今も忘れられない。
桜の樹の下で笑顔を見せた彼と、それに穏やかな笑みを返すあの子の姿を。
今も忘れられない。
どちらからともなく手を繋ぎ、こちらへと歩き出した時の二人の笑顔を。
やっぱり、と思う気持ちとどうして?と思う気持ち。
今までの上級生と下級生の関係ではなくなっているような…そんな気がした。
だってあんなに楽しそうな顔、今まで私は見たことがなかったから。
私ではあの笑顔を引き出せないのか。
あの子でないとあの笑顔を引き出せないのか。
そんなことない…よね。
「こなた」
呼びかけに反応がない。こんな顔するなんてこいつらしくないな。
何を物思いにふけっているのだろうか。
「おい、こなた」
「ふう…」
聞こえてないな、こりゃ。
「チョココロネ、今日半額だってよ」
「……」
チョココロネ程度では反応しないか。
ちなみに今日は本当に半額である。いつもは消費期限切れでも値引きなんぞ一円すら
しないケチな購買のおばちゃんがいったいどういう風の吹き回しだろう。
いや、消費期限切らした物を売ってるのはまずいのだが。
「あー、そういや例のフィギュアが今日再入荷だったっけか」
「ほんと!?」
椅子を蹴り飛ばす勢いでガタッと立ち上がる。
さすがにこっちのネタを使えば反応してくれたか。でも、悪いがこっちは嘘だ。
「やっと聞こえてくれたな」
「あ…」
「お前がそこまで考え込むなんて珍しいな。何かあったのか?」
「ん、いやーたいしたことじゃないよ」
俺の問いかけに苦笑するこなた。
まさかグッズ買うのにお金が足りないとかそういうことじゃないだろうな…
「あいにくだが俺は金持ってない」
「む、男は私がゲームやグッズのために人にお金を無心するような女だと思うのかね」
「新発売のチョココロネのために金欠の俺から小銭をむしろうとした奴が何を言う」
「はっはっは、ゆーちゃんにケーキおごるお金があるんだからコロネ一個を買う
お金くらいは出せるだろうと思ってね」
み、見られてたのかっ!
うまく撒いたつもりだったのにこなたにはしっかり見つかっていた模様。
「…いくらほしい」
「やだなー、お金はいいんだよ。私が考えてたのはそういうことじゃないから」
「そ、そうか」
いつもの調子…には見えない。
俺もこいつとは短い付き合いじゃないから、一見すれば普段通りに見えるこなたの様子に
どこか違和感を感じるのだ。
「相棒が心配ですか、男くん?」
「まあ、それなりにな。昨夜みたいにボス戦中に止まってボコボコにされるようじゃ困る」
「う…あれはいきなりメールが入っちゃってさ」
こなたに勧められて(というか半ば強制的に)やり始めたネトゲだが、なかなか
面白いから困る。いまやレベルも40を超えた。
黒井先生もやっていて何度かパーティーを組んだが、あの人一応仕事してるのに
レベル95とはどういうことか。
「ゆたかが回復役に徹してくれたから勝てたようなものの」
「まあまあ。今度はポカやんないからさ。レベル124の実力はあんなもんじゃないよ」
「…レベルを聞くとお前の将来が心配になる」
大学受験もそう遠くない話なのにこれでいいのかと他人事ながら心配になる。
俺もまだどうするか決まりきってないのでこなたのことを言えないのだけど。
「男ってさ」
「ん?」
「ゆーちゃんのこと、いつから呼び捨てになったの?」
いつからだっけ…ゆたかも嫌がらないのでそのままで通っている。
きっかけはそう、あの桜の樹に登った日だろう。
あれから俺達は何かが変わった気がするんだ。
「扱いがお前と同等になっただけだ。お前にも呼び捨てだろ?」
「お、そういえばそうだね」
俺の言葉にぽんっと手を叩く。
「同等、か…」
――そして、何故か陰のある表情でそう呟くのだった。
ひらひらと舞い散る桜の花びら。あの大きな桜の樹に背中をつけて、俺達は並んで座っていた。
「もうすぐ散っちゃいますね」
「ああ。早いよな」
少し強い風が吹けば、こうしてゆっくりと落ちている花びらもあっという間に
