斑鳩 剣鬼(いかるが つるぎ 1765年(明和2年) 6月11日 - 2270年(光東24年) 12月10日 )は、日本の軍人、戦闘機航空兵。火星派遣軍アギダリア軍管区初代総督。1213年から続いた、木曾斑鳩家最後の当主。戊辰戦争、日露戦争、大東亜戦争、インドシナ戦争など数々の戦争に参加した。
斑鳩 剣鬼(1995年撮影 大佐に昇進した時に撮影されたと思われる写真)
生涯
出生
1765年(明和2年) 6月11日に木曾の鬼塚壕で、父・
斑鳩 柾柚鬼、母・藤野 涼の子として生まれる。しかし出生後、母・涼が病死。2か月後、江戸幕府の鬼衆追討令により鬼塚豪から月夜沢峠に集団移動する際に土砂崩れにより行方不明になるも、偶然ふもとで作業していた百姓に拾われる。拾われた百姓から虎之助の名をつけられる。
斑鳩が拾われてから15年後、日本史上でも最大級の災厄である「天明の大飢饉」である1783年(天明3年)に浅間山の大噴火により、信濃・上野一帯は降灰に見舞われ、農作物が絶望的になった。
この大災害の影響もあり、斑鳩を拾った百姓である義理父が、「食うものがない絶望」と「年貢の取り立て」という極限状態があったためか酒に溺れ乱暴になったとされる。
自身と義理母に乱暴を続ける義理父に対して、限界を感じていた斑鳩は鬼となって義理父を喰い殺した(本人の証言。斑鳩自身はこの時まだ鬼であったことは知らなかったという)。
義理母を救うも既に遅く、衰弱死となる。ここから、斑鳩ただ1人の孤独な旅が始まることになった。
甲信越放浪と鴉天狗 黒禪天神 朱鳥との出会い
その後、駆けつけた松本藩の小人目付が調査を行ったものの、「大飢饉による狂気の一つ」として片付けられた。
斑鳩はその後、甲信越(越国では主に越前)を放浪する事になるが、この地域でのいくつかの百姓一揆に巻き込まれて、やむ追えず一揆に参加した記録がある。
その後、1800年頃(寛政12年?)に信濃で悪党による百姓一揆に参加して松本藩に鎮圧され古い神社に落ち延びていたところ、鴉天狗として神社仏閣の修復を取り行っていた
鴉天狗 黒禪天神 朱鳥に拾われる。
斑鳩 剣鬼へ改名
朱鳥は、過去に斑鳩の実親である柾柚鬼から息子がいる事と名前が剣鬼である事を聞いていた。そこで、討幕運動で長州遠征をしていた柾柚鬼に拾った子が実の息子であるかどうかの書状を送った。数日後、一角鬼であれば剣鬼であるとの返事が届き、虎之助は斑鳩 剣鬼へ改名する。
朱鳥の養子となった斑鳩はしばらく面倒を見てもらう事になり、神社仏閣の修復の手伝いや武芸、読み書きなどを教わった。
戊辰戦争:新政府軍への参戦
蜂起の準備
1868年(慶応4年)1月27日、鳥羽・伏見の戦いによって戊辰戦争が開始された。
1月30日、斑鳩と朱鳥に新政府軍として参加した柾柚鬼から、戊辰戦争が開始したとの書状が届く。板垣退助(乾退助)率いる東山道軍が木曾に到着したのち、新政府軍に加わる事と、偽官軍の「赤報隊」が2月10日頃に信濃に入るのでこれを襲撃せよとの旨の内容があった。
2人は、信濃諸藩の支援を受けながら木曽郡・信濃各地に潜伏している鬼人衆に幕府軍襲撃の要請を出す。伊那郡の高遠藩や小県郡の上田藩など新政府側への表明をしていたが、木曾郡を直轄地としている松本藩はどちらに付くか藩論が一致しておらず、未だに回答が出ていなかった。
松本藩への襲撃開始と赤報隊との戦闘
2月4日、斑鳩と朱鳥、終結した鬼人衆は夜間に松本藩の拠点を襲撃するゲリラ戦を展開した。あくまでも新政府軍への意思を固めるための襲撃のため、藩への被害は最小限にとどめた。
翌日 5日、藩が襲撃されたと聞いた百姓や町人が事情を聞くため松本城前に集まるも、一揆を避けたかった松本藩は門前払いを行った。
2月6日、柾柚鬼からの書状にあった「赤報隊」が信濃に入る。金穀徴収・略奪行為を防ぐため、斑鳩達は木曾路に入る前に山中での襲撃を決行する。奇襲を受けた赤報隊は壊滅し、東山道軍が来るまで現地にて捕虜となった。
