完璧な人間というものはこの世にいないものだ。これまでの人生でとっくに分かってはいた事だが、今日は改めてそれを思い知らされた。別に自分が完璧な人間であるなどと自負していたつもりはない。
武力ならばそれなりに誇れるものを持っているとは思うが、EUの領地を狡猾に奪い続けている兄シュナイゼルの様な知力は無いし、数多いる弟妹たちが唯一敵意を向けない長兄オデュッセウスほどの人徳(?)も持ち合わせていない。
過去には誰よりも敬愛していた義母マリアンヌ皇后をみすみす死なせ、異母弟妹であるルルーシュやナナリーをむざむざ死地に送るのを見過ごした事もある。
過去の失態と現在の自分の能力を把握しているからこそ、自分が完璧な人間だなどと驕ったつもりはなかった。完璧な人間などいないと分かっているからこそ少しでも完璧に近づこうと努力してきたのだ。
だから少なくとも――
「体調管理のできる人間程度にはなったつもりだったのだが……」
くしゅん、となんとも可愛らしいくしゃみをして、エリア11総督にして神聖ブリタニア帝国第二皇女コーネリア・リ・ブリタニアは、何枚も寝間着を着こんだ姿でベッドにうずもれたままぼんやりと天井を見上げて独白した。
弟クロヴィス殺害とナリタ連山での戦果を機に台頭した黒の騎士団、フクオカエリアに進出した日本の名を騙る中華連邦との戦い、さらには愛妹ユーフェミアが知らぬところで画策し実現させた行政特区日本。
言ってしまえば武力のみを持って鎮圧すればよかったこれまでのエリアに比べ、潜在する反抗勢力がこれまでのエリアで最大規模を持ち、なおかつ身内からも予想だにしなかった波乱を起こされて、流石のコーネリアも参ってしまったようで。
茹だる様に熱く湿り気を帯びたこの国特有の夏のある日、こちらを渇殺しているのではと思うほど日差しが強い朝、コーネリアは体がけだるく節々が妙に痛く、思考の回転が恐ろしく鈍化して喋るのも億劫な自分に気づいた。
ようするに人類永遠の病敵“風邪”に罹ってしまったのである。
たかが風邪と侮るなかれ、人類誕生より果たしてこの病によってどれだけの人命が奪われてきた事か。
人類の医学の歴史においていくつもの病に対する特効薬や効果的な治療法が発見されてきたが、万病のもとたる風邪ばかりはいまだブリタニアの先端医療技術を持ってしても特効薬は存在しないのだから。
「こほ、こほ。しかし、何もしなくてもいいというのも、けほ、存外辛いものだな」
正確には風邪を引いた程度なにほどのものか、といつも通り総督としての業務を行おうとしたコーネリアを、ギルフォードやダールトンが諌めて何もさせないようにしているのだが。
困った顔で休む様に告げる専任騎士といつも通り豪快に笑いながらお休みくだされと、起き上がった自分をベッドに押し込んだ元教育係の顔を思い出し、コーネリアはずきずきと疼く痛みを忘れて、かすかに微笑む。
二人には常日頃厳しくあり続ける自分を支えてもらっている自覚はあり、心許す関係である彼らが自分を案じてくれる事が嬉しくて、自然と気持ちが優しいものになる。
ほとんど最低限の化粧しか施さないコーネリアの石花石膏の様に滑らかで美しい肌は、自身の熱によってうっすらと赤く染まり、薄く苦しげに開かれた唇から洩れる吐息とあいまって、背徳的な艶美さを醸し出している。
しかしながら童女のようにあどけなく微笑むコーネリアの姿を見れば、どんな人間であっても劣情よりも心温まるものを覚えるだろう。
敵する者に圧倒的な恐怖を与え、ブリタニアの旗の下に集う者達にも、統治者たる姿を体現するその姿から絶対的な畏怖と畏敬を集めるコーネリアの、世に知られざる柔らかな一面である。
ただそれは今のコーネリアの姿を観察する第三者がいればの話であって、風邪の熱と気だるさに悩まされる当人にとっては、一刻も早く治れと弱った自分の体に叱咤を打つのみである。