空に舞い上がってどこかへ飛んでいってしまう。
ついこの間やってきたばかりに思える春は、いつの間にか風と共に去っていく。
「…ゆたか」
「はい?」
「登ってみるか」
「どこに?」
はるか上を指差す。
あの頃、俺が知る一番高いところから見た景色は今も見られるだろうか。
「だ、だいじょうぶですか?」
「足をかける場所って意外にあるもんだ」
よっ、と最初の枝に手をかける。
ゆたかは樹の根元から俺を見上げたままで立ち尽くしていた。
「…やっぱ、怖いよな。やめるか?」
「いえ…大丈夫です」
うなずき、右手で樹に捕まったままでゆたかの手をもう片方の手でとると、
ゆたかも勢いをつけて飛び上がる。
「おっとと。大丈夫か?」
「は…はい」
そのままゆたかの身体を抱き上げ、最初の枝まで登りきる。
背が伸びたからか、運動神経がよくなったからか以前に比べると樹の頂上がの頃よりも近い気がする。
「しっかり捕まっててな」
こくんとうなずくゆたか。
次に捕まる枝を探し、わずかな窪みに足をかけて登っていく。
ゆたかは軽いし俺もそんなに体重がある方じゃないが、太い枝でないと二人分を支えるには足りない。
「よし…ゆたか、来れるか?」
「はい」
伸ばしてきた手をつかみ、ゆたかの身体をぐっと引き上げる。
――本当に軽い。いつも元気そうに振舞うのにどこか儚ささえ感じさせる。
ずっと見ていないとふっと消えてしまいそうな。
「男さん?」
「…いや。もう少しだ、頑張ってな」
俺が登り、ゆたかを引き上げる。あせらずゆっくりと。それでもだんだんと青空が近くなっていくのがわかる。
最後の枝を登りきると、どこまでも広がる青い世界が目に飛び込む。
遥か下には俺達の住む街が見える。
あの頃見た景色とは色々と変わっているけど、あの時に感じた不思議な感覚は
今も同じものだった。
「――」
言葉もなく、ゆたかは樹の上からの景色を眺めている。
吹き上がってきた風に乗ってきた桜の花びらが俺達の前を通り過ぎてどこかへと飛び去っていく。
「やっと…男さんと、同じ高さに来れました」
「ゆたか?」
「私一人じゃ勇気が持てなくて。どうしてもここまで来ることができなくて」
それは、仕方がないことだろう。
この樹に登ろうなんて考える奴の方がきっと少ない…でも、ゆたかが言いたかったのは
そんなことじゃないようだった。
「上級生と下級生。男さんはお兄さんで私は妹」
俺の手に自分の手をそっと重ね合わせながら、ゆたかはそう呟く。
「下から見上げているだけでいいなって。そう思ってました」
「……」
「さっき、私が下から樹の頂上を見上げていたように」
鼓動が早くなる。
俺の手に重ねられたゆたかの小さな手がわずかに震えているのを感じる。
「でも、叶うなら同じ位置に立ちたかった」
だからなけなしの勇気を振り絞って、俺の手に捕まった。
怖さを必死にこらえながら届かないと思っていた樹の頂上まで登りきることができたのだ。
「ば、ばかですよね。ここまで登れたからって男さんに届くってわけじゃないのに」
一粒だけ流れ落ちる涙。
その時、思う。俺の心は、もしかしたら…すでに決まっていたのかもしれない。
誰にも話したことのなかった桜の樹の話をした時から。
いや、あるいはその前から。
「あ…」
泣かないでほしい。この子には…いつも笑っていてほしいんだ。
あの笑顔が好きだから。
「大丈夫」
「…え?」
「届いてる。もう、ゆたかの気持ち…俺に届いてるから」
ゆたかを抱く腕に力を込める。
そこで、それまでこらえていただろう涙が一気にあふれるのを見た。
「う…うあああああっ」
いつから俺のことを想っていてくれたのだろう。
それを考えると俺も切なくなる。
「ゆたか――ありがとう」
俺の素直な言葉にゆたかも涙を拭って笑顔を返してくれる。
春の終わりを告げるように、桜の花びらが青空に舞い上がって消えていった。
最終更新:2008年09月09日 21:07