“西”暦2022年10月25日、事件は合衆国日本中部州──静岡の富士霊廟にて起こった。
「現時刻をもって指揮権が合衆国日本警察庁から黒の騎士団に移行いたしました。ご指示を」
「対テロチーム1番から3番までの配置を急げ。4番、5番はバックアップ。合衆国連合のネゴシエイターには引き続き交渉を続けさせてくれ」
映画などでよく目にする部屋である。狭い部屋の中には照明はなく、いくつかのディスプレーモニターが照明代わりのように瞬いている。そんな部屋に数人の男女が詰めているのだ。
作戦指揮所──であるのだろう。
その暗い部屋の中ではボウっと輝くモニターの灯り以外に存在感を強く主張しているものはない。
違う──もう一つ強く自己主張している存在がいた。その室内で蠢く人々の中、一際異様を発している男がいる。
漆黒のマント、異貌の仮面。一目で誰とわかるその姿。
その男の名をゼロと言う。
「どうか?」
短く問うたその言葉に、
「悪くはないが、良くもない」
彼の幕僚総監たる周香凛も短く答えた。
「連中は旧帝国過激派だ。こちらとの交渉に耳を傾けるとは思えないな」
「やはり《白の騎士団》とやらか」
「先ほど東京市の南たちから連絡がついた。入国を手引きした元名誉ブリタニア人の旧帝国シンパを逮捕したとな」
ゼロは「そうか」とつぶやいただけで、それについて何の感想も発しなかった。
周は最近ようやくゼロとの付き合い方というものを悟れてきたように思う。
つまり、こういう時に余計な口出しはするべきでない……ということをだ。
合衆国連合の平和維持活動局から派遣されたネゴシエーターの交渉はうまくいっていない。いくはずがないと周は思っている。
それがわかっていないゼロではないはずなのだから、自分は余計な口を挟むべきではない。
「内部の状況はまだわからないか?」
「現在人質は総て第二階セレモニーホールに集められている模様だ。判明しているテロリストの配置は第一階正面ゲート奥に重火器で武装した者が6名、第二階セレモニーホールに4名……」
「続けてくれ」
「第三階と第四階の人数は不明。確認人数10名。東京からの連絡によると総数は21名とあるから……」
「3、4階にはテロリスト11人が散らばっているということか」
「突入は難しくあるな」
「当たり前の方法では難しいと思えるが……」
「当たり前の方法ではいかないということか?」
ゼロは再び「さて、な」とはぐらかす。そういうところは“前のゼロ”とまったく同じように思えて、周は奥歯を噛みしめるのだ。
だから、
「いいのか?」
思わず周は“しなくていいこと”を口にした。
「いいのか、とは?」
その返答に一瞬鼻白んでしまった周は、口を挟んだことに「またやってしまった」と後悔をおぼえたものの、生来の気の強さは気後れした自分を認めたがらないようであった。
彼女はズイっと一歩ゼロにつめよると押し殺した声でゼロに言った。
「あそこにはナナリー公女がいるのだろう?」
ゼロは何も答えない。
「いいのか?」
またしても、周は口を挟んだ。
ナナリー 19歳:birthday
静かにしろと強制されていたとしても、シンと静まりかえるなんてことはないのね。
必ずしも無音ではない──静かにざわめいているセレモニーホールの片隅で、そんなことをぼんやりと考えていた。
ギュと握り締められた手が少し痛い。
「セーラさん……」
そっと声をかけると、彼女はハッと我にかえったようだった。
「あ……申し訳ありません。痛かったですか?」
「大丈夫です。みな、心細いでしょうから」
もういちど謝罪を繰り返してセーラは壁の方を向く。
そこには銃を抱えた男たちが一人……二人……三人とこちらを監視しているのだ。
「大丈夫です……きっと大丈夫ですからね」