ベッドの中でぐったりと脱力した四肢にはまるで力が入らず、コーネリアの思考と肉体の距離は途方もなく離れているようで、こんな状態ではせいぜい玉城の乗った無頼を一蹴するのが限度だろう。
まあ風邪の熱に浮かされた状態でそのような芸当ができる辺り、流石はブリタニアの魔女の異名をとる烈女といったところか。
コーネリアの世話をする侍女たちはすでに自室から下がっていて、すぐ近くにある控え室でコーネリアからお呼びがかかるのを静かに待っている。
世界の三分の一を支配するブリタニアに相応しい豪奢さは、コーネリアの気質にはそぐわず、コーネリアの自室は質実剛健という言葉をよくもここまで、という位体現した調度品で揃えられている。
例えば、月夜にのみ蕾を開く繊細で可憐な花よりも、大嵐に晒されても折れず崩れず聳える大木を由とし、長い時の中でも変わらずその存在を誇示する頑健で強固な存在をより良きとする傾向がある。
だからといってコーネリアが一般的な美的感覚を理解しないというわけではない。あくまで好みの傾向レベルの問題だ。
このブリタニア政庁の屋上に再現されたアリエスの離宮を模した庭園などは、可憐で艶やかな花々と白い石畳や石柱で形作られた美しさだが、コーネリアは特にこの庭園を気に入っていて、良く足を運んでいる。
余人の気配や息遣いが無く彩りも抑えられた部屋の中で一人する事もなく、ぼんやりと思考をあやふやにして天井を見ているきりだと、恐ろしく時間が長く感じられる。
戦場での一秒と風邪をひいて体を休めている時の一秒はまるで違うもののようだ。退屈だな、とコーネリアは心底困り果てる。
早くユフィが見舞いに来てくれないかな、そうすればこの陰鬱な気持ちはあっという間に晴れ上がるのに。
皇位継承権を返上して、騎士であるスザクと共に、行政特区日本の成功に多くの時間を割くようになった妹と会う機会と時間は最近めっきりと減っている。
小鳥が囀る様に可愛らしく喋るユーフェミアと過ごす一時は、コーネリアにとって何ものにも代えがたい癒しと安らぎの時間であり、このままでは退屈に殺されそうなコーネリアとしては早く妹の顔が見たかった。
コーネリアが、はふぅ、とうららかな日差しに気を緩めて眠りに落ちる寸前の女豹めいた吐息を零すと、室外の侍女の声が聞こえてきた。
「コーネリア総督、ライ卿がお見えになられましたが、お通ししてもよろしいでしょうか?」
風邪のお見舞いとはいえ人と話す事は病人には堪える。ギルフォードやダールトンといったエリア11管理に重要な人物や、ユーフェミアの様な親族以外は面会を侍女の方で断っている。
そのような事情を考えると親衛隊の一人とはいえ、一介の騎士でしかないライが直接コーネリアと対面して病身を見舞う許可は、コーネリアに問う前に拒否されてしかるべき所だ。
しかしコーネリアとこの特派所属であった少年との関係は、政庁内部のブリタニア関係者の間では専らの噂であり(桃色髪のお姫様が出所らしい)、この侍女もそれをほぼ事実と知るからこそコーネリアに許可を取っている。
侍女がコーネリアの答えを待つ一方で、問われたコーネリアはといえば、ライの名前が出た途端に、ぱあ、とそこに小さな太陽でも生まれたように明るい笑みを浮かべてから、自分の表情に気づいて慌ててそれを引っ込める。
いけないいけない、最近どうにも自分はライの名前を聞くだけで女の部分が前に出過ぎる。これでは到底エリア11を統治してブリタニアへの反抗の芽を摘むことなどできはしない。
コーネリアは己の気持ちを整理してからベッドから上半身を起して、十秒ほどかけてブリタニアの魔女の顔を造り上げる事に成功する。
二、三度ほど高くなった体温によって薄く紅色の羽衣を羽織っているように色を変えた肌の色は戻らぬが、潤んでいた瞳は研ぎ澄まされた氷の刃の鋭さと冷たさを取り戻し、室内の空気が凝と凍てつく。
室内に一歩踏み込めば、背筋に鉄の串を刺し込まれたように体が強制的に居住まいを正す硬い空気によって満たされる。
