日下部さんは水溜りの中で動かなくなっていた。
苦しそうな呻き声だけが雨音に混じってかすかに聞こえてくる。
「本来ならば、これで男さんと同じ痛みを味あわせてあげたいところですが……」
みゆきが日下部さんから奪ったナイフを見つめながら言った。
「やめろ! もういいみゆき! 十分だ!」
「……ええ、そうですね。男さんならそう仰ると思いました」
ナイフを日下部さんから遠い場所へ放り投げる。
「しっかりしてください。今、救急車を呼びますから」
駆け寄ってきたみゆきは俺の体をゆっくり起こしてくれた。
俺は、上半身を遊歩道と芝生を分ける低い柵に預け、みゆきが119番に電話するのを眺める。
腰と脚の痛みがひどくてとても立ち上がれそうにない。
互いの服を裂いて作った即席の包帯を使って、みゆきに簡単な止血を施してもらった。
だが、まだ出血はなかなか収まってくれない。
血を失ったからか、頭がボーっとする。
ふと、脇に目をやる。
日下部さんは、うずくまったまま、小刻みに身体を震わせているだけだった。
「一緒に警察にも連絡しておきました。すぐに駆けつけてくれると思います」
みゆきが傘を差した状態で俺の横にしゃがみこんだ。
「今更な感じはしますが…… 傘をお持ちしました」
ばつが悪そうに苦笑するみゆき。
俺も思わず、苦笑い。
「……みゆき、強いんだな」
「お恥ずかしながら…… 少々、合気道を含め武道の心得がありまして…… 昔取ったなんとやら、です。うふふ、私ドジなところがありますので、実力を発揮できないことが多いのですが、運動が苦手というわけじゃないんですよ?」
そうか、こなたが前に言ってたな。みゆきは運動もできるって。
「今日は、ドジを踏まずにできて良かったです」
と、にっこり。
「……でも、あんなに躊躇なく日下部さんの腕をへし折ったり、投げ飛ばしたりするなんて…… ちょっと驚いたよ」
「いえ…… あれは肩の関節を外しただけですから、病院に行けばすぐに元通りになりますよ。手荒なマネでしたが、彼女の動きを止めるにはあれが一番効果的だったと思います。それに、彼女は男さんを……」
「……俺を傷つけたから、か?」
「はい…… こんなにそれもこんなにひどい傷を……」
「ああ、正直ヤバかった…… 助けてくれてありがとう」
「いいえ、当然のことです」
「みゆき…… さっきは、ほんとにごめん。みゆきの手をはたいて、走って逃げたりして……」
「いえ…… いいんです」
「……なあ、正直に答えてくれ。みゆきは本当にかがみを殺したのか?俺はみゆきがかがみを殺したものと思い込んでて…… それでみゆきのところから逃げ出したんだけど。でも、日下部さんもかがみを殺したって言ってて、俺わけがわからないんだけど……」
「……私だって、かがみさんを殺したようなものです」
「だからそりゃ、どういう意味なんだ?」
「男さんの話によると、直接的に手を下したのは日下部さんなのでしょう…… ただ私には動機がよくわかりませんが……」
「ああ、動機なら日下部さん本人から聞いたよ。正直理解に苦しむ内容だったけど……」
俺は日下部さんが俺に語ったことを掻い摘んで説明した。
「愛する人を傷つけるなんて…… 本当に理解に苦しみますね……」
俺はどっちか言うと、百合の部分のほうが理解できなかったんだが……
……まあ、いいか。
「それより、さっき言った直接的がどうとかってのは……?」
「私も、かがみさんに対し敵意を持って行動しました。ただ方法が間接的な方法だった、というだけです」
「間接的?」
「ええ。うちに…… 高良家に、伝わる禁術を行使したのです」
「……は?」
「黒魔術のようなものといえばお分かりでしょうか? 父の書斎で偶然見つけた本に記されていたのですが……」
「ぷっ!は…… ははは。黒魔術って…… いくらなんでも、このご時世に……」
「亡舞『生者必滅の理』と幽曲『リポジトリ・オブ・タカラ』このふたつを行使すると、行使された対象はさまざまな、そう、場合によっては死に至らしめるようなものを含めてさまざまな厄災を被ると言い伝えられています」
……それ、なんてスペルカード?
