生徒会の仕事が終わり、茜色に染まりつつある空を何気なく眺めながら、赤毛の少女カレンは、やや幅の広い廊下を歩いていた。
今は私立アッシュフォード学園に通うお嬢様、カレン・シュタットフェルトを演じなければならないのだが、誰の眼も向けられていないせいか、名家貴族の令嬢にしては、やけに軽い足取りだった。
「……ライ、部屋にいるかな? 音楽の授業で居残りさせられてたけど」
いや、それは彼女の行く先が恋人の部屋だからだろうか。
カレンは廊下に数多くある窓から空を見つめながら、少年の顔を思い浮かべた。
居残りとは言っても、別に成績が悪いからではない。むしろ彼は、学年でも屈指の秀才である。
更には人を惹く整った容姿と柔和な性格を併せ持ち、教師の評判は良好だった。
だから、彼に限ってお説教は有り得ないだろうし、政庁の仕事が無い日は、自分の部屋で過ごすことが多いから、今頃はそこにいると思うのだが。
ふと、カレンの視線が空から外された。
生徒達が暮らすこのクラブハウス内では聞き慣れない、柔らかな音色――ーバイオリンの音だ。
校舎の音楽室からではない。
自分が今、行こうとしている先から聴こえる。
「珍しいわね、誰が弾いてるのかしら……」
疑問に思いながらも、カレンはその美しい調べに聞き惚れていった。
聴いたことがない曲だが、バイオリンという楽器に良く合っていて、癖になる音楽だ。
彼のもとへと近づくにつれて音は大きくなる。
音階が激しく変化して、弾むように音色が流れた。
「もしかして、ライが……?」
カレンの呟きは、もはやよく聞き取れないくらいにまで、バイオリンの音が大きくなっていた。
決して不快に感じる程ではない、丁度良い音量。
だからこそ、歩いていくと何となくわかってきた。
音源は、ライの部屋ではないかと。
目的地に辿り着いて、それが確信へと変わる。が、扉を前にして、今入ってもいいものかとカレンは迷ってしまった。
気配に敏感な彼のことだから、多分、誰かが部屋の前にいることぐらいは気付いているだろうけど。
下手に彼を促して、素晴らしい演奏を中断させるのは憚れるし、廊下で待っていれば、カレンは自宅通学という『設定』なので、妙に勘繰られるかもしれない。カレンのファンクラブである親衛隊に見つかっても厄介だ。
ライもまた、かなりモテるし、やはり、恋人宣言しておいた方が良かっただろうか、と考えかけてから、カレンは小さく溜め息をついた。
例の親衛隊は特に執念深いという噂で、カレンがちょっと朝の挨拶をしただけで、一時ではあるがライに付け回った時期があったのだ。
ついでに言えば、彼にもまたファンクラブが存在し、高等部どころか中等部、挙句には女性教師すらメンバーに入っている者がいるとか。あくまで噂だが。
このような状況で恋人宣言したら―――どうなるやら、想像がつかない。
もっとも、カレンとライの関係については、至る所で囁かれてはいる。が、状況が許さない、受け入れないと言った所で、それぞれのファンクラブは、競うように人気を伸ばしていた。
そういう訳で、こんなところにいるのを見つかると、面倒なことに巻き込まれかねないのだ。
しばし考えて、カレンは黙って部屋に入ることにした。
彼が部屋にいる時は、いつも鍵は掛けていないことが多い。
ドアノブを捻ると、予想通りあっさりと扉が開いた。同時にバイオリンの音が飛び出してくる。
音を立てないようにドアを閉め、カレンは静かに部屋の中へと入った。
奥へ行くと、窓際にあるベッドに腰かけたライの姿が見えた。
手の中にはバイオリンがある。やはり彼が曲を奏でていたらしい。
今も尚、オクターブを変えながら、眼を閉じて弾いている。
弓を振るう度に銀髪が揺れ、夕日の光を反射して輝いた。
窓から見える朱の空と、ライとバイオリンとの光景がぴったり合っていて美しく、カレンは曲を忘れてそちらに眼を、意識を奪われてしまう。
その姿は、城の大広間で腕前を披露する皇子のようで。
今まで音の乱れ一つと無いからか、ライの顔は満足気で、安らかな表情だった。
やがてライは細かく弓を動かし、クライマックス後の余韻を残して曲を終わらせた。
完全に音が無くなると、バイオリンを膝の上に置いて、ゆっくりと瞼を開いた。
「やあ、カレン」
黙って入ってきたカレンを咎めることはせず、驚きもしないライは、何事も無かったかのような振る舞いで笑顔を向けた。
ずっと彼に魅入っていたから、気付かれていたのか、とカレンは顔を赤くする。
「え、えっとその、ごめん。勝手に入っちゃって」
「いや、別に構わないよ。君ならいつでも大歓迎さ。それより、君に気を遣わせちゃったかな。こっちこそすまない」
慌てながらも謝罪を述べたカレンへ、ライが更に謝罪を重ねた。
ライは悪くないのに。どうして私が謝られなきゃいけないの?