目の前にすれば思わず膝を屈する事を意識する――それほどの威圧感と統治者としての気迫、矜持を誇る凛々しきコーネリアがそこに蘇っていた。
普段なら特に意識せずともコーネリアがただその空間に居るだけでこうなるのだが、流石に風邪をひいて不調とあってはそうも行かぬようだ。
数回咳払いをして喉の調子を確かめてから、コーネリアはライに入室の許可を与える。ほとんど間をおかず、失礼いたします、の一言と共に扉が開かれて、見慣れた愛しい男の姿が視界の中に飛び込む。
親衛隊として行動している時と同じ、戦場に身を置く厳しさに引き締められた美しくもどこか幼さを残す少年の顔を見て、コーネリアは自分の唇と目元から不意に力が抜けるのに気づき、慌ててこれに喝を入れ直す。
恋仲に――言葉にするのが恥ずかしいのは相変わらずだ――なったとはいえ、部下と上司、騎士と主人として守るべき一線と一分は確実に存在する。それを自分から崩す様な言動をとるわけにはいかないのだ。
ま、まあ言葉遣い位はある程度許してやらない事もない事もない事もなくはないぞ、と考えている辺り、コーネリアの覚悟はすでに半分ほど崩壊しているが、本人はまるで気付いていない。
心の仲はともかく表面上はいつものコーネリアを取り戻した顔で、
「御苦労、私が休んだことで何か差し障りはないか?」
と、コーネリアがあくまで生真面目に言うとライは少しばかり目元から力を抜いて表情を柔らかなモノにする。どんなに人見知りをする子供でも、安心して近づくに違いないだろう人好きのする表情だ。
この表情と面倒見のよさ、大概の厄介事を解決して見せる能力の高さが交友関係を広くし、深い親密性を構築する原動力となっている。
「殿下の騎士達はみな優秀でありますから、ご安心ください」
「ふ、自分も含めて、と言いたいのか?」
「そのようなつもりは。ですが殿下の親衛隊の人間として恥ずかしくないよう努力しているつもりです」
「ならばよい。いまの自分に満足し安寧の泥に囚われず向上し続ける事を心がけよ」
「イエス・ユアハイネス」
「良い返事だ。……こほっ」
「殿下、あまり無理は成されず、さ、横になってください」
「う、うむ」
心の底から心配そうに形の良い眉根を寄せて、ライはコーネリアの肩を支える様にして、烈皇女の熱い美躯をベッドに横たえる手伝いをする。
ライに下心の類の他意が無い事は分かっているけれども、コーネリアの心臓がドキリと初恋に戸惑う少女のように跳ねた事は否めない。
先日、腕を抑えられ腰に手を回された事はあったが、いま体を案じてとはいえ大胆に体に触られる事には、どうしてもまだ恥ずかしさとそれ以上の喜びが残っていて、コーネリアはそっと視線を逸らす。
このように時折現れるコーネリアの幼い少女の感性がさせる仕草に、ライが気付かないのはコーネリアにとって果たして幸運であったか不幸であったか。
ライの左腕はコーネリアの右腕側から左腕側まで回されてその体を支え、右手は捲れたシーツを掴んで、横たわるコーネリアの首元に優しく掛ける。
もし、誰かがこの場に居たとしても休息を必要とする主を気遣う騎士というよりは、誰が見ても、病に伏した恋人を案ずる一人の男性としか見えない事だろう。
風邪で気が弱っているという事もあるが、それ以上に相手がライであるという点によって、コーネリアは大人しくライにされるがままベッドに横になる。
枕に降りかけられた気分を落ち着かせるハーブの香りと、あるいはユーフェミア以上に傍に居て欲しいと願っていた男が傍らにいるという事実に、コーネリアの心は自分でも驚くほど穏やかなモノに包まれていた。
極自然に心のままに穏やかな表情を浮かべるコーネリアの様子に、ライは思っていた以上に体調が悪いわけではないようだ、と安堵する。
自分が傍にいるから、という考えに辿り着かないあたりが、この少年が朴念仁呼ばわりされる由縁だろう。
