それは、ある日の昼休みのことだった。行政特区日本の庁舎内を歩いていた僕の所に、ある女性の元気な声が飛んできた。
「おお、ライ!ちょうどいい所に!」
「ん?ああ、ノネットさん」
声がした方へ僕が振り向くと、そこには特区の視察に訪れているノネットさんが、嬉々とした表情で立っていた。
「どうかしましたか?僕に何か用事でも?」
「うむ、今から一緒に飯を食いに行こうと思ってな。時間はあるか?」
「まあ大丈夫ですけど、どこへ行くんです?僕は今から庁舎内の食堂へ行くつもりだったんですけど、他にどこか行きたい場所でもあるんですか?」
僕がこう尋ねると、ノネットさんは腰に手を当てながら答える。
「ああ。『特にどの店がいい』というのはないが、せっかく特区に来たことだし、街中で食ってみたいな。もしお前がいい店を知っているなら、そこへ案内してくれてもいいぞ」
「うーん。全部の店を知っているわけじゃないですけど、具体的に食べたいジャンルはありますか?例えば和食とか、スパゲティとか」
「いや、本当に何でもいいぞ。そうだな……。敢えて言うならば、量が多い方がいいかな。今日は午前中からあちこち動き回ったからな、腹がペコペコなんだよ」
「食べる量ですか。となると……」
僕が頭の中で記憶をたどっていくと、すぐさま一軒の店が浮かんできた。
「そうだ。以前、休日にスザクと一緒に行った店があるんですけど、そこでいいですか?そこなら、量の多いメニューが頼めますし」
「ほほう、そんな店があるのか。よし、では早速出かけるぞ!案内を頼めるか?」
「はい、わかりました」
僕は微笑むと、ノネットさんと一緒に庁舎を後にした。まさかあんな、大変な昼食になるとは予想もしないままに。
僕がノネットさんを案内しながら通りを歩いていると、さほど大きくない一軒の食堂の前に着いた。
「着きました、ここですよ」
「ほう。ここがお前の言う、量が多い店だな」
ノネットさんの問いかけに対し、僕は笑いながら答えた。
「ええ、メニューはそんなに多くはないですけど、量は多いですよ。前にスザクと一緒に来た時も、お腹が空いていたので大盛を頼んだら、普通の店の大盛より多くて、二人でやっとの思いで完食しましたよ」
「うーむ、食べ盛りのお前と枢木ですら手こずるとはな。ますます興味深い。よし、行ってみるか」
ノネットさんはそう言うと、入り口の自動ドアから店内へと入り、僕もすぐ後に続いた。そしてカウンター席に並んで座ると、彼女は近くにあったメニュー表をじっくり眺め始める。
「さーて、何にするかな。あっ、お前も遠慮せず好きなものを選べよ。今日は私のおごりだからな」
「え、でも…いいんですか?何だか悪いですよ」
「おいおい、この期に及んで遠慮はなしだぞ。お前に時間を割かせて、わざわざ付き合ってもらっているんだ。食事代くらい、私に払わせろ。だから遠慮せず、好きなだけ食え」
「あ…はい。それでは、ごちそうになります」
「うむ、それでいい」
大体予想できたことではあるが、案の定ノネットさんに押し切られる形で、僕は彼女の申し出を受け入れた。そして僕は彼女からメニュー表を受け取ると、彼女に負担がかからないよう、なるべく安いメニューを探し始める。
(ノネットさんは経済的負担はまったく気にしていないようだけど、僕はどうしても気になってしまうんだよな。それに、あまり多く食べても午後の仕事に影響が出そうだしな。ここはやはり、無難な量と値段のメニューを選ぶか)
そんなことを考えながら、僕はしばらくの間メニュー表を眺め、やがて一つの答えを導き出した。
「それじゃあ、カレーライスにします」
そう。僕が導き出した答えとは、「お手頃価格かつ適度な量のカレーライスで、お腹にもノネットさんの懐にも優しくしよう」作戦だった。
この店のカレーは大盛だと苦戦してしまうが、並盛ならちょうどいい具合に空腹を満たせる。それにおいしいし、何と言っても比較的安い。つまり一番無難なメニューなのである。
「おいおい、あまり値段なんか気にしなくてもいいんだぞ。確かにこいつは手頃な価格だが、もっとボリュームのある定食とか、少々値が張ってもガッツリ食えるものを頼んだらどうだ?」
苦笑いを浮かべたノネットさんに、僕は軽く笑みを浮かべながら説明した。