「確かに迷信の類に過ぎないのかもしれません…… しかし、現にかがみさんは亡くなりました。日下部さんがかがみさんを手にかけてしまったのも、もしかしたら私の禁術のせいかも……」
「そんなバカな…… 少なくとも俺は信じねーよ」
「でも…… でも…… そこに私の悪意が働いていたのは確かです。私の悪意が間接的とは言え…… かがみさんを……」
みゆきはぐっと唇をかみ締める。
「……私、さっき日下部さんに偉そうなことを言っておきながら、私だって力を行使することで男さんのことも傷つけていたんです。そのことにも気づいていたんです」
「俺のことも傷つけてた?」
「私がかがみさんに敵意を向けるたびに、男さんが傷ついていたことはわかっていたはずなんです。しかも、それは私よりかがみさんが好きだからという理由からではない、ということも」
「ああ…… そうだな…… 」
「そもそも…… 考え方が間違っていることもうすうす気づいていました。大切な人のためなら自分を含め、周りの人間はどうなってもいい…… そんな考え方…… でも他に男さんに対する誠意の表し方がわからずに…… 気づかないフリをしてたんです」
誠意……
受け取る側の俺にも問題があったってことだ……
俺がもっとみゆきのことを一番に思ってやれば……
「最低ですね、私。散々かがみさんに嫉妬しておきながら、散々かがみさんに敵意を向けておきながら、散々かがみさんのこと『許せない』だとか『邪魔だ』だとか言いながら……」
涙を必死にこらえているようだった。
「今更、悲しむ資格なんかないのに…… なのに……」
搾り出すように言う。
「かがみさんとの思い出が…… 頭の中でぐるぐる回ってるんです。」
涙は流さない。
こらえている。
それはかがみに対する精一杯の誠意なのだろう。
「かがみさんがもういないって実感が今頃になって湧いてきたんです…… いなくなって初めて……」
「じゃあ、かがみに謝ろう」
「え?」
「天国のかがみに」
「許してもらえるでしょうか?」
「許してもらえるまで。一生かけてでも」
「……はい」
「ま、許してもらえるんじゃないかな? だって……友達だったんだろ?」
「本来ならこんなこと口が裂けても言える立場じゃないですが…… 『だった』だなんて過去形に…… したく…… ないです……」
「………」
「かがみさんは…… 私の高校での最初のお友達…… 少し遠いところに行ってしまいましたが…… 今だって……」
肩を震わせる。
……みゆきは気づいた。
自分の過ちに。
……そして、俺も共犯者みたいなもんだ。
俺は、それ以上の声をかけることはできなかったが、
そっと、肩を抱くことはできた。
「男…… さん……」
雨で冷えたからだに互いの体温を感じる。
「暖…… かい…… です」
救急車だかパトカーだかのサイレンがかすかに聞こえた。
なんだか、頭がボーっとする。
とんでもなく眠い。
血を流しすぎちまった…… かな……?
「ごめん、みゆき。ちょっと…… 寝るわ……」
「ふふ、男さんたら、風邪をひきますよ」
「………」
「男さん?」
「男さん!?」
「男さんッ!?」
「……そんなッ!?また出血がひどくなってきてるなんてッ!?」
みゆきが必死で俺の下半身を押さえて止血しようとしてくれるのが見えた。
しかし、きつく縛った即席の包帯も、渾身の力を込めたみゆきの手も、血の染みがどんどん広がっていくのを止めることはできない。
「男さん!男さん!目を閉じちゃダメです!もうすぐ救急車が来ますからッ!」
みゆきの声がなんだか遠くに聞こえる。
同時に、俺の頭に一つの言葉が浮かんだ。
今、この瞬間に、どうしても伝えなきゃいけない、と。なぜだかわからないが強くそう思った。
俺は必死に口を動かした。
空気の漏れるようなか細い声にしかならなかった。
みゆきが何か言ってるようだが、俺の耳に聞こえてくるのは、もはや耳鳴りのような音だけだった。
目も霞み始めて、みゆきの姿がどんどんと滲んでいく……
俺の言葉は、ちゃんと届いただろうか?
真っ暗な闇の中に落ちていくように俺の意識は、ゆっくりと途切れていった。
「俺、やっぱ、みゆきのこと、大好きだ……」
最終更新:2008年08月11日 13:30