コーネリアに断ってから椅子に腰かけて、ライは微笑みかけた相手を安心させる優しい笑みを浮かべる。
ライが誰にでも向ける暖かいが少しだけ罪深い笑みに、コーネリアにだけ向けられる親愛の情がほんの少しブレンドされている。その事に気づけるのはほんの極一部の人間だけだろう。
誰が持ってきたものかベッド脇の机の上に盛られたフルーツの山と果物ナイフ、皿を見つけてライがひとつ林檎を取る。
「おひとついかがですか? 最近ウサギカットというのを覚えたんです。可愛いし美味しいですよ」
「いや、風邪の所為か味がいまひとつ分からんのだ。何か……けほ、食べたいものがあったら、持っていっていいぞ」
「苦いとか、甘いとか、辛いとか分からないのですか?」
「そうだ。……お前は、風邪に罹った事はないのか?」
「幸い丈夫に生まれついていまして」
少なくともミレイ会長とルルーシュに拾われてからは、風邪を引いた事はない。
「良いことだ。丈夫に産んでくれた親に感謝する事だ」
「……はい。ところで殿下、本当に何も食べなくて大丈夫ですか? なにかお腹の中に入れないと栄養が取れませんよ。栄養を取らないと治るものも治りません」
「言われるまでもない。くしゅ! ……すまん、分かってはいるが味が感じられないというのはいま一つ、な。食べる気になれない」
やや意識が朦朧としているのか、コーネリアがいくらライが相手とはいえ愚痴めいた事まで零すではないか。ユーフェミアやノネットがこの場にいたら、目を大きく開いて口をOの形にしたかもしれない。
う~ん、と果物ナイフ片手に腕を組んで悩む素振りを見せたライは、いい事思いついた、とばかりに顔を輝かせる。古い表現なら頭の上に豆電球のひとつでも灯った事だろう。
試すのは初めてだが、たぶん、コーネリアも喜んでくれるだろう、と判断する。狙いを定めるまでは紆余曲折を経るも経て迷走するが、一度狙いを定めたらそのまま突っ走るタイプらしい。
「殿下、風邪をひいていてもひとつだけはっきりと分かる味がありますよ!」
「なんだ、なにかの謎々か? ……くしっ」
「いえ、ただ学園の友人に教えてもらいました。きっと気に入ってくださるかと」
「まあ、お前が言うのなら試しても構わんが。料理か?」
「いえ、すぐに用意できますから、すこし目を瞑っていただけますか?」
「うん? 分かった」
普段のコーネリアであったならこうまでライの言うがままに従いはしないのだが、風邪のせいもあってコーネリアは、素直に眼を閉じる。ライは、よし、と覚悟を決めて優しくコーネリアの体に覆い被さる。
ライの体が落とす影がコーネリアの体に重なって、少しの間だけ時間が流れる事を忘れた様な静謐が、二人を包み込んだ。
少し力を入れて閉ざされたコーネリアの唇は、いつもの紫色の口紅が刷かれておらず、生まれついての赤色をしていた。艶やかに花を咲かせた薔薇の花弁を、ライは連想した。
その薔薇の唇にライは迷わず自分の唇を重ねた。ただ重ね合わせるだけの幼く拙く、けれどどこまでも優しく暖かく、愛おしさを込めたキスであった。
五秒にも満たない唇と唇を重ねる初めての口づけに、ライは我を忘れそうになるが、かろうじて理性が鳴らす警鐘の音に本能が負けて、名残惜しさを万と胸に秘めて唇を離す。
不意に唇に訪れた感触に、閉ざされていたコーネリアの瞼がぱっと開かれて、目の前で悪戯を成功させた顔で笑っているライの瞳と視線を交差させる。
「いかがです、殿下。キスは甘いものと友人に聞いたのですが」
「…………」
「あの、殿下?」
「……の…………こ、この、ぜぜ、ぜ脆弱者が!!」
それまで風邪で弱っていた姿はどこへやら、コーネリアはライに頭突きを噛ます勢いで上半身を跳ね上げて、腫れた喉の痛みを忘れて思い切り叫んだ。
「お姉様が風邪を召されるなんて一体いつ以来の事かしら」