カレンが呆れながら眉を曇らせた。
「ライが謝ることないじゃない。ただバイオリンを弾いていただけでしょう? 私が悪いんだから、そうやって自分のせいにして抱え込む癖、直しなさいよ」
何故か叱る立場になってしまっているカレン。
そして叱られる立場のライは、困ったように頭を掻いた。二人にとっては、いつものパターンであったりする。
「そんなつもりは無いんだが」
「私にはそうとしか聞こえないけど?」
「ははは。カレンには敵わないな。わかった、努力するよ」
これまた、いつも通りの答えで軽く流される。
カレンは諦めて、大袈裟に溜め息をついて見せてから、ライの隣へと腰を下ろした。
「その返答、何回も聞いてる気がするけど。……ねえ、さっきの、何ていう曲?」
ライの眼がふっと伏せられ、膝の上のバイオリンに視線を落とした。
「『銀の月光』。大昔の曲だよ。昨日思い出して、懐かしくなったから、音楽室のバイオリンを借りて弾こうと思って、な」
「懐かしい?」
「ああ。僕の母と妹が好きだった曲だから。今の時代では多分、知らない人の方が多いだろうし、僕の音楽で一時でも聴かせてあげたかったんだ」
そう言って、ライは神妙な顔つきで弓の弦をいじった。自分の過去を思い出しているのだろうか。
カレンもまた、ライを視線から外して、以前に聞かされた彼の過去を思い返した。
―――ライの過去。
信じ難いことだが、彼は、今の時代に生まれた訳ではない。過去からのタイムトラベラーと言っても良い、本来は存在するはずの無い少年だ。
彼は王だった。誰にでも、どんな命令だろうと従わせる絶対遵守の力、ギアスを持つ王。
少年は、家族を守るために『力』を求めた。たとえそれが、人を孤独にする王の力だったとしても、誰よりも強い『力』だったから契約した。
『力』を持った彼は、憎き父と兄達を自ら殺す大罪をも犯し、王になることができた。
しかし、その時にはもう『力』は、少年の手に負えない程の大きさに膨れ上がっていたのだ。
「北の蛮族を皆殺しにしろっ!!」
少年の体から、眼に見えぬ赤い結界が広がっていく。
国中に王の声は木霊したその瞬間、命令を聞き取った者達は一人残らず武器を手に取っていた。―――王が愛する母と妹も、例外なく。
狂っていく。少年も、国民も、『力』すらも、何もかもが。
後に残ったのは、赤く染まった人。人だったカタマリ。
刃に貫かれた娘。片腕が千切れた男。矢が胸に突き刺さった子供もいた。そして。
あれは王の母だろうか? 頭が潰れている。その下では王が最も愛した妹が、恐怖に瞳を見開き、母に抱かれながら唇をうっすらと開けていて。
たった一人、生き残った王が彼女らに近づく。呆然と、ただ目の前の光景を疑うことしかできなかった。
夢であってほしい。ギアスの暴走で、自分は幻を見ているのだ、と。
だが、どんなに彼が願おうとも、現実は絶対に変わることはない。王ではなく、少年として彼女らの名を呼んでも、応えることはあるはずがない。
母の顔が見れない。あれは母上じゃない、他の誰かだ。妹を庇って、守ってくれたんだ。お前だけは、生きていてくれるだろう……?
