043-637 名前 @名無し

それは些細な悪戯心からだった。
すやすやと眠る彼の側で添い寝してやろう。
それはほんの僅かな自己満足の為の行為。
そう私はわかっている。
本当に、それだけの事でしかないと……。
だけど、やってしまった。
仰向けで眠る彼の横で横になり、擦り寄っていく。
そして、身体が当たるか当たらないかのところで止める。
今の私には、それが精一杯。
でも、それだけで私の心臓はの動悸は高鳴り、とても恥ずかしく、それでいてとてもうれしい。
私は、彼の事がとても気になっている。
いや、これは……多分……好きなんだと思う。
そういえば、ここ最近はいつも彼を目で追っている気がする。
ああ、いつからこんなになってしまったんだろう。
私は、そんなことを思いつつ、気持ちよさそうに眠っている彼の眠っている横顔を見ていた。
そろそろ離れないと……。
そう思っていても、身体は動こうとしない。
いや、離れようと思うだけで、心も身体も今の状態から抜け出せなくなっていた。
このままここにいたい。
それだけで、今はいい。
そんなことさえ考えてしまう。
いけない。
これはいけないことなんだ。
そう思ってみても、動けない。
彼が目を覚ましたらどうしょうという思いと、目を覚まして私を見て欲しいという思いが、私の心の中で吹き荒れている。
ああ、駄目なのに……。
でも、駄目だと思うけど、私の思いはそれ以上に強く、歯止めが利かない。
あと5分だけ……。
あと10分だけ……。
まるで、駄々をこねるかのように時間が先延ばされていく。
このまま、ずっとこの時間が続けばいいのに……。
そう思った瞬間だった。
「んんんーっ……」
彼が寝返りをうち、身体の向きを変えた。
天井を向いていた顔が動き、私の方を向く。
私は身体中を強張らせてしまい、動けない。
そして、まるで私を見つめるかの様に顔が動き、右手が私の身体を覆いかぶさるように載せられる。
びくんっ。
身体が反応し、私は息が止まるほど驚く。
だが、それだけではなかった。
まるで私が居るのがわかっているかのように、私の身体に載せられた彼の手に力が入ると抱き寄せられていた。
一瞬、思考が真っ白になる。
そして、気が付くと、私は彼の胸の中に居た。
彼の匂いと身体から伝わる体温が私の思考を完全にトロトロに蕩かしていく。
ああ、なんでこんなことに。
ほんの悪戯心から始まったとはいえ、こんなことになるなんて……。
でも、すごくうれしい。
私、彼に抱きしめられている。
顔がまるで熱でもあるかのように熱くなっていくのがわかる。
駄目だ……。
すごく……、うれしい。
そして、幸せすぎる。
それは、偶然の出来事であっただろうが、私にとっては、とてもすばらしいことだった。
普段、神様なんて信じないのに、この瞬間だけは神様に感謝してもいいと思ったほどだ。
だけど、そんな幸せは続かなかった。
抱きしめられた私に囁かれた寝言は、別の女性の名前だったのだから。
その言葉は、蕩かされた私を正気に戻すのに十分だった。
私は、彼が目を覚ますのもかまわずに、力任せに押しやるとベッドから叩き落した。
「あいてっ……」
ベッドの下から悲鳴が聞こえたが、私はそんな彼にかまわずにさっさと部屋を出たのだった。


知らない女性の名前にショックは受けたものの、結局、それが私を決心させるきっかけとなった。
他の女に獲られたくない。
彼を私のものにしたい。
その思いだけが強く強く、私を動かしていた。
だから、私はブルームーンの夜、彼に告白した。
好きです。愛していますと……。
そして、彼も私に答えてくれた。
それはとてもうれしいことだった。
だけど、私はどうしても、あの時出た女性の名前が気になって仕方なかった。
でも聞けなかった。
すべてを壊してしまいそうな気がして、どうしても聞くことが出来なかった。
そして、月日が流れた。
その間に、辛いこと、楽しいこと、いろんなことを二人で体験し、共通の時間を過ごしてきた。
それは、二人の絆をより強くしてきた。
だからだろう。
今なら聞けると私は思った。
あの時出た女性の名前はなんだったのかと。
私の質問に、きょとんとしながらも、かれは教えてくれた。
そして、彼の口から出た答えに、私は大笑いをしてしまった。
彼の寝言に出た女性の名前。
怖くて怖くて聞けなかった名前。
それは、彼の妹の名前だった。
つまり、私は、今までずっと彼の妹に嫉妬していたのだ。
そして、それがきっかけで告白する決心をした。
なんだ、私、一人で勝手にくるくる回ってただけじゃないの。
もう、笑うしかなかった。
だけど、それは惨めな笑いではなかった。
楽しくて楽しくてしょうがない。
そして、彼の妹に感謝する笑いだった。

《おわり》


最終更新:2010年01月26日 00:13
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