2月10日に東山道軍が信濃国に到着する事を通達される。松本藩と東山道軍の本格的な戦闘を食い止めるため、2月10日未明、松本城周辺に夜襲を行う。この夜襲では、松本城に対する鉄砲や矢が放たれた。
10日早朝に、今度は城が襲撃を受けたということで再び百姓・町人が集まる。しかし藩が明確な回答をしなかったため、群衆が城の門に押しかけることになった。さらに、東山道軍が松本到着直前であることと、鬼人衆がいつでも襲撃が可能だという知らせが入る。
これらの混乱を単独では、終息できないと判断した松本藩は勤王を選択して3万両を献上、新政府軍に加わった。
これにより、木曾・信濃一帯は新政府軍の支配下に入る。
その後、斑鳩と朱鳥は東山道軍の先方偵察部隊に入り「甲州勝沼の戦い」「北越戦争」「会津戦争」「函館戦争」に参加する。
斑鳩 剣鬼と父・柾柚鬼は木曾にて再開する。故郷の木曾に戻った斑鳩は、しばらく農業を従事するこになる。
北海道開拓に参加
1870年、斑鳩の元に北海道開拓の募集担当者がやってくる。「北海道はいいところだ、金も出るし苦労はない。渡航費はもちろん、家一軒、農具一式、さらに数年分の食糧まで政府がタダで出す」という破格の条件が提示された。
慣れていた農業とはいえ、戊辰戦争の戦費回収と重税で厳しい生活を強いられていた斑鳩にとってはこの上ない話であり、すぐに北海道開拓に志願した。
いざ北海道に到着した斑鳩を待っていたのは、募集時の口上とは似ても似つかない凄惨な現実だった。
樹齢数百年の巨木が立ち並ぶ原始林を、重機のない時代に掘り起こす必要があった。さらに斑鳩などの鬼人が従事したのは、単なる農地開拓だけでなく、「囚人道路(アバシリ等)」の建設や、大規模な炭鉱(夕張など)の開拓にも動員された。
日清戦争
北海道開拓で馬の世話をしていたこともあり、北海道の開拓団から志願して輜重兵(輸送部隊)として参加した。後方の輸送部隊であるため戦闘を行うことがなかった。斑鳩はこれを機会に正式に日本陸軍へ入隊し、北海道を後にした。
日露戦争
日清戦争終戦後の1895年(明治28年)5月、正式に日本陸軍に入隊。日清戦争で輜重兵であった事と、騎乗の経験が買われて騎兵科となった。
1904年(明治37年)1月、奥 保鞏の第二軍指揮下にいる秋山支隊第一騎兵旅団に入る。第一騎兵旅団には、斑鳩以外の甲信越から集められた騎乗経験のある鬼人が多かった。そのため、騎乗経験のある者を中心に「対コサック鬼人部隊」が結成されることになった。
斑鳩が所属していた騎兵第6小隊は、同郷の木曾出身の鬼人が多く、小隊長であった篠原 功少尉は騎馬武者として木曾の伝承であった巴御前にあやかって、巴小隊と名付けました。また、部隊章も出身者の家紋として多かった三つ巴が採用された。
同年2月6日、日露戦争が開始された。
南山の戦い(5月25日〜26日)と得利寺の戦い(6月14日〜15日)
第二軍は日露戦争初めての戦いとして、南山の戦いに参加した。1日で終結したものの、要塞への突撃は死傷者4000人を越す損害を被った。
南山の戦いは、地雷や鉄条網、機関銃で固められた要塞化された丘を歩兵が強襲する攻城戦に近い性質の戦闘だった。騎兵の機動力や偵察能力を活かせる状況ではなく、また旅団自体もまだ戦地に到着・展開する前段階であった。
第一騎兵旅団(秋山支隊)にとって、得利寺の戦いが第二軍に編入されてから最初に迎えた本格的な戦闘となった。
秋山好古率いる第一騎兵旅団は、日本軍の最左翼(ロシア軍の右翼側)ではなく、ロシア軍の左翼(東側の山地)を迂回して背後に回り込む任務を担った。
得利寺の東側は険しい山地だったが、秋山好古は「騎兵は平地で戦うもの」という常識を捨て、歩兵を混ぜた部隊で山を越え、ロシア軍の左翼を強襲した。この予想外の方向からの攻撃が、ロシア軍撤退の引き金となる。
ロシア軍が撤退した結果、旅順の孤立が決定的となった。
大石橋の戦い(7月24日〜25日)