少年は必死に妹を抱きかかえた。何度も呼びかける。応えない。気を失っているのだろうか。
と、一筋の血が、少年の指から滴り落ちた。濡れているような感触、ああ、本当は気付きたくなかったのに。
少年は絶望する。自分の両手は真っ赤に染まっていた。敵の返り血を腐るほど浴びていた、汚れた手は、その血でまた汚されていたのだ。
その血は、誰のものなのか、と尋ねる必要も無く。妹の、血。
―――少年は叫んだ。何を言っているのか、自分でもわからない。
ただ自分を声で引き裂いてしまうかのように、紅く眼を輝かせながら。
死にたい。少年は心からそう思った。
だが、彼に死は許されない。まだ約束を果たしていないから。
少年は、死の代わりに眠りを選んだ。ギアスと共に、眠ることを。
意識が薄れていく中、命令する。
自らに「全てを忘れろ」と。
後に『一人ぼっちの皇子様』という物語のモデルとなり、後世の人々は、当時の王を『狂王』と呼ぶようになる。
その少年こそがライであり、目覚めた後、かつてのギアスを解き放ち、全ての記憶を取り戻していた。
今はギアスすら失い、普通の少年として生きていた。
と言っても、ライにとって、過去の記憶は楽しいものであるはずがない。
恋人となって間もないカレンに打ち明けると、自分からいなくなってしまうようなことを言っていた。
罪を犯したことによって、誰よりも他人に優しく、自分に厳しい人間となったのだ。
そのことを、カレンは充分、理解していたから、何とか暗い気分から逃れたくて、明るい声を出した。
「優しいお兄さんね。久しぶりに好きな曲が聴けて、きっと妹さんも喜んでいるわよ」
「……どうだろうな。むしろ怒っているんじゃないか。ずっと放っておいてしまったから」
今だに眼を落としたまま話すライの瞳が、カレンにはふと『灰色』に見えた。
深い海の底のような蒼色のはずなのに、彼の髪よりも暗く、色としての機能が備わっていないグレー。
唐突に、バイオリンの低い音が部屋に響き渡る。
ライの指が、弦を弾いたためだ。
「僕は、家族どころか、国一つを滅ぼした愚かな王。今すぐにでも、あの世へ行って謝りたいくらいだ。だけど、僕には死ぬことができないから、罪を償えないから、こうしてのうのうと生きている」
髪をなびかせて、ライは顔を上げた。
カレンをじっと見つめる双眸は確かに蒼だけれども、憎悪と哀しみが交じり合った色でもあった。
そんな彼と眼が合わせられなくて。合わせたくなくて。
思わずカレンは顔を背けた。
「そんなに、自分が嫌い?」
「ああ。自分を自分で、何度も殺したいくらい憎い。それができないからと、自分が平凡な日常を送っていることも、全てが許せない」
カレンは恐る恐る、ライの方へと向く。
はっきりと憎しみが映された表情が、嫌でも眼に入った。灰色が濁った瞳が、怪しく光る。
それは、彼女が愛した少年が作った表情とは、信じられないもの。
何も言えないカレンを見据えて、ライは軽く鼻で笑った。
「初めて僕の過去を話したとき、君は言ってくれた。この世界は僕を受け入れたって。多くの人達が、真っ白だった僕にたくさんの色をくれて、世界はこんなにも色付いていることを教えてくれた。僕は、君達と一緒にこの世界で生きていこうと思ったよ」
ライは一呼吸して、表情を一層険しく引き締めた。
「だが、未だに僕は『ライ』を憎んでいるんだ。罪を償いたいくせに、何もしていない僕自身もまた、ね。たくさんの命を消してしまった罪は、僕がけじめをつけなければいけないと思う。僕の十字架を、君に背負わせたくない。やはり、僕は」
「やめてッ!」
突然、カレンが声を発して、ライは驚いて言葉を止めた。
「それ以上、言わないで……」
普段の彼女とは想像がつかない、か細く震えた声で懇願する。
カレンを悲しませてしまったことが、ライの憎悪の炎を急激に弱らせた。
「……ごめん。君を悲しみの色に染めたくない……」
「だったら、ここにいてよ。自分自身を否定するだけが、罪滅ぼしじゃないでしょう?」
「カレン。僕は数え切れないくらい多くの人達の生命を奪った大罪人だ。普通なら死刑だろう。
契約のせいで死ねないと言っても、僕はもうギアスを失っているし、本当にもう死ねないのかはわからない。それなのに、僕は君達に甘えた……甘えて生きてきた。
それがどうしても許せないんだ。死のうと生きようと、何の罪滅ぼしにならないかもしれないけど、万一、僕のギアスが蘇るようなことがあったら、また同じ過ちを繰り返すかもしれない。
だったら、君達の前からいなくなった方がよっぽど賢い選択だ……」
今この時、ライが何か刃物でも持っていたなら、すぐにでも自らの心臓に、首に突き立てていたのかもしれない―――
初めて過去を告白した時にも言っていた。「ここからいなくなる」と。この世界から、『ライ』という存在を否定すると。
そしてカレンの答えも、以前と全く同じだった。即座に首を横に振る。
