静かで綺麗な夜であるが雪明りに寝付けず、仕方なく書物を読み耽っていた夜半。窓枠が軽く鳴った。
音の正体に関しての予想は大体つく。手を伸ばして窓を開けた。外気がひやりと頬を首筋を撫でる。息を吐くと、それは白く凝った。
「ノネットさん?」
ライの口が開くと同時に白い息が吐き出される
「邪魔したか?」
ライの手元を見やって、彼女――ノネット・エニアグラムは笑う。
「上がりますか?」
そう問い返すと、それもいいが、と彼女は言った。
「ちょっと散歩してみないか?本当にいい夜なんだ」
ライの諌言を防ぐためもあろう、ノネットの方は準備万端であるようで、すらりとした長身が着膨れている。ライも笑み返した。
「コートを取ってきますね」
少しの間だけ待つように促して、ライは栞を挟み本を閉じた。
黒い空に月は眩く、本当にいい夜だった。さくさくと雪を踏む。空気は凍るようで、それがいっそ清々しかった。
「ノネットさん、どこか当てでもあるんですか」
「ん?特に無いが?」
ノネットは当然とも言えるような口調でライの言葉に答える。ライは彼女らしいその言葉に微笑みを浮かべる。
「まぁ、それもいいですね」
ただ二人並んで歩くだけの時間。向かう先はなくとも、共に居られるならそれでいい。
ただ、あり得ないとは思うがここ数日はかなり寒い。ライがこの領地に引き取られて初めて体験する寒さだ。エニアグラム家の使用人達も例年に無い寒さだと危惧している。
ノネットがこの寒さに風邪を引いてしまわないかだけがライの気がかりだったが、そんなことは要らぬ心配というやつだろうか。ノネットは衣を何枚も重ねて、首にはマフラーを巻いている。ずいぶん前にライが自作して贈ったものだ。
月が明るいから、灯りは持ってこなかった。影のかかる方には行かないように歩く。
ライは隣を歩く横顔を見上げた。
月の白い光を緑髪が照り返し、きらきらとしておりとても綺麗だ。
見ていたら、灰色の双眸がこちらに視線を向けてきた。
「どうした?」
やわらかく降りる深い色だ。見られているだけなのになんだか嬉しい気分になる。
「いいえ。何でも」
「そうか?」
「ええ」
それからしばらくは他愛ない話をした。それぞれのラウンズ達に起きた些細な出来事や何かを幾つか。
幾つか話したところで、ノネットが頭を掻いた。
「なんだかずいぶん会っていなかったようだなあ」
殊更に話が弾むのをノネットはそう評した。
その言葉通り、ここしばらく顔をあわせていなかった。寒い日が続いた割に体調を崩すこともなく、かといって用を作れるほどの暇もなく。
決して遠い距離ではないのだけれど。それ以外のものが二人を隔てる。
「ですが、ノネットさんに何もなくてホッとしていますよ」
ラウンズと言えど、皇帝の勅命あらば有無を言わさずに危険な死地に飛び込まされることもある。歴代のラウンズのメンバーの中には戦死して遺体となって本土へ帰ってきたことがある者もいたそうだ。
長く会えなければ寂しいが、それでもノネットが傷ついたりせずに済んでいるのだと思えばつらくはなかった。それなのに。
「そりゃそうなんだが…」
ノネットは苦笑する。苦笑するノネットにライは珍しく目に剃刀のような鋭さを持たせた。
「肯定してくださいよ。僕は嫌ですよ、ノネットさんが…いなくなったりでもしたら」
目を沈みこませると、ノネットはライの頭に手を乗せてゆっくりと動かした。
「悪かった悪かった。そうむくれるなよ」
そしてふ、とライの視線は彼女の反対側の手に留まるとライは思わず立ち止まった。
「…ノネットさん?手袋をしないで来たんですか」
一瞬の間。の後には“しまった”と言わんばかりの顔。ライの頭に乗せていた手も離し、両手は彼女のコートのポケットの中へ隠れた。
「あー…まぁな」
ばつの悪そうな顔に、溜息が零れる。一つ、白く凝って流れて消えた。
「忘れてきたんですか?でしたら、言ってくれれば良かったのに」