水晶の鈴を鳴らしたように美しく澄んだ声の少女が、ブリタニア政庁の廊下をコーネリアの私室を目指して歩いていた。手にはお見舞いの品か、心を落ち着かせる効用のあるハーブティーや、手製の焼き菓子の入った籠がある。
腰まで届く桃色に染めた絹のように美しい光沢の髪、すべての人間に惜しみなく与えられる慈愛の輝きを秘めた大粒の瞳、間違って地上に生まれた天使のように愛らしい顔立ち。
エリア11副総督にしてコーネリアの愛妹ユーフェミア・リ・ブリタニア皇女その人だ。その隣にはユーフェミアの専任騎士である名誉ブリタニア人の枢木スザク少佐の姿もある。
異例の大出世を遂げこのエリア11でも有名な人物の一人となったこの少年は、麗美な騎士服に身を包み、ユーフェミアと言葉を交わしながら周囲に気を配っている。
この政庁の中で万に一つもユ-フェミアの身に危機が及ぶ事はないだろうけれども、慎重すぎるほどに慎重を期する事が必要とされるのを、スザクは理解していた。
病に弱った姉を見舞うという、普段の守られる立場とは真逆の状況を、楽しみにしている様子のユーフェミアと、にこやかに会話を交わしながら全方位への警戒を怠らずにいたスザクが、見知った顔に気付いて視線を向ける。
ユーフェミアもつられてコーネリアの私室のある方向から姿を見せたライに気付く。ライもスザクたちに気付いた様で、なぜか鼻を押さえながら片手を挙げて挨拶してくる。
身分と立場を越えて親しい関係にある三人は、余人の影が無い状況だと自然と友達の態度に変わる。
「ごきげんよう、ライ」
「やあ、君もコーネリア殿下のお見舞いかい?」
「こんにちは、ユフィ、すざく。ついさっき行ってきた所だ。だけど殿下を怒らせてしまったみたいで、出て行けと言われてしまったよ」
「へえ、君が殿下を怒らせるなんて珍し――くはないか。殿下は君に特に厳しいからね」
「うん。この間も殿下の容姿や凛々しい所をぼくなりに素晴らしいと言ったつもりだったんだけど、なぜだが顔を真っ赤にしてお怒りになられてね。本当、ぼくはまだまだ未熟だよ」
「はは、それだけ君に期待しているって事だよ。ぼくもユフィの専任騎士として恥ずかしくないように気をつけないといけない立場だからね、君のその気持ちは良く分かるよ」
「ああ、こんなぼくを親衛隊に選んで下さった殿下のご期待にこたえないと男じゃないからな」
とどこまでも生真面目に話す二人の朴念仁達を見て、ユーフェミアはまあ、と呆れの溜息を零す。本当にこの人達は、とその溜息が何よりも雄弁に語っている。
ナイトメアフレームに乗り戦場に降り立てば、ブリタニア最強の十二騎士ナイトオブラウンズにも匹敵すると言われるほどの活躍を見せるこの二人も、ジャンルが恋となるとまるで役に立たない。
錆びた刀、底の抜けた鍋、サイズの合っていない蓋、破れた服――いろいろと例える言葉が出てきたが、とりあえずユーフェミアはそれらを自分の心の中の棚にしまい込んだ。そうするだけの聡明さは持ち合わせていたようだ。
「その様子だとこれから先が思いやられますね、ライお義兄さま?」
悪戯っぽく笑いかけながら、お義兄さま、の部分を強調するユーフェミアに、ライは頬をうっすら赤く染めて、恥ずかしそうに顔を背ける。
「まだ気が早いよ、ユフィ」
「うふふ、まだ、ということはライの中ではきちんと予定があるのですね? よかった、私、ライがお兄さんになるのがとても楽しみにしているのですよ」
「ユフィには叶わないな。ああ、そうだ、スザク、ちょっと」
「なんだい」
鼻を押さえたまま、ライはスザクを呼び寄せてそっとその耳元で囁く。
「君を義弟と呼べる日はいつごろになりそうだい?」
「! ライ、それこそ気が早いよ」
「照れなくたっていいじゃないか、ぼくと君と、どちらが先か結構気にしているんだけどね」
「ははは」
わざとらしい笑い声を零して誤魔化すスザクを開放して、ライは二人に手を振りつつ自分の部屋へと戻って行く。