「でもやはり無遠慮に頼むのは、ノネットさんに悪いですよ。それに、ここのカレーは並盛でも意外に量があって、ちゃんと空腹は満たせますよ。それに、味もなかなかのものですしね。だから僕は、これくらいで十分です」
「なるほどな。お前がそこまで言うのなら、それでも構わんさ。それなら私も、同じカレーを頼むとするか」
そう言って明るく笑ったノネットさんに対し、僕も笑って応じる。良かった、これで後は「並盛」を頼めば万事うまく行くはず。
「ええ、そうしましょう。それじゃあ僕は、カレーライスの並……」
「よしっ。マスター、カレーの『大盛』を二つ頼もうか!」
「ちょっ!?え…おおも、えぇっ!?」
並盛を頼むよりも先に、ノネットさんに大盛を注文されてしまい、僕はかなりあわてた。仕事前の大盛は、正直言ってきつい。何より、今の僕は大盛を食べきれるほど、空腹でもない。
これは何としても彼女を止めなければ。
「ち、ちょっと待って下さい!少し話し合いますから!」
僕は店員に頭を下げて待ってもらうと、キョトンとした表情のノネットさんの方を見た。
「何だ、どうかしたか?」
「いや、その……。大変言いにくいんですが、僕は大盛じゃなくて並盛の方が……。今はあまり、完食できる自信がないんですよ」
するとノネットさんは、明るく笑いながら言った。
「ハッハッハッ。もしかして、枢木と来た時のことを思い出したのか?安心しろ、お前なら今度は余裕で食える。何せ、この私が見込んだ男だからな」
「いや、そうじゃなくて…っていうか、そんな過度な期待をしないで下さい。軍人としての素質と一食のキャパシティは、必ずしもイコールとは限りませんから」
「何を言う。しっかり食わなければ体は育たんし、毎日働くだけの気力も生まれんぞ。お前ほどの男なら、ガッツリ食ってちょうどいいくらいだと思うぞ」
「別に僕は、ガッツリ食べるような大食漢でもありませんよ。それにあまり食べ過ぎると、この後の午後の仕事に差し支えが……」
僕がそう言いかけた瞬間、ノネットさんが面白くなさそうな表情を見せた。
「おいおい、そんなことを心配していたのか?意外にスケールが小さいんだなぁ。もっとスケールを大きく、『この店で一番大きなカレーくらい、すぐに平らげてやる』くらいの気持ちで、ドーンと構えたらどうだ?」
「その例えは、本当に『スケールが大きい』と言えるかどうか、少し微妙だと思うんですが。それに、その…言ってしまえば昼食なんですから、一番にこだわる必要なんかないと思うんですが。二番じゃダメなんですか?」
するとノネットさんは、「わかっちゃいない」とでも言いたげに首を横に振ると、人差し指で上を指しながら言った。
「甘いな、お前は。何事においても常に一番を狙う姿勢で行かないと、いざという時、本当に一番を獲れないぞ。
それに、昔おばあ様が言っていた。『昼食をバカにする者は、昼食に泣く』ってな。たかが昼食、されど昼食。食べられる時にしっかり食べないと、後で困るぞ」
「えーと、何て言うかその…ノネットさんのおばあさんがどういう方か、容易に想像できてしまいました。きっと、すごくノネットさんに似ていらっしゃるんでしょうね」
「おう、いかにも!小さい頃から周囲にはよく、『ノネット様はお母様やおばあ様に似ていらっしゃる』と言われたものさ。まあ、逆に『父上やおじい様とは正反対ですな』と言われた時もあったがな。ハッハッハ」
「す、すごい家系だなぁ……」
僕は心の中で、ノネットさんの父親と祖父に同情した。もし僕が彼らの立場になったとして、果たして耐えられるだろうか。そして、彼女が見せたさっきのポーズは一体何だったんだ。
「というわけで、マスター!カレーライス大盛二つ!」
「えっ、ちょっ…まだ話し合いは終わってな……」
「ん、どうした?」
「……あ、いえ。何でもありません、その…大盛で……」
「うむ、よろしい」
僕はなおも抵抗を試みたが、結局ノネットさんの持つ雰囲気に圧倒されてしまい、あえなく屈した。これはもう、覚悟を決めるしかないようである。
「つ、ついに来たか……」
目の前に置かれた、器の上に山のように盛られているカレーライスを見て、僕は少し圧倒されていた。ていうか、この量は絶対に昼食の範疇を超えている。
