ある日の放課後、僕は生徒会室でシャーリーと一緒に書類に目を通していた。
「今日は他に誰も来ないのだろうか。ミレイさんが家の用事で先に帰るのと、スザクが軍の仕事で来られないのは、昨日聞いたが」
僕がそう言うと、シャーリーが顔を上げて答える。
「えっとね、ニーナは大学の研究室に用事があるみたい。カレンは何も聞いていないけど、多分病院じゃないかなあ。もしかしたら、遅れて来るかもしれないけどね」
「なるほど。じゃあ、ルルーシュとリヴァルは?」
僕が二人の名前を出した途端、シャーリーの表情が不機嫌そのものになる。
「ああ、さっきリヴァルのバイクに二人仲良く乗って、どこかへ行っちゃった。どうせまた、賭けチェスだと思うけど。
まったく、『仕事があるんだから残って』って休み時間に声をかけておいたのに」
「適当にはぐらかされてしまったのか、君も大変だったな」
僕が苦笑いすると、シャーリーは肩をすくめた。
「うん、まあね。だから助かったよ、ライ君がいてくれて。君は仕事が正確で速いから、二人で頑張ればきっと今日中に片づくよ」
「僕自身は、自分のことは大したことないと思っているんだがな。だが君に期待されている以上、全力は尽くそう」
僕たちは笑い合うと、再び仕事に取り掛かった。
それからしばらく時間が過ぎた頃、ある程度仕事を片づけた僕たちは、少し休憩することにした。
「あっ、そうだ。ライ君に聞きたいことがあるんだけど」
机を隔てた僕の向かい側の椅子に座って伸びをしながら、シャーリーが声をかけてきた。
「聞きたいことって何だ?答えられる範囲なら答えるが」
「ありがとう。じゃあ早速なんだけど、最近カレンとはどうなのかな?」
「カレンと?うーん」
興味深々のシャーリーに聞かれ、僕は考えた。カレンには学園でお世話係主任として関わってもらっているだけでなく、最近では黒の騎士団における仲間として、背中を預け合っている。
シャーリーに騎士団のことは話せないが、この場合、「カレンとは互いに信頼し合っている」とでも言えばいいのだろうか。
「まあ、互いに信頼し合えるいい関係だと思う。彼女には色々と世話になっているし、いくら礼を言っても言い尽くせないかもな」
「へえ、そうなんだ。友人としては、結構いい感じみたいだね。じゃあさ、一人の女の子として彼女のことはどう思う?」
「女の子として?」
シャーリーに次の質問をされ、僕は再び考える。この質問の意図としては、「カレンは僕から見てどんな女の子か」ということを指すのだろうか。
まさか「男勝りで熱血で、玉城におちょくられたら拳で応える元気な子だ」なんて、口が裂けても言えないよな。
「そうだなあ。やはりお嬢様らしくおしとやかで、一見近寄りがたい所もあるけれど、実は面倒見のいい優しい人だと思う。多くの男子に人気があるのも頷ける」
「うーん、私が聞きたいのはそういうことじゃないの。あっ、でもライ君ってそういうのに鈍感っぽいから、わかるかなあ」
シャーリーが首を横に振った後、一人で何か言っている。何か、あまりいい印象を与えないっぽい言葉が出た気もするんだが。
「じゃあ、どういう意味で聞いたんだ?」
「あ、うん。えっとね、その…カレンのことをす……」
少し恥ずかしそうに言葉を紡いでいたシャーリーの動きが、突然ピタッと止まる。そして何やら、自分の足元付近を見回している。
「ん?どうしたんだ」
「う…嘘。でも今のって確かにアレ、だよね?」
「いや、アレと言われても」
シャーリーが机の下で何を見つけたのかわからず、僕が足元に視線を移した時だった。
「きゃあああっ!」
「うわっ、シャーリー!?」
突然シャーリーが悲鳴を上げ、椅子から転げ落ちた。僕はあわてて椅子から立ち上がり、シャーリーの近くに駆け寄る。
「シャーリー、どうしっ……」
僕が駆け寄ると、椅子が横倒しになり、その隣でシャーリーが床にへたり込んでいた。その綺麗な脚をこちらに向け、微妙に開いた状態で。
丈の短いスカートの中が見えそうになり、僕は瞬時に目をそらす。