その後、コーネリアの部屋を訪れたユーフェミアとスザクは、妙なものを目にする事になった。いや、特に妙というわけではないのだが、ここがコーネリアの部屋であるという事を考えると妙なのである。
「お姉さま? 何をしていらっしゃるのですか? かくれんぼですか」
「……ユフィか?」
「はい。お見舞いにきました。スザクも一緒ですよ。お姉さまの好きなハーブティーと、寂しくないようにクマさんのぬいぐるみを持って来たんですよ」
と会話しつつも、ユーフェミアはこんなお姉さまは初めて、と隣に立つスザクとアイコンタクトを交わす。ここら辺の信頼具合と通じ具合はライとコーネリアを上回る二人である。
さて、愛する妹とその騎士が視線で会話をしているとは知らぬコーネリアは、どうしていたかというと、二人が入室する前からずっと頭からシーツにくるまっていた。
誰にも顔を見られたくないのか、シーツを掴む指は現在出しうる最大の力が込められている。
これが妙なものの正体であった。
「お姉さま、本当にどうしたのです? ほっぺや喉が腫れてしまったのですか? 笑いませんからお顔を見せてください」
「いいいいいや、だだ、ダメだ。ユフィでも今は顔を合わせられない。こほこほ、み、見舞いに来てくれた事には礼を言うが、きょ、今日は、もう引き取ってくれ――くしゅ!」
ふとユーフェミアは、敬愛する姉のシーツを掴む指やかろうじて見えた耳が真っ赤になっている事に気付いた。お姉さまがタコさんになってしまった――ではなくて、この反応は。
「ライとなにかありました?」
「!」
びくびく、と大きくシーツ越しにベッドを震わせるほどコーネリアが反応を見せた。こんなに分かりやすい反応は珍しい。質問をしたユーフェミアの方が逆に驚くコーネリアの様子だ。
いつも勇壮で凛々しく頼もしい姉の、自分よりも幼い少女と見える反応に、ユーフェミアは申し訳ないと思いつつも浮かび上がる笑みを堪える事が出来なかった。
「ふふ、本当に、ライはすごい人ですね。最近は、私の知らなかったお姉さまをたくさん見かけます」
「あいつの事はもう言うな」
お姉さまはきっと、むす、と栗鼠みたいにほっぺを膨らましていらっしゃるのかしら、と考えて、ユーフェミアはころころと可愛らしく笑う。
その笑みを聞きながらコーネリアはますます面白くなくて、機嫌のグラフを不機嫌方向に下方修正させる。それでも唇に触れた感触を思い出して――
「確かに、甘かった、かな」
と思わず本音が零れた。
まだ痛いな、とコーネリアの右のイイのが決まった鼻を押さえながら、ライはすこし調子に乗り過ぎたみたいだ、と反省していた。思い返せばコーネリア殿下を相手になんて大胆な事をしたのかと、自分でも呆れてしまうほどだ。
本当に、自分でもどうしてあんなことをしてしまったのか。答えは分かっている。自分が、コーネリア殿下に恐れ多くも立場を弁えずに愚かにも恋をし、そして実らせた所為だ。
恋の花を咲かせてからライはこれまでの自分からは、とうてい信じられない事を、コーネリアを相手にしている。過去の自分が見たらどうかしてしまったのではないかと疑うかもしれない。
ああ、けれど、仕方ないじゃないか。胸が熱いんだ。胸の奥の奥の奥にある感情が、とてもじゃないけれど抑えきれないんだ。
いわれるがままに素直に目を瞑り、何をされるかも分からずに待っていたコーネリア殿下の顔。風邪の熱にうなされて火照った肌から香るなんとも魅惑的であまりに無防備なその姿。
この女性に自分は恋をしている。この女性が自分に恋してくれている。
その事実を改めて認識し、ライのカラダと心はこれ以上無い幸福感に包まれて、思わず抱きしめたい衝動を堪えるのに必死になった。もっとも唇を重ねることは躊躇しなかったけれど。
これが恋か。これが恋なんだ。
ミレイさんがあれだけこだわるのもいまなら分かる。
「恋ってすごいな」
おしまい。
最終更新:2010年02月11日 23:05