)

 フロイトの手紙に、人生の意味を自問自答することが病気のはじまりである、という言葉があります。「苦悶」とは、「意味」を人生に見出そうとすることがもたらす苦しみである。…

 senseとは、意味・方向・感覚といった意味があり、ひとつの語に訳せない。
 1)まず方向づけという含意について。
 それはaからbへ、bからaへという送り返しのなかにおいてのものです。これは翻訳の問題でもある。…
 2)それから感覚としてのセンスについてですが、ここにもたえず送り返し(フィードバック)がある。
 感覚は世界を前提としています。感覚刺激を外界から受けて、反応する。…

 前置詞aも多義的で、意味素となっています。
adressとは呼びかけで、住所…
 西欧の住所表記は、家から通り、都市名、国名の順ですが、日本式の住所表記はまったく逆です。

 ハイデガーにヴィンケという言葉があります。フランス語だとシーニュ。シグナル、合図、記号のことです。
 しかしこのヴィンケはフランス語にも翻訳できないだけでなく、ドイツ語にも翻訳がむずかしい、ハイデガー語です。…
 それは、意味作用のふちにある言葉です。なにかを指示している、そういう意味で、アドレス:合図であるような語なのです。

問い:翻訳と体験について…

応え:…多義性とは、意味の可能な限りでの振幅のことです。
 自由とは、観念でも概念でもなく、経験です。経験の経験とでもいえばいいでしょうか。
 自由という経験を、概念的に定義しようとしても無駄です。概念を規定せずに、むしろ壊し、意味の幅を拡張していくことが求められるのです。
 芭蕉の連句は、もの、香りでつながっていきますよね。
意味の同一性とは、概念的な内包ではないのです。
意味の意味とは、隔たりであり、呼びかけです。
自由とは、抵抗への呼び掛けのことなのです。


問い:日本語での「意味」には「味」という言葉が含まれています。

応え:自由とはたしかに味わい、香りなど、味覚の問題でもあります。味や香りは翻訳することができないものです。

 私の本「自由の経験」は、哲学的な技術が高いもので、ラクー=ラバルトですら「いやー、もう一回読まないとわからないねえ」といっていました。
 「自由な人間」の語源には、奴隷でない人間という意味がありました。プラトンは人間で、メノンは奴隷だったのです。
 財産=所有物=ステータスとして「人間」という言葉があったのです。
 …他人に所有されない人間とはありえるのでしょうか?
従属で考えるのは決定論です。
 インディペンデント=独立と自由とはまた違う。オートノミーと自由ともまた違うのです。
 デリダは「自由主義を擁護するために書いたのか」と言ってきました。私は「自由を奪い返すために書いた」といいました。

 …言語の冒険、オケイジョン=機会、試み、香り、それらが意味を作るのです。
 テクストとはフォーマットになっているわけではない。ソニーのマニュアルを翻訳するとき、そこには自由はないのです。
 哲学は文学の翻訳者ともいえます。呼び掛けを受けてそれに方向を与えること、それが翻訳者の使命なのです。
 カントは「自由は知りえない。ratioによって知ることはできない」と純粋理性批判の第三アンチノミーでいっています。
 …椅子から立ち上がるとき、自由です。新しい一連の現象がはじまります。瞬間ごとの連鎖、そのつど現象がはじまっているのです。
 サルトルはひとは自由だから病気になるわけではないといっています。…病気による決定…

 問い:「無為の共同体」では死によって啓発される共同体について論じています。共同存在とは、非存在者であり…
 根源的に現前可能な他者についても書かれてありますが、あらためて他者とはどのようなものなのでしょうか?

 応え:他者の現前可能性と現前不可能性ということがこれまで論じられています。私は現前や表象の不可能性テーゼには反対します。リオタールなどですね。
 まず、presence現前の問題と、表象不可能性の問題は異なる問題です。
 他者とは、プレゼンス現前でもインプレゼント非現前でもなく、たえず現れ出るものです。
 最後はないのだから、まったき他者とは自己自身のことでもあります。

 問い:co-exsitenzが小さな他者であるとすれば、mit-seinとは意味の分有…互いに露呈しあうような存在形態…他者と分有…
 ミットザイン共存在における言語の次元と時空間の次元のずれについてお聞きしたいのですが。

 応え:他者が存在するということは、ものの存在とは違います。
  現前とは運動です。他者は私の前、後ろ、横にいます。
 co-presenceとは、a-topicつまり、時間的に限定されないものです。ラスコー人との共存在といったこともあるのです。同時代に限定されません。


 問い:主体の共出現・コプレザンス共現前ということで…デリダは根源的な他者は現前しないといいます。あなたは思想の限界への可能性ということもおっしゃる。ナンシーとデリダとの違いはどのようなものですか?

 応え:デリダとの違いということでいうと、デリダはアポリアのひとです。袋小路、出口なし、ですね。
 私ナンシーはリミット、限界のひとです。

しかしデリダはアポリアから出ることもできるのです。
私はアポリアという概念は恐い。「境界」という言葉の方がいいです。
 バタイユはたしか「エロティシズム」のなかで、ただ言語だけが、境界において至高性を指し示す。言語だけが、言語の終わるところを指し示す、といっていました。

問い:私はダンスをやっているものですが、身振り言語と一般言語といいますか、言語との違いについてお聞きしたいのですが。

応え:…ダンスの身振りと思考の身振りとは同じです。
 重力・身体への抵抗とは、意味作用への抵抗でもあります。

 ダンスとは思考形式のひとつです。それはひとつの記号であり、資質でもある。…

だれもが一度は踊り、歌いますが、ダンスや音楽においては、体が向かい合います。身体が衝突するということ…

問い:書くことと感情について…愛憎センティマンとセンス。

応え:「過去の感情」と質問者はいいました。しかし過去とは、見出すものでなく、作られるものです。すでに感受アフェクトしていないと、感受ということはないです。(アフェクト:受動性・受容性)
 意味は送り返す、投げ込む運動のことです。ダンスがどうやって始めればいいのか分からないのと似ています。書くことも同様で、どう始めればいいのか、わからない。
 触発。はじまりを待つのです。そして、終わりはありません。宙づり状態なのです。誰もが同じです。どこからポエジーがはじまり、どこから哲学でどこからポエジーか、わからない。
 ahaとは空白のシラブル…ヘーゲルはフランス語の空虚な母音(homme)を嫌いました。私は、この空虚な母音aが好きです。
最終更新:2008年05月08日 18:45
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