「で、で、出たの!ゴキブリ!」
「ゴ、ゴキブリ?」
僕は周囲を見渡すが、床の上にはそれらしき生物はいない。
「別にいないぞ」
「本当だよ、本当に黒い虫がいたんだってば!こっちの方も見てよ!」
「いや、『こっち』というのが君のいる方向だというのは理解できるが、その……」
僕は相変わらずシャーリーから視線をそらし、少し熱くなった頬を指で掻きながら指摘する。
「学園のスカートは、結構短い。仮にも男の前でその姿勢でいるのは、そろそろ…だな」
「え?……きゃあっ!」
自分の姿勢に気づいたシャーリーが、あわててスカートを上から押さえながら、床に座り直した。そして顔を真っ赤にしながら、僕に尋ねてくる。
「もしかして、見ちゃったとか?」
「いや、それはない。断じて見ていないから、安心してくれ」
一瞬白い布状の物が見えなかった気がしないでもないが、シャーリーのためにこの記憶は全力で抹消しよう。
「しかし、ゴキブリなんてどこから入ったんだ。学園内は結構綺麗だと思うんだが」
その後、僕はシャーリーと隣り合って椅子に座っていた。彼女の気持ちも、少し落ち着いてきたらしい。
「どうなんだろうね。でもゴキブリって、一応飛ぶんでしょ?校舎のどこかの窓が開いている隙に、そこから入ったのかも」
「可能性はないとは言えないな。しかしすごい驚きようだったが、ゴキブリは苦手か?」
僕が尋ねると、シャーリーは顔をしかめて答えた。
「当然だよ、大嫌い。何だか黒光りして、気持ち悪いじゃない。あんなゾッとするような虫を好きな人なんて、いないんじゃないかな」
「随分な言いようだな。そこまで言うなら、やはりゴキブリは多くの人から嫌われ…いや、ごくまれにそうじゃない人もいるかもしれないんだろうけど」
一瞬卜部さんのことを思い浮かべ、僕はシャーリーに完全に同意するのをやめた。あの人の場合、虫という虫が好きだからな。それこそ、胃袋に収めてしまうくらいに。
「でも困ったなあ。ゴキブリがいると思うだけで、仕事に集中できないよ」
シャーリーが、困り顔で言う。
「よし、僕が捕まえよう。確か殺虫剤があったよな」
僕がそう言って、椅子から立ち上がった瞬間だった。僕たちの足元を、黒い何かが横切っていく。間違いない、ゴキブリだ。
「きゃあああっ!」
「言ったそばから!」
シャーリーが悲鳴を上げ、僕はゴキブリを追った。
「机の下に入ったはずだが、どこだ」
殺虫剤を探す時間が惜しかったため、僕は部屋の隅にあった古新聞を丸く包み、構える。
「どこ、どこ?」
僕の近くで、シャーリーがオロオロしている。そして間もなく、入り口側の机の下からゴキブリが出てきたのを、僕は見つけた。
「いつの間にあんな所へ!」
ゴキブリが部屋の入り口とは反対方向に走り、僕はそれを追った。シャーリーも怖がりつつ、結末を見届けるために後からついてくる。
「よし、隅に追い詰めたぞ。叩くのは忍びないが、許してくれ」
丸めた古新聞を片手に、僕は祈った。
「ラ、ライ君……」
シャーリーが僕の少し後ろに立ち、怯えながらゴキブリを見つめる。
「よし、せーの!」
僕が古新聞を振りかぶろうとした、その時だった。何とゴキブリが、その黒い羽根を突然広げ、僕たちの頭上目がけて飛び立ったのだ。
「きゃあああっ!飛んだ飛んだ、怖い怖い!」
「ちょっとシャーリー、落ち着いて!」
シャーリーが泣き叫び、僕の服の袖をつかむ。僕は何とかゴキブリを追おうとするが、うまく身動きが取れずにいた。
そしてゴキブリの鈍い羽音が二人の耳元をかすめ、彼女の動揺が頂点に達した。
「やああっ!」
「ちょっ、うわっ!」
僕たちはもつれるように、床の上に倒れ込んでしまった。そしてゴキブリは、何事もなかったかのように少し離れた床の上に着地する。
「だ、大丈……!」
「いたた。ごめんねライ君、私のせい…で!?」
自分たちの状況を理解した僕とシャーリーは、同時に絶句した。僕が彼女を床の上に押し倒す格好になり、もう数センチ近ければ二人の唇が重なりそうなくらい、僕たちの顔は接近していた。
