プロローグ
a.t.b 18??. ?
薄暗い謁見の間の玉座に、悠然と鎮座する一人の男がいた。
虚無を想わせる冥界の如き深い闇と、陰鬱な死を宿した瞳。血を求める妖刀のように鈍く輝く、腰まで届くほどに長い銀色の髪。その風貌はまるで、魔界を統べる王のように妖艶な残虐さを秘めており、この世の全ての悪意を全身に収束しているかのようだった。
もう日はとうに落ち、空から月が妖しい光を放つ。呪われた女神リリスがその男を祝福しているかのように、窓から差し込むその妖しき薄明かりが、彼を包み込んでいた。
静寂に包まれた謁見の間に、幾つかの足音が響き渡った。何者かが、彼の座する玉座に近づいてくる。
やがて月明かりに照らされ、その者達の姿が明らかとなった。
「――何用か。ザムディン」
銀髪の男の怜悧な顔に、わずかに怒りが滲む。彼は、豪華で重々しい甲冑を見に纏った男達の中の一人の名を呼んだ。
「陛下、このような時分での謁見、どうかご容赦賜わりたく。しかし、どうしても申し上げたき儀がございますれば」
赤い外套を見に纏った、精悍な容貌を携えた老年の男が膝を着き、仰々しく頭を垂れた。
「貴様が言わんとしておることの察しはついておる。しかし、その言を今ここで余に申した時、貴様は全てを失うことになるぞ」
ザムディンと呼ばれた男は、深々と下げた頭を少しあげ、銀髪の男の眼を睨むように見据えた。しかし、ザムディンの眼には、怒りではなく、途方もない悲しみが満ち溢れていた。
「・・・陛下、何卒、こたびの遠征は御再考下され。ルイジアナのフランス軍を掃討なされてからの絶え間なく続く南大陸への外征で、我々は多くの将兵を失い、民は飢え、国は疲弊しきっております!」
「今は国外にその御目をお向けになる時ではなく、戦乱により衰退したこの国を、内政にて立て直すことこそ、天子の御取りになられる道かと! 陛下! 何卒!」
彼は皇帝であった。
本来ならば皇族の中でも、卑しき血筋を引くこの男が皇位を継承するなどということはなかったはずだが、
彼はそれを力で奪い取った。
立国当初、欧州から遠く離れた大陸にできた小国の一つにしか過ぎなかったフィラデルフィア公国を、
敵対する欧州の列強諸国の植民地を併呑し、大陸全土を平定するまでの巨大帝国に創り上げたのも、
この男の力によるものだった。
「兵も、民も、この国も、全ては余のものだ。それをどう扱おうが、全ては余の自由であろう。
兵を失ったのならば、また増やせばよい。民が飢えるというのならば、屠った敵の血肉を喰らわばよい。
今、国がいくら疲弊しようが、余さえ居れば良い。
弱きものどもは、支配という庇護を乞い、我が元へと集う。それが余の新しき力となる。
御旗さえ健在であるならば、いずれの時にも国の再生は成る」
冷たく言い放つ王。ザムディンは血が滲むほど強く歯を食いしばらせた。
「・・・人心は、すでに陛下のもとを離れておりまする」
ザムディンはすでに死を覚悟していた。今日ここを訪れたのは、王の説得のためではなかった。
しかし、万に一つの望みに賭け、彼は、己が主にそれを試みた。
「――笑止。徳で国を治めるつもりなど、もうとうの昔にない」
王はそう言い放ち、ザムディンを玉座から蔑むように見下ろした。
「国を治めるに絶対的に必要なもの。それは圧倒的な力により与えられる恐怖と絶大なる力を持つ支配者への信仰。
そして、その恐怖と狂信的信仰により形成される不可侵の秩序。
蜂起を繰り返してきた民も、叛旗を翻した貴族どもも、余の無慈悲な粛清を目の当たりにし、
己の、人としての生を諦め、余に与えられた運命を受けいける家畜と化した。
今では、余の力を畏れ、神と崇め奉るものすら居る」
「――あの者達が崇めているのは、陛下の御徳ではなく、その“狂器”でございます」
ザムディンが重々しく、口を開いた。
その言葉を聞き、王は冷たい笑みを口元に浮かべた。
「フフッ、構わん。徳であろうと狂器であろうと、神であることに変わりはない」
その笑みを見やり、ザムディンは静かに訊ねた。
「陛下は―― 神に御成りになるおつもりですか」
王はザムディンの問いに、狂ったように眼を輝かせた。
「そうだ。王とは言え、所詮は人。どれほど優れていようといずれは老いさらばえて朽ちていく。
余が朽ちれば、今まで築き上げてきた律が乱れ、混沌が生じる。
だが、神は不滅だ。余は“約束の地”へと還り、“ヤハウェ”となる。 そして永久にこの世界を支配して見せよう。
しかし、口惜しきかな、神の名を戴く高みには、聖地への帰還には、まだ足りぬのだ、届かぬのだ!