「ほほう、こいつはかなりの量だな。だが食べ応えがありそうで、いいんじゃないか?」
一方のノネットさんはというと、そのカレーライスを前にして、余裕たっぷりかつ嬉々とした表情をしている。その余裕はラウンズ故か地なのか、どっちなんだ。
「どうした、ライ。顔が強張っているぞ」
「いや…これはどう見ても、昼食じゃないですよ。よほど空腹な時の夕食か、大食い大会で出てきそうなレベルですよ」
「ふむ、確かに多いかもしれんな。だが決して残すなよ、これは農家が汗水流して作った米や野菜を使い、店員たちが真心込めて調理してくれたんだ。彼らに感謝して、しっかりと全部食べなければな」
「何で急に、そんな大きな話になるんですか……」
ノネットさんの言葉を聞きながら、僕は軽くため息をついた。これはいよいよ、完食するしか道はないのか。
「まあ…せっかくノネットさんにごちそうになるんだし、こうして出された料理はちゃんと食べないと、色々な人に悪い気もしますね。では、そろそろ食べましょうか」
「うむ、冷めないうちにいただくとするか!」
ノネットさんはそう言ってスプーンを片手に持つと、嬉しそうにカレーを食べ始める。そしてその隣で僕は、密かにズボンのベルトの穴を二つ分緩め、戦闘態勢を整えたのであった。
「では、いただきます……」
結論から言おう。僕はあの後、大盛カレーライスを数十分でどうにか完食した。ズボンのベルトの穴を二つ分緩めたのに、かなり苦しい状態になったが。
そして一方のノネットさんはというと、僕より十分くらい早い時間で、あっさり平らげてしまった。最早、何もかもが豪快と言うしかない。
「うぅ、苦しい。動きにくい……」
昼食を終えて庁舎に戻った僕は、ノネットさんと別れて廊下を歩いていた。食べ過ぎたせいで、歩くだけでも苦しい。
「あ、ライ……。昼休みは見かけなかったけど、どうしたんだい?」
すると廊下の向こう側からスザクが現れ、僕に声をかけてきた。だがどういうわけか、彼にいつもの明るさはなく、少し元気がないようにも見える。
「やあ、スザク。実はさっきまで、外でノネットさんと一緒に食事をしていたんだ。ほら、以前に二人で行った、やたらと量が多い店があるだろう?そこで大盛カレーをやっとの思いで完食してきたんだ」
「ああ、あの店か。確かにあそこは量が多くて、よほどの空腹でないとしんどいかもね。でもあの店なら、味に間違いはないだろう?良かったじゃないか、カレー」
「なあ、スザク。僕の勘違いなら悪いが、妙に元気がないように見えるんだが。一体昼休みの間に、何があったんだ?」
するとスザクの表情が青ざめ、何か怖いものを思い出すかのように、体を小さく震わせ始める。
「オスシ……」
「ん……?はっ、まさか!」
僕は「オスシ」というキーワードで、すべてを理解した。
「そう、そのまさかだよ。昼休みにセシルさんが軍の用事でやってきて、『今日はスザク君たちのために差し入れを持ってきたの』って、入れ物いっぱいに詰められたオスシを渡されたんだ」
「そっ、それで君はどうしたんだ!?」
「いくら探してもライはいないし、ユフィや他の人たちにあんな苦しい思いはさせたくないから、『今日はお腹がペコペコなんです』と言って僕が…全部……」
「あぁ…何と言ったらいいのか、その、申し訳ない」
半分涙目になるスザクに向かって、僕は自然と頭を下げていた。彼はもっと大変な目に遭っていたのに、あの程度で「苦しい」などと甘えていた自分が少し情けない。
だが彼は気丈にも、笑みを見せながら言った。
「いや、気にしないで。君の方こそ、たくさん食べさせられて大変だったんだろう?『今日はお互いに大変な昼食だった』と、割り切ろうよ」
「君は前向きなんだな。まあ君がそう言うのなら、そうしよう。そして願わくば、明日以降の昼食は普通に食べたいものだな。毎日玉砕覚悟では、身が持たない」
「うん、それには同感だね。『基本的に食事は、穏やかに食べてこそ幸せなんだ』って、改めて思い知らされたよ」
僕とスザクは力ない笑みを交わした後、大きなため息をついた。重く沈んだ胃をなだめ、平穏な食事に想いを馳せながら。
最終更新:2010年03月23日 22:14