「違う。間違っているわよ、ライ。確かに、罪人には罰が必要だけど、罰は、罪人であるあなた自身が決めることじゃない……私達が決めることよ。自分で勝手に罰を決めて、自分だけで苦しむのは、もうやめて」
「じゃあ、教えてくれカレン。僕の罪を、どうやって償えばいい? ここに生きていていい存在なのか?」
カレンは覚悟を決めて、ライの視線を正面から受け止めた。
それは苦しみ。たった一人で苦悩し、傷を癒すことすら忘れた、強く心優しい少年が見せる弱さが込められた色。
その色を見たとき、カレンは不意に嬉しくなった。
ライにこれほど罪悪感があるならば、何も言わずに、人知れず身を散らせていても不思議ではない。
だが、その一歩手前でカレンを頼った。いつも一人で抱えてしまう彼が弱さを見せ、助けを求めてくれたのだ。
この世界で生きていたいと、思っているから。
カレンは柔らかく微笑むと、ライの頬を両手で包み込んだ。
突然のことに戸惑ったライが、咄嗟に左手を彼女の手に重ねる。
「……『狂王ライ』は、国を壊し、多くの人々を殺してしまった。その罪は永遠に消えない。だから『ライ』は、この世界で、新しい世界を作るために働いてくれてる」
ライが困惑してカレンを見つめるが、構わずに続けた。
「あなたへの罰は、ライとして新しい世界を作ること。それで充分でしょう?」
「……『かつてのライ』が犯した罪は、『今のライ』が生きて償う、ということか」
「そう。一度、あなたは眠りという罰を受けているわ。けれど、あなたは目覚めて、新たな罰を望んだ。なら、この世界で、またやり直せばいいじゃない。今度は壊すんじゃない、作っていくのよ」
―――温かい雫が、カレンの指を濡らした。指を伝って、それがバイオリンの弦に落ちた。
前髪を垂らし、顔を隠すようにしながら、少年は泣いた。
カレンの手が、頬から首へと移り、そのままライを抱きしめる。
ライは小さく震え、声も出さずに、涙を流し続けた。
狂王の過去に捉われ、今の自分を一方的に嫌っていたライ。
そんな自分を、涙に乗せて流していた。
ライという自分の存在を認識していくことを感じながら。
そして過去の自分も、今の自分も受け入れ、愛してくれる少女、紅月カレンという存在を噛み締めながら。
「ねえ、ライ」
白銀の髪を愛しそうに撫でながら、カレンが言った。
「私はあなたと出会って、変わることができたわ。他の皆も、きっとそう思ってる。今だって、ライがいなかったら、特区日本なんて成立してなかったと思うし、これからも世界を変えてくれるって信じてるの。
当然だけど、壊すよりも、直したり、変えたりする方が凄く難しいわ。でも、私達を変えたあなたなら、きっとその力があると思う。もちろん、私も支えていくから。お願い、ずっとここにいて……」
腕にこもる力が強くなる。
それはライのものか、カレンのものか、それとも両方だったのか。
二人の距離は、限りなくゼロに近づいた。
「も、もう僕は……」
銀髪が隠していたライの顔がカレンの目前に晒された。
いつもの冷静な彼とは思えない、傷つき壊れてしまいそうな少年の顔だった。
「一人じゃ、ないのか……?」
ライは、ずっと孤独だった。王の力故に。
彼をモデルにした物語もまた『一人ぼっちの皇子様』だ。
王となって国や家族を失ったときはもちろん、今の時代に目覚めた時も、学園に迷い込んで来た時も、やはり『孤独』だったのだ。
彼は罰を求めていたのではない。居場所を求めて彷徨っていた、ごく普通の、寂しがり屋の少年にしか過ぎないのだ。
カレンもまた、家族が傍にいない孤独を知っている。レジスタンス仲間はいても、自分を支えるくらいの余裕を持つ人間はいなかった。
自分を受け入れて認めてくれる、ライというパートナーが出来て、彼女は『孤独』から救われたのだ。
同じような境遇で、彼を強く想っていたからこそ、全てを悟ることができた。ギアスの、本当の恐ろしささえも―――
離さない、と言わんばかりに、更に強くライを抱きしめた。
「ええ。もうあなたは一人ぼっちじゃないわ。自分を押し殺して、無理をしなくてもいいの。ライを一人になんかさせない、私が、ずっと一緒にいてあげる……」
カレンが言い終わると、儚げだったライは、力無く笑っていた。
その笑みが、だんだんとライに、本来の色を取り戻させていく。
ライは拳で、濡れた頬を一気に擦った。
「……また、君に色を貰ったな。ありがとう、思い出させてくれて」
特別な相手だけの、特別な笑顔を彼女に向ける。
ライの眼はもう、『灰色』ではなかった。ライだけが持つ、世界でただ一つの色。
「ふふ。もう失くさないでよ?」
こちらも、満面の笑みで返す。
戻ってきたライの色は、カレンには以前よりも誇らしげに光っているように思えた。
―――私の大好きな色。ライには二度と失ってほしくない。
そんな祈りを込めて、カレンはライに抱きついて唇を重ねた。
ライの涙が落ちたバイオリンの弦には、恋人達を祝福するように、夕日の光を反射して美しく輝いていた。
最終更新:2010年01月26日 00:22