この世界の生きとし生けるもの全てに余の存在を、その圧倒的恐怖を、知らしめるまでは!」
恍惚とした笑みとともに、狂った思想に酔い痴れる王に、ザムディンは一瞬、絶望に顔を曇らせ、
再び覚悟に満ちた光をその眼に宿し、彼を睨みつけた。
「――最早あの御優しかった陛下はここには御座されない。ここにいるのは一人の狂った鬼でありまする。
・・・このザムディンも、お慕いする陛下を救うため鬼となりましょう!」
ザムディンがそう言い放つと同時に、彼の部下であろう男達が抜剣し、怒声をあげた。
「狂帝シヴァ! 今こそ討つべし!!」
王は、猛々しい号令をあげ殺気立つ兵士達を前に、慌てる様子も見せず、ただ狂気に満ちた笑みを浮かべていた。
その口元は妖しく歪み、その顔には余裕すら感じられた。
直後、彼は凍てつくように残酷な言葉を発した。
「――死ね――」
王の両目に不死鳥を模したような紋章が浮かび上がった。
彼の眼の中に映し出された不死鳥は、その赤き羽根を羽ばたかせながら飛び立ち、
その場にいた全てのものを覆い尽くし、彼らの五感全てを浸食していくようにその魂へと溶け込んでいった。
「イエス! ユア マジェスティ!!」
信じられない出来ごとが起こった。先ほどまで皇帝を誅殺せんといきり立っていた兵士達が、
手にした剣で自らの喉元を一斉に?っ切っていった。鮮血とともに絶命していく兵士達。
ザムディンはその光景を、唖然とした表情で茫然と眺めていた。
彼らはザムディンの忠臣であった。
ザムディンは今日この場所に、己の命と引き換えに一人で訪れるつもりだった。
しかし彼の覚悟を知った臣下達は、彼の諌めを受け入れず、彼とともに死出の旅路へと赴いたのだ。
王は何かを思い出したようにザムディンに語りかけた。
「そう言えば、貴様には一度使ったことがあったな」
ザムディンは暫く、自分の部下に何が起こったのかが全く分からなかったが、
王の言葉により何かを悟り、尊い命を失った部下を想い、悲しみに顔を歪ませた。
「・・・信じてはおりませんでしたが、これで確信が持てた気がいたします。
民達が陛下を神と崇めるもう一つの理由が」
フン、と鼻を鳴らして王はその腰に掛けた刀に手を伸ばした。
「しかし、どういう事情があったのかは知りませぬが、私には効かなかったようですな。
その神の威を借る力は・・・」
王は相も変わらず、冷酷な笑みをザムディンに向けていた。
「主君に剣を向けたとは言え、貴様はよく余に仕えた。
よって、せめてもの手向けとして余の剣によって葬ってやろう」
その王の言葉に、ザムディンは悲愴の表情に少し喜びを混じらせた。
この男との剣を交えた決闘に、武人としての血が騒いだこともあるが、幼少のころから見守り続けてきた彼がどれほど剣の腕をあげたのか、
彼の一人の師として身を持ってそれを感じることのできる喜びが、ザムディンの悲痛をいくらか慰めた。
「陛下、私は卑しくも陛下の御身を守るために選ばれた最強の騎士団、
ナイトオブラウンズの一人、ナイトオブツーのザムディン・ゴードンであります。
いかに老いたとは言え、まだまだ陛下には負けませぬ。
我が剣を持って、陛下を、その御心に巣食う鬼から御救いいたしましょう」
抜剣し、全身から凄まじい闘気を放つザムディン。
対する王は刀の鞘に手をかけたままで微動だにしない。
「――余を討ちとった後、貴様はどうするつもりだ。この国は?」
王は静かにザムディンに訊ねた。
「・・・サティア様とアルティマ様が居られますれば。あの御二人ならば、陛下が御崩御なされた後、この国を立派に引き継がれていかれるでしょう。
・・・私めは、陛下とともに地獄へと参る所存。そこでまた、陛下の御身のためにこの剣を奮いたくございます」
ザムディンは、力強い笑みを口元に浮かべ、大剣を構えた。
「・・・余の後を継ぐものか。貴様にそのような儚い望みを与える前に、サティアは始末しておくべきだったやもしれぬな。
アルティマは、余が神となれば塵と消えゆく存在故・・・」
口元に手をやり、少し考え込む素振りを見せる王。
ザムディンは、彼のその独白にみるみる顔を青ざめさせていった。