ロシア軍が北方(大石橋方面)へ撤退を開始すると、秋山支隊はその機動力を活かして執拗な追撃を行った。ロシア軍(スタケルベルク軍団)は、大石橋の丘陵地帯に大規模な塹壕と砲兵陣地を築き、日本軍を待ち構えた。
秋山好古少将率いる旅団は、第二軍の左側翼(西側)をカバーする任務についた。攻撃開始前、秋山支隊の斥候(偵察隊)がロシア軍配置の特定を開始する。斑鳩は、この斥候に参加しており、同じく騎兵斥候のコサックと小規模な戦闘が起こった。戦闘よりもいち早く情報を持ち帰るため、一撃離脱する事を優先した。これにより、第二軍はどこに兵力を集中すべきかの判断材料を得た。
24日深夜から25日未明にかけて、第5師団(山田旅団)を中心に大規模な夜襲を仕掛けた。予期せぬ夜襲と、別方面の第4軍からの圧力を恐れたロシア軍は、陣地を放棄して北方へ撤退した。
遼陽会戦(8月24日〜9月4日)
日露両軍主力が初めての激戦、遼陽会戦でも第二軍は主力として参加した。
会戦前、秋山支隊は敵情偵察を行った。
会戦後の秋山支隊には、第二軍の左側面を流れる太子河沿いの平原で、ロシア軍の増援が背後に回り込むのを防ぐ任務が与えられた。秋山好古は部隊を細かく分散配置し、要所に機関銃を据えて、どこから敵が来ても大部隊がいると思わせるような巧妙な配置を敷いた。
9月1日、ロシア軍は太子河方面へ攻勢を開始した。鬼人騎兵部隊はコサックと騎馬戦で決着をつけようと考えるが、秋山は塹壕の死守を厳守させた。鬼人による独断専行を防ぎたかった篠原少尉も小隊に塹壕死守を行わせた。結果的には、ミシチェンコ将軍率いる大規模な騎兵師団から、要塞化した村落で待ち伏せを行った。強力な火力を浴びせて撃退し続けたことでロシア騎兵師団は兵力を消耗し、指揮乱れを起し攻勢に失敗した。ロシア軍が撤退したと見た秋山は、騎兵の機動力を活かしてロシア軍最左翼を包囲しようとする。斑鳩は巴小隊の最先鋒で突入し、ロシア軍の首山堡最左翼拠点(ロシア軍はほとんど撤退していたため防衛部隊は少数だった)に連隊旗を立てる事に成功した。
9月3日、ロシア軍は撤退を開始。4日には、第2軍は遼陽城に入場した。
黒溝台会戦(1905年1月25日〜29日)
1904年10月9日に起こった沙河会戦は、冬季に入り戦線が膠着していた。
秋山支隊は日本軍最左翼に配備されていたが、40kmの戦線をわずか8000人で守備していた。秋山は、陣地防衛で限られた場所に部隊を集中配備させた。この時も、騎兵には下馬をさせて塹壕戦を展開させた。
1月22日、グリッペンベルク大将は総勢10万人の大兵力を率いて攻勢を開始した。
この時 巴小隊は沈旦堡の豊邉支隊に配備されていた。
1月25日、このころ黒溝台にはロシア軍が数多くの兵力を押し込み秋山支隊の拠点はどこもロシア軍の銃砲火を使った攻撃を受けていた。
同日夜、沈旦堡の豊邉支隊は完全にロシア軍に包囲され、通信も途絶。マイナス30度という極寒の中、斑鳩は凍傷に苦しみながら、不眠不休で抵抗を続けた。コサック兵が塹壕の至近距離にまで接近しており、塹壕内に侵入した時は騎兵用サーベルを抜刀して格闘戦まで行うほどだったという。
27日、巴小隊は沈旦堡陣地から撤退戦を行っていたが第一騎兵旅団から離れており、ほぼ孤立状態に近かった。ひとまず、篠原少尉は現在地の把握と周囲の斥候を行なったところ、現在地が蘇麻堡付近である事と数km先にロシア軍歩兵部隊を発見する。この頃、ロシア第三軍全体は休息を取っており、一時停止の状態であった。ここで巴小隊は騎兵による迅速な砲兵配備を行い、ロシア歩兵部隊に対し奇襲攻撃を行った。驚いたロシア軍は日本軍主力による反撃が始まったと思い、散開して撤退していった。
ロシア軍の一時停止と巴小隊の奇襲、主力の到着と反撃によって、29日には黒溝台ロシア軍全部隊は撤退し、日本軍の勝利で終わった。しかし、激しい塹壕戦撤退戦を行った巴小隊はすでに半数が損害を受けており、残りの弾薬もままならなかった。
最終更新:2026年05月06日 02:57