042-425 髪を切るはなし @エノコロ草

「ライ君!」

名を呼ばれ、僕は足を止めた。
僕は今日のシミュレータ騎乗を終え、スザクと連れ立ってルーチンのメディカルチェックへ向かうところだった。
振り返ると、特派の制服に身を包んだセシルさんが小走りにやってくるのが見える。
「どうしました?」
「これ、あなたのかしら。コクピットに落ちていたそうだけど」
差し出された手には、オレンジ色の髪ゴムが乗っていた。
「――ああ!それ」
僕は思わず後頭部に手をやって声を上げた。髪を探る手がすかっと抜ける。
――シミュレータ入りしたときは、何重かにしてきつめに束ねていたはずだったのだが。
「髪、縛っていたっけ?気付かなかった」
「今日、貸してもらったんだ。シャーリーに」
僕は、礼を言ってセシルさんの手からからゴムを受け取って、スザクに答えた。
彼女の髪の色によく似た明るいオレンジ。
昼休み、生徒会室で時間と戦いながらおにぎり片手に書類仕事をする僕に、シャーリーは予備のゴムを渡してくれたのだ。
「よほど、邪魔そうにしていたんだろうな」
僕は、目に影を差す前髪を右手で払い上げた。
「確かに、随分伸びたね。」
「学園に住み込むようになってから、切っていないし」
答えながら、僕は手にしたゴムで伸びた襟足と頬にかかる髪をかき集めて束ねようとした。と、するりとゴムが逃げる。
僕は見えない後頭部を探ろうと虚しく視線を泳がせながら、もたもたと髪をいじっていたが、やがてあきらめてため息をついた。
「……昼は、結べたんだけれど。」
「束ねるにはちょっと短いかもね。ピンか何かで留めればいいんだろうけど」
再び僕の手から飛び出したゴムを拾い上げて、スザクが言った。
髪を束ねるという仕草に慣れていないせいもあるが、思い思いの方向へ中途半端に伸びた僕の髪は、シミュレータ騎乗のあとで汗ばんでいてさえ、非常に扱いにくいのだった。
「ナイトメア騎乗に尖り物は賛成しないわ」
「とがりもの――、ああ、ピンですか。そうですね」
僕がその言葉に納得していると、セシルさんはちょっと考える仕草をして言った。
「ライ君、チェックが終わったらもう一度ケージにいらっしゃい」
「えっ?」
思わず聞き返すと、セシルさんはにこりと微笑んだ。
「髪、切ってあげるわ」




「髪を切るはなし」




しゃく、しゃくと小気味良く刃物の鳴る音がする。
伏せ気味にしたまぶたの上にぱさりと毛の束が降って来て、僕は瞬きをした。
鼻先をくすぐりながら滑って行った髪の毛が、白い布に覆われた膝の上へと落ちるのが見える。
わずかに頬に残った感触がくすぐったくて、僕はふっと息を吹いた。
「本当に。随分、伸びたものね」
頭の上から、セシルさんの声がした。
「ふた月ほど、でしょうか。――ここに来た時にはもう、それなりに長かったから」
僕は答えた。すっ、すっと髪が梳かれる感触。かすかな音を立てて、梳き出された髪がなめらかな布の上を滑っていく。
「――スザク君の髪もね、切ってあげたことがあるのよ。特派に所属して、最初の頃」
「そう、なんですか」
「スザク君、くせっ毛だから。髪が伸びると人相変わるのよね。」
くすくすとセシルさんが笑う。
「私ね、昔からよく父や……弟の髪も切っていたのよ。」
「そう、ですか」
はさみの音。また、髪の毛が降り落ちる。
「そうよ、あなたは不安だったかもしれないけど。慣れてるの」
笑いを含んだ声が、いたずらっぽく言った。櫛を扱う左手の指が、耳に触れる。僕は一瞬どきりとした。
( ――なんだろう、)
シュッ、と音がして、ひんやりと冷たい霧が降る。櫛を使う手で交互に髪を引かれた。
僕は、彼女の手の動きを思いながら、胸の内で波立つような、何かを感じていた。
「あなたの髪も、くせ毛よね。スザク君とタイプは違うけれど」
( ……『――の髪はくせ毛ですね――と、似たのでしょうか』―――――?)
セシルさんの言葉が、ぼんやりと、やわらかな女性の声と、やさしく髪を梳く細い指のイメージを呼び起こした。
「いっそ、伸ばして束ねてしまった方が始末はいいのかもしれないけれど」
(『――さまは、短くきりりとしていてくださった方が、わたしは好きです』――――)
何だろう、少女の声だ。いくらか幼い――何か、ひどく……胸がさわぐ。ざわめく?
「髪は、伸ばしきるまでが面倒なのよね」
(『――の髪は、きれいだな。――に似て。うらやましいよ、私とは』―――――)
唇が震えた。この声は、知っている―――僕だ。僕が―――

「さ、どうかしら」
ぽん、と肩を叩かれ、僕は我にかえった。セシルさんの指が、大きく僕の髪を梳く。
目を上げると、そこには男の顔。後ろに、微笑むセシルさんの顔が覗いている。
「あっ、はい。ありがとうございます。」
なめらかな鏡面の向こうから自分を見返すのは、食卓の子供のように首元に白い布を巻かれている男だ。これが自分。
思い思いの方向に向いた、くすんだ灰色の髪。今は、伸びていた襟足は梳かれて軽い。長い前髪に隠れ気味だった瞳も、今は姿を現している。色は濃い青。――表情といえるほどの表情は、浮かんでいない。
これが、自分。
「以前どんなだったのかわからないから、適当に短くすいてしまったけど。」
「いいえ、十分です、これで。ありがとう」
「そう?良かった」
合わせ鏡で、僕の手元の鏡に後頭部を映しながら、セシルさんはにこりと笑った。
「――それに、多分」
「?」
首の白い布を解きながら、鏡の中のセシルさんが言葉を待つように僕と目を合わせた。
「長い間、普段から短くしていた気がします。こんなふうに」
「――そう、良かった。」
セシルさんは少し考えるように首をかしげると、やさしく言葉を接いだ。

布を取り払われて、僕は頭を一振りした。てるてるぼうずの下から現れた両手で、探るように髪をすく。
ちくちくとした毛の感触が首筋に残っていたが、何よりも開放感が勝った。
軽い。なんだか目が覚めたように、世界が明るく見えた。
「誰かに、切って貰っていたの?こんな風に。」
「そう、かもしれません。」
セシルさんの問いかけに、僕は答えた。
――そう、多分、こんな風に。僕にも、誰かが、確かに。

「―――あら。」
セシルさんが僕を見て、驚いたような表情を見せた。僕は、自分の口元が、わずかにゆるむのを感じていた。
先ほどまでの胸のざわめきは、せつないような、温かなぬくもりに変わっていた。


(おわり)


最終更新:2009年08月03日 22:31
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