あの人に話し掛けるたびにどきどきした。
緊張しているのを隠しながら思い切って呼びかければ、彼は笑顔で応えてくれた。
あんな高い樹に登ったのは初めてだった。
こんな身体だし、木登りなんてしたことないからもちろん怖かった。
でも、私の手を掴んで引き上げてくれて、見たこともない世界を見せてくれた。
朝ご飯のおかずの材料を少し多めに用意して、お弁当を作ってみた。
あの人は驚いて、だけどすごく嬉しそうに美味しそうに食べてくれた。
それが私も本当に嬉しくて、また作って来たいと思った。
少しずつ、少しずつ。
男さんは私に勇気をくれた。積み重なっていくひとつひとつの小さな勇気が
それまでできなかったことに挑戦する気持ちを生み出した。
「ふ、ふふふ…怖いのかな」
狂気の視線が私を射抜こうとする。
ああ、きっと以前の私なら泣きながらその場に座りこんで震えていたのだろう。
さらに私の命を狙っているのは家族であるこなたお姉ちゃんだ。
なんで、どうして?ってパニックになりながら尋ねていたに違いない。
「怖いよねえ。これから死んじゃうんだから」
「…そうだね。怖いよ」
怖くないはずはない。
でも、それ以上に…哀しかった。目の前にいる人が狂ってしまったことが。
「だけど」
私がいたばかりに、お姉ちゃんは気持ちを伝えられずに。
悩み苦しむうちにいつしか壊れてしまったのだろう――でも。
「私は退かないよ」
でも、この気持ちはかけらの偽りもない本物だから。
間違った方法で男さんの気持ちを引こうとするお姉ちゃんから逃げるわけにはいかない。
「お姉ちゃんが私を殺したら」
だから、絶対に退かない。
「男さんはきっと今以上にお姉ちゃんを見てくれなくなるよ」
仮に…私の命が絶たれてしまっても、どうか自分のしていることが過ちであることに
気が付いてくれますように。
「やってみろ、こなたああああああああ!!」」
男さんがお姉ちゃんをまっすぐににらみつけながら声を上げる。
雷が近くに落ちるのと同時に、お姉ちゃんの叫びと共にナイフが一気に振り下ろされた。
「うああああああああああああああああああああ!!」
肉を突き刺す嫌な音。降り始めてわずか五分で出来た大きな水溜りに赤い血が滴り落ちる。
「――」
土砂降りの雨の世界で、私達だけが止まっていた。
銀の刃は…私を刺すこともなく、男さんの喉元を突き刺すこともなく。
こなたお姉ちゃんの腹部に、三分の二以上刺さっていた。
「お姉ちゃんっ!!」
駆け出そうとした私を、うつむいたまま手を突き出して止める。
「…来ちゃ、だめ」
「え…」
「まだ、私の中の『影』が消えない。来たら…刺しちゃうかも知れない」
言い終えると、身体がぐらりとそのまま水溜りに向かって倒れこむのを男さんが慌てて支えてくれた。
「こ…このバカっ!刺すなら手とか別のトコがあっただろうが!」
「だめだよ…バカは死ななきゃ治らないって…言う…じゃん――」
言葉が途切れ、お姉ちゃんの身体がぐったりとなる。
「ふざけんな!お前みたいなバカはな…死んでも治らねえんだよ!!」
男さんがお姉ちゃんを抱え上げる。同時に、校舎に続くドアが勢いよく開かれて――え?