そのセーラの言葉はきっと自分で自分に言い聞かせているのだ。わたしは手でそっと彼女の髪を撫でる。
「えぇ、きっと大丈夫。きっと助かるわ」
「ナナリーさま……」
余人には聞かれぬようにそっとセーラがわたしの名前を呼ぶ。彼女が口を開くたび、その語尾が震えていることにわたしはとっくに気が付いていた。
セレモニーホールに集められたわたしたちは全部で200人程になるのでしょうか。ひしめきあって、肌を寄せ合って、そうして奪われた自由に恐れおののいている。
《白の騎士団》と自称するテロリストが富士霊廟を占拠してからもうじき3時間。一時の狂騒は治まってくれたけど……わたしは車イスの背もたれに軽く身を預けて息を吐く。
見た感じ手に持つ自動小銃も、身を守るボディアーマーもそれなりの装備のようだ。顔を隠す仮面はいつかテレビでみた《ルルーシュ親衛軍》のものだろう。
耳にかけたインカムで常時連絡を取りながら行動している辺り、訓練された人々だということもわかる。きっと綿密な準備を重ねてきたのだ。
それはつまり、彼らには余裕がないんだろうということなのだとわたしは思った。本当は合衆国連合の要人が集まる《式典》を襲いたかったのだろうけど……今日、この場所で《式典》は行われていない。
季節外れの台風のせいでこの国への飛行機が飛ばなかったことで、ぎりぎりのタイミングで《式典》は延期ということになってしまったのだ。
当てが外れたというのに襲撃を強行せざるを得なかったということは、彼らに“次”はなかったということなのだろう。
だから政治的メリットがもはや失せてしまった襲撃でも行った。行うしかなかった。だから修学旅行の学生くらいしかいないこの富士霊廟を占拠しているということなのだ。
『もっとも……』
軽く首をめぐらせてみると肩の辺りがポキポキと音を立てた。ずっと身体を縮こませていれば肩もこってしまう。
『その要人の一人であるところの“ナナリー公女”が今ここにいるなんて、彼らが知ったらどうなるかしら』
なんて間の悪いことだろうとわたしは思わず小さく笑ってしまった。
見つかってしまうのは時間の問題かもしれないけど、とりあえずはもうしばらく縮こまっていましょうか。
微かに震えているセーラの様子を見れば、自分がしっかりしなきゃと思うしかないもの。
「大丈夫。大丈夫よセーラ」
わたしは世話役の少女の髪を撫でる。せめてこうしている間だけは、多少なりとも彼女とわたしの恐怖心は和らぐことであろうから。
『恐くても恐いと言ってはいけない時があるものよね。そうでしょう? お兄様……』
そっと胸の中で語りかけて、わたしはもう一度辺りを見回した。
人質は全部で200……もうちょっといるかもしれない? 学生とその引率の教師らしい大人が数人だけ。
学生服ばかりのその光景はすこし懐かしさを感じさせてくれるのだけど、物々しい雰囲気がそんな気持ちになるのを許してはくれない。
「グスッ……」
どこかから女の子が嗚咽する声が聞こえたのはわたしがセーラに何度目かの「大丈夫」を囁いた時だった。
「いやよぉ……もうこんなのいやぁ……」
音がよく響くセレモニーホールの中ですもの。その声は遠くまではっきりと届いたはず。
『いけない!』
わたしが思うよりも早く、その声は大きな波として人々に伝播していった。
「もうやだ……こんなの、やだ!」
「出してくれよ! ここから出してくれよ!!」
「まだ死にたくないよぉ……」
「助けて! 死にたくない!!」
「お母さん! 助けて!!」
その動揺は異なる言葉で同じ混乱を周りに、それも伝播するにしたがってより大きなものに変えて拡がっていった。
さっきまでの静かなざわめきは一転凶暴なまでの騒音となって……そして!