「「ご、ごめん!」」
僕たちが動揺し、同時に相手に謝った時だった。
「失礼します、遅れまし……」
生徒会室の扉を開け、カレンが入ってきた。そして僕とシャーリーの姿を見つけ、硬直する。
三人の瞳が一点に交わったまま、大変気まずい空気が室内に流れ始めていた。
「カ、カレン!違うの、これはね!」
「違うんだ、別にこれはやましいことがあったわけでは……」
あわてて弁解しようとする僕とシャーリーを見下ろし、カレンが不気味なくらい落ち着いた声で言った。
「もしかして私、お邪魔だったかしら?」
まずい、何だかすごく怒っている。まあこんな場所で男が一方的に女性を押し倒しているのを見れば、女性としては怒るのかもしれない。とにかく、何とか誤解を解かないと。
「と、とにかくこれは誤解なんだ。僕とシャーリーは何も……」
「だったら、いつまでシャーリーを押し倒しているのかしらね?」
「あっ!す、すまないシャーリー!」
僕はあわててシャーリーの上からどいて、彼女を助け起こした。そして二人で床に座り、カレンを見る。
(あっ、カレンの足元にゴキブリが)
その時、僕はカレンの足元にゴキブリがいるのを見つけた。
「あら、ゴキブリ」
カレンもそれに気がついたのか、静かにゴキブリを見ている。やがてゴキブリは、開け放たれた部屋の扉から外へ出ていった。
「よ、良かったぁ……」
その様子を見届けたシャーリーが、安堵のため息をつく。
「実はさっきから、あのゴキブリを捕まえようとしていたの。でも急に飛んだから私がびっくりしちゃって、それでね……」
「あ、もしかしてそれでさっきの体勢に?」
「そう、そうなの!だからね、私はライ君とは何もなかったよ!ねえ、ライ君?」
「ああ、そうだ。僕たちにやましいことは何もない」
シャーリーに同意を求められ、僕は何度も強く頷いた。するとカレンが、微笑んで言う。
「何だ、そうだったのね。ごめんなさいねシャーリー、誤解しちゃって」
「ううん、いいよ。確かに私たち、紛らわしい状態だったから。本当にごめんね」
「別にいいわ、シャーリーは…ね」
カレンが少し怖いくらいの笑みを、僕に向けてきた。それは外見では判断できないが、一緒にいる時間が長く、かつ彼女の素顔を知っている僕にはわかる。
もしかして、まだ怒っているのか。誤解は解けたはずなのに。
「ライ、後で少し話し合いましょうか。私は少し用事があるから、また後で『じっくりと』ね」
何故か「じっくり」の部分に力を入れ、カレンは僕にそう告げると、生徒会室から出ていった。
「な、なあシャーリー。まだカレンは怒っているんだろうか」
するとシャーリーは、微妙な笑顔で答えた。
「うーん、あんなのを見ちゃったからねえ。多分、怒っていると思うよ」
「何故だ、誤解は解けたはずじゃないか」
「女心は複雑なんだよ、色々とね。その様子だと、まだライ君にはわからないか」
そう言ってシャーリーは肩をすくめ、僕は首を傾げた。どういう意味なんだ、彼女は何か知っているらしいが。
「とにかく、ちゃんと仲直りしなよ。私も二人のこと、応援しているんだからね」
「あ、ああ。仲直りは当然だが、何を僕たちは応援されているんだ?」
するとシャーリーは、いたずらっぽい笑みを浮かべて言った。
「何でもないよ。でもきっと、ライ君だっていつか理解できるはずだから。それと、さっきはごめんね」
結局シャーリーが言うことの意味が何なのか、僕にはわからなかった。
その後。少しだけ残っていた仕事を片づけた後、僕はアジトへ行ってカレンに会った。何を怒っているのかは彼女の口から語られず、代わりに模擬戦を申し込まれた。
その日の紅蓮の動きは抜群で、僕の乗る試作型月下は常に劣勢に立たされ、結果は完敗。また模擬戦が終わってからの彼女は上機嫌そのもので、結局僕は何も知らないまま許されることになった。
ちなみに、その時の彼女の怒りの原因が嫉妬だったことを僕が知るのは、特区日本が成立して彼女と付き合い始めてしばらくのことである。
最終更新:2009年10月02日 00:57