「あれほど・・・! あれほど御寵愛なされていた妹君のサティア皇女を・・・ 何たることだ」
ザムディンは、唇をかみしめ、その瞳から大粒の涙を落した。
「もはや、貴方様の中の鬼が、そこまで御心を蝕んでいたとは・・・!」
その瞳に、王の心の中に巣食う悪魔に対し、激しい憎悪の念を宿すザムディン。
「このザムディン・ゴードン! これより討つものは、神聖ブリタニア帝国第3代皇帝、
シヴァ・イクス・ブリタニア、その人に非ず!! その御身心に巣食いし悪鬼羅刹なり!!」
ザムディンは、手にした大剣を振り上げ、怒号とともに王に斬りかかった。
老体とは思えぬ速さで、一気に王との距離を詰め、必殺の間合いへと入り込むザムディン。
その剣が振り下ろされるまでの刹那、ザムディンの脳裏に、幼き日の王の笑顔が浮かぶ。
その尊き想い出が、ザムディンの“仮初め”の殺意を霞め、彼の剣速を鈍らせた。
王は一瞬で鞘から刀を抜き放ち、電光石火の如くザムディンの胴体をその甲冑ごと切り裂いていった。
「ぐはぁぁあ!」
ザムディンが苦悶に喘いだ声をあげた。
王の刀はザムディンの体を完全に両断する途中で止まっていた。
彼の腕ならば、ザムディンの体を真っ二つにすることは容易ったはずだが、彼はそれをしなかった。
王は、自分自身の意思で、ザムディンを切り裂く刃を止めたのだ。
しかし、それは返ってザムディンに耐え難い苦痛を与えることとなった。
「・・・御・・・事です・・・ 陛下・・・ そこまで・・・お強く、られたとは・・・」
ザムディンは、持っていた大剣をその掌から落とし、両の手でゆっくりと王を包み込んだ。
「・・・下に、まだ、人の・・・心が・・・」
ザムディンは涙を流しながら、その胸に王をしっかりと抱きしめた。
王は、その表情を変えることなく、彼の胸の中でまるで人形のようにぴくりとも動かなかった。
「・・・どうか、方・・・様の・・・御・・・心に・・・食う・・・悪鬼に・・・打ち勝・・・下され・・・」
ザムディンは体を震わせながら、血と涙にぬれた顔で王を見つめた。
「・・・ライ様・・・」
ライ、それは王が心を失う前の本当の名前。
父親からではなく、母親が彼に与えたもう一つの名前だった。
体をのたうつ激痛に耐えながらも、王に優しく、まるで父親のように語りかけるザムディン。
その口からは大量の血が吐き出され、切り裂かれた腹からは夥しいまでの鮮血と醜い臓物が飛び出ていた。
王は、ザムディンの腹に刺さった刀を引き抜き、抜き去った刀で彼の胸を深々と貫いた。
今度は、その心の臓を正確に。
リンク名
王はザムディンの亡骸を優しく抱きしめながら、丁寧に床に寝かしつけた。
彼の脳裏に一瞬、遠き日の想い出が過ぎる。
幼い自分と大好きな妹と母親、そしてそんなシヴァとサティアを一生懸命にあやすザムディン。
なれないことに困惑し悪戦苦闘するザムディンに、まるで大好きな父親に甘えるように、容赦なくじゃれつくシヴァとサティア。
そして、そんな幸せな光景を、優しく見守る母親。
そんな暖かい日々は、彼の人生の中でほんの僅かに起きた奇跡のような時間だったが、あの時、確かに彼は幸せに満ち溢れていたのだろう。
――ただ、守りたいだけだった
王の、この世の悪意の全てを映しだしたような瞳に、暖かな光が差し込んだ。
しかし、それはほんの一瞬のこと。すぐに幼き日の想い出は、シヴァの心の中の鬼に喰い殺され、彼は“もとの”狂帝へと還る。
王は謁見の間を抜け、ふらついた足取りでテラスへと赴いた。
その体はザムディンの返り血により、真紅に染まりきっていた。
頭上の月が妖しく彼を照らしあげた。
鈍く輝く赤く染まった銀色の髪は、まるで鮮血を啜り恍惚とした笑みを浮かべる生きた魔剣のような、
禍々しい気配を漂わせていた。
「ふ・・・ ふ、ふふ・・・ ふはは、ふははっははっははっはっはっはははぁぁ!!!」
王は月に向かい、狂帝の名にふさわしいような狂った笑い声を高らかにあげた。
その瞳から一粒の滴が、頬をつたい、美しい弧を描いて流れ落ちたことを、彼は知る由もなかった。
最終更新:2011年01月29日 00:51