そう言うとなぜだかノネットは済まん、と一言謝った。別に謝ってもらうようなことではないことだ。
「仕方ありませんね」
ライは自分のしていたのを取って、ノネットに差し出した。
「無いよりましです。着けてください」
「それじゃお前が寒いだろう。わたしは要らん」
もちろんライも譲る気はない。
「良いんです」
「良くない」
「僕のほうが丈夫です。ノネットさんは女性なんですから」
拗ねられるのを覚悟で。折れてくれるだろうか。ノネットはぷいと前を向き、口を結んだ。どうやら、拗ね始めた。
「…わかりました」
仕方がない。とライはほんの少し溜息を吐いて
「これならどうですか」
怪訝な眼差しがこちらを向く。どうやらライの行動に興味を示したようだ。ノネットの視線を受けるライは片方だけ差し出した。
「…わかった」
ノネットに手袋をもう一度差し出し、彼女は手袋を渋々と受け取った。
片手に手袋を一つずつ。ライは左手にノネットは右手に手袋を着けている。
「じゃあもう片方はどうするんだ?」
「仕方ないですから、ポケットに突っこんでもらうしか…」
きんと冷えた空気が素肌を撫でる。もちろん痛いくらいに冷たい。そう思っているとノネットがその剥き出しの白い手を差し出した。
「ノネットさん?」
問いかけるライにノネットは微笑みながらライが手袋を差し出した時のように、もう一度白い手を差し出す。
ライの瑠璃色の双眸が真ん丸に瞠られた。
「手を繋げばきっと温かいぞ?ホレ早くしろ」
瞠られたそれを覗き込んで尋ねれば、次には赤面。ライは恐る恐るとノネットの手を取った。
冷たい。こんなに冷え切ってしまうまで気付かなかったなんて失態だなとライが考えていると
「あったかいな」
ぽつりとノネットが言った。
「冷たくないかライ?」
「大丈夫ですよ。すぐに同じくらいになりますから」
「参ったな、お前の手も冷やしてしまうな」
眉を少しだけひそめる優しい彼女、とても優しい彼女の言葉にライは
「いいえ。ノネットさんの手が温まる、ということです」
二人は止めていた足を動かし、歩き出した。
雪夜の月は充分に明るくて、白い雪道にくっきりと影が落ちていた。繋がった二つの影。さっきまでのような弾む会話もなく、ただ二人は黙々と歩いた。
夜気にふれる手の甲は冷たかったけれど、それとは違う部分でなんだか温かかった。
自然と口許が綻ぶのをライは止められなかった。
屋敷の敷地を周りを一巡りして、戻ってきたときには月はずいぶん傾いていた。
「おやすみなさい、ノネットさん」
そう言って見送る別れ際、名残惜しそうな顔をした彼女を呼び止めたい気持ちがあった。
けれど“おやすみ”の言葉と共にそっと押し込める。緑髪を翻してノネットは背を向けた。だが数歩行ってふと足が止まる。
足元の影をじっと見るように俯いて、少ししてそれから、彼女は振り返らずに言った。
「ライ…実はな、手袋は忘れたんじゃない。わざと置いてきた」
ノネットの言葉の意味が何なのか判らず、ライは首を傾げた。首を傾げて振り返らない背中をよくよく見てみた。
「わたしが手袋を忘れれば、お前は当然手袋を差し出すだろ?だけどそれじゃダメだ」
表情は見えない。髪の隙間から、真っ赤になった耳が見える。
「お前に…触れたかった。お前を感じたかったからあんなことをしたんだ」
彼は口篭る。そして。
「おやすみ。また散歩しような」
言い残して、長い足を目一杯に使ってあっという間に帰ってしまった。取り残されて、ライは思わず笑った。一人でくすくす笑った。
繋いだ手は冷たかった。こんなに冷え切ってしまってと思うくらいに冷たかったのだ。それなのに今、繋いでいた手はぽかぽかと温い。
温い手を胸に抱いて、見えない背にライは静かにそっと囁いた。
「今度は僕も手袋を忘れていきますからね」
凍るように冷えた黒い空に綺麗な月が眩いほどに輝いている。
最終更新:2011年01月14日 20:55