「少年、走れ!」
「あ…」
「ゆ――ゆい…おねえ…ちゃん?なんで、ここに…」
「早く!間に合わなくなるよ!」
「は…はい!」
いつの間にか人気のなくなっていた校舎を、男さんはこなたお姉ちゃんを
抱えたままで信じられない速度で走っていく。
「ゆたかは先に保健室!みなみちゃんはゆたかをお願い!」
「はい。ゆたか、先に応急処置」
「え?ちょ、ちょっと?」
遠くなっていく二人の背中を見ながら私は保健室に引っ張られていった。
かすり傷とはいえ、いくつも傷ができていることを思い出したのは消毒薬を
あちこちに塗られてその痛みに声を上げた時だった。
病室のドアをノックするも返事がない。
鍵はかかっていないようだったのでノブをひねって病室に入ってみた。
「生きてるか?」
「……」
窓の方を向いたまま、こなたは答えない。
外の景色を見ているのかあるいは…何か別のものを見ているのか。
「こなたお姉ちゃん」
「…もう、お姉ちゃんって呼ばれる資格はないよ」
ゆたかの呼びかけにかすれた声で返す。
生気をなくしてしまったかのようで、数日しか経っていないのにやつれてしまったようにも見える。
「それはこなたじゃなくてゆたかが決めることではないかな」
俺たちの後ろからゆいさんが静かに入って来た。
――何故あの場に現れたのか。それは事情を知っているからに他ならない。
「ゆい姉さん…お父さんはどう?」
「なんとか落ち着いたかな。病院に運んだって連絡した時は泣きそうになってたけど」
「そっか…」
ゆいさん曰く、おじさんも溺愛する娘の異変に気付かない父親ではない。
直接口出しはしなかったけど、もし自分がいない時に何かあった場合はこなた達を頼むと言われていたそうだ。
あの時ちょうど近くで見張っていて、俺とこなたの叫びを聞いて全速力で走ってきたらしい。
「まだ…生きてるんだね」
「そうだね。こなたは死ぬつもりだったのかも知れないけど、生きてる」
ゆたかが静かにベッドに歩み寄ると、こなたはびくっと肩を震わせてこちらを向いた。
あの日とは全く違い、まるで小動物のようにおびえている。
「ゆーちゃん…だめだよ。私なんかに近づいたら」
その小さな手で、こなたの細くなった手を包み込み、泣きそうな声でゆたかは謝罪の言葉をかける。
「ごめんね、お姉ちゃん。私のせいだよね」
「謝ることなんか…ないんだよ。ゆーちゃんはなんにも悪くないんだから」
「でも…」
「私はさ、もうお姉ちゃんには戻れないんだ。可愛い従妹を手にかけようとした
悪い魔女なんだよ」
訪れる沈黙。
それを破り、俺は壁に寄りかかりながら口を開いた。
「そうだな。もう戻ることは出来ない」
「男さん…」
「お前は以前の泉こなたでも魔女でもない」
「え?」
だって、もうお前からは…狂気なんて消え去っているから。
目を見れば俺にだってわかる。あの日までのこなたじゃないんだと。
「お前は死ななかった。ってことはまだチャンスがあるんだ」
「チャンス?」
「ゆたかを傷つけた罪を背負ってそうやって暗い気持ちのままで生きるのか、
それとも前向きに生きて償う道を探すのか」
しばし目を閉じて考えるこなた。
「私に、何かできるのかな」
「死んだら何もできなくなる。でも、生きている今ならしようと思えば何でもできる」
「時間はあるからね。ゆっくり考えてみるといいんじゃないかとお姉さんは思うけど」
生きていることには何らかの意味がある。
生きていることには…そのものに価値がある。
「私はね…償いとか、そんなの望んでないよ」
それまで無言だったゆたかが静かに、優しい声で語りかける。
「お姉ちゃんに…また笑ってほしいな」
「ゆーちゃん…」
「私は男さんのおかげで勇気を持てるようになって変われたの。こんなこと言う
資格なんてないのかも知れないけど、もしできるのなら――今すぐじゃなくていいから、
いつか…笑顔でいられる人になってほしい」
あふれる涙をこらえることができず、こなたはうなずきながらゆたかを抱きしめた。
ありがとう…何度も何度も呟きながら。
澄み渡った空から夏風が部屋の中を通り抜けていった。
もう――大丈夫だ。
最終更新:2009年08月25日 20:36