「黙れイレブンども!!」
より凶暴な怒声、そして暴力によって頂点を極めてしまうのだった……。
「銃声?」
「ハッ、5分前の1820(ヒトゴーニーマル)に二階セレモニーホールにて銃撃音がしたと観測班より報告がありました」
下士官の報告に周はチッと舌打ちをすると、側のデスクに座っている情報士官からインカムを奪うと彼女は声を荒げた。
「狙撃班! 一番隊! 二番隊! テロリストの様子はどうか!」
(ネガティブ。一番隊は第三階の動向は把握出来ず)
(二番隊もネガティブ。屋上からの侵入路の確保は困難)
「くそっ!」
外はすでに作戦指揮所に負けぬ暗さになっている。雲も出ていて月はその姿を見せていない。
『何も出来ないまま日暮れを迎えてしまうとはな!』
もちろん富士霊廟は完全に包囲しているから夜陰に乗じて逃げ出すようなことを許すつもりはない。
しかし夜の闇がこちらの行動を妨げ、敵を利することは確かなのだ。
事件発生からすでに3時間を超過し、もうじき4時間にもなろうとしているのに、ゼロの指示は鈍い。相変わらず期待の出来ないネゴシエーションを続けさせているだけだ。
『なにをやっているんだ?』
疑問は不信に変わり、やがて苛立ちに変わるものだ。が、周にとってその段階はすでに終わっていて今は《疑問》の段階に移っていた。
つまり、『ゼロが手をこまねいている理由とは何なのだろう?』という疑問を抱く段階に、だ。
「不思議かね?」
だから、その唐突なゼロの言葉は《疑問》について考え込んでいた周を驚かせ、ビクっと身体を震わさせたのだった。
「不思議というか、疑問ではある」
ゴホンと咳払いをして答える。言いながら周は手元に届いた最新の配置表をゼロに渡す。
「なぜ常に迅速果断たる卿がこうも手をこまねいているか、とな」
周に限った話ではないが、黒の騎士団の中でも元中華連邦組の人物はたとえ相手がゼロでも口調を変えて慇懃に対応することは殆どない。
もちろん組織の長としてのゼロには従うが、かつての戦いにおいて対等の立場として黒の騎士団に加わった者達であるゆえに、決して下風には立たないという自負心があるのだろう。
特に周香凛と言えばかつての黒の騎士団総司令であった黎星刻の懐刀でもあった人物であったから、なおのことなのかもしれない。
そしてゼロはそれらの言動や行いを咎めるようなことは言わなかった。むしろそれを楽しんでいるようであった。
「手をこまねいているように見える、か」
フッとゼロは息を吐いた。
「ことさらに間違いを指摘する趣味はないが──それは大間違いだと言わせてもらおう」
「と言うと?」
「手をこまねいているのではないよ、周香凛。私は──」
ゼロの言葉に周は驚くとともに、やはりとも思うのだった。
つまり、やはりゼロはゼロであったのか、と。
彼はこう言った。
「打つべき手は既に打ち終わっている。だからこうして安んじているのだよ」
と。
銃弾が天井に穴を穿ち、悲鳴と怒声が一通りの合唱を済ませた後、《白の騎士団》の人は銃を構えたまま学生達を威嚇するようにその群れの中に分け入ってきた。
「こちらを見つけたんでしょうか……」
「いえ、そうではないでしょう」
怯えるセーラをなだめながら、それでもわたしも鼓動が落ち着くために何度も深く呼吸をしなければならなかった。
恐い。助けてと叫びたい。
そんな気持ちはあるけれど、そんな無様な姿を晒したくはないとも思う。
だってわたしはあの人たちの妹だから。
男がこちらへ向く。その表情は仮面のバイザーに阻まれてわからない。
セーラが「ヒッ」と息を吐く。
歯をくいしばる、わたし。
「立て! イレブンの小娘!!」
男はわたしたちからほんの2mも離れていないところに座り込んでいた少女に目を付けたようだった。
嫌がる少女に銃を突きつけて無理矢理立たせようとしてる。
「貴様ァ、今携帯電話を弄っていただろう! どこに連絡を付けるつもりだったんだ!」
「違う……わたし、そんなこと……ッ」
グイっと引っ張った拍子に髪留めが外れたのでしょう。長い髪がふぁさっとほどけて拡がって……。
わたしは目を閉じていました。
理不尽……そう、こんなことは理不尽だ。この男たちはなんでこんなことをするのだろう。
世界が自分たちの思い通りにならないから。だから、この学生たちを思い通りにするの? 暴力をもって人の心を捻じ曲げて、尊厳を踏み躙ろうというの?
「それは──」
わたしの胸の奥に何かが灯ったのを感じた。
許せない。最初に灯った言葉はそれ。
次に灯ったイメージは──兄の顔だった。
お兄様──貴方は強かった。今でもその行いの100%総てが正しかったとは思えない。うぅん、今でもわたしは貴方の行いを「間違っている」と言いたい。
でも……でもお兄様、貴方は決して言い訳をしなかった。そして最後には……。
うぅん、泣かない。決して泣かない。
暴力に屈することは、その暴力を認めてしまうことだ。抗おう。わたしはそうしなければならない。
そうでなければあの人たちに顔向けが出来ない。そうだ!
わたしは目を開いた。
わたしが誇りを失うということは、わたしに未来を託してくれたあの人たちの人生を汚してしまうということなのだから。
「おやめなさい」
言葉は自然にこぼれおちた。
そばで驚きのあまり言葉を失っているセーラはそのままに、わたしは車イスを前に出す。
「おやめなさい。……わたしを貴方達のリーダーに会わせなさい。わたしはナナリー……。ブリタニアのナナリー・ヴィ・ブリタニアです」
キッとテロリストの目を睨んでわたしはさらに一歩踏み出す。
車イスで良かったなと思うとちょっと顔がほころんだ。自分の足でだったら恐くて歩けなかったかもしれないから。
「その手をお放しなさい。乱暴をお止めなさい」
呆然としているのだろう。テロリストは少女の手を握り締めたままこちらを凝視している。
恐い。
でも!
ぐっと睨み返して、わたしは勇気を振り絞る。
「その手をお放しなさいと言っているのです。卑しくも騎士を名乗っていながら、無辜の民に手をあげるとは何事か!」
その芝居がかった言葉に男は──多分意図してではないのだろう──手を放してくれた。良かった。わたしは解放されたその女の子に微笑んで「大丈夫」と声をかける。
「大丈夫。えぇ、大丈夫よ。もう心配いらないわ」
そしてもう一度わたしは振り返った。
お兄様。スザクさん。──さん。
わたしに……勇気を。
「さぁ、わたしを貴方達のリーダーのところに連れていきなさい。かつてのブリタニア皇帝の娘、そしてその次の皇帝の妹です。相手として不足はないでしょう」
わたしは弱い。自分一人では何も出来ない。自分の事ですら何も。
でも……そうよ、でも!
そんな自分を卑下しても何も始まらない。自分が出来ないことを認めて、わたしは自分に出来ることを知ればいい。
わたしはそれを学んだはずだ。
本当の自分を受け入れて、世界に向かって一歩を踏み出す強さ──わたしの勇気!
「ば、売国奴の癖に……。尊い血筋でありながら国を売った不孝姫のナナリー……」
男はチャキっと音を立てて銃口をわたしに向ける。でも、もうそんな物は恐くはなかった。
本当に恐いのはそんな物ではない──!
「わたしを撃ちますか? その覚悟が貴方にありますか?」
わたしは車イスを前に進める。
銃を構えたまま、彼は二歩、三歩と下がる。
「よくお聞きなさい。撃っていいのは、撃たれる覚悟のある者だけです。貴方にその覚悟が、撃たれる覚悟がありますか」
異常に気が付いたのだろう。ざわめきの中、床を蹴る軍靴の音が近付いてくる。
だけどわたしは引くことはできない。いいえ、引くものですか。
お兄様が、──さんが作った平和を、わたしが守ろうとしないでどうするの!
本当に恐いのはそれが出来ないことだ。
それがわたしの覚悟なのだ。
「おい、どうした!」
「抵抗する者に容赦はしなくていいと言っただろう」
集まってきたテロリストは2……3……4人。立ち尽くす男を入れて5人。
「こいつ……ナナリーだ。ナナリー・ヴィ・ブリタニアがここにいるぞ!」
動揺する男たち、わたしを守ろうというのか間に割って入ろうとするセーラ、それを押し留めようとする近くにいた学生さん。
彼らが波が引くように離れていく。そう、もっとわたしから離れて。わたしが守る──あの人たちが守ろうとしたものを、今度はわたしが!
わたしは吠えた。
「わたくしは何処にも逃げません。そして……わたくし、ナナリー・ヴィ・ブリタニアが命じます。この場にいる方々に無用の乱暴をすることは許しません!」
「なるほど」
男のうちの一人が相槌を打った。
「素晴らしい覚悟だ。賞賛に値する。好意を感じる程にだ。しかし、同時に無謀であるともとも思えるな」
その男は集まった男たちの一番後ろから、ようやっと聞こえる程度の大きさの声で語りかけてきた。
小さい声。聞こえないほどではないけど、少し聞き取り難い。
「無謀……ですか?」
「そうではないかな? 平地に波瀾を起こそうとする輩に理を説くことは無謀なのでは?」
「それを行っているのはあなた方ではありませんか。自らの行いが平和を乱すこととおわかりならば、今すぐ投降してください。そして、罪を償ってください」
返事はなかった。返事の変わりに返ってきたのはクックックという押し殺した笑い声だった。
「おい」「貴様なにを言っているんだ」と仲間たちから詰め寄られている。
だけど、その人はまるで関知しないでいる。まるで自分とわたし以外はこの場に誰もいないかのように。
「やはり君も獅子の血統であるということか。しかし、それでも勇気と無謀を履き違えることはいけない。わかるかい? 僕は君の行為を叱っているんだ」
叱っている? その言葉にわたしは戸惑いを覚えた。
その時だ。
「貴様……誰だ?」
テロリストたちのより戸惑った声があがる。
それでも彼は変わらず、同じように聞き取り辛い小さな声でささやいた。
「……とはいえ、目の前で理不尽が行われていれば、それを見ぬ振りをして放置していられるナナリーではないのだろう、ね」
え? とわたしは一瞬息を止めた。
この人は今、わたしを名前で──
「だからさ。卿ら……もう無益な行いは止めよ。──が命じる。皆、ナナリー公女の御心に従え」
おそらく、その言葉は彼と、彼らと、わたし以外には聞こえなかったはずだ。
4人の男たちがいっせいにその場に跪き、まるで臣下の礼を取るように、わたしの方を向いて頭を垂れる。
そして、わたしの……意識が遠のいていく。
わかる。これは──ギアスだ。あの時お兄様がわたしにギアスをかけた時と同じ感覚。
『わたしの心に従え』それが呪縛の言葉……お兄様とは違う“声”のギアス。それは、その持ち主は──!
──待って。
言葉が口をついて出ない。
──お願い、待って!
出てくれない。
「ナナリー」
ささやきがわたしの耳朶を打つ。
「自分の心の赴くままに、自分の心に従えばいい。この世界に君の主人は君だけなんだから」
限界だった。
そこで、わたしの意識は、真っ暗闇の中に落ちていってしまった。
西暦2022年10月25日─19:02 富士霊廟
およそ4時間振りに解放された人質たちは全員が無事であり、事件当初に抵抗した施設職員数名の軽傷者以外にはケガ人も出なかったそうである。
周香凛は部下から渡された報告書を手に、作戦指揮所から出た。
大駐車場に止められた巨大なトレーラー。それが作戦指揮所であった。
外は既に暗い。だが、その夜の闇に負けぬ喧騒が辺りを支配している。
最初に飛び込んできたのは《ナナリー公女》とその世話係りの少女だった。
そして、そのナナリーを取り囲むようにしている学生服の少女たち。
「警備上の問題があるのでは?」
傍らに立つ部下が囁くが、
「好きにさせるがいいさ。事件解決の立役者だ、公女殿は」
聞けばテロリストに銃を突きつけられ、乱暴されそうになった少女を公女殿は自らの危険を省みることなく助けに入ったという。
その彼女の威厳に圧倒されたテロリストたちはその場で自ら投降したというのだ。
「にわかには信じがたい話だが……」
周はゼロをちらと見た。
「被害者がナナリー公女に感謝の言を述べたいと言い、公女殿もそれを了承されたのだ。我々が口を出す余地はあるまい?」
「了解であります」
それ以上は何も言わずに部下は下がり、作戦指揮所へと戻っていった。まだまだ片付ける仕事は多いのだ。
「どんな魔法を使ったのか……とは聞かん」
「ほう?」
「私は軍人だ。結果が総てなのだよ。──この件に関してはそういうことにしたいと私は思っている」
「そうか」
「見たまえ」
そう言って周はナナリーたちの方を指差した。
長い髪の少女がナナリーの手を両の手で握り、何度も、何度も頭を下げている情景がある。
「あの救ってもらった娘にとってはナナリー公女が英雄であるわけだ。四の五の言って、その夢を潰すようなことは野暮ではないか」
ゼロは少し首を傾げた。少し驚いたように周には見えた。
「周香凛、失礼なようだが……君からそういう類の言葉を聞くとは思わなかった」
大して気を悪くした体もなく、周も「私とて木の股から生まれたわけではないからな」と軽口を叩く。
そうして報告書をゼロに押し付けると周は彼に背中を向けた。
「日本政府との細々した突っつきあいは私にまかせてもらおう」
「すまない、助かる」
これからまた忙しくなるのであろう周は歩き始め、10歩歩いたところでその歩を止めた。
「ゼロ、一つ頼みがある」
「私に可能なことであれば?」
少し鼻白んだようながら、周はため息をついて気をとりなおす。そう、ゼロと仕事をするのであればこの程度の言動を一々気にしてなどいられないのだ。
「私からも礼を言っていたと告げてもらいたい。その卿が打った“手”なる人物にな」
「覚えておこう」
それだけ聞いて周は足早に歩き始めた。今日の彼女は遅くまで掛かりきりになることだろう。
そしてゼロもまた歩き始める。
ナナリーと学生達の会談は終わったようであった。
「ゼロ……?」
セーラが送っていく学生達の背中を見送っていたわたしの前に影が立つ。
学生たちから解放されるのを待っていたかのように、いつも通りの“彼”がわたしの前に現れた。
「無事でなによりでした。……しかし」
「わかっています」
遮るように言って、わたしは「見てください」と彼の前に両の手を差し出す。
その手はパッと見てわかる程にブルブルと震えていた。
「今頃、今頃になって恐いのが戻ってきて……震えているんです」
「ナナリー公女……」
「わかっています」
もう一度何かを言おうとする“彼”を遮ってわたしは言った。
「もう……叱られちゃいました」
「……怒られた?」
えぇと頷いてわたしは胸元のポケットから“それ”を取り出す。
それは花を模ったキレイな和紙の折り紙だ。
「サクラ……ですか?」
「ええ、サクラを模った折り紙です。気が付いたら手元に置かれていました」
それをわたしは大事に、大事に胸に抱いた。
「いくら覚悟あっての行いでも、無謀なことはダメって……叱られちゃいました」
ゼロは誰に、とは聞かなかった。
わたしも誰から、とは言わなかった。
どちらも分かり過ぎるほど分かってる相手だったから。
「そうか、彼がナナリー公女を叱ったというのなら……わたしから改めて言うようなことはないでしょう」
「フフ……一日に何度も同じことで叱られないで済んでよかったです」
グッと声を詰まらせるゼロ。ちょっと調子に乗ってしまっただろうか?
わたしはもう一度サクラの折り紙を見つめた。
「でも、おかしいんですよ」
少し照れくさいけど、わたしは言うことにした。
「自分の心の赴くままに生きればいいって。この世界に君の主人は君だけなんだからってあの人はそうも言ってくれたんです。おかしいですよね」
「その行為を叱ると言ったのと同じ口で心の赴くままに生きればいい、か。矛盾していますな」
「ホントに」
ゼロはそれっきり何も言わなかった。
でも、わたしにはわかる。ゼロも一緒に笑っているのがわかる。
「このサクラはその約束の証なのでしょうね」
そう言ってわたしはサクラの折り紙にキスをする。
和紙からは微かに良い匂いが香ってくる。これは……なんの匂いなんだろう? 柑橘系の良い匂い。
「違うな。間違っているよ、ナナリー」
ゼロの優しい声がした。
「常にない異常事態ゆえに失念していたのだと思うが……今日は10月25日だ。何の日かわからないかい?」
いきなりの問いかけにわたしは言葉を失った。今日は何の日? 何の日だったろうか……。
少し呆れたように、でも優しく──少しだけ昔のように──ゼロはわたしに言った。
「ハッピーバースデー、ナナリー。きっとそれは彼なりに考えた誕生日プレゼントだったのだろう」
それは余りにも唐突で……わたしは息が止まるほど驚いて……驚いて、
「あ、ありがとうございます!」
酷く、赤面した。
《おわり》
最終更新:2011